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試練 一日目~四日目

「姉さん、朝だよ」

 品性の欠片も無く口を開けて端から涎を流す彼女の布団を引き剥がす。理恵は抵抗するように目を瞑ったまま手を振り回して失われた布団を模索するが、ソレを抱いて距離を取る衛士には死角が無かった。

 やがて寒さを覚え、仕方無しに起き上がる彼女を見て衛士は布団を掛け戻す。自然で華麗な仕草は使用人を思わせる見事さであった。

「もう! 起こしたいの!? 寝かせたいの!? 一緒に寝たいの!?」

「起きろってーの」

 喚く彼女の部屋を後にして階段を降りる。カバンを片手に軽やかな足取りで居間へと向かうと、味噌の香りが鼻についた。食欲をそそる様な良い香りである。

 誰かに伝染うつしてしまったように消えた風邪は気配も肉体には残らない。衛士は食卓に並べられた朝食に腹を鳴らしながら席に着く。母に姉を起こしたと告げると、彼女は驚いてから、珍しい、と誉めてくれる。

 やがて父親も正面の席に着き、視線をテレビのニュースに向けていた。

 ――理恵が不在のまま朝食が始まる。舌が火傷してしまう温度の味噌汁を飲むと身体が温まり、弱い胃腸が低温から守られる。目玉焼きは良く焼かれ半熟になっていないのは父親の嗜好である。衛士はそれを茶碗に乗せて、醤油をかけ丼風にして食す。目の前の父はそれにマヨネーズをかけていた。

 それからややあって、食事も既に半ばを過ぎる辺りで理恵が居間になだれ込む。その姿には、もう寝起きの間抜けさは存在していなかった。

 ――暫くして、食器を洗い、部屋の一室に洗濯物を干す手伝いをし、風呂を洗い、便器を綺麗に磨き終わる頃には時刻は登校しなければならない時間にまで迫っていた。

 全てのやるべき事を終えた彼は、出かける前にトイレに寄る。其処で確認するのは免許証であり、やはりそこに刻まれるのは第一の試練であった。これまでの記憶が全て残っている衛士にとって今までと違うのは、これ程まで落ち着いている心と、ある種の諦観に満ちている事。それと記憶の継続と、風邪が完全に治ったことであろう。

 未だ背に覚える温もりが元気をくれる。不可能であることが全て可能に書き換わったようだった。もう自分には出来ないことなど何も無い、そんな満ち溢れる自身を胸に抱くと、ふと昨夜の事を思い出して頬が上気したように赤くなる。

 あの後の事を説明するならば――ほのかに期待していた事は何もしていない、というのが本当のところである。だが、だからこそ絆が強くなった気がした。信頼関係は果たして結ばれたのだ。

 ミシェルと顔を合わせたのは今までで僅か二回。だが実際には両手の指では数え切れないほどの数を出会い、そして衛士はその半分以上を身勝手に自身の鬱憤を晴らして終えていた。

 ――だがそれも終わりだ。

 彼女とは分かり合えた。もう迷う事など必要ない。今は突き進むだけだ。

 誰のためでもない、自分の為に。

 そして自分の為になったことは、自然に誰かのためになる。否、誰かのためにする。

 衛士はトイレを後にして、理恵と共に家を出た。

 時刻は八時少し前、七時五○分の出来事である。時間制限まで、ゆうに十六時間十分残っていた。

「なーんか、今日のエージはムカつくくらい爽やかよね。雨でも降るんじゃないの?」

「もう降ってるっつーの。姉さんはギリギリまで寝ててテレビも見ないから、梅雨に入ったって事も知らないんだろ」

 広げる傘にパラパラと小雨が弾かれる。風情が溢れるな、と穏やかに考えながら傘を車道側に倒す。既に音や気配から察知せずとも身体に、どのタイミングで動けばいいか理解できてしまっていた。

 間も無く通り過ぎる車は、その過程で水溜りをタイヤで弾き、飛びかかる飛沫はしかし予測された行動である為に、衛士の傘によって防がれてしまう。少しばかりの衝撃が腕に伝わって、余韻がなくなったところで何事も無かったように傘を差し直した。

 傍らで口元に抑え切れない笑みを浮かべたまま並ぶ理恵が、軽く肩を小突く。衛士はそれに抵抗しつつも、彼女の変わらぬ台詞を受け流した。

 それから余所見をしているが為につまずく彼女の身体を支えて、足に不自由を持つ人の介護をするように丁寧に姿勢を直させる。将来は介護士にでもなろうかと考えたが、姉の世話ですらこれほど手一杯になるのだから不可能だろうと諦めた。

 そもそも誰かの世話をすることは、然程好きでも得意でもない。高齢者からは愛嬌が無いといわれ、子供からは懐かれない。どうしようもないではないか、と心の中で嘆いては見るが、なにやら虚しくなってきた。

 短い嘆息をすると、抑え切れぬ喜びや嬉しさを身体全体で表現する理恵が腕に抱きついてきた。傘を畳んで腕に掛けている彼女は、衛士との相合傘を所望しているようだった。彼は呆れるように首を振ってから、抵抗も拒否もせず、やがて通り過ぎる駅前では表面上は冷静を呈して歩みをすすめた。

 制服姿が増える時間帯である。注目されるのは必至であり、こればかりは慣れないのだ。

 実の姉弟だと言っても理恵は美人の類であるし、女性であることには変わらない。

 その柔らかな感触が――理恵には失礼かもしれないが――ミシェルを脳裏に蘇らせる。

 優しさが、あの甘い香りが、頭の芯が溶かされるようなどうしようもない、麻酔のような感覚を思い出して反応してしまうのだ。

 これが恋というものなのか、絶大な母性に触れたが故に依存しかけてしまっているのか分からない。

 昨夜の事を思い出して――首を大きく振って、気を紛らわせる。頬が薄桃色に染まるのが抑え切れず、理恵は腕に抱きつきながら微笑んでいた。そんな理恵に複雑な後ろめたさを覚えながら、やがて二人は学園へ到着した。

 ――これからが大変だと言う事がわかっているのに、どうにも頭の中にはお花畑が咲き乱れる。恐らく第四の試練はそれ以前とは全く別物といっても良いほどのものだろう。場合によっては死さえも覚悟しなければならない。

 この試練と言うものを考える者の思考は一切想像できず、予測できない。だからこそ恐怖を覚え、だからこそ気分は高まる。

 予感がする。ミシェルが誉めた衛士の危機を読み取る直感が告げているのだ。

 ――未知に抗え、と。

 未来は須らくして未知である。そして人は知らぬことに介入する性質たちを本質的に秘めている。知的生命体たる所以であった。だが同時に恐怖を覚えるのもまた仕方が無い事だろう。

 怖いものは、怖いのだ。

「それじゃまた帰りにね!」

 ホームルーム棟二階で理恵は元気に手を振りながら、階段の踊り場からは死角になる廊下の奥へと姿を消した。衛士は短く息を吐きながら、軽やかな足取りで三階を目指す。それは何度も繰り返した今日の中で初めての行動であり、それ故に未来が変移するのを肌に感じていた。

 通り過ぎる生徒達も、注視すればその殆どが違うことに気がつける。達観している自分に少しばかり酔いつつも、残った三つの善行を積むために教室へ向かった。

 やがて、一分も要さずに階段を上りきる。衛士は短く息を吐きながら左右に広がる廊下の右側へ足を向けた。廊下の正面にはなにやら、クラスの壁面に何かが張り出されているらしく人だかりが出来ている。しかし彼は特にこれといった興味を持たずに素通りした。

 廊下を歩いているとやがて自分のクラスに近づくが、その手前のクラスに入り込もうとしていた一人の少女が視界に衛士を収めたらしく、ぴたっと立ち止まったかと思うと、確認するように彼へと顔を向ける。途端にその顔には笑みが満ちて、身体は入りかけた教室から引き抜かれ、軍人さながらの綺麗な方向転換を行って駆け出した。

「トキィッ!」

 衛士の数メートル手前で幅跳びよろしく飛び上がる彼女は、ひらめかせるスカートの中身も気にせず宙を滑る。彼はさすがに恐怖を覚えて大きく飛び退くと、その直後に彼女は衛士が先ほどまで立っていた場所に着地した。

 間一髪、と言った風に彼女は額の汗を拭うように息を吐き、衛士は鼓動の高鳴りを覚えて胸に手をあて、壁に手を沿えて倒れ掛かる身体を支えながら呼吸を整えた。無表情を極める彼であるが正直な所、凄くびっくりしたのだ。

「お、お前なぁ……」

「トキ、アンタも随分と幸せ者なんじゃあないのよっ!」

「やかましい。自分の行動を省みてから喋りだせ。胸に手を当てて考えろ」

 活発な少女は嬉々として語り始める。衛士はそろそろ来るであろう山田を夢見ながら、仕方無しに彼女の相手をすることに決めた。恐らく放たれるであろうのろ気話を予想する彼にとっては、たったそれでも苦渋の選択である。

「胸? っていうかいつも通りの行動じゃない」

 周りを見ないから人にぶつかり、注意されるとお前こそ周りを見ていないからぶつかるんだと反論する。そんな彼女だからこそ、以前階段から落ちかかると言う事もありえたのだ。そしてそれが悪いとも思わないのは、最早彼女の良いところなのではないかとさえ思えてきた。

 流石に衛士がそれを助けたと言う事を知られて居ないだろうと少しばかり危惧していたが、やはり彼女は知らぬようで杞憂に終わる。そんな事を俄かに心に馳せていると、彼女はそんなことより、と両手に拳を作って、胸の前で前後に力強く振って強引に話題を変えて見せた。

 力技だなぁと思いながらも、しっかりと彼は耳を傾ける。

「アタシは見ちゃったのよ。報道部に入ろうと決意した瞬間だったわ」

 彼女はそれを前置きにして語り始める。話は今から土曜日の午後まで遡った。

 ――この間、日曜日に山田と遊びに行く約束をこじつけた為に服を買いに出かけた中村は、丁度駅前の百貨店内にあるブティックに訪れていた。そこで彼女は見つけたのだ。衛士と理恵が一見仲良さそうに服を選んでいた場面を。

 彼女は興奮し鼻息を荒くしながら、頬を高潮させながら続けた。

「それで、さらに今日! 丁度さっき! アンタが理恵さんと腕組んで相合傘で登校してるのを見たのよ。そりゃもう、アタシだけじゃない。みんなにすごい注目されてたわね」

 確かに、衛士が理恵と登下校を共にし始めたのはここ最近のことである。具体的に言えば、丁度二年に上がって少し経ってからの事であろうか。

 一年時は彼女の計らいで、友達付き合いや周りの目を気にして少しばかり距離を置いていたのだ。そしていつしか家庭内でもやや距離を置くようになっていた。

 きっかけは分からないが、再び距離を縮めた彼らは一見仲良く、理恵は衛士を都合の良いお手伝いさん感覚で日常を過ごし始めたのだ。

「”理恵さん”って、知ってんの?」

「知ってるも何も……あの優しくて凄い美人な先輩ひとに助けられた人間は既に両手で数え切れるものじゃないわ。私はその内の一人よ。知る人ぞ知るって奴」

「……何か、そういった部活動をしてんの?」

 有料でないことを祈るばかりである。もしくは、さり気なく金が要り様である事をアピールして募金感覚で金銭を受け取っている可能性も否定しきれない。

 そういった事が思い浮かぶと同時に、彼女に情けなさを覚えるのが悲しいところだった。

「アンタ……。ごめんね、今すごい心の中で馬鹿にしたわ」

 少しばかり背の引くい彼女は顔を反らして精一杯に見下ろす風に吐き捨てる。どうやらテンションがとても衛士には手がつけられない程度に高まってしまったらしい。

「何かに入部してるってのは聞かないけど、そーゆー性格の先輩ひとなの! アンタ、理恵さんのカレシじゃないの? 知らないの?」

「……お前さぁ、その”理恵さん”の名字知ってる?」

「馬鹿にしないでくれる? 知ってるわよそのくらい!」

 彼女は自身の興奮を抑える様に大きな深呼吸を一つ。  

とき、でしょ!?」

「オレは?」

「トキでしょ?」

 衛士は口にはせずただただ頷く。中村は彼が何を言いたいのだろうかと少しばかり顔を凝視した後、はっと気付いたように大きく口を開ける。同時にそれを隠すように、両手で口を隠すように押さえた。

「ウソぉっ!?」

 同様に頷くと、彼女は大きく一歩後ろに退く。大きく見開いた瞳がその大きさをより強調させ、小動物を思わせる。彼女だけの時が停止し始める頃、ようやく衛士の肩を軽く小突く衝撃がやってきた。

「よ、エイジ。何してんだ?」

「オハヨ。濡れてんなぁ、タオル貸してやるよ」

 衛士はジッパーを開けておいたカバンからタオルを引き出して山田に差し出す。彼は少しばかりの遠慮も無しに受け取ると、それで豪快に濡れた頭や制服の水分を拭い始めた。その一方で、中村はようやく自身の世界から舞い戻る。

 衛士は短く息を吐いた。

 中村はようやく一歩近づき、山田は通行の邪魔になら無い様に壁際に寄りながら、衛士の頭に湿ったタオルを被せた。

 ――日常が衛士の肌を撫でて過ぎて行く。それは酷く生温い風のようだった。故に熱くは無く、故に冷たすぎない。心地よい温度であり、今まで絶えず感じ続けていたソレである。

 日常があるからこそ、生きている実感が湧いた。誰かがいたからこそ自分が死んでも挫けることが出来なかった。その衝撃も、その打撃も、心を揺さぶりはしてもヒビ一つ入れることすら敵わなかった。

「――あ、三人とも。何してんの?」

 衛士のクラスの隣の教室、その土手っ腹辺りに集まって談笑する彼らに声を掛けるのは、幼さを前面に出す葉山はやまであった。

 それぞれはそれぞれなりに適当な挨拶を交わし、談笑に加わる人数は四人に増える。衛士は彼の姿を確認してからカバンに手を突っ込み、借りていた漫画を先に出し、それから葉山曰く”絶版で入手できる確立が極めて低い”漫画を差し出した。

 続け様に起こる棚から牡丹餅のような幸運に彼は喜び小躍りをし始める。

 ――順調に、場面は違えどコレで善行は前回と同様に順調に終えたはずである。

「みんなもう中間テストの結果見た? 僕はこれから行くところだけど」

「アタシは人だかりが少なくなったところで見に行こうと思ってた」

「右に同じ」

「中村に同じ」

 かくして彼らはそのまま道を引き返し、階段の正面まで歩き出した。

 衛士はその最後尾に付いて、財布から免許証を取り出し――思わず足を止めた。

 以前ならば、その免許証には『五分以内に頬を殴られるまで有効(砂時計の使用は無効)』と、そう表示されていた。そして今もそうである筈であり、そうであるべきであった。

 しかし違う。だからこそ衛士は足を止めた。止めざるを得なかった。目の前には、断崖絶壁が立ちはだかるように。

 全ての計画が蹴飛ばされて崩壊を起こし、踏み躙られたような感覚を覚えていた。

 衛士は眼を見開き、入試の結果を確認しに来た受験生さながらに免許証の文章を何度も見返すが、そこに書かれるものが”五分以内”から始まる事は無かった。

 『一分以内に地上十メートル以上から飛び降りるまで有効』と書かれるそれを握り、衛士は胸を高鳴らせた。制限時間タイムリミットはコンマ以下を高速度で回転させ、残り時間は既に三○秒を切っている。考える暇は無い。だが足は根が生えたように動かなかった。

 ――指定は無い。だが砂時計は有効か? 仮に砂時計が無効だった場合どうなるのだろうか。

 衛士は考える。

 時間は早くも十五秒を過ぎる。だが思考せずには居られなかった。

 ――まず一つに、砂時計を使用したこと自体が無駄になり、五分が経過しても巻き戻らない。

 まず一つに、時間が巻き戻っても、試練が達成されたことにならない。しっかりとこの直線上に伸びる時間軸に、オレが飛び降りたという事実を結び付けなければならないと言う事だ。

 残り時間が十秒を切る。

 衛士は横を向くと正面に到る、グラウンドを全望できる窓へと駆け寄った。手のひらをガラスに吸着させ、押して引く。が、何かが引っかかっているように窓は開かない。焦りによって心臓がやかましく弾み、呼吸が乱れる。手を伸ばして鍵を開けると、素早く弾くように窓を開け、ポケットから取り出した砂時計をサッシに叩き付けた。

 残り五秒。衛士は飛び上がりサッシに足を乗せる。身体が廊下よりも高い位置に上り、高さがより現実味を帯びた。それが恐怖となって全身を襲う。局部が縮み上がり、鈍い痛みが走る。

 大きく息を吸い込んで――残り二秒。

「アイ、キャン、フライッ!」

 残り一秒――全身が奇妙なまでの浮遊感に満たされた。直後に凄まじい重力が圧し掛かる。大地に吸い寄せられるかのような絶対的な流れに抗える力を持たぬ衛士は、身体から体重と言うものが失われている異様な感覚を覚えながら悲鳴を押し殺す。

 握ったままの免許証の文字列はその中で変化する。しかし衛士はそれを確認する余裕を持ち合わせては居なかった。

 地面が目前に迫る。

 しかしその直前には既に、恐怖に震えた衛士の意識は容易に失われてしまっていた――。


「――っ!」

 意識は戻り、衛士は手の中の免許証を確認する。窓から入り込む風が頬を撫でて――彼は大きく息を吐いた。

 そこに書かれる文章は再び変化がもたらされていて、飛び降りの飛の字も記されない。砂時計はポケットの中で眠り、衛士はもたれかかる様に窓から上半身を乗り出させた。

 次の試練は『一時間異性に触れ(触れられ)続けるまで有効(チャンスは一度だけ)』と書かれている。そしてその下にはいつもの通り制限時間が一時間にセットされているが、その時間は動くことが無い。恐らく、触れてから開始するのだろうと衛士は考えた。

 それ以外の制限時間が存在するのかどうか疑問であったが、もし無ければ少しばかり休もうと息を付く。

 直後に、誰かが肩を揺さぶった。

「ちょっとトキ、大丈夫? 気分が悪いなら――」

 窓から、胸から上を乗り出すように休憩を取る彼は、両手を窓の外に垂らす形で居る。故に素早い身動きは出来ないが、その代わりとばかりに見つめ続ける免許証は――無慈悲にも制限時間タイムリミットを減らし始めてしまった。

 チャンスは一度だけ、という文字列が頭の中に刻み込まれる。

 そんな衛士の心情も知らずに返事の無い彼が心配になったのか、彼女はさらに強く肩を揺さぶった。

 油断が故に到った現状のせいで思考が停止し始める彼は、もしかしたらずっとこうしていれば彼女も延々と肩に触れ続けてくれるかもしれないと思い始める。しかしそれが夢のまた夢であることには直ぐに気付いてしまった。

 その上彼女は隣のクラスの住人である。ハプニングがあって教室に入れなくならなければ、あと数分もすれば顔すらも合わせることが無くなってしまう。物理的に不可能な状況に陥ってしまうのだ。

 ――なら、どうすれば彼女を引き止められる?

「トキィッ! トキってば!」

 両手で両肩を激しく揺さぶる彼女の背後で、どうしたのかと集まる野次馬と山田らが注目し始める。それに気付き始める中村は、もう知らないからね、と冷めた声で衛士の肩から手が離れ始めて――咄嗟に振り向く彼は、その勢いに任せて手を伸ばした。

 彼女は驚いて身を引くが、それよりも早く飛来した指先が力強く胸に平手打ちをした。見た目よりも割合に豊満な乳房はブレザーの上からでも分かる程度に軽く揺れて、だが衛士はそれを手放さぬように強く握る。

 中村は驚いたように手を軽く握って肩ほどまで上げ、脇を締めるような格好で硬直する。衛士は額に汗を滲ませ、ひとまず免許証をポケットに突っ込んでから引き攣った笑顔を見せた。

「オレはこの手を離すことが出来ないんだ。理解してくれ。そしてあと一時間ほどじっとしててくれれば嬉しいんだが……」

 ――反応は無い。

 一度、野次馬の誰かがヒューヒューとはやし立てたが、それ以降は誰もが無口になった。そして朝のホームルームが始まる予鈴がなった頃になると、彼らは綺麗さっぱり居なくなっていた。

 残るのは山田と葉山と、そしていつの間にか来ていた早乙女がなぜか立ち止まっているだけである。

「ねぇ、トキ」

 静まり返る廊下の中で、彼女の澄んだ声だけが良く響いた。

 或る意味命がけであるこの行動の最中では、衛士はどちらに転んでも状況は芳しくない。恐らく次、またやり直す事が出来たとしても、再び試練の内容は変わってしまうだろう。そしてさらに、次はこれほどまで生易しくは無いはずだ。

 徐々に難易度が上がる。試練が一から二へ、またその次へと段階が上がると共にそうなるように。

 記憶の持越しとはそれほどまでに大きいことであり――さらに、そんな事ができると言う事は、もしかすると次回も記憶が持ち越せるという可能性は低いかもしれない。

 時の回帰、逆流を理解した衛士であるが、その理解したという事自体を無くす時点まで時間を戻すかもしれない。繰り返したその時間を、さらに戻すのだ。感覚的には、バームクーヘンの皮を一枚一枚取り除くように。

 だからここで手を離すことは出来ない。彼女に未来永劫嫌われることになっても、この時点から俄かに幸福であった学園生活がブチ壊れることになったとしても。少なくとも、未来を迎えるには――。

「あたしのおっぱいを揉まないのはナイスな判断かもしれないけどね、触れ続るっていうのはとてもバッドな選択ね。悲しいわ」

「奇遇。オレもだ」

 衛士が想像するよりも冷静な口調は少なくとも安堵を覚えさせる。衛士はそこから手を這わせるようにして彼女の肩にまで手を移動させると、俯かせる顔からギロリと衛士を睨みつける鋭い視線が突き刺さった。

「……言葉が難しかった? 触り続けるのがダメって言ったんだけど」

 ――オレも常識人としてそう思う。理解できないはずが無いじゃないか。

 言えば恐らくきつい一撃を貰った上で今日と言う日をやり直させられそうな予感を覚えた彼は、そっと口をつぐんだ。その上で、何を言えば適切なのかを考える。

 時間が巻き戻る事を伝えてみようかと考えるものの、この状況で説明するのはあまりにもリスキーであるし言い訳も甚だしいと受け取られるだろう。

 ならば何が正しいのか。

 そもそも正解などあるのだろうか。

 彼女が衛士の事を好いていればまだ話は早かったが、彼女には既に山田と言う想い人が存在してしまう。どちらにせよそんな事を考えてしまう自分に未来はなさそうだと、薄く笑んで細まる目は先を見ていた。

 体内時間では既に三時間が経過した。だが実際には五分である。衛士は砂時計を配置しなかったことを最大限に悔やみながら、せめて彼女に爽やかな笑顔を見せることにした。

「一緒のお願いだ。オレに付き合ってくれ」

「……これ以上何をすればいいって言うの? 殺して欲しいの? 窓から落とせばいいの? さっき死にたそうだったし」

 彼女に言われて、先ほどの記憶が脳裏に蘇る。直後に落下する夢を見て目を覚ましたように衛士は身体をビクリと弾ませた。中村は怪訝な視線を彼に送るが、衛士にはそれを受け流すことしか出来ない。

 最大限に無理をして、やれやれと首を振る。

 同時に彼女の足は振りあがって――鋭い一閃は弧を描く刃のように瞬く間に肉薄し衛士の股間を撃ち抜いた。

 内臓が圧迫されたような苦悶が、鈍く、されど鋭く染みる激痛が衛士に襲い掛かる。無慈悲な鉄槌は、彼女の怒りを表すかのように人体の弱点を的確に攻撃せしめていた。

 凄まじい衝撃によって意識が揺らぐ。どれほどの痛みでも、試練でも消して跪くことは無いだろうと、決して膝を地面に付けることなどしないと心に決めていた衛士は、早速その場にへたり込みそうになった。

 歯を食いしばり、痛みに耐える。苦悶の表情を浮かべる彼の顔を見て、中村は少しばかり同情の念を送った。

 ――本鈴がホームルームの始まりを知らせるように校舎内に鳴り響く。山田たちは気がつくとその場から失せており、教員は急ぎ足でそれぞれ自身が受け持つクラスへと入っていった。

 中村はそれを聞いて衛士の腕を引き剥がそうとする。先の行動で全てを許してやろうという魂胆が、衛士にはようやく見えたのだが、しかし、許す許される以前に、衛士にはこの手を離すことは出来ないのだ。

「ちょっと、離してよ。さっきのは許すから……もう、本気で怒るよ?」

「すまん。だが、あと五○分……せめて、ずっと手を繋いで貰えないか」

「はぁ……? もしかして何かのバツゲーム? いじめられてる?」

 ――流石に、もう無茶がある。

 衛士はそれを理解し、嘆息した。

 確かにこのまま三つ目の試練を消化クリアできれば最善であるが、それは飽くまで自分勝手な事なのだ。衛士のわがままでしかない、と見ても仕方が無い。

 なにせ、時間が繰り返していることは衛士以外には、ミシェルとその関係者くらいしか理解できていない。故に、無論記憶も引き継がない。だから皆知らず知らずの内に一日を何度も繰り返していた。

 ここまで彼女に迷惑を掛けて続けるべきことなのか? 

 ――否。

 苦悩するのはオレだけだ。いや、ミシェルもかもしれないが……だが、この状況ではもう仕方が無い。

 衛士は首を振る。

 オレはもう出来る限りは粘ったのだと、自分に言い聞かせるようにしてから、彼女の瞳を見据えた。

 中村は衛士を心配するかのように眉の尾を下げて見ていた。

 彼は腹を決めて、口を開く。

「すまん。オレのわがままだった。お前に到ってはオレの行動自体わけわかんねーよな。悪い。教室に戻ってくれ……じゃあな」

 女々しいような台詞を口にしてから、衛士は最後に歯を食いしばって――手を、離した。

 その直後に間髪おかずに世界を包む光は、されど衛士の視界を、彼が存在する世界その全てを遮らない。そもそも光は、広がっていかなかった。

 衛士は両手を垂らしているのに、世界はそれでも存続していた。

「えっ?」

 彼は驚き、だが同時に足先に痛みを覚える。下を向くと、彼女が衛士の足を踵で踏み躙っていた。

 ジリジリとねじ切られるような痛みが走るが、彼はそれを耐えて中村の顔を見る。と、その大きな瞳から放たれる視線と衛士の眼光とが交差した。彼女は衛士の真似をするように肩をすくめて、やれやれと首を振った。

「友達でしょ? 胸を触ったりしたのは流石に怒るけど、何か悩みがあるなら話してよ。山田君とかには話せなくて、私なら大丈夫って話なんでしょ?」

 思えば彼女とは高校一年からの付き合いである。最も山田ともそうであるが、それぞれを引き合わせたのは衛士であった。それから仲良く三人、ないし葉山を合わせた四人で行動するようになったのだが――。

 衛士は、奇妙なくらいに自身を信頼しているような彼女に内心驚いていた。

「授業だって、一時間くらいならサボっても大丈夫だしさ」

 彼女は垂れる衛士の手を取って、指を絡めるようにして握る。そしてそれから踏み躙る足を離した。

 ただ手を繋いで欲しいとは伝えたが、指を絡めるとまでは指示していない。そんな唐突な行動に、衛士は深くにも胸を高鳴らせた。それから直後に、自身の軽さ、優柔不断さを覚えて嫌になる。なにか、妙に後ろめたいものを肌に感じていた。

 ――笑顔には影があった。それは、衛士が今まで一度も見せたことが無いモノだった。

 中村はそれをみて、ただセクハラをしただけではないことを知る。だからこそ、彼に何かとてつもない、自分には到底想像も付かないような大きな悩みを抱えているんだろうと思い込んだ。

 故に衛士の、抱きしめている不安を取り除くように手を握り、せめてそれを払拭させてやろうと考えていた。

 そうすると衛士は驚いたように中村へ向き直り、頬を高潮させる。そんな彼を見て彼女自身も恥ずかしくなってきて、俯いてしまった。

 ――それから衛士の提案もあって、彼らは屋上に出る扉のある踊り場へ向かうことにした。


「……誰にも見つからなかったな。だが安心してくれ。仮に誰かがオレたちを見たとしても、オレが全身全霊を込めてその記憶が消えるように祈っておいた」

「アンタって積極的な癖してちっちゃいよね。――ったく本当に、この学校に来てから退屈しないわよ。逆に大変なくらい」

 厳重に施錠される扉は屋上と校舎内とを隔てるものだ。彼らはその手前の階段に隣り合って腰を落とし、仲が良さそうに、知らぬものが見ればそれこそ逢引と思うように手を繋いで腰を落としている。

 衛士は、彼女の事を思って口にした言葉をそんなあっさりと、大して気にしていないと言う風に返されて口ごもる。彼には、中村が一体どういった心情をはらんで居るのか分からなかった。

 今にも絶好だといわれても仕方が無い。そうに腹を決めたのに、彼女はたまにはこういうのもいいかもね、と微笑んでいた。雨が降っているせいで肌寒い。だから、と彼女は肩を触れ合わせるようにしてくっついた。

「山田にはフォロー入れとくよ」

「それはありがたいけど……ホントに無粋っていうか、野暮っていうか……。まぁ、アンタらしいわね」

「いやだってさ、理由わけは話せないけど……オレのせいでこんなことになってるし」

 ごにょごにょと言い訳がましくそれらを口にすると、中村は少しむっとしたように握る手に爪を立てた。鋭い痛みが手の甲に走りそれを表情に出すも、彼女は力を緩める気配を見せなかった。

 そういったことをしながら彼女はきりっと衛士の目を睨み、

「アンタにはもう少し、男らしさってのが必要なのよ。確かに適切な場面で謝るのは良いけどさ、もっとこう……血湧き肉滾るような、『どう見られたっていいだろ、オレの勝手だ』みたいな勢いをつけたほうが良いと思うのよ」

「……つまり?」

「アタシが良いと言ってんのよ。だからトキもそれで納得するの、すべきなの。常々思ってたわ。優しさが中途半端だって。だからモテないのよ」

 そんな彼女の台詞に、はっ、と一つ笑うように息を吐いた。

 何かが吹っ切れたような、あるいは知っていると言いたいような清々しい表情で彼女へ顔を向けた。

「知ってる。だけどそれがオレだ。モテなくったっていい。オレはオレが思うようにやってるだけさ」

 だから謝りたいときに謝り、頑固になりたいときになる。誰かを助けたいと思ったら迷わず走り出し、自分の中の獣が咆えれば迷わず蹴落とす。そう考えれば、彼女の言う通り自分勝手な事になれるだろう。最も、度を越してはいるだろうが。

 誰かの迷惑になるだろうか。誰かのタメになるだろうか――衛士はそういった思考を初めに持たない。

 彼が真っ先に考えるのは、この選択をして後悔をしないか否かであった。

 他人は二の次、三の次。自分の行動の上で誰かを助けられるのならばそうする。しかし、誰かを助けることが目的である場合は別であった。全てに於いて、自身の目的を最優先。それが彼であるが、しかし悲しきかな、時衛士の人となりは善悪で判断するならば当然前者と誰もが即答するような人間であった。

 されど自覚は無く、ただ彼女に言われた言葉だけを受け止める。手のひらに流れる汗を気にするも、だがしかしその場の温度が低いが故に、ただ温もりを感じているだけであった。ソレに対して俄かな安心を覚え、それから彼女のさり気ない優しさか、およそ中村らしくない注意に感謝する。

 そういったことが出来るほど自分に信頼、自分を認識しているという事実に喜びを覚えた。

 だからこそ彼女に最上の笑みを、だからこそ自身に最大の鬼面を向けた。ある種の戒めだと彼は考えたのだ。

「へぇ、いつも流されるままに流されてるだけだと思ってた」

「はっ、舐めんな」

「でも――トキとこうして二人っきりってのも、すごい久しぶりよね。一年の、一番初めにクラスで席が隣同士以来?」

「んー、だな。その後は夏過ぎて、色々あってさらに山田も加えたし」

 ――しかし彼女とは同じクラスであった事から仲良くなったのは良く思い出せるが、なぜ山田と出会い仲が進展したのか思い出せない。オレは部活もやってないし、アイツは早速バスケ部に入っていた。共通点といえば体育で共同授業を受けていた程度のものだったし。

 その出会いはほんの些細なモノだった。衛士はそれ故に記憶の大海原の底に沈めてしまっていたソレだった。

「理恵さんと姉弟きょうだいだったのは嬉しいような、残念ようなだけど……実際彼女とか出来たの?」

「いくらオレでも、そんな浮いた話が出てきたらお前に相談してるよ。そんなの、初めてで不安だしよ」

「たっく……男の癖して情けない」

「つか、今はいいんだよ。要らん」

 出来ないことに言い訳している様でもあるが、実際衛士には友達以上の人間を肉親以外に作るつもりは無かった。どちらにせよ、今はそんな暇と余裕を持てないのだ。

 実際にはそれらがあるかもしれない。だが衛士は、そんな状況でも僅かにそれらを楽しんでいる心を隅の隅に持っていた。

「好きな人は?」

「んなもの――」

 問われて、脳裏に過ぎらせる誰かの姿によって、言葉が詰まる。昨夜に、あれほど強く様々な念を抱いた彼女の姿を見て、建前でも否定し辛くなってしまった。だがソレは衛士以外だれも認識しない人間である。そもそも現時点では人間ですらか判明していないのだ。

 その上中村は無論彼女、ミシェルを知っているわけも無い。だからここでソレを口にすることはよりはばかれるのだが――。

「へぇ、居るんだぁ」

「……想像にお任せする」

 食いしばり、言葉を飲み込む。

 なぜだか襲い掛かる背徳感に胸を貫かれた気がして、衛士は浮かべたままの笑みを引き攣らせた。

 かくして時間は、彼が想像するよりも早急に、それで居て酷く平穏に流れて過ぎた。

 ――授業終了の鐘が鳴る。

 衛士はポケットから免許証を取り出すと、制限時間は既にカウントダウンを開始していた。

「悪いな中村」

「だぁかぁら……馬鹿が、話聞いてなかった?」

 彼女の、しょっぱなから受けた愚痴交じりの注意を思い出して、衛士は咳払いを一つしてから言葉を直す。

「あぁ――オレと久しぶりに時間を一緒に過ごせて良かっただろ?」

 彼女は舌を出して悪戯に微笑むと、もういい? と握る手の力を緩めた。頭の中で数えていた数が○を過ぎていたから、衛士は短い礼を後に手を離す。

 懐かしいほどの開放感と、少しばかりの喪失感が胸に広がる気がして、衛士はたった一時間で腑抜けた意識を、心の中で殴り抜けるようにして引き締めた。

 彼女が駆け足で階段を降りていくのを見送りながら、彼はその場で立ち止まり、ポケットの中から免許証を取り出した。

 ――第四の試練。これからそれが始まるのだ。

 善行十回。飛び降り。一時間異性に触れ続ける。異様であり一貫性が無いそれらを、朝目覚めてから三時間の内に全てを済ませた。それが凄いことなのか偉いことなのか、彼にはわからない。だが少なくとも自身の最善を尽くし、それでいて最速でたたき出せた結果だと衛士は誇っていた。

 文字が消え、浮かび上がる。

 その文章の背景はまるで蛍光マーカーで引いたかのように鮮やかな青地へと変化していた。

 『不審者を処理するまで有効』と浮かび上がる文字に、衛士はそれを理解することが出来なかった。

 不審者は分かる。処理も分かる。処理するまで有効なのは分かる。制限時間はその文章の下には表示されて居らず、代わりにそれが浮き出ていた場所の空白には”○/五”とだけ、ただ示されていた。

 何か、特殊な暗号か、用語なのだろうか。衛士は考えるが、既に出ている答えを無意識に否定することだけに集中していたようであった。

 それからややあって、彼が半ば思考を空白に染めている中で、文章の答えも出ていない内に校内放送がピンポンパンポンと音階を鳴らせた直後に、慌てたような男の声と共に始まった。

『ぜ、全校生徒に連絡します。只今校舎内に……が、外部の者が侵入しました。生徒は全員教師の指示に従って校庭に……体育館! 体育館に避難してください! その際ホームルーム棟からは降りず、そのまま向かい側の特別教室棟に渡り、移動を開始してください。一階の昇降口には決して近づかないように――』

 放送が終わると、途端にざわざわと騒がしく移動を開始する生徒たちの喧騒が耳に届いた。

 衛士はそれを聞きながら、息を呑み、再び免許証へと視線を落とす。

 そこには変わる事無く、『不審者を処理するまで有効』とだけ表示されていた。


 「昇降口って、言ってたよな……」

 肩で息をするように、膝に手をついて呼吸を整える。彼がそこに到着する頃には迅速なる行動のお陰で生徒はおろか教師すら居なかった。さらに人の気配はせずに、血の臭いもしない。最も、血の臭いなぞは、衛士自身嗅いだ事が無いから分からないのだが。

 階段を居りきって、下駄箱が壁のようになって並ぶ昇降口へ歩みを進める。否、進めようとしたのだ。

 ただ平凡に、自身の目的を、課せられた試練を終わらせるために。

 だが果たしてそれはまっとうされず、不意に飛び出してきた影に驚き、衛士は飛び退くようにして階段の中腹辺りまで駆け上った。その影は手元に鋭く銀光りする、されど先から腹までを真赤に濡らす刃物を天に向け、鋭い視線で衛士を貫いていた。

 ――男は、彼の存在を認識すると同時に、牙を剥くように殺意を放つ笑みを浮かべていた。

「ほうほう、お前が時衛士でいいんだな?」

 男が出てきた軌跡を辿るように視線を向けると、そこには男の、赤い足跡が歩みを進めていた。

 ――心が震える。

 膝が笑っていた。

 恐怖が、一瞬にして心を支配する。

 思考は既に使い物にはならなかった。

 どうするという自問に、どうしたいという自答が生まれる。

 逃げたいという弱音を、決意という信条じみたものが叩き壊した。

 ならばオレはどうすれば良いのか。

 衛士は大きく息を吸い込んだ。

 立ち向かおう。やれるところまで。

 ――何が目的なのか、彼のたったひと言が衛士に教えた。ソレは時衛士の殺害、ないし彼が所持している物品の剥奪であろう。どちらにせよ男がその刃物によって命を奪うことは最早確実であるし、既に誰かを手にかけていることは明らかだった。

「さっすが教師。分かりやすい説明だったわ……まぁ、教師の癖に生徒を売るような不届き物には天誅を下したけどな」

 自分の言葉がおかしいのか、噴出し、身体を反らすように高らかに笑う。静かな校舎内に盛大な笑い声だけが響き渡り、ただそれだけで、衛士は威圧されたような気がした。

「――クソッタレが」

 しかし飽くまで気がしただけであり、その心は鼓動よりも早く脈拍よりも確かに振動を刻み、滾る血液よりも熱く燃えた。

 どこからそんな勇気が湧いてくるのか分からない。今の台詞とて、本当に男に向けたものかも自分自身でさえ判断できなかった。

「はは、んとにクソッタレな教師だったな。ビビッて糞漏らしてたし」

 男は心底楽しそうに笑みを浮かべたままだった。そんな彼を理解することも、そのつもりも無い衛士はただひたすらに平静を装い、乱れる呼吸を力任せに抑えて男を睨み返すことしか出来ない。

 先ほど出た一言を、もう一度口にする勇気は既に失せていた。

 言葉ばかりの決意が薄れたのを感じて、自分はやはりただの人間なのだと言う事を再認識した。

 だがそんな自分に失望する時間はない。嫌悪している暇は、すべて思考に費やされた。

「んで、お前はなんで俺がお前を狙うかとか、聞きたい? 愉快だから話してやるよ」

 衛士は頷く。すると顔は強張る様に小刻みに震え、男はソレを見て楽しそうに笑ってから口を開いた。

「お前の命、買った奴が居るのよ。まだ十六だか十七だかの高校生がきのお前をよ。はは、漫画見てェだろ? お前が何したか俺は知らないが、ともかく金を貰ったんだ。出来るだけ迅速ってんで場所も聞いてたし、来たわけだ。警察が来ない内にっちまいてぇから素直に差し出せよ?」

 ――これほどまで日常からかけ離れると、発想、想像が追いつかずに衛士はつい”もしかして”と考えてしまう。敗者特有の、奇妙なまでに自分に対して優しすぎ、都合の良い展開が思考の八割を占めてしまうのだ。

 実は男がとてつもなく弱く、ケンカなどあまりした事が無い衛士でも苦無く勝ててしまうのではないか。あるいは、そもそもそれ以前の問題で、相手はそういった輩が居るから気をつけろと忠告に来ただけではないかという妄想に近い希望。そして、やられそうになったところで誰かが助けに来てくれるのではないかと、空気中の酸素濃度よりも希薄な希望を抱いてしまっていた。

 しかしこの昇降口から体育館は、まず階段から見て左側に曲がり、廊下の壁とも思わしき重々しい鉄扉を通過し、曲がりくねった渡り廊下を駆け抜けた後、数段の隔たりを上ってまた鉄扉をあける。そこでようやく体育館に到着するのだ。

 無論その間までには確実に誰かに見つかるし、こんな状況である以上教師が出歩きを許すはずも無い。また、逃げるにしても距離があり、鉄扉を開けている最中にその鋭い刃、包丁を背中に突き刺されてしまうだろう。

 しかしそれでも生きてさえ居れば……。

 衛士はそう考えたところで唇を噛み締めた。

 試練は『不審者を処理』することである。即ち目の前の男をどうにかしなければならない。幸い制限時間等の取り決めは無いが、男をどうにかしなければ、この命が失われてしまった時点で時が繰り返す。また記憶を継続できるかも分からないあの時間に。そして、この、今回よりもさらに過酷、苛烈極めるものが襲い掛かるだろう。

 故に、この幾度も繰り返される時間からの脱出はより困難になる。

 ――階段のすぐ下で待ち構えていた男は痺れを切らしたのか、一歩大きく階段を上る。衛士は思わず心臓を一度大きく弾ませた。

「カカカ、ビビッてんのか。まぁ、仕方無いわな」

 呼吸の乱れはついに抑え切れなくなり、足は鉛の様に重くなって動かなくなる。

 いまだ感覚は鋭く尖り、恐怖を鮮明に感じていた。

 男は足を進め、確実に肉薄する。緩慢な動作はそれ故に恐怖感を煽る様だった。

 ただそれだかでも命が削られたような気がして――。

「うおおおおぉぉぉぉッ!」

 叫び、男の顔が足元に迫る瞬間、大腿筋に力が籠る。直後に振り上げた足は男に驚愕と共に激痛を与えることは必至であった。

 運動靴のような上履きはその先端部を鋭く男の喉元に突き刺さり、彼は仰け反り、短い悲鳴を上げて階段を転げ落ちる。その最中で振り上げられた腕は、その手に握られていた包丁はその腹で衛士のふくらはぎを撫で、薙ぎ、切る。

 浅い裂傷は流血を促し、同時に痛みを覚えた。患部は熱を帯び、衛士はその場に尻餅を着いて、階段を転げ落ち、下で横たわる男を眺めていた。

 相手の気絶を願うも、彼は早速身を起こそうともがき、仰向けの身体を反転させてようやく四つんばいになってから激しく咳き込んだ。

 その格好は酷く無防備であり――。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 思考する時間は許されない。

 衛士の身体は間髪おかずに行動した。

 短い呼吸を繰り返す衛士は立ち上がり、喉を鳴らしてその場を強く蹴り飛ばす。そうして身体は軽やかに宙を舞った。

 全身の自由を奪われ、吸い込まれるような虚脱感を与えられる空中はされど体感する時間は極めて短く、衛士は瞬く間に近づく男の背に足裏を向ける。

 男は無論それに気付くことも無く――妙な感触を覚えさせて、盛大なとび蹴りは果たして成功する。

 男は海老反りになった直後、弾かれた弦のように床に伏せる。力強く腹部を硬い床に叩きつけ、その反動は四肢に伝わり頭部を含めて、それらを同時に激突させたのだ。

 衛士はその行動の後、頭の中では彼の背の上に立ち尽くしているものだったが、安定感が無い上に激しく暴れた故に滑ったかのように男から離れた位置に着地する。太腿の裂傷に激痛が走るが、されど衝撃によってであるが為に、間も無く痛みは引いて、行動するのには大した差支えにはならなかった。

 立ち直り、打ち付けた箇所に痛みを覚えながら男へ向き直り、今度こそ意識を奪えただろう事を確信する。それからポケットの中の免許証を確認すると――”一/五”と変化していることを認識し、嘆息した。

「……あと、四人か」

 包丁でも奪おうかと考えた。だがすぐ警察が来るだろうかと考えて断念する。

 衛士は昇降口へ足を向け、靴に履き替えてから校舎を辞した。

 ――ここに居ては、誰かが仕向けるせいで皆に迷惑を掛けてしまう。その上、酷くやりにくいのだ。

 今回は状況的に幸運だったがために勝利することが出来たが……。

 しかし、”処理”という言葉が自分の思い描くものとは相違していたようで、彼は胸を撫で下ろすような、安堵の息を吐いた。自身に課されたものは困難なれど非道でない事だけでも知る事が出来て、僅かでも安心することが出来る。それがやがて力になった。

 しかし、下手をすれば自分以外の誰かが犠牲になっていたかもしれない。否、既に教員の誰かがなったのだ。そしてこんな状況だからこそ、やり直すことは出来ない。衛士の死は時間回帰の絶対を意味するが、それ以外は試練の内の悲しい被害に過ぎない。それさえも、試練に含まれている可能性さえある。

 事故なのか、思い通りなのか。衛士には知る術は無く、故に迅速な行動が求められた。

 衛士は誰の目を気にすることも無く、結局登校してから一度も自身のクラスに寄る事も無く、誰も居ない静かなグラウンドを、体力の許す限りの速さで走り抜けた。

 誰かの死を背負う覚悟は彼にはいまだ無く、故に無責任と攻め立てられても、お前のせいだと追い立てられても首を振ることしか出来ない。そもそも今は自分のことで頭が一杯であり、今回の事で重傷になった人間の存在などはすっかり忘れてしまっていた。

 ――雨は気にするほど強くなっていない。殆ど小雨同然であり、衛士はそこで傘の喪失に気付いたが、どこで置き忘れたのか覚えておらず、また持ちに戻るわけにもいかず故に諦める。

 校門を抜けてすぐの丁字路を向かって左に走る。駅へは出た所を真っ直ぐであるために、衛士は人の少ない場所へと向かうのだが――。

「んなっ!?」

 そこで待ち伏せていた三人が、彼の姿を確認すると間も置かずに投石を開始する。手のひら大のソレは予想を上回る速度で直線上に飛来し、衛士はそんなモノを見て避ける暇も無く顔面に迫る石を額で受け止めた。否、それを受け止めたというには余りにも衛士のダメージは大きすぎた。

 彼は額を切り、そして直接脳を打撃されたかのような衝撃のせいで意識を朦朧とさせ、思わず跪いていた。

 ぼやける視界の先から迫り来る三人を見て、なんとか大きく息を吸い込み全身に力を込めて立ち上がろうとするも、身体が言う事をきかない。流れる血はとめどなく溢れ右目に入り込み、衛士の右側は死角となり得た。

「バッカがな、アイツ。でもお陰でいぶり出せたし……よっ!」

 誰かが悪どく、ヒヒヒと笑う。その直後に後頭部に凄まじい衝撃を受けて――。

「警察が来るかもな。車出せよ……さっさと運ぼうぜ」

 衛士の意識は、間も無く失われることとなる。



 目を覚ますと途端に全身に鈍い痛みが走った。瞼を開けると世界は暗く、全身は寒さを覚えるように小刻みに震えている。身体は椅子に座っている状態で、さらにそこから簀巻きにされるように固定されていた。額から流れた血は既に乾き、貧血による意識の希薄化を起こすが、それでも一度だけであり肉体に不自由があるという程でもない。

 衛士は必死に抜け出すようにもがくものの、縄は緩むどころかブレザーを脱がされカッターシャツだけになった肉体に食い込み、息苦しくなる。血の巡りが如実に悪くなり、頭痛を引き起こした。

 ――何が起こっている?

 衛士は自問してから、状況確認に取り掛かった。

 まず衛士は校門を出て直ぐの所で酷く原始的な攻撃方法を受けて気絶した。そして今、椅子に簀巻きにされて身動きが取れない状況だ。見上げると天井は高く、トタンで出来ているような表面の脆さが見えている。吊り下げられる蛍光灯は唯一の光源であり、それでもこの空間内を明るく照らすことを許しては居ない。

 辺りを見渡すと、地面は打ちっぱなしのコンクリートが広がり、隅々にビニールシートが掛かった何かが置かれている。椅子の直ぐ横には点滴棒の様なモノが置かれており、頭上に何かが吊るされているらしく、一定間隔で水滴が頭頂部を濡らしていた。

 毒物か強酸系の何かなのではないかと思われたが、特に肉体に変化は無いところを見ると、単なる水滴なのだろうと理解できた。

 正面を向けば巨大な鉄扉。

 そこで衛士は、どうやらここは何かの倉庫なのだと認識できた。

 その規模はおよそ二階建ての民家程度。その程度の倉庫ならば衛士の街にもいくつかあり、また放置されているものも多々。故に然程離れた場所ではない事を予想する。

 だが――。

「誰も、居ないのか……?」

 人の気配は一切無かった。誰かの足音も無ければ、呼吸音すらない。時計が時を刻むソレも無く、外から漏れて聞こえる雨音が、気を失うよりも強くなっている程度としか音は窺えなかった。

 時間経過が気になる。空腹具合から確認しようとしてみるが、緊張のせいでろくに空腹も覚えられず、故に時間も分からない。断念してうな垂れてから、あの三人の顔を思い出す。

 ――校舎内に侵入してきた刃物の男よりも醜く卑劣で、また用意周到な奴等だった。

 三人で投石を行い、弱ったところにトドメを刺す。だがそこで命を奪う予定は無く、拉致をした後にココに運び込み――。

 何が目的なのだろうか。

 包丁男の言葉が正しければ、恐らくあの三人組の目的も同様、衛士の殺害となる。そうであれば衛士の命は早急に奪うべきであるのだが、彼の生命は今確かにそこにあり、また命に別状が無い事を知らせるように、外傷、頭痛があること以外は到って健康体であった。

 ――そもそもオレを買った奴が居る、とは一体誰のことであろうか。恨みを買った覚えは無いし、だけど試練を下す奴等がそうしているとも考えられるが、わざわざこんな交渉をするようにも思えない。どこか遠いところで、必然的に強制で試練を受けているオレを見ているだけであるはずなのだ。

 最も、それはただの幻想、理想に過ぎないかもしれないが――。

 次点で、早乙女美琉の父親がランクインしてしまう事に僅かな悲しみを覚えた。

 しかしいくら考えても見に覚えは無く、さらに誰も居ない孤独感からかこのまま放置され餓死を狙われているのではないかと心配になってきた。

 だが、誰かを呼んであの三人組が出てきた場合私刑は最早確定事項であり、衛士はこれ以上痛い事は嫌であるために口をつぐむことしか出来ない。

 だからこそ自力の脱走を図るため、椅子を倒す勢いで暴れてみるのだが――まず椅子自体が固定されているのかビクともしない。その上、木製の雑に作られた椅子であるがためにただ座っているだけでも身体が痛くなり、尻などは据わり続けているがために麻痺してしまっていた。

 やがて暴れる体力すらなくなり、ただ呼吸をするだけでも、呼吸を乱してしまう始末。頭はボーッとし始めて、だが頭頂部に一定の間隔で落ちる水滴によってストレスが溜まり、暴れたくなる。そして耐え切れなくなって暴れだし、体力の限界を感じて落ち着く。呼吸を整える中で、やはり水滴によって精神を乱されて――。

 ――ここで意識を回復してからどれほどの時間が経過したのだろうか。既に覚えた空腹は限界に達し、垂れ流した排泄物は異臭を放ち腐敗を始めていた。

「やめろ、やめろ……やめろ、やめろやめろォ――ッ!」

 首を左右に激しく、骨がへし折れてしまうと心配する程の勢いで振る。全身がムズ痒くなって掻き毟りたい衝動に駆られるも、太い注連縄は肉体の自由を許可しない。

「ああああぁぁぁあぁぁあぁぁああぁッ――」

 やがて正気を手放して――その様子を見ていたかのように、彼の正面にある扉は左右に開かれた。されど外からの光は差し込まれず、傘を差す三人だけが中へと入ってくる。しかし衛士には、それを確認し理解するだけの理性を残されては居なかった。

「へっへ、ったく丸二日も待たせやがって……エアガンで目ん玉ぶっ潰してやる」

 男の一人が笑いながら、腰のベルトに差した自動拳銃エアガンを手に取り、スライドを引いて、慣れた手つきで衛士の右目に銃口を押し当てた。次いで、力強く引き金を絞る。

 ブシュンとサイレンサーでも付けた小火器の発砲音じみたモノが響き、血液が飛び散る。鈍い衝撃が手元に残るだけで、眼球を潰すという感触は伝えられない。故に罪悪感は最大限に散漫されていた。

 男は口元に笑みを浮かべながらさらに続け様に引き金を引いてもう一発。プラスチック製の小さな球体の弾丸は先の一発を押し出し、やがて眼球は破裂する。さらに一発。もう一発。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁ――」

 衛士の言葉にならない、掠れた悲鳴が悲痛に響く事によって発砲音は掻き消される。顔色一つ変えない彼らはやがてエアガンの弾切れを知って、潔く銃口を引き剥がす。と、そこからは赤い糸が引かれ、また銃身は血に塗れていた。右目は眼球を喪失し、眼窩から滝のような流血を見せる。男はエアガンを投げ捨てて衛士の死を確信した。

 そして世界は――。


「ああああぁぁぁあぁぁあぁぁああぁッ――」

 時を巻き戻した。

 ――散々騒ぎ、やがて扉が開かれる。鈍い色だけに染まる外の景色は暗く、衛士は気でも触れたかのようにブツブツと支離滅裂な呟きを漏らしながら内心、嘆息する。

 弾丸は眼球を貫いて、それで終わるはずだった。だが押され続けてやがて弾が脳の下付近にまでもぐりこんだ辺りで彼は命を手放したのだ。

 だが今は生きている。とりあえず砂時計が何よりも優先されるらしいことを知れて、まず一つ得した気分であったが――ゆったりと余裕を持って歩いてくる男たちに我慢が仕切れなくなって、緩まっている注連縄を解いて立ち上がった。

「毎度毎度、遅ぇんだよ」

 ――そもそも彼を縛っていたその縄は結ばれてなど居なかったのだ。強くグルグルと簀巻き状態にさせられていただけで、その先端部分は結ばれず、椅子の足に巻きつけられていただけだった。さらにそこを釘で打ち付けるというなんともズサンな拘束状態。故に、暴れていく内に拘束は緩くなり、ついには……という具合であった。

 故に、もしかして何かの罠なのかな、と心配になってはみたが、本当に心配すべきなのは彼らのおつむの方であることを認識した時には、吹っ切れたように可笑しくなって腹がよじれてねじ切れそうになったほどだった。

 そもそも額に水滴を一定間隔で落とし続ける拷問は聞いた事があれど、頭髪という鉄壁の防御壁を持つ頭頂部に水滴を垂らし続けるものでは、頭が自由になっている時点で最早ザル。無意味というものだった。猿の浅知恵、否、これは既にそれ以下と成り下がっている。

 どう頑張っても精神崩壊などは求めること自体無茶なもので、されど試練故に彼らを処理しなければならなかった彼は叫び続けて、どう出るかを確認した後、再び舞い戻り決戦に挑んだのだ。

 だが――あそこで死んだのは流石に勿体無かったな、と衛士は苦笑する。

 アレほどまでやる馬鹿と覚悟はしていたものの、やられすぎていた。気が付いたころ、つまり一撃受けた頃には既に抵抗が不可能な状態であったが――。

 男たちは衛士より数メートル手前で、驚いたように立ち尽くしている。衛士は構わず点滴棒を掴み、キャスター部分から引き抜いて駆け出した。

 細い鉄棒は持ちにくい。されど何よりも鋭く、

「なっ、てめ」

「――黙れ屑が」

 男の喉へと穿つ棒は、しかし回避されて首の肉を抉るだけに終わる。引っかかるような感触を手元に残し、首筋に赤い筋が現れる。男は慌ててエアガンを取り出すが、武器はその男が持つソレだけであり、脅威は一切無い。ある訳が無い。そしてたった一人で立ち向かう衛士の勢いに、三人は飲まれていた。

 学園では自身に向けていた鬼面を曝け出し、異様なまでの自信が衛士を包む。それを見て理解する男たちは、されどその瞳には単なる怒りや不快さという単純な感情しか宿さなかった。

 これだけ用意周到だというのに、何ゆえにコレほどまで全てが中途半端なのかと、ソレに対する怒りすら湧いてきそうであった。

 男は左右、正面に分かれるが――煌めく一閃。男の行動を許さず、怒りのままにぶつける棒術は疾風が如く男の膝を撃ち抜いた。骨が軋む音がして、彼は短い悲鳴を上げる。

 男は膝が関節たる役割を果たさぬ様になったが故に前屈みに倒れ掛かるも、根気強く踏ん張った。

「はは、偉いな」

 衛士は誉めながら、振り上げた足で男の顎を打ち上げる。打撃面から衝撃が波状に広がり、男はされるがままにトタンの屋根へ顔を向ける。

 さらに上方へ巻き上がるような勢いを利用して飛び上がり、もう片方の足で男の腹部を蹴り飛ばした。

 男は吹き飛ばされるように千鳥足になって後退しようとするも、その足取りはあまりにもお粗末なモノで、やがてもつれ、そのまま背後に倒れる。

 ――三人で固まって来られたらどうしようかと思っていたが、やはりそんな事は無く、各個撃破はやはり出来そうである。

 衛士は上手い着地が出来ずに転び、そんな無防備な場面を残った二人からの容赦ない蹴りを全身に貰う。が、咄嗟に突き出す棒は片方の鳩尾に突き刺さり、さらに捻り、押し、突き出し、抉る。棒先はやがて服だけではなく肉さえも巻き込む重量、感触を手元に伝え、そこで力任せに棒で穿つ。

「ぐえあっ!」

 男は眼を見開いて、そのまま横を向き、やがて仰向けに倒れてゆく。棒は胸に浅く突き刺さったままだった。

 衛士はそこで間髪置かずに力いっぱいの蹴りを腹部に受け、思わず視界を曖昧にぼやかせてしまう。衝撃が内臓を圧迫し、脳が膨張して眼球を押しつぶそうとしているようだった。

 継続的に受けた蹴りによって蓄積したダメージが、ついに飽和し始めた。

「クソがっ! クソがっ! クソがっ! クソがぁっ!」

 残った最後の一人は懲りずに、仲間の仇でも取るように感情を隠すことも無くなりふり構わず衛士の腹へ蹴りを続ける。しかし衝撃はあれど痛みは麻痺してしまった衛士は、ただタイミングを計っていた。

 鋭くは無い、鈍い一撃。足の甲で腹を叩くだけの、サッカーじみた足蹴であるおざなりさは否めず、隠せない。故にダメージの殆どは軽減され、また当てる部分さえも返れば痛みは皆無に成り代わる。

 故にその、半ば一定間隔となる蹴りのタイミングは酷く分かりやすく――衛士は力いっぱいに振り上げた鋭い拳、そのスネへと向けた拳骨を突き出した。そしてそれはまるで当たり前のように、肉薄するその足、スネ部分に直撃し――拳にピキリと、亀裂が入ったような音がする。

 男はその痛みに思わず悲鳴を上げて距離を取るが、全力を込めた拳をいためた衛士のダメージもほぼ同等のものであった。手から腕へと衝撃が走り、拳から戻らなくなるほど痛みが継続する。強く固められた拳は痛いものの、それでも解けないのなら都合が良いと、衛士は全ての痛みを後回しにして、立ち上がった。

「クソはてめーだ。あほどもめ」

 対峙する二人を見れば、圧倒的に拉致犯の方に分があった事だろう。しかし気持ちでは、その精神面では、その感情では、威圧感では、その全ては衛士が勝っていた。だからこそ、呑まれた男は何も出来ずに――飛来する拳を顔面で受け止めた。

 鼻筋を打ち抜かれ、景色が歪む。次いで放たれる頬への一撃が、顔面を歪める。最後に決定的なアッパーカットが、彼の意識を確実にそいでいった。続く、執拗な顎、鼻への打撃が男の顔面を赤く染め……。

 男はそれから間も無く倒れ、衛士は拳に残る痛みを、全身に解放される激痛を抱いて、だが跪くことは許されず、その場で大きく息を吐いた。

 衛士は疲れた顔で振り向くと、胸に棒を突き刺した男は再び立ち上がっている。されど彼は然程驚いた様子も無く、強く床を弾くように、身を軽い前屈姿勢のまま走りだし、加速する。瞬間的に肉薄する衛士に反応する間も無い男は、そのまま衛士の拳を腹で受け止め、肉体をくの字に折り曲げた。

「がぁっ!」

 吐き出すような声の後、もがこうと衛士の肩を掴む男だが、素早く払われた足は地面から離れ、軽い浮遊感の直後に硬い地面に叩きつけられる。その際に間抜けなまでに後頭部を叩き付けた男は、そのまま意識を手放した。

 ――終わった、という開放感が衛士の精神的緊張を緩めてしまう。糸を張って吊るされていた人形のようだった彼は、その緊張の糸が切れた事によって目の奥が重くなり、意識が揺らぐ。思わずその場で跪いてから、免許証が仕舞いこんであるポケットへと手を伸ばした。

 そこにはやはり確かな硬いカードがあって、取り出し、眺める。数はようやく四/五へと増えていた。さらに、笑顔で映る衛士の指は未だ三本を継続している。その事実は少なくとも、衛士の余裕を僅かながらも生んでいた。

 もう片方のポケットに手を伸ばしてケータイを取り出すも、開いてみるが画面は暗いままである。電源は落ち、おそらく電池が切れているらしい。さらに後ろの尻ポケットからサイフを取り出し、中身を確認すると――札だけが綺麗に抜かれていた。しかし幸いにキャッシュカードは健在で、男達から金銭の回収を行おうとも思ったが、然程大きな額でも無いし体力がもったいないから、と首を振る。

 ご丁寧に椅子の脇に置かれたブレザーを着直し、カバンを肩に掛ける。濡らした服は既に乾き、鼻が麻痺しているからか、異臭はしない。衛士は念のためにズボンを脱いで、ポケットティッシュでズボンと尻とを執拗に吹いてから、大きく息を吐いた。

 もう何かを考える体力は無い。

 男たちの言葉が正しければ既に試練が開始してから二日が経過していて、その二日間、衛士は失踪していることになる。一先ず自宅に連絡を入れたいところであるが、ケータイは使い物にならない。

 順調に行っていたものが、コレほどまで簡単に掻き乱されてしまう。衛士にはもう怒りする気力も失せていた。 

 頭は働かない。全身は持続する痛みに襲われている。吐き気も頭痛も激しいのに、腹の音だけが元気そうに喚いていた。

 誰が裏でこうしているのか、本当にミシェルの背後の組織が直接手を下しているのか、分からない。

 今は少しでも休みたいのだが、そうする暇は無い。少なくとも、こんな所で意識を手放すわけには行かなかった。

 衛士は足取り重く、出口に向かう。

 空は暗く、津々と雨が降り注ぐ。まるで自身の心情を映す鏡のように見えて、気分は更に落ち込んだ。

 もう逃げられない、引き返せないと分かっているのに――何故オレが、と嘆く自分に苛立った。

 行き場の無い怒りが精神を蝕む。徐々に変異する自身に気付きながらも、彼にはどうしようもなく――見たことも無いゴミ山を前にして、その脇に通ずる。舗装もされていない故に雨によって泥濘ぬかるむ道が伸びるのを見て、ただ立ち尽くした。

 どうする、どうしよう以前に、自身がこの広い日本と言う島国において、どこに存在しているのか分からなかった。

 行動のしようが無かった。残る一人を探し出すのに、後何年を掛ければ良いのかと言う漫然とした、漠然とした将来への絶望に、彼はそっと膝を崩し、四つんばいになって、なす術もなく雨に打たれる。

 彼が行動し始めたのは、その暗い空が明るみを覚え始めた頃だった。

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