四日目
五月二三日、月曜日。
宵の口にはまだ鈍い蒼色に晴れ渡っていた空は、深夜帯になる頃には静かに雨が降らし始め、辺りの気温を著しく低下させる。津々と降り注ぐ雨は誰にとも無くやや早めの入梅を告げた、始めの降雨だった。
時衛士は冷え切る部屋の中、掛け布団の喪失した寝台の上で寒さを覚えて目を覚ました。身を抱くようにすると、露出される腹が冷たく手のひらに触れる。この寒さは睡眠の妨げになると理解した衛士は、蹴落とした布団を引っ張り上げるために身体を起こした。
冷風が窓から注ぎ込まれ、優しく頬を撫でる。静かな雨音は、辺りが静寂であるが故により目立っていた。
開け放つ窓の外は暗く、まだ夜は明ける様子を見せない。
衛士は気絶した直後からの記憶が失われていて、どうやって自分が自室に戻ったのか分からなかった。有力候補は父親が優しく抱き上げて部屋へつれてきてくれた、というものだが、彼は面倒くさがりやであり、さらにいつもならば既に二三時には就寝している筈なのだ。あれほど遅くまで付き合い、その上息子を部屋に送るなんて疲労しか残らない作業は明日に仕事を控える彼にとっては苦痛であるだろう。だから普通は、放置するかソファーに寝かすだけで終える筈だ。
そして今、寝台の上で目を覚まし、さらに風呂上りのように髪も身体もサラサラと言うところを見れば、どうやら一度起きて風呂に入ったものの寝ぼけていたのか、記憶に残らなかったのだろうと衛士は理解した。
時刻を確認するために、枕元に放置されるケータイに手を伸ばす。見ると時刻は五時一八分を指していた。それと同時に衛士は、何気なく着信履歴を確認すると見覚えの無い番号からの着信があったと表示されていた。しかしそれは着信だけにおさまらず通話した形跡すらり、さらに午前一時の着信という事もあって強い印象を覚えていた。酷く不気味だという印象を。
「っ……はぁ。目が覚めた……」
大きく伸びをして、窓を閉めてカーテンで外界とを遮り布団を掛けなおして横になる。そのまま大きく伸びをしてぽつりと呟くと、イライラというか、ムラムラが肉体の一部分に募るのを覚えた。最近は美人、美少女との出会いが多いもののそれに伴って目まぐるしい物事の移り変わりや忙しさが降りかかるので、自分を慰める暇と余力が無かったのだ。
だから今ふと頑張ってみるかと考えたが、良く考えるともう数時間が経過すれば学園に行かねばならない時間である。だとすると、せっかくいつもより長い睡眠時間で養った英気は疲弊し台無しになってしまうのではないかと考える――だろう。二ヶ月近く前の衛士ならば。
衛士は寝台に接するように鎮座するパソコンデスクの上に置かれる砂時計に手を伸ばした。
この砂時計は五分間測れるものであり、そして五分が経過した直後に砂時計を使用する直前まで自動的に時を戻すのだ。一見無駄だと思われるこの砂時計の強みは、一度未来を体感し、さらに砂時計を使用した時点で肉体的損傷、信頼関係の欠損を起こしても時間さえ経過してくれれば無かったことになることである。
だからこの砂時計使用中に果てれば、時間が巻き戻った時には記憶だけが残って、疲労も消える。便利なモノだ。
衛士は砂時計を掴み持ち上げたところで、不意に鳴り響く、無機質な着信音に肩を激しく震わせた。
朝っぱらから、と愚痴を零しながらケータイを開くが、また知らない電話番号からの着信であった。だが先ほどの番号とは違うらしいのだが、衛士は何も考えずに通話ボタンを押して、耳に当てた。何か、そうしなければならない気がしたからである。
『おはようございます』
耳に優しい静かな挨拶が響く。衛士は答えないが、声は構わず次を続けた。
『本日午前一時三○分にお邪魔させていただきます。○時三○分まで時刻を戻しますので、準備を整えてお待ちください』
澄んだ声だった。言葉の端々に丁寧さを覚え、だが事務的だと思うようなその台詞に、僅かな間恐怖を煽られた。衛士がその声の主が誰であるか気付くのに三分以上を要したのに、寝起きだという事は関係ないだろう。
「ミシェルかっ!?」
叫ぶと同時に、起こした身体は気がつくとうつ伏せになっていた。顔は固いテーブルに張り付き、椅子に座ったまま、清い唇は無機質との熱い接吻を交わしている姿勢であるからこそ負担が強かった。
肩に鈍い痛みが走り、硬直する。激痛が引いてから衛士は顔をテーブルからゆっくり引き剥がして目を開いた。
一瞬にして移動したのは衛士に特殊能力が発現したからではない。今まで無かった全身の凝りを覚えたのは、持続された負担があったことを知らせていた。
衛士が居間で眠りこけていたその瞬間まで時間が巻き戻ったのだ。
――しかし、時間が巻き戻っていても記憶だけが持ち越される、という説明だけを受けていた衛士は、僅かな疑問を覚えていた。
それは時間が巻き戻った瞬間に目を覚ましたことについてである。
ケータイで時刻を確認すると、それは確かに○時三○分を表示させており、ミシェルの言葉どおりになっていることが分かる。そして彼女の説明通りなら、本当ならば衛士は未だ眠っていてもおかしくは無い筈なのだ。偶然この時間に目を覚ました、と言うのならばまだ分かる話であるが……。
「いや、そうだ」
衛士は口に出して頷いた。
――偶然なんだ。偶然起きた。目が覚めたんだ。この時間に。彼女はそれを知っていて、だからこそこの時間に巻き戻したのだ。そうしなければ、覚えの無い番号からの着信に応対した記録も、風呂に入って自室に戻ったという事実も説明が付かない。
仮に、起きている時に眠っている時刻まで時間を巻き戻した時、意識を覚醒させるとする。それから行動を起こして電話に応対し、風呂に入り、彼女の訪問を経て自室に戻った――以前に一度その流れを経験しなければ、オレが部屋に居た理由が付かない。
そして、その仮定が正しければ衛士はその経験を記憶に残していないことになる。ただ忘れているだけならまだしも、思い出すきっかけ複数に触れているにも関わらず既視感すら感じないのは、完全に記憶からその事実が抹消されていると言う事だろう。
だから、後者はありえない。
衛士は決めつけ、一先ず風呂場へと足を向けた。
――四月八日。それはこの砂時計と共にミシェルが現れた日であった。
簡単な説明と、目的も分からないノルマだけを与えて去っていった。ノルマを達成しなければならない期日は不明であり、砂時計を与えた意味も分からない。さらに彼女自体の正体が不明であるのにも関わらず、ミシェルと言う名の女性は時衛士の人生を大きく変えていた。それが悪い方向、良い方向、そのどちらに進むのかはまだわからないのだが。
そしてアレから衛士は日常生活に支障をきたさないレベルで良いことをしてきたつもりである。また、砂時計を悪用した事柄も、テストのカンニングにしか利用したことが無い。彼なりに努力はしないが、やるべき事は細々とこなしてのだ。
三日前に一度死んだ。横転してくる車に頭部を叩き潰され全身の肉を掻き乱された死体となったときも、結局はそれほど精神的乱れは起きず、何事も無い様に生活が出来る。夜中に死を考えては涙する日が続いているが、それでも何かに支障がでるわけでもなかった。
何が起こっても自己責任だと片付けて、ミシェルが再び現れるのもノルマを達成した時までだと衛士は考えていた。
しかしついさっき電話がなった。ミシェルからであり、午前一時にまた会おうとの事だった。
――目的は分からない。だがそれは前と同じだ。また新たに説明する要因が加わったのだろうかと衛士は考えながら風呂を上がり、着替えを持ってきていないことに気付いて、全裸のまま自室へと向かった。
服を着て、寝台に倒れ込む。僅かな睡眠では取れなかった疲れが身体の動きを鈍くさせていた。
電気をつける部屋の中、壁に掛かっている時計に視線を移すと時刻は既に一時に達しようとしていた。
気紛れに付けたテレビには見たことも無いアニメが放送されていて、衛士はそれをなんと無しに聞きながら天井を見つめていた。
その最中に着信音が鳴る。衛士は相手を確認しもせずに電話に出た。
『む、起きていたのか。私は伝言に残すだけにしておこうと思ったのだがな』
どこかで聞いた事があるような、意味もなく渋く厳しさを思わせる声が、不躾に発された。衛士が相槌を打つと、相手の男は短い嘆息でノイズを散らしてから言葉を続ける。
『ただひと言を伝えたくてな……。娘に手を出したら合法的に殺す、と……伝えてやりたくてな。それだけだ。二度と会えないことを望む。では』
男は一方的に口を開き一方的に通話を終わらせる。残された衛士は耳にこびり付くような鈍い声音を幾度か反芻しながら、
「娘の前では立派な事が言えるお父さんって素敵だな」
とだけ呟き、ケータイを閉じて枕元に置いた。
――愛娘である早乙女美琉の前で『お前の思うように衛士と親しくなれ』と言った彼は、その後衛士に親しくなったら殺すと釘を刺した。
貴族だのなんだのと言いながらも、結局父親である限り何かが変わるでもない。ある意味立派な男だったのだと衛士は彼を再認識しなおして、これからは幾ら美少女で自身にある程度の好意を持っている美琉であろうとも、少しずつ距離を置いていこうと考えた。
見事な防衛術だとやるせなく息を吐いてから、衛士はそっと目を閉じる。
気がつくと、窓の外から雨音が耳に届いていた。冷気が窓の外から流れているのを肌に感じて、身を抱くように、胎児のように横になって丸まった。
深夜の、誰もが寝静まった静かな時間。雨も降り始めて、虚無感に拍車が掛かっていた。
寂しいといった感情がその原因だと言う事はわかっていた。だからこそ、それがどうしようもないことは理解していた。
ただの男子高校生である少年には、自身が一度死んだという事実は少なくとも衝撃的なことだった。あの時の、瞬間的であるものの死に至らしめる絶大な痛みは今でも頬に覚えている。記憶が肉体に全てを反映しているようだった。
誰かにこの生を肯定してもらいたい。だからこそ、ここ数日の目まぐるしさはある意味で満たされていたのかもしれない。美琉は自身と仲良くなりたいと接してくれ、理恵はいつもどおり姉としてコキを使ってくれ、人と居ない時がなかった。ここ最近では理恵は常に衛士の部屋に入り浸り、彼が眠るまで自室へ戻らないからこそ、不意に気を失って気がついたら一人きり、という状況に弱いのだろう。
自身の貧弱さが嫌なるが、だが仕方が無いのではないかと肯定する自分も居た。
「遅いな……」
眼を瞑ったまま時刻も見ずに呟く。そうしているだけでも大分時間が流れたような気がしていた。
嫌な考えことをしていたから、それとも僅か一時間でありながらも、疲労が拭われなくとも眠っていたからか、眠気は一切無い。だから衛士は付けっぱなしの照明を眩しく思いながらも、ケータイで時刻を確認した。
一時二八分。ミシェルが告げた時間までは後僅かだった。
衛士は身体を起こす。首を捻って骨を鳴らしてから、寝台に腰掛けるようにして座りなおした。
目的もなくつけていたテレビを眺めるも、内容は一切入ってこない。
緊張しているためか、下腹部に鋭い痛みを覚えた。全ておいて集中力は持続せず、虚空の一点を凝視する瞳には生気が宿らない。
その中で不意に目の前に現れた影に、衛士は顔を上げて、無表情で出迎えた。
「こんばんは」
電話よりもクリアに聞こえる声であるが、大きな違いはなく、耳にすっと入り込むものだった。
早乙女美琉に似ていると考えていた彼女の姿は、思っていたよりも似通った点は少ないことに気がつく。透き通るような黄金色の髪はセミロング程度の長さに収まっていて、目は笑みによって細められているが、開けばやや釣りあがる様なモノだった。また瞳は琥珀色で、眉は薄く鋭く延びる。
「このような夜更けに不躾であることは了解しているのですが、どうにも貴方は何があってもこちらに電話一本くださらないので……。まるで、私の事を忘れてしまったかのように」
下腹部辺りで重ねる手を上げて胸の前に移動させる。ちょっとした動作で揺れそうなほど豊満な乳房は、ウェットスーツのような服によってあからさまなまでに強調されていた。
だが、衛士にはもう、彼女の胸を注視するような余裕は残っていない。彼女の、ミシェルの目的を探ることで頭が一杯になっていた。
「そんな、忘れられるわけも無いでしょう」
「ですよね」
彼女は落ち着いた女性のように穏やかに微笑むと、それからまた薄く目を開けて口元に笑みを残したまま衛士を見つめた。何か、選定でもするかのように彼の全身を舐めるように視線を往来させてから頷いた。
「大変お疲れのようですね」
「疲れ知らずってほど無邪気でもないんでね」
ここ最近は特に涙を流し、空が明るんだ頃に眠りについていたのだ。空元気を悟られぬよういつもの態度を保っていた為に、疲労はただ蓄積されるだけであった。
休まる余裕は余りなかった。休もうとも思わなかった。とにかく気分を紛らわせたかったのだ。疲れて眠くなればそれで良い。今はそうだった。
「なら今夜は良く眠れるようにしましょう」
彼女はゆったりとした動作で目の前まで近づいたかと思うと、なんの躊躇いも無しに衛士の横に座り込む。マットレスが沈むのに応じて衛士の身体が俄かに揺れる。甘い臭いが鼻を掠めて、彼女の吐息が耳に掛かった。
頭の芯がぼーっとするのを感じながら、それでも意識を必死に保って彼女の言葉に耳を傾ける。
しかしミシェルは彼の様子を構わずと、本題に入っていた。
「本来、人は一度しか死ぬことは許されていません。しかし貴方に与えた砂時計……アレを使用すれば、望むとも望まなくとも、死を経験できる。最も記憶を持ち越せるのは砂時計の効果を理解している人間だけですが」
肩が接し、香りが強くなる。彼女の体温を覚え、頬が熱くなるのを感じた。
「ですから、貴方が生命を散らせるのも、あと三度だけと言う原則を設けました。幾度でも死ねるというものは、自身の生命の軽薄化に繋がりますから。無意味でもありますし……それについての罰則につきましては、砂時計の返還とそれに関する記憶の抹消とさせていただきます」
「記憶の、抹消……?」
――なんだそれは、聞いた事が無い。まるで当たり前のように言っているが、彼女はオレが、彼女の事を容易に記憶を操れる人間だと理解している、という風に認識しているのか? いや、そもそも記憶の抹消なんて――。
狼狽する衛士であるが、彼は初めての説明の際、彼女の豊満な胸に熱を出して話を聞いていなかったことなどはすっかり忘れてしまっていた。
ミシェルはそれも気にせず頷いて、掻い摘むように解説した。
「ノルマ未達成の罰則同様です。砂時計についての記憶を消させていただくのです。勿論このような砂時計ですので、恐らくその記憶が失せても日常生活には支障は無いかと」
未来へ進むには砂時計を使用しなければいい。だが同じときを延々と繰り返したいのならば、その都度砂時計を使用しなければならない。だから彼女の言うとおり、砂時計は使用者の心情を大きく変えるものの、その周囲はこれといった変化をもたらさない。変化があるとすれば使用者の行動に伴うのだ。
しかし、記憶抹消失敗時の説明を彼女は省く。無論、前回の説明を聞いていなかった衛士はそれには気付けなかった。
「続いて……実はめでたく、貴方は善行の残り回数を九○以下にまでしたので」
「ご褒美ってヤツですか?」
「えぇ……まぁ、ある意味そうですね。貴方は今までで、危険に対する意識が酷く強くなっています。危機対応能力が向上している、という事ですね。最も、貴方が誰かの危機を覚えて繰り返させた時間は計四時間を越えるのでもはや必然と言っても良いものでしょうが……」
衛士は彼女の言葉に眉をしかめる。
その実、危機対応能力というものが研ぎ澄まされ尖りに尖ったこの鋭い直感だというのなれば、衛士はこの直感を彼女から与えられたものだと考えていたからだ。そうでなければピンポイントで大事故なんて予想できないし、友達が階段から突き飛ばされる瞬間だって予想できない。できるはずがない。
常人であれば。
だからこれは、彼女の仕業だと信じ込んでいたのだ。
しかしミシェルは首を振る。これは飽くまで衛士が育てた一種の才能だ、と。
「私が与えたのは砂時計と、あの免許証の二つだけです。それと……」
言いよどむミシェルに衛士は続きを促すが、彼女はいえ、と首を振った。
表情からは笑みが失せていて、緊張を孕むように真顔に戻っていた。衛士はそれを不審に思いながらも、自身ではどうしようもないのを知って口を閉ざす。それからややあって、ミシェルは再び口を開いた。
「貴方には、これから五つの試練をこなしてもらいます」
「試練? ――やっぱりコレは、オレの何かを試すものなんですね。この砂時計をどう利用するか……善行数を全て消化するのが目的じゃない」
――だとすると。
「もしかして、今まで無かった奇妙な危険も……全部貴女が仕組んだんじゃないんですか?」
中村が会談から落ちそうになったのも、美琉が車に轢かれそうになったのも――いや、考えれば他にももっとあったはずだ。誰かが、下手をすれば命を手放していた程の危険が。余りにも不自然に身近にありすぎたのだ。
衛士は常々思っていた事を構わず口にする。最早、彼女に対してはある種の敵意しか抱かなくなっていたからだ。
しかし彼女は微笑んで――。
「いえ、”貴方の何か”ではなく、貴方……つまり時衛士と云う個人を試すものなのですよ。そしてこれまでで実際に、貴方が善悪どちらのタイプなのか。積極的なのか消極的なのか。いざと言うときにどういった行動が出来るのか……少なくともそれらの資質は計れました」
その上で、と彼女は立ち上がり、衛士に背を向ける。彼は既に彼女に対する愛着も恐怖も消えうせていて、憎しみのような、自身をこのような状態に貶めたと言っても過言ではない彼女の、その華奢だとわかるような背を睨んだ。
「そして貴方の言葉の通り、或る危機は確かにこちらで操作したものです。それは一体どれか、まではお教えできませんが。その試練も、今度は貴方に対する危機をどう処理するか……それを計るものです」
「正体も、目的も明かさないようなアンタのモルモットになれって言うんですか?」
「怨みたければ怨んでください」
――それが貴方の力になるのなら。
彼女はその言葉を飲み込んで、両手を顔にあて、そこから髪を掻き揚げるようにして目尻に溜まる涙を拭いた。
何故このような事をしなければならないのか、彼女自身には分からない。だがそれを、彼女すらも目的が分からない……否、確信を持てないという事を衛士には伝えてはならない事くらいはミシェルには理解できていた。
そうしなければ衛士は誰を憎めばいいのか分からなくなる。一度も姿を見せない卑怯な奴等だと吐き捨てることは出来ても、結局怒りは、悲しみは燻って彼の精神を蝕んでしまう。
だからせめて、中継点である私に全てをぶつけてくれれば。彼女はそう目論んでいた。
背後には組織がある。幸い衛士はそれに気付いていないから……と。
「試練中は、一時的に善行数の確認が不可能になります。しかし良い事をすればしっかりと数は減っておりますのでご心配なく……。試練の内容は、免許証に表示されますのでご確認ください」
衛士はもう相槌も打たない。ただでさえ滅茶苦茶に掻き乱された感情の中では、まともな事が言えるわけでもなかったから。
ミシェルはそれと、と口にしながら振り返る。彼女の顔には先ほどのような艶やかな笑みが浮かんでいた。
「ゆっくり眠りたいのなら……添い寝は必要ですか?」
「話が終わったんなら、出てってくれませんか?」
「あら、残念ですね。ならせめてこの状態で、○時三○分まで時間を戻しましょう……では、またお会い出来ることをお祈りしています」
「あぁ、オレもですよ」
「ふふ。それではまた――今度は、頑張ってくださいね」
彼女が指を鳴らすと――瞬時にして、彼女の姿は消え去っていた。
衛士は膝に肘を乗せる体勢で時計を確認してから、うな垂れる。彼女が口にした通りの時刻にまで、時計の針は巻き戻っていた。
最後の台詞が妙に胸に引っかかったが、衛士は気にする余裕も無く立ち上がり、電気を消し、テレビの電源を落として寝台に横になる。
もう何かを考える力は無い。色々と衝撃的なことがありすぎて、とても頭が付いていけていなかった。
静かに瞼を落として、心を無にする。せめて休息だけはゆっくりと満喫したかったから。
『二四時間以内に十の善行をこなすまで有効』。
朝起きて免許証を見ると、本来善行数の残りが刻まれていた部分の文章が書き換えられていた。そしてその下には既に十六時間五八分と表示され、その数字はただのプラスチックカードの筈であるのにも関わらず、常時減っていった。気が付くと残りが五八分から五三分になっていて、どうやらこれが時間制限なのだと理解する。
ついでに写真は衛士もので変わりが無いのだが、写真の中の彼はピースの要領で指を三本立てている。これが、残りの死ねる回数を示しているらしい。
第一の試練だ。
衛士は理解し、舌を打つ。
――学園に通うための支度が終えると、家を出た。時刻は七時五○分である。
「エージが早起きなんて、雨でも降るんじゃないの?」
傘を差して並んで歩く理恵は笑いながら肩を叩いた。揺れて、傘から落ちる水滴が腕を濡らすが彼女は構わず、といった様子であった。
「降ってるよ。今朝、もう梅雨に入ったって言ってたし」
眠っている彼女を起こし、朝食の後片付けをし、風呂掃除をして洗濯物の手伝いをこなし、トイレを掃除した。免許証を見ると残りは既に五つにまで減っている。
しかし、奇妙なことにそれが嬉しいことであるとは思えなかった。自分が、少し早く起きれば出来る孝行がそこにあったのにしていなかった事がわかった事もあったが、何よりも、強いられなければやらない自分に嫌気が差したのだ。
何も、自分が超絶的に善人だと言う事ではない。少なくとも、出来る事はやってきたと思っていた矢先にこんなことであるからだ。
さらに昨夜の事もまだ頭の中で引きずっていて、心の中には深いモヤがかかっているような状態だった。
こんな心情が表に出なければ良いとは思うが、実際理恵との受け答えも比較的日常通りであり、彼女の反応もいつもと変わらぬので心配は不要だと頷いた。
「でもなぁ――」
彼女が何かを口にする中で、衛士は彼女に横目に背後から接近する車に気付き、傘を天から車道側へ向ける。と、間も無く通過した車が弾いた水溜りが彼の傘に飛びかかり、果たして彼らは理不尽な水災害から守られた。
衛士が何事も無かったように傘を差しなおして歩みを進めるが、傍らに付いて離れなかった理恵の姿が失せている。振り向くと、口元を押さえて驚愕の表情を見せる彼女が数メートル後ろに居た。
それから転ばないようにゆっくりと駆け寄ると、嬉しそうに笑って肩を小突いた。どうやら、衛士の心遣いがこの上なく嬉しいようだった。
「何よ、どこで覚えたの? そーゆーの!」
言いながら彼女は足元の小石に足をとられて前のめりに転ぶ――が、衛士は傘を捨てて彼女の腹を抱くように身体を支える。
ほのかな石鹸の良い香りだとか、女性特有の柔らかさだとかを覚える暇も無く、衛士は彼女を立ち直らせ、呆然とする視線をよそに傘を拾いなおした。
その行動がとてつもなく嬉しかったのか、彼女は傘を畳んで衛士の腕を抱きつくように飛びついた。
「ちょ、おい! 狭いから自分で傘させよ!」
「いーじゃないのよ。姉弟でしょ?」
「狭いからっつってんの!」
しかし、まだ高圧的な態度で見下されるよりは遥かにマシだった。
衛士は、年上であるものんまだ無邪気な態度で接する彼女に僅かでありながらも精神的に癒され、疲れが吹き飛ぶような思いであった。
道を進み駅に出る。するとそこから学生の数が、増殖したかのように増えていた。
衛士はさすがに恥ずかしくなって彼女を引き剥がそうとするが、距離をとったら距離をとったで意固地になって傘を差さないものだから、仕方無しに相合傘の形態を維持することにしてやった。無論、腕に抱きつく事に許可した覚えはないのだが、否応なしのものだったから仕方が無い。
周囲の注目と舌打ちとを一身に受けて学園に到着する。その頃になると、小雨程度だった雨は本降りのように、白い線となって視界を遮る強い降雨となっていた。
「それじゃまた帰りにね!」
階段を上り、二階部分で理恵と別れる。そこは三年生の教室がある階層であり、衛士が日常を過ごす空間はその上の階層にあった。
元気の良い背を見送ってから、衛士は大きく息を吐いて手すりに寄りかかる。
どうにも今朝から身体の様子がおかしかった。思考は正常かもしれないが、身体が酷く怠いのだ。
感覚が肉体に反映されない。指先の感触が鈍くなるような、全身が痺れてしまったような感じが全身を占めていた。
起きているのに夢の中に居るような感覚、というのが最適かもしれない。衛士が見る全てには現実感だけが削がれていた。
起床時はそれほどでもなかった倦怠感が、学園に到着する頃には全身を満たしていた。緩慢な動きでしっかりと階段を上る衛士の傍らを、一体何人の生徒が追い越していったのかわからない。少なくとも中学時代に左足を複雑捻挫してしまった際よりも、動きは鈍かった。
足を止めてしまえば階段を上ることにすら挫折してしまいそうである。その最中に、ポンと軽く肩を叩く影は、すぐ隣で足を止めた。
「よぉエイジ……ってどうしたその面ァ!? 真っ青じゃねぇか!」
「耳元で喚くな。今頭痛が痛いんだ」
「お前の頭は可哀想だな」
――畜生、こんな時に限って風邪を引くだなんて。
衛士は心中で毒づき、記憶を蘇らせる。この試練が失敗した時のペナルティは一体なんだったのか。
――しかし思い出せず、もしかすると伝えられていないのではないかと思えてきた。否、事実ペナルティは告げられていなかったのだ。ならばペナルティは課せられないのだろうか。
答えは、否であろう。しかし、奇妙に胸に引っかかるものがある気がした。
「山田、風邪引くぞ」
濡れた髪は、だが短髪であるからこそあまり変化は見られず、より爽やかさが際立っていた。水も滴る……といった諺があるが、彼ほどまで似合った人間は余り見た事が無い。
衛士はそう言いながらバッグから取り出したタオルを彼へ突き出す。衛士は幸い、理恵が小柄であったために濡れずに済んでいるから無用の長物であったのだ。
彼は無言でタオルを睨んでから、短く息を吐いて受け取った。
「人の心配も良いけどよぉ、たまには自分を心配してやれよ。ま、タオルは助かったけどな」
「イーだろ。善人に生まれ変わったんだよ。目指せ聖人君子、だ」
息も切れ切れ、衛士は数分かけてようやく階段を上りきる。隣の山田は心配するように背に手を添えるが、反射的に吐き気を伴う気がしてそれを払いのける。それから重い足取りで教室へと向かう、その最中。
衛士の隣のクラスから顔を覗かせた一人の少女がこちらに気付くと、笑顔で手を振って駆け寄ってくるのが見えた。
「トキィッ!」
遥か手前で踏み切って両足で綺麗に飛ぶと、同時に閃くスカートが中身を露出させる。純白のショーツには子どもらしい犬の柄が、犬だけにワンポイントとして描かれる可愛らしいものだったが、衛士はそれを視認する余裕は無かった。
幅跳びの要領で着地する彼女は、栗色の短い髪を乱舞して跪く体勢から立ち上がる。途端に大きな瞳が輝くように衛士を捉えていたが、彼は彼女の相手をする事が嫌だった。好意をもっているわけではないが、のろけられるのが精神的に負担となるからである。
「アンタも随分と幸せな――ってどうしたのよその顔ォ!? 真っ青! 息してない!」
「……山田、蹴散らしてくれ」
「だそうだ。中村さん、話は後で聞くから」
「やだ風邪? トキ、風邪を伝染したら病原菌扱いするわよ」
「うっさい中村菌」
「ト菌の癖に」
「オレは角に為り得る逸材だ」
それを捨て台詞にして、かくして衛士は教室へと無事到着したのである。
肩で息をしながら財布を取り出し、免許証を確認する。と、善行ノルマは残り二つにまで減っていた。
「おい山田、タオル返せ」
ならば、後少し頑張るだけで第一の試練は終わりだろう。そうすれば、少しでも長く休めるはずだ。今夜ゆっくり休めばさすがに風邪も治るだろう。
衛士は額に手を当てながら俯く。幸いアルバイトは水曜日から日曜日までの連続であるために、本日と翌日は休めるのだ。こればかりは、不幸中の幸いというものであった。
流石に早退すべきだろうと言った考えも頭の隅に湧いてきたので、衛士はせめてこの試練というものを済ませてから帰宅しようと計画立てる。いくらなんでも、これでは授業に支障が出るどころか日常生活もまともにこなせないレベルであるからだ。
荷物を置いて近寄ってくる山田は衛士の頭にタオルをかけてから、その前の席に腰を落とす。するとそう間も無く他の親しい友人が一人、集合する。
「おはよ、二人とも」
「おう、葉山」
「おはよう」
散切り頭の彼はまだ顔立ちが幼く、身長も低いことも手伝ってか中学生程度の容姿を持っていた。それ故に、可愛いと女子生徒にもてはやされて、衛士と山田はそんな彼を羨ましく思っていたのだ。
真似しようにも真似できない天性の容姿。さらに山田は好青年と来て、類は友を呼ぶとは言うが何故自分が呼ばれたのか、衛士は理解できなかった。
「どしたの? エイジ君顔色凄い悪いけど……風邪?」
「そうそう。休めばいいのによ」
「今日何かあったっけ?」
「日替わり定食が生姜焼き定食」
「風邪じゃ食べられないでしょ。エイジ君、ちゃんと考えて行動しないと」
「っせーな。オレは脳を食欲に汚染されてねーって」
好き勝手に、冗談交じりに諭してくる彼らにほのかな笑みで返してやると、二人は少しばかり安心したように表情を緩めた。
衛士は痛みを覚える関節を無理矢理駆使して頬杖を付くと、それから微笑だけを浮かべて葉山に視線を投げた。
「そうだ、葉山。お前何か今、困ってること無い? 出来れば二つくらい」
「エイジ君が辛そうで見てるこっちも辛いことかな」
「違う。オレが解決できそうなことで」
「先月貸した漫画返してくれると嬉しいな」
――何か借りたっけ?
衛士は彼に言われて眉を潜める。やがて記憶に蘇るのは、先週返そうと思ってカバンへ突っ込んだまま放置していたことだった。短編集だったから重さが然程変わらなかった故に、忘れてしまっていたのだろう。
衛士は慌ててカバンを取り出すと、その中から一冊の漫画を手に取り、彼に差し出す。ついでに貸そうと思っていた、同著者の傑作を二冊、机の上に叩き出した。
「すまん、忘れてた。それと面白いのみつけたから、貸そうと思ったやつ」
「えっ、これって絶版のヤツじゃなかったの?」
「古本屋にあってさ……」
「うっわ、本当に!? ありがとう、早速読むよ!」
本を抱きながら小躍りをし始める彼を確認して、衛士はほっと胸を撫で下ろした。まるで大仕事を終えた後の、緊張の弛緩した瞬間のようだった。
途端に脱力して、気が抜ける。コレで休めると、衛士は席を立った。
「悪い……やっぱ帰るわ。本降りだけど、帰るだけだし問題はないな」
「おいおい、倒れるなよ? 送っていこうか?」
「かえって気疲れするからいい」
正直喋るだけでも体力を要する。衛士はそれだけを口にしてカバンを肩にかけると、机にかけた傘を手にして彼らに背を向けた。
頭も痛くなってきた。足を前に進めているのに、殆ど自分で動かしているという感覚が無かった。
――教室を出ようとするところで、不意に現れた影は止まる事無く胸に飛び込んでくる。その衝撃によって体勢を崩して倒れそうになったが、衛士は必死に手を伸ばして壁に張り付き、何とか姿勢を保つ。と、胸板に鼻を強打したのか顔を押さえる少女は、上目遣いで衛士を睨み――はっとしたように、眼を見開いた。
綺麗に縦に巻かれた金色のロール。青藍色の宝石のような瞳。見覚えのあるようで一切無い、その制服姿はどうやら早乙女美琉であるらしかった。
「と、トキ……エイジ、さん……」
「はは、クラスメイトの名前も忘れたのか? じゃあな」
他人の事は決して言えた義理ではない彼は自分を皮肉るような台詞を吐き捨てて彼女を片手でどかす。美琉がこのクラスにおいてどれほどの信頼を持ちどのような地位についているかはわからないが、今の衛士はともかくそれどころではなかったのだ。
だから、彼女が結局何も言わずに見送るのを背に感じながら、衛士は教室を後にした。
最早誰を気にする必要も無い。衛士は心許ない足取りで、まるで手探りのように廊下を歩く中で再び免許証を手に取った。
すると残りの善行数は見事に○になって――。
『二四時間以内に十の善行をこなすまで有効』という文章は間も無く薄くなって、完全に消え去った。時間を如実に減らしていたその時間制限もいまや綺麗さっぱり、といった現状だった。
しかし……。
「は、はぁ……っ!?」
再び文章が浮き出て、再び、時間制限が刻まれ始めた。
『五分以内に頬を殴られるまで有効(砂時計の使用は無効)』と、そこには表示されていた。
これにばかりは、流石の衛士も心の底から疑問符を浮かべざるを得なかった。そもそもの目的が分からぬこともそうだが、何故こんな試練を課すのかが不明すぎたのだ。
さらに、この体調でそんな事をされれば本当に昇天しかねない。その上彼を追い詰めるのはその短い時間だった。
今度は免許証にはコンマ秒までが表示され、如実に、堅実に時間を減らしていくのが見て分かる。どんな構造なのかが激しく気になるが――故に焦燥感は駆り立てられて、衛士は全力疾走で教室まで駆け戻っていった。
飛び込むように教室の中に入ると、いまだ先ほどの席で談笑する山田と葉山の姿が確認できる。衛士は助かったと、迷わず彼らの元へ肉薄した。
二人は驚いたように衛士を見つめるが、やがてその真剣味を帯びる表情に、何かを悟ったようだった。
「オレの頬を殴ってくれ!」
――息が苦しい。オレは一体何をやっているのだろうかと、どこかへ呼び戻そうとする声が何処からとも無く聞こえてきた。
「な、何言ってんだよエイジ」
「いいから、何も言わずに――」
言い切る前に、鳩尾に拳が鋭く突き刺さる。圧迫される肺が孕んでいた空気を全て吐き出させ、浅い呼吸だったこともあって間も無く酸欠になる。意識は打撃によって確実に削ぎ取られていた。
「ば、……ちがっ――」
力強い打撃はその箇所だけではなく、内臓を貫くような衝撃を与える。前に倒れ始める身体を全身で支えるように、もたれかかる衛士を抱くようにして彼は清々しい笑顔で山田に向いた。葉山はふぅ、と一つ息を吐いてから清々しい笑顔で頷いた。
「保健室に運ぼうか」
――意識を薄れていく衛士がそれでも手の中に握り続ける免許証の時間制限は、その中で刻々と減らしていく。
しかし、と衛士は不意に感じる悪寒を覚えて意識を集中させた。
――何か、途轍もなく嫌な予感がする。この感覚に覚えがある。この痛みが、苦しみが、以前一度味わったような……そう、既視感と言うべき感覚だ。吐き気を催す以上の、嫌悪感。ダメだ、もっと考えろ。深く、意識を集中させろ。
何だこれは。この感覚――記憶が混迷している? 覚えがある、と言う事は以前に経験したと言う事……しかし、風邪を引いたときはいつでも家で大人しくしていた。いや、そもそもこれはそんなに前の出来事では無い気がする。もっと近い、つい先日のような出来事――。
砂時計……いや、関係ない。今日は使用すらしていない。ならなんだ、この異常なまでの不愉快さは。
あと少しでたどり着けそうな気がする。そうだ、これは昨夜目が覚めたとき、自分が自室へ戻るまでの記憶が失せていたときのような不快感だ。自分のことなのに、まるで人事のような……。
もしかしたら、時が――そうだ、時間が。砂時計のように、その繰り返すことを理解しなければ記憶を持ち越せないんだ。
時間は繰り返している。恐らく、多分、確実に。
最低でも一度、この五月二三日は経験しているはずである。
まず起床時間から考えよう。記憶によると一度○時三○分に起きている筈だ。
それ以降は恐らく今日体験した全てと同じであると考えて間違いは無いだろう。違うのは、時間を巻き戻されずに済んでいるという点である。しかし、もしかすると今日五時に目を覚ました以降の展開と全く同じかもしれない。
だとすると、あまりにも情報が少なすぎる。考えるには全てが足りない。
何かが掴めそうなのに掠りともしない。目的のものが硝煙越しに見えているようだった。
時間が繰り返しているという裏づけが全く出来ていない。確証があるのに説明できない苛立ちが衛士の全身を強張らせた。
なんだ。何の情報が足りない。時が繰り返しているという前提で物事を考えて、それを説明するのにどの記憶について考えれば正しいのか。
知らないのは、丁度五時に目を覚ました際に記憶に無かった――○時三○分から五時までの情報。
そして五時に起床したとき、強制的に○時三○分に時を戻された。さらに戻されてから五時までを過ごしたオレの行動が、恐らく”前回”と同じようだったからこそ、然程気にも留めなかった。
時間の回帰を説明するならそこに突っ込めば良いのだろうが――。
ダメだ。何かが引っかかる。もう少し、あと少しであるはずなのに。
短く息を吐くと、ふっと意識が大きく揺らぐ。衛士は慌てて現実に、思考に集中するが、一度弛緩した意識は容易には引き戻せない。
衛士は徐々に考える力を低下させ、共に全身全筋肉を脱力させた。異常なまでに簡単に薄れた意識は消滅し――衛士がその次の試練を確認することは、その世界では決して無かった。
落下する夢から醒めないと永遠に目を覚ますことは無い、といった迷信がある。衛士はよくそんな夢を見て飛び起きた朝は、自身の生に歓喜していた。
しかし彼が目を覚ました早朝にはそんな喜びは存在せず、ひたすらな嫌悪感だけが胸に渦巻いていた。
部屋の中はまだ暗く、宵闇の中から聞こえる雨音だけが耳に心地よい。されどそこから流れる冷気は衛士から体温を奪い、衛士は気怠げに身体を起こして、寝台から落ちている掛け布団へと手を伸ばした。
大きく欠伸をして、枕元の携帯電話に何気なく手を伸ばす。
その直後に携帯電話は着信音を掻き鳴らした。衛士はソレに驚きながらも、特に何を考えるわけでもなく開き、通話ボタンを押して耳に当てる。
『おはようございます』
――透き通るような女性の声が、頭の中に染み渡る。今起きたばかりと言う事もあってまともな返答も出来ず、あうあうと口をパクパクさせる事しか出来なかった。
しかし電話の相手はそれも構わず言葉を続ける。一方的に時刻を告げる時報を思わせる淡々とした口調であった。
『只今からお伺いいたしますので、心の準備を致して待っていてください』
それだけを告げる相手は、一方的に通話を終わらせる。
ぷつりと切れると、呆気にとられる暇も無く、次の瞬間――照明が部屋の中を照らし、部屋の真ん中、衛士に向いて立ち尽くす一人の女性が現れた。
透き通るような金髪は肩より少し下程度の長さに止まっていて、薄く微笑まれる目は優しさと同時に厳しささえも携えているようだった。
――ズキリと、頭の芯が鈍く痛む気がした。
何かを言わなければならないような気がした。怒らなければ、悲しまなければならないような気がした。
しかし全ての感情は通り過ぎて、心は不思議と落ち着いている。まるで全てを悟っているかのようだった。
衛士はそれでも、これから何が起こるのか分からない。頭の中は冷め切っているはずなのに、心臓はまるで初めての事のように緊張して鼓動を早くした。否、その実初めてのことなのだから仕方も無いだろうと、衛士は頷き、彼女の眼を見据える。
ミシェルは微笑んで、何も言わずにそっと衛士の寝台に腰掛けた。彼はその真ん中で横になっている身体を起こしているだけの状態である。彼女は身体を軽く捻るようにして彼へと顔を向けると、陰のある笑顔を見せた。
「早朝から申し訳御座いません」
彼女はそれから寝台の上によじ登ると、無表情で見つめる彼の額へそっと手を伸ばした。
柔らかな女性の手のひらが優しく触れる。ほのかな冷たさがほてる顔を冷ますようだった。
豊満な胸は重力によって下に引っ張られて強調される。四つんばいになるその身体は色気をかもし出していた。
「やはり、風邪を引かれているようですね……。少し熱があります。こればかりは私の手には負えません」
「何の用なんです? それだけを言いに?」
彼女は風邪だと言うが、衛士にはその自覚は無い。倦怠感も無いし吐き気も無い、視界は常に正常だし、熱といってもこれが平熱だと彼は言いはった。
ミシェルはそんな彼にクスリと口元に手をあて笑うと、衛士もつられるように表情を緩める。
平和な時間が流れ始めていた。
「貴方が頑張っているのに、私が泣き言を言える訳もありませんよね……。実は、貴方はこれから五つの試練を――」
彼女の説明は、どこかで聞いた覚えがあった。初めて買った本なのに次が容易に想像できて、まるで読んだことがあるように予測できるようなほど鮮明に覚えていた。台詞は違うものの、大まかな内容は変わらず、衛士はただ素直に頷いた。
時間が過ぎるのと一緒に忘れていたものが蘇るようだった。
彼女の頬が上気するように朱に染まるのが分かる。
衛士は確実に、自身が居間で気絶してしまった頃よりも大きく自分が変化していることに気付いていた。
しかし具体的に何がどう変わっているのかは分からない。だが、つい先日まで、誰かが傷つくのを目の前で見て、さらに自身が死んだ要因となったといっても過言ではない彼女のことを、許しているのだ。
もう責められない気がする。否、もう彼女のせいには確実に出来なかった。
――なぜそう思うのかはわからない。だがそれによって考え直すと確かにそうなのだ。
彼女は確かにいくつかの危機を操作して現実に反映させる力を持っているのかもしれない。だが実際にそれをどうするか、乗り越えるか避けるかをするのは自分自身であるのだ。
言ってみれば、自分の無力を棚に上げて怒りしているようなものだった。どれも、砂時計をうまく使って未来を体感すれば、無傷のまま、心安らかなまま解決できたものばかりだったから。
「今日は、何回目なんです?」
深層下の意識が衛士の油断を縫って言葉を口にする。そんな台詞に彼女は驚いたように笑みを引かせてから、少し言いよどんで身を引いた。
――早乙女美琉の父親との対面直後に気を失った衛士は、それから一時間経った頃に目を覚ました。テーブルに伏せる、といった体勢に無理があった故に長い時間睡眠にふけるというのは不可能だったようであった。
彼はその後入浴をし、美琉のふてぶてしい父親からの電話を経て眠りに付いた。
それまでの記憶は、衛士の中には確かに存在していた。しかしその後はない。つまり、薄々は理解していても、現在から先の、未来の記憶は掴めていない。見た夢を忘れてしまうような、脆い記憶は時間が経つごとにしっかりと消滅していった。
――幾度とも無くあった不毛なやり取りは、今回に限って行われない。
それに驚くミシェルは胸の奥底に複雑に広がる感情を押さえ込んで、目頭が熱くなるのを、鼻の奥にツンとした痛みが広がるのを覚えながら、そっと顔を上げた。
自分の顔は今情けなく感情を表していないだろうか。無意味に彼の心を揺さぶってはいないだろうか。
彼女は考えながら、その場に正座になって衛士の、少年から青年へと移り変わる精悍な男の顔を見据えながら口を開いた。
「少なくとも、自力で時間回帰を理解し、そこに自分の記憶を乗せる事が出来る程は繰り返しました」
――ミシェルとの会話を重ねるたびに、一つ記憶が蘇る。と、幼い風貌には似つかわしい強靭な拳を放つ葉山に穿たれた腹部の痛みを思い出した。
焦燥に似た何かが心を急かす。何か言わなければならない気がしたのに、その言葉を頭の隅で思い浮かべたはずなのに――喉から言葉は出ず、不器用に口を開けたまま、眉をしかめたまま衛士は彼女を見つめることしか出来なかった。
「私は、予想以上に貴方に過酷を強いているのかもしれません」
「……いえ、もう分かりましたよ」
彼女はわざとこういった態度をとって衛士の気を引き、全ての負の感情を消している。そう考えれば話は早く簡単であろう。だがとても彼には、そう単純な見方は出来なかった。
砂時計一つで五分間もの時を戻せる代物を与え、さらに容易に幾度も時間を巻き戻せる。異常な事だ。言葉だけでは到底現実のものとは思えないほど。
だから衛士はそれを使ってからようやく理解したのだ。今回とて、砂時計のものとそう大きく違ったわけでもない。時間が巻き戻る要因としては免許証の時間制限が関係していることは確実であり、その数値が砂時計の砂の代わりになっていることは明らかだった。
そんな能力ないし技術を、個人だけが有していてさらに衛士だけに分け与える筈も無い。
故に、その背後関係を想像するのは殆ど自然な事だった。
もしかすると、そんな事を考える事さえも予想してそういった風に立ち回り、そうった言動に出ているのかもしれない。しかし、そこまで考えてしまえばキリがないのだ。
だから衛士は自分が信じたいミシェルだけを信じた。自分がやるべきことだけを見据えるようになっていた。
「思い出しましたよ。オレは、三つ目の試練まではこなしました。十の善行。迅速に頬への打撃を受けること。砂時計を使用して他人の危機を五回救う……。どれも大変でしたね。試練、というには大袈裟かもしれませんが」
それでも全てを一日の内にこなしたのは、衛士自身誉めて然るべきであった。最後の最後で意識が朦朧とし、四つ目の試練を確認する事無く気を失って時間制限が来てしまったのは悔やむべきことであったが。
徐々に記憶が鮮明になってくる。ソレに伴うように心が澄むようにして完全な冷静さを形成していくのが手に取るようにわかった。
「私には、試練の内容を決める権利はありません……」
「もう覚悟は出来ました。何よりも、今の時点で記憶を引き継げるのはとても大きいです。ははっ、ミシェルさんの胸よりも」
暗くなりつつある空間を、重くなりつつある雰囲気を吹き払うように冗談交じりに笑ってみると、途端に彼女は顔全体を朱色に染め上げた。それから身体を抱くようにして胸を隠してから、くすりと朗らかに笑う。
空間は平穏にもどりつつあった。
衛士は大きく伸びをしてから立ち上がり、ひょいと寝台から飛び降りる。風邪は未だ肉体を侵食せず、健康体のままだった。
「エイジさん……私は――」
「いや、いいですよ。何も言わなくて。だって、オレと一緒で知らないんでしょ? どんな試練が来るか。オレと違うのは記憶と肉体を時間回帰に飲み込まれないように出来ることだけで。あと時間操作かな」
「私は貴方という人を、甘く見すぎていたのかも……しれません。今私が見るトキ・エイジさんは、とても強くなっています」
「自分の危機に対して本気になっただけですよ。そう。だからコレからが本番だって事」
「私はただの傍観者で、貴方を支えることは出来ません。でも――」
「いえ、もう十分なほど支えてもらってますよ。ミシェルさんが居るってだけで、オレは凄く心強いですから」
そして、気のせいであれば衛士は酷く恥ずかしい思いをするのだが――ほのかな好意を感じていた。
本当に衛士の事をなんとも思わずに傍観者の立場を貫くのならば、明かにどうみても個人的な会話であるコレは慎むはずである。
さらに会話の中で確信を得た背後関係。何と繋がっているか分からないが、すくなくともそれが存在することは理解できた。そして彼女と衛士が接触していることは無論それらも承知のことで、衛士の行動一つで彼女の生命が左右されてもおかしくは無いはずだ。
幾らなんでも、時間を操作する、出来るという情報が、その砂時計の存在が軽いわけが無いのだから。
何か、目的を持って衛士を計っている、ないし育成しているのだ。
ミシェルはその駒に過ぎず、衛士も選ばれた駒でしかない。
だから――。
「今は甘んじる」
だけど。
「宇宙人だか神様だか、オレには分からないけどな……気に喰わないんだよな」
もう決めたのだ。
与えられたものは全て受け取る。だからソレに見合ったほど強くなるのだ。
強くなって、もうミシェルに心配を掛けぬほどに立派になる。周囲で困っている人間も、砂時計なぞを使わなくても済むようになるほど強くなる。
そして、その末に――。
衛士は心に刻む言葉を飲み込み、息を吐く。
これでもうやることは決めた。次は行動に移すのみである。
――今まで記憶を持ち越せなかったから何も出来ずに風邪が悪化した。だからせめて軽減させるために、衛士はせめて薬でも服用してから眠ろうと考える。
そう思考した直後に、薄手のシャツ越しに伝わる体温が、背に触れる悶えたくなるほどの柔らかさが押し付けられた。吐息が首筋に掛かり、両腕を封じるように回される手は胸の辺りで交差した。
甘い香りがする。
頭の芯が熱を帯びる。
心臓が高鳴るのと同時に、全身から力が抜けるのを感じた。残るのは、辛うじて立っていられる程度の力である。
「ミシェル、さん?」
「エイジさん……少し私に、時間をください。このまま、もう少しだけ……」
彼女なら衛士から時間を与えられなくても、また過ぎた分だけ巻き戻せば済む。だが彼女はそれを望まず、衛士の時間を欲した。ミシェルは、彼とこうしたという時間を無かったことにしたくなかったのだ。
暗に、次は失敗するなと言っている様でもあった。どちらにせよもう一度この時間を繰り返すのは、両者にとって酷なことだった。同じ時間を何度も繰り返した彼らだからこそ、次が無い事を望んでいた。
まだ見ぬ未来を、二人は欲したのだ。
――徐々に世界は光に満ち始める。
鈍い灰色の空が明るむ頃、衛士は寝台に残る温もりを抱きしめる。彼女が居なくなってからその残渣に抱きしめ返すのは酷く滑稽であったが、それでさえも衛士の精一杯であった。
何度も繰り返したあの朝が、試練が始まるこの朝が、幾度目かの始りを見せた。