三日目
アルバイト。それは主に一定期間の定めのある契約に基づいて雇用される従業員の事を指すものであり、短期間であったり低賃金であったりする場合が多い。若者や学生が多いと言う見方が殆どだったが、最近では高齢者も少なくは無く、また社員程の仕事量をこなす事を命ぜられたりなど、アルバイトと言う立場を体よく利用されたりする場合も、決して多いとは言いがたいが、少なくもない。
衛士は一年近く同じホームセンターにアルバイトとして在席しているが、時給は八五○円から上がって九○○円であり、人間関係も良好という高待遇にあった。
「エーちゃんは今日フルなの?」
社員が朝礼を執り行う中で問うのは、傍らに居る『内田』であった。短く刈り込まれた髪は彼に清潔感を見せ、顎に生える無精髭は大人っぽさを演出する。半袖の白いポロシャツに地味目のジーンズはこの店の征服のようなものであり、その上からは濃い緑色の店名が入るエプロンを装備する。
「まぁ、いつも通りの日曜日ですよ」
大学三年、二一歳。教師になる為に毎日勉学に励む立派な男だと、衛士は失礼ながらと評価していた。
「マジかぁ。俺はもう八時までで限界だよ」
「いや、でも結構九時過ぎると客とか殆ど来ませんよ? その代わりこっちも人が居ないからすげぇ暇ですけど」
開店時間は午前九時で、閉店時間は午後○時。衛士は高校生という立場なので仕事は強制的に午後一○時に切り上げられ返される。シフトによって時間は不確かだが、大体は午後五時、七時にそれぞれ三○分の休憩が入り、午後一時から一時間の昼休憩。その計算をすれば、衛士が働く時間は十一時間なのだが、彼の体感するのは一日以上であった。
何故彼がそこまで働くのか、衛士にはもう分からない。気がついたら仕事に慣れていて、別段それが苦でもないしお金が入るし暇な時間も潰れるしで、辞める理由も労働時間を減らす原因も、今のところはないだけなのだ。
貯金は既におよそ高校生が持つに相応しくない金額まで上っているのは、発作的に起こる物欲の暴走の定期に感覚がありすぎるからであろう。また、趣味でなかったりつまらなかったりする漫画、ゲームなどは直ぐ売り払ってしまう彼の、少しばかり綺麗好きな性格にも原因がありそうだった。
「トキ君、悪いけど今日資材に行ってくれない? 村田さんが風邪で休んじゃったから」
――朝礼が終わり、衛士は店に入って直ぐの所に八つ並んで存在する、一般に”中央”と呼ばれるレジへと移動を開始したところで、ふくよかな肢体を持つ中年女性が声を掛けた。パートのおばさんであり、長い事この職場に居るお陰で皆から慕われる人である。
「あ、はい。わかりました」
「今日はそこの担当の社員さんも病欠だから頑張ってね」
「うわ、マジですか?」
「困ったら内線の二○番にかければいいから」
彼女の後に付きながら話を聞いて、やがてサービスカウンターまでやってくると、振り向き、手に黒い円形のスポンジと雑巾とを手渡された。
――店内は様々なジャンルの商品が陳列していて、その種類ごとにしっかりと分別されている。天井から吊るされる色つきの看板によってどこに何があるか説明され、基本的には迷うことはない。
また専門的な、例えば鉄板や多種類の釘、金槌や丸鋸などの工具はその数が多い為に”ツールコーナー”という場所が店内の一角に設けられレジが一つ据え置かれる。木材や板、トタンやU字工、レンガやブロックなどを置く”資材館”や、日当たり等が理由で外に展開される、植木や季節に応じた植物、土などを置く”資材館”、自転車関係を置く”サイクルコーナー”等が個別に分けられている。
その中でも資材館は特に暇であるものの、お客による専門的知識を要する質問が多く、しばしば衛士は困らされていた。しかし日中は品出しに来ているシルバーさんが居るので、大変だというものでもなかった。
「内田君は品出しね。詳しくはバックの社員さんに聞いて」
「うっへぇ、わかりましたー」
肩を下げて腕を垂らし、内田は背を向けてそそくさとバックヤードへ向かう。衛士も急ぎ足で屋外売場と壁に貼り付けてある下の自動ドアを通り抜け、資材館へと出て行った。
外へと抜けると、トタンで店と外とを隔てる高い壁が見えた。見上げると高い位置に天井があり、そこに吊るされる蛍光灯は停電と閉店にならないかぎり煌々と光を放ち続ける。
左手側には背の高い棚が並び、右手側にはセメントの袋や肥料などがパレットに乗ってドア側の壁からやや離れて陳列される。そしてその壁には棚が接着し、排水関連の品物、例えば塩化ビニル管などが並んでいる。
それらを眺めながら英詩はパレットの脇を通り、やがて正面の、許可内侵入を拒むケージが閉まっているのが目の前に迫る。まずはここの鍵を開け、解放するのが最初の仕事なのだが……。
「ん?」
ケージの正面の一部がいやに暗い。まるでそこに何かが置かれているような感じであって、どうせ誰かがパレットを其処に放置したのだろうと簡単に考えてみたのだが、同時に覚える奇妙な視線のような……注目を受けて肌に覚える緊張に、理由が付かなかった。
考えすぎだろうと言えば済む話は嫌いである。だから衛士は、じっと網目の細かいケージを睨んでいると――目が合った。誰かの視線と交差したのだ。
「っ!?」
青藍色の目がジッと揺らがず反らさず衛士の瞳を捉えていた。
陰は揺らがず、息を潜めているのか呼吸音がしない。ただひたすらに、存在感だけが膨張していくだけだった。
心臓が跳ね上がる。足に根が生えたように動けない。まるで金縛りにあっているようだった。
恐怖が湧き上がり、直ぐにでも逃げ出したかった。しかし実際は、悲鳴すら上げることもままならない。衛士はその瞳の呪縛に飲み込まれていた。
「――ん」
囁くような声が聞こえる。
「ん……さん」
声は次第に大きくなり始め、
「ト……さん……トキ、さん」
聞き覚えのある声は、見覚えのある瞳は、彼の全身と精神を絶大な圧迫感で押し潰し捻じ切りながら何度も何度も彼の名前を口にし続ける。
「トキ・エイジさん」
はっきりと頭の中に響く声。衛士は恐怖し、気がつくとその場に腰を抜かしてへたり込んでいた。
「私です、ミルです、早乙女美琉」
言葉が響く。透き通るような澄んだ声音だった。上品な発音は、とても同じ日本語だとは思えないような美しさがあった。声に艶やかさがあって、到底同年代の少女とは信じ難かった。
しかし頭は正常に作動せず、与えられる全ての情報を頭の中に取り込むもまともに処理しきれずに、早乙女が誰であるかを理解できているものの何故この場所に居るのかという疑問が湧かず、何かを不思議に思わなければいけないという事ばかりが空転した。
「な、なんでここに!?」
彼がまともに口を利いたのは、それから十数秒後のことだった。
「来ちゃいました。分かりませんでした?」
分かったからこそ怖かった。それが知り合いであるならば尚更のことである。
衛士はその気になれば震度二弱は起こせるのではないかと言うほど全身を小刻みに震わせて、未だに尻をコンクリートの地面に押し付けたままだった。頭は冷静になればなるほど状況が奇妙だと納得し始めて、ただ早朝から衛士のアルバイト先に押しかけただけである早乙女に対して、異常性があるというレッテルを瞬間接着剤で貼り付けた。
彼女の昨日の行動を考えれば、あとをつけたからこそこの場所が判明し、衛士の背を追った故にこの時間帯であることは容易に想像が付く。だが唐突過ぎるその行動は、ケージ越しの悪戯っぽいその笑みは、崖の淵に立つ衛士の肩を無表情で突き飛ばすような、鋭利な刃物に似た恐怖を突きつけていた。
「私はお客さんですよ? ここ開けてくださいよー。ねぇ!」
両手でケージを掴み揺らす。金属の擦れる些細な音が徐々に大きくなって、やがてガチャガチャと鍵の掛かったドアを無理矢理に引っ張るような騒がしさになる。衛士は慌てて、互いを引っ掛けるだけの鍵を開けて、それらを左右に押し広げた。
――綺麗に巻いていた金髪は、いまや毛先にウェーブを作るだけのような髪形になっている。ロールを作らぬ髪は解放され、伸ばしたままである故にそれらは腰までの長さまでになっているのは素直に綺麗だなと衛士は受け取れたのだが、据わっている瞳が、恐怖を蘇らせた。
一度ネガティブな思考に陥ると、見るもの全てがネガティブに受け取れてしまう。今の衛士は半ばそんな状態であった。
「もう無理ですからね、私」
不意に彼女は口にする。笑顔のまま、小動物的に首を傾げたまま、衛士の反応を待たずに矢継ぎ早に唇は言葉を紡ぎ続ける。
「家、出てきましたから。あの家庭では自由だけが手に入らないから」
「は? ちょ、待って、意味が分からない。そりゃ君は家を出なきゃここには来れないだろうさ。ここは君ん家じゃないからね」
「いつかは和解するでしょうね。私ですから。大人ですから。でも今はまだ子どもです。常識的に我がままに生きて良いんです。でしょう?」
「違うな。そりゃ可笑しいぜ、現実を見なきゃ。オレの所に来るって事が、間違ってる。出会って二日目、そうだろ? 出会った日を入れなきゃな」
「私と貴方は友達でしょう?」
「下僕、じゃなかったか」
混乱する衛士と、既に取り乱しているのかそれが素なのか分からない美琉との会話は半ば支離滅裂で滅茶苦茶だった。成立しているのかすら分からないその応酬は、それでも回数を重ねるごとに落ち着き始めている。
やがて、確かなゼロだった知性は、湧き上がるように現れ始めていた。
――衛士は彼女の顔を見て、言葉を聞いて、大きく一つ深呼吸をして。ようやくそこで心が落ち着いた。頭は冷え切って、彼女の目元のクマと乱れた髪に気がついた。
早乙女が狂っているのではない。情緒不安定なだけなのだ。そして彼女の心を乱すような何かが、ここに来る以前にあった。
いつかは和解しようとする大人の面を持っているが、今はまだ我がままが言える子どものままで居させて欲しい。彼女はそう言ったのだ。衛士は台詞を噛み砕き、徐々にそれらを再認識し始める。
「オレのところに、家出して来たって事?」
「はい」
「女友達は?」
「居ます」
「……じゃなくて。女友達の所になんで行かないのかっての」
レジ小屋の中は十畳ほどの広さである。前と後ろに入り口があり、後ろはお客様専用の入り口だ。中にはレンタル用の工具が並び、レジの手前に受付の長机が置かれる。衛士は彼女をそこに座らせ話を聞くことにしたのだ。
背負っていたバッグを机に置いて、衛士から手渡されたティッシュで鼻をかんで、彼女はようやく落ち着いたようだった。ここで何か暖かいものでも出せれば良いのだろうが、生憎近くには自販機も無く、この場を離れるわけにもいかなかった。
――なんでこんな事になってしまったのだろうか。
両者は心の中で呟いてから、尋問もどきを続行する。
「心配を掛けたくないのです」
暗に、衛士には心配して欲しいという意味の台詞であったのだが、彼はただ、迷惑なら良いのか、とだけ悪態を付いた。無論、心の声で。
「というか、どの道オレが君に宿泊許可を出したとしても、両親がどう思うかだな。他人の男と女が一つ屋根の下だなんてのは……」
許すだろう。
あの二人は殊彼女に関しては酷く浮かれている。昨日帰宅した際に”結婚”という言葉が耳に飛び込んできたときは、余りの突飛加減に居間へと突撃した程であった。
「お、お金なら……」
「それは君が嫌になって飛び出した親の金だろ? 使うのか?」
「私が所持している時点でこれは私のモノです」
「親が与えなければ存在しないはずだ」
「微生物が居なければ私達はここに居ませんよね?」
「つべこべつべこべと!」
膨れっ面でそっぽを向いて答える彼女に、我慢ならず衛士は怒鳴りつける。彼女は怯えたように肩を弾ませると、今度は萎縮して顔を俯かせた。
反省はしているようであるが、彼女はどうやら世の中をチョロく見ているらしい。
彼は短い嘆息の後、まぁこれも互いに勉強になるだろうと半ば諦観気味に呟いて、分かったと、ただひと言を彼女に浴びせた。
すると途端に、満面の笑みで彼女は衛士へと顔を上げる。そんな嬉しそうな表情は、散歩に連れて行くためにリードに手を掛けた時の犬のようだった。
――確かに身長は衛士より少し低い程度であり、他と比べて幼さはまだ残るものの、だが子供っぽいと言うわけではない。中学生に見えるだけなのだ。だから純粋そうに見えるのだ。だから稀に吐き出される毒と本性に、呆気を取られ精神に毒きりを吐きつけられたような気分になってしまうのだ。
「はい! とだけ言っていれば良いんです」
「あいよ」
「はい、と!」
「はいはい」
「もう!」
彼女は頬を膨らませてまたそっぽを向いた。彼女の様子を見るに、恐らくまともな食事をとっておらず、故に空腹で怒りっぽいのだろう。
素直な同情を胸に抱いて、昨日とは打って変わった彼女の安定しない反応に少しばかり心穏やかにされて微笑を携えた。
――皆がこうであれば、オレは幸せなのだ。
誰にとも無く衛士は理想を心中呟いてから、これからを彼女に説明する。
「悪いがケータイはロッカーなんだ。連絡を取るのは一三時だから……あと三時間後。自力で帰るのなら別にそれで良いけど、どうする?」
ここから歩いて衛士の家に向かえば大体一時間以内に到着するだろう。駅から自転車で十分のここであり、駅から徒歩十五分の自宅である。いくら疲弊する彼女の足でも、そう時間が掛かるはずも無かった。
しかし彼女は、もう歩くのは嫌ですと首を振る。結局帰りは親が迎えに来ない限り歩きであることも知らずに、哀れなものだと衛士は衝動に駆られて頭を撫でた。
撫でてしまった。
「っ!?」
彼女は肩を弾ませる。激しく弾んだその全身は同時に背後へと引かれ、背もたれに全体重を乗せられた椅子は傾き、重心は移動して――大きな音を立てて彼女は盛大に後ろへと倒れ込んだ。
椅子が倒れる軽い音。その音が上に乗る物体によって歪むように籠って鈍い音に変わる。肘置きがあるせいで美琉はまともな動きも出来ずに身を任せ、
「いたい……」
涙目になって全身の痛みを訴える彼女は、股を広げてスカートの中を見せびらかしていた。
太腿は太っているというのではなく、程よく肉が乗っていた。細すぎず、だが太すぎはしないその足は黒いオーバーニーソックスによって包まれていて、艶やかに、それでいて素直に伸びていた。桃色のシルクのショーツは様々な部分に食い込み……。
「おい、大丈夫か?」
服は身体のラインを見せるように張り付いている。寂しさを持つ胸元は相変わらずであるが、その細い線によって目立つ下半身が、彼女に今まで無かった女性らしさというものを出現させていた。
机の脇を抜けて彼女の傍に立つと、体勢を整える術を持たぬのか、彼女は自身がどんな恥辱に晒されているのか知りつつもそれを防げぬどうしようもない羞恥によって顔を朱色に染めあげていた。両手は天井に向けて手探るように動くが、何かを捕らえる気配は一向に無い。目的の無い、無意味な行動だった。
「た、助けなさいよ! 早く! 早く!」
「早乙女さんのえっち人」
「ち、ちが、違うから! 違うのよぉ! 貴方のせい!」
「ったく、ほらよ……っと」
彼女の頭にまで回りこむと、衛士はそのまま屈み背もたれの上を両手で掴む。それを軽く引いて手のひらでしっかりと掴むと、腰に力を入れてソレを起こして見るが――思ったよりもすんなり起き上がるソレは、どうやら其処に座り込む早乙女が予想以上に軽いかららしかった。
確かに、肉の付く場所は太腿や尻だけであり、他の部分はガリガリとは行かないが、少なくとも華奢ではあった。
胸はともかく、もう少し肉をつけなければ……と衛士は彼女に、健康的な面での心配を抱く。だが彼女はそんな事も素知らぬ風で、やがて椅子から立ち上がると顔をトマトのように真赤にしたまま衛士へと向き直った。
「変態!」
「ひどいな」
「変態!」
「助けたじゃないか」
「えっち人!」
「何を言ってんだお前」
ハイネックセーターに、チェックのボックススカートという格好である彼女は、いつもとは違う、普通の人のような服装であるという事に衛士ははたと気がついた。
いや、そもそもこの地で今までの人生を過ごしてきたのだから、そうであってもなんらおかしくは無いはずだ。聞く限りでは箱入り、という可能性は捨てきれないが、同じ学園に通っているという時点で一般常識は無いはずが無い。彼女は典型的なお嬢様と言うわけではないのだ。
「ったく。私が男性だったらどれほど良かったことか」
「君にそんな妄想が出来たなんて驚きだな」
「男性なら今よりはもっとこう、違ったでしょうね。良い意味で。貴方とも、もっとまともに親しくなれたかもしれません」
「いや、オレじゃなくて異性と親しくなろうよ。性別逆転したんだから」
まともに親しくなりたかったという台詞に、衛士は思わず胸を高鳴らせる。ふと口をついたような言葉だったが、だからこそ本心を思わせるようなものに思えたのだ。
それから、彼女の儚げな姿が目に入って、それが背を押したのだろう。気がつくと衛士の頬は上気したように桜色に染まっていて、顔が熱くなるのを覚えた。
美琉は衛士の赤面に気付くとその顔を滑稽だと口元を押さえてクスクス笑う。彼女らしい笑みの零し方であったから、それがショックだとかムカつくだとかの感情の変異は無く――本性だのなんだの考えては見たが、彼女の本当の所がこの性格で、毒を吐いたり凄んだりの上から目線の時が、自分で作った擬似人格なのではないかと思えてくる。
そう思わなければ、この素直な反応に理由が付けられないような気がした。
「おい兄ちゃん、会計頼む」
「あ、はい。すぐに!」
そんな事に思惟を耽らせていると不意に男の声が背から掛かった。振り向くとレジの台の上に幾つも重ねられた米袋が置かれていて、衛士は慌ててスキャナを手にして客の下へと急いだ。気が付くとその背後に二人ほど客が並んでいて、衛士は心の中で苦渋を漏らしながらも造りモノの笑顔でそれらに対処をしていったのだった。
はむはむと人の弁当を貪りやがる早乙女美琉は器用に、というか当たり前に箸を使って食事を進めていた。ナイフとフォークは無いのですか? と聞かれたらどうしようかと要らぬ心配は杞憂に終わって、割り箸を渡した際に、後一本は? などと問われなかったのは彼女に一般的常識と教養があるお陰だった。
彼女に自身の昼食を渡したが故に食べるものが無くなった衛士は、近くのコンビニにパンでも買いに行こうかと席を立つと、彼女は其処で漸く衛士の弁当を譲り受けたのだと理解して、蓋を開けたところで涙目になってつき返してきた。
結果としては蓋にご飯と惣菜を半分に分けるという妥協案が展開されたのだが……。
「エーちゃん、ちょっと……」
バックヤードの休憩室の中には、さらに奥へと続く扉が三つある。一つは男子更衣室であり、一つは女子更衣室、もう一つは喫煙室だ。衛士はその場に入ってきて二分ほど呆然としていた内田に更衣室へと呼び込まれ、鍵も掛からぬ狭いそこへ侵入すると、内田は周到に扉を背にして衛士を睨んだ。
美琉はただわけも分からぬ顔でそれらを眺めた後、背後の長机を独占するパートのおばさん連中に、その外見と人当たりのよさ故に祝福を受けたのだった。
「どーゆーコト?」
「どういうことでしょう?」
正直な所衛士にも成り行きで、としか言い様が無かった。だが周囲には”妹”であると触れ回ったので特に突っ込んだことは聞かれず、彼女もそう言ったコトで説明している。なぜここに居るのかと言うと、調子に乗って付いてきたら迷子になってしまったという理由である。
「妹? あの日本人離れした美貌で?」
内田は頭を抱えて溜息をつくと、まぁ妹ならいいや、と首を振った。
「あと少ししたら親が迎えに来るんで……」
「ともかく、エーちゃんの彼女とかじゃないんだな? 分かった」
それから、頭の中で整理整頓されたのか、表情は明るく戻り、口元には薄っすらと笑みを浮かべていた。彼は呆然とする衛士をその場に置いたままで更衣室を後にすると、そのまま正面の、先ほどまで衛士が腰を落としていた衛士の席に座り込んだ。
早乙女は驚いたように食事の手を止め、硬直する。内田は朗らかに口を開いた。
「結婚とか好きですか?」
彼女はその発言によって、何かを納得したように微笑み、首を傾げた。内田はそれによって勝利を確信する。
「はい、馬鹿とじゃなければ」
「ありがとうトキ妹! 幸せにするよ!」
「……オニーチャン、この人何とかしてください」
不快感を催したとジッと視線で衛士に伝える彼女に、彼は嘆息して内田を引き剥がす。それに合わせて、パートのおばさんからの援軍も加わって――結果的に、内田は休憩室の隅っこでひっそりと食事をとることになったのだが、衛士はそれに心の底から申し訳ないと謝罪した。
「……先輩、この状況はなんスか?」
遅れてやってくるのはつい半月前に雇用された池田である。歳は衛士の一つ下で高校一年生。通う学校は違うものの、歳が近いと言う事で比較的仲が良い。彼は近くのコンビニにお昼を買いに行っていたのか既にエプロンはつけておらず、上からシャツを羽織るように着て、手に買い物袋を持って衛士の隣に腰を落とした。
衛士は深い溜息を着きながら、事のあらましを説明してやることにした。
内田のいつものような残念さを中心に聞かせてやると、池田は深い溜息を付きながらペットボトルの蓋を捻って開ける。噴出すような音を鳴らしてから彼は感想を述べた。
「いや、妹なら尚更だめでしょうよ。可愛かったら尚更内田さんに任せられませんよ」
「池田、聞こえるから」
「いや、聞こえるって言うか……僕がここに座ってからずっとコッチ見てますよ」
促されるように右側の、縦に並ぶ長机に対して横になって離れた位置に置かれる其処の端に座る内田へ顔を向けると、彼は諦めきれないのか、衛士の正面の美琉を凝視していた。
彼女は怯えるようにして池田と衛士の脇に逃げ込むと、彼は短く息を吐いて、彼女と席を交換してやった。
少し長めの黒髪は軽く目に掛かる程度で、顔立ちはすっきりした歳相応のものである。どこにでも居るような男子高校生である彼は、それでも衛士と話が合うために直ぐに打ち解けたものだった。
趣味はロボットアニメの鑑賞。対して衛士は特に趣味といったものは無く、強いて言えばよく本を読む程度だった。
「でも独り身の内田さんが居るのを分かってて、こんな可愛い妹さんを、理由があれどここに連れて来るのは少し軽率だと思いますよ? 胸の中に後悔の念を過ぎらせてください。内田さんが帰宅した後虚しさのせいで塩を掛けられた蛆虫みたいになっちゃいます」
「お前、内田さんに何の恨みがあるんだよ」
彼は品出しのアルバイトだ。だからレジアルバイトとは違って労働時間は比較的短く休憩も時間が合わない場合が多いが、シフトを決める副店長の計らいか、彼とは良く話す時間があった。
彼は、だって、と前に置き、それを皮切りにして愚痴を吐き出した。
「内田さんちょっとでも可愛い女性客見つけるとすぐ話掛けるんですもん。その代わりに仕事が増えて、今尻拭い中です」
「お、俺だってちゃんと働いてたわ!」
「洗剤一パレットしか出してないじゃないですか。予定では午前の時点でトイレットペーパーとティッシュは終わってるんですよ」
「社員さんは?」
「忙しそうでした」
ならばもう彼を止められる人間は居ないだろう。しかしレジ打ちであれば元気良く声を出して来る客全てに好印象だけを残していく好青年の内田が、品出しになるとそれほどまでに府抜けるとは衛士にも意外であった。
いつもは仕事が出来る印象で、やはり立派に見えたのだ。それでいてとっつきやすく話しやすい。ステキな人だった。今や過去形で語られる時の人である。
「今日は人が少ないの?」
クスクスと押し殺すように笑っていた美琉は話の流れから察してそう聞いた。衛士は控えめに口を開く彼女を意外に思いながらも身体ごと向き直って頷いた。
「あぁ。元々は必要な人数しかシフトに入れないから、病欠だとかでその日に突然休まれると応援が間に合わなくって、今居る分で調節しなくちゃならないからな」
だから休むのならば最低でも一週間前に報告するのが原則であり、マナーである。衛士はそれを伝えると、彼のシフトをいつ盗み見たのか彼女は衛士の労働時間を気にして、体調を気遣うように肩をさすった。
「今日だけでも十一時間働くのでしょう?」
「ま、帰っても勉強するわけじゃないし、読む本もするゲームも無いから暇だしな」
「ふふ、明日のテスト結果が楽しみですわ」
たった三日のことであるが、衛士は彼女との仲を随分と縮めたような気がしていた。
初対面では完全に他人行儀であり、押しかけた際は衛士の方が警戒心を全開に広げていて、気がつけば時間が過ぎていた。そして今日、なにやら深い事情があってアルバイト先に押しかけてきた彼女は衛士を頼っているようで、彼はそれがきっかけで彼女を見直したのだ。割とまともそうだ、と。
少なくとも両者とも好意的であり、このまま良い友達になれればいいなと考えていた。
そして同時に、二人の関係はこの時点では順調である。その認識は正しいのだが、兄妹として理解している周囲には、その距離の開いている会話は奇妙なモノに見えていたのだ。
一番最初に、池田が噴出すようにして笑った。
「ははっ、まるで兄妹じゃないみたいな会話ですね」
「え!? あ、あ……まぁ、な。オレとは違って育ちが良いんだ」
「エーちゃん焦ってんねー」
「焦ってないデスよ。理由がないっす」
じんわりと汗は額から滲み出る。乾いた笑いでソレを華麗に受け流していると、机の上に置いた携帯が振動して着信を知らせた。サブディスプレイには”母”の一文字が表示されていた。
「――んじゃエイジさん、お先に失礼します」
「エーちゃんおっつー」
「お疲れさまでーす」
午後の二度目の休憩が終わりかかる二○時。私服に着替え直した池田と内田が、一人で炭酸飲料をあおる衛士に挨拶をしてから休憩室を後にする。彼が帰宅できるのは二時間後のことであり、最も客の数が減る時間帯であった。
いつもは八レジまでフル回転する中央レジも、この時間帯になると二レジまでしか解放されない。サービスカウンターにはパートのおばさんの姿は無く、居るのは夜勤の社員さんである。だから、アルバイトの数もこの大型ホームセンターだというのに十人に満たず、暇な時間を持て余すようにして、彼は誰も居ない休憩室の電気を消して、店内へと向かった。
「――おはようございます」
気怠そうに歩きながらレジへ向かうと、一レジだけが稼動していた。衛士はその後ろのレジを起動させながらテープやらを用意して、今日は初対面らしいバイトへと挨拶をする。全ては気持ちの良い挨拶から始まる、というのが衛士の持論である。
「あ、おはようございます!」
長めのボブカットは茶色に染まる。彼女は振り向きながら元気の良い挨拶を返して微笑んだ。完全に衛士へと向くと、初めましてと頭を下げた。
「今日から入りました、矢継摩耶です。よろしくお願いします!」
「今日から入って一人で一レジですかぁ、頑張ってください。時衛士です。分かんない事あったら遠慮なく聞いてください」
「あー、じゃ早速良いですか?」
彼女は控えめに手を上げると、ちょいちょいと手招きをして自身のレジへ誘った。衛士は笑顔で彼女の下へ赴くと、屈みこんで足元にあるレジロールが縦に詰められる黒い袋から一つを取り出した。
「コレ、どうつけるんですか?」
衛士は手渡されて、彼女は一歩引く。彼は彼女の注目を受けてから、レジの脇にあるレシートが出てくる部分の蓋を開け、白い紙の両脇が赤いラインが塗られる、もう残り少ないといった意味を持つそれを引き出して、受け取ったレジロールを入れ替える。
「この紙の切り口が手前を向くように置くんです」
「はい!」
「それで紙を引っ張って……ちゃんと蓋を閉めます」
力いっぱい叩き付けると、蓋は引き出した紙を挟んで閉まる。衛士はそれから『レシート』と記されるボタンを押して、無用な部分の紙を切り取った。
「これで終わりです」
「なるほど。覚えました」
「はは、まぁ徐々にね。今日はどうせもうお客さんも殆ど来ないだろうし、オレがサッカーに入りますよ」
「さ、サッカーするんですか?」
「はい。忙しいからね。お客さん来たら」
商品のバーコードをスキャナで読み取り金額を口にして、それでいて合計金額を伝えてからカゴを片付け、客がサイフから金を出している間に袋詰めをする。それは始めての作業にしては酷であり、急がなくても良くても心が焦り、心臓に悪いのだ。
衛士は彼女がスポーツの方のサッカーと袋詰め店員のサッカーとを勘違いしているのにも気付かずに、一年前に思いを馳せていた。矢継は困惑しつつも、多分クラブに一生懸命な人なのだ、と誤った認識をした。
「そういえば、トキさんはお幾つで?」
「オレは十六で、高一です」
「えぇっ!? て、てっきり大学生で年上かと……。私は十九歳で、大学一年なんですよ」
「ま、マジすか!? オレはてっきり同年代かと」
くっきりとした大きな瞳が特徴的な女の子である。驚いたように眼を見開くとさらに大きくなって、吸い込まれそうな黒い瞳が衛士を其処に映していた。
元気一筋といった雰囲気をオーラにして噴出する彼女は、年上であるという特権を得たように微笑んだ。その表情には覚えがあり、衛士の脳裏に一瞬姉の顔が過ぎったのは少しばかりショックな出来事である。健気そうな少女とあの姉を比べてしまうのは、衛士の中では不敬罪に値するのだ。
「そういえば、矢継さんてこういったバイトは始めてなんですか?」
「あ、タメ口で大丈夫だ……すよ?」
「はは、それじゃそっちも」
「へへ、ありがとう。うん、バイト自体初めてで。お母さんに、もう大学生なんだからお小遣いぐらいは自分で稼げって。それで時給も八五○円で丁度良いかなぁって」
この近くでアルバイトを探すのならば、確かに時給はその程度がいいところだろう。それにレジアルバイトなら忙しいときは目も回るような程多忙を極めるが、慣れてさえしまえば、忙しい事には変わりはないが疲れ知らずと言っても過言ではない程度におさまる。
彼女の選択は比較的正しいだろう。衛士はそれと共に、暇な時間に良い話し相手を見つけたと微笑んで、客が来るまでの間、軽い談笑へとしゃれ込んだ。
――それ故にゴキゲンに帰宅した。家に着く時刻は二三時前である。夕食はいつも期待できないので帰り道にある定食屋で食事を済ませてからの帰宅であった。
鍵が掛かっているであろう玄関に鍵を差込み開錠。だが手ごたえは無く、扉を開けてみるとそれは音も無く素直に開いた。彼はそれを無用心だと吐き捨てながら鍵を引き抜き、ポケットにしまいこむ。
いくらあの両親でも、一人の娘の事を考えて諭して自宅へ送ってくれたのだろうと期待しながら玄関に入り込むと、そこには見覚えのあるブーツと、見慣れぬ革靴が仲が良さそうに並んでいた。
嫌な予感がする。胸焼けでもしたような不快さが過ぎった。
来客に勘付かれぬように音を立てず上がり、階段へと身を滑らそうとする。その最中で、居間と廊下とを隔てるドアが開き、様子を窺うように顔を出した理恵が彼の姿を捉えてしまった。衛士は身体を硬直させると、彼女はちょっとしてから身を引いた。
「お母さん、エージが帰ってきたよ」
「ここに呼びなさい」
「はーい」
再び開く扉の隙間から、また彼女は顔を出した。なにやら面白そうだと言う様ににやける表情を隠すこともせずに見せ、衛士はそんな彼女に呆れて棒立ちする。だが心の中に広がる嫌な予感が払拭できるわけではなかった。
「だってさ」
――予測で切るのは、早乙女美琉の父親が押しかけたと言う事である。理由は恐らく、娘が男の下へ逃げたという事であろう。父親としては我慢ならないはずだ。だが彼女の父親という事もあって、やはり積極であったのは否めなかった。
少しは冷静であって欲しいを願いながら、衛士は彼女が招く居間へと足を向けた。
――入って正面には壁がある。そこから左側に台所のカウンターに面したところにテーブルがあり、そこに男女が対面するように腰を掛けていた。
手前側に、早乙女美琉。反対側には筋骨隆々と逞しい、着込むスーツにすらそのガタイの良さが浮き出る男はオールバックが良く似合っていた。
「君が、衛士君かね?」
渋く低い声が鈍く空間を震わせる。確かな威厳が其処にはあって、衛士は思わず身震いをした。
嫌な予感が的中するというものは、いつになっても嫌なモノだ。
「は、はい」
殴られれば一撃で昇天する自信がある。衛士は砂時計を用意する余裕も無く立ち尽くしていた。
男は衛士を一瞥すると、座りたまえ、と美琉の傍らの席を勧める。衛士は恐る恐る歩み寄ってから、失礼、と腰を落とした。
彫りが深く鼻が高い男だった。瞳は青藍色で、どうやら美琉は父親似らしいことが判明するが、それゆえに、緊張が倍増してしまったのを感じていた。自分に似ていれば普通以上に愛着が湧くだろう。さらに事情を知らずに衛士が娘をたぶらかしていたと言った風に勘違いされていれば、尚更恐怖をあおってしまう。
逃げ場は無く、砂時計も無駄であろう。だから衛士は覚悟した。大きく息を吸い込んで、ひたすらに彼の言葉を待っていた。
ソファーに身を沈めて、付いても居ないテレビへと顔を向けつつ視線を三人に向ける親子は好奇心旺盛であり、怖いもの見たさというのがその場に居る理由の大半を占めていた。
男の喉仏が動く。衛士は腹を決めた。
「すまないが、時間を頂きたいのだが」
「は、はい」
凄んでいるわけではないのだろうが、その鋭い眼光と声音とが相まって衛士の心臓を鷲掴んでいた。
恐怖が五臓六腑に染み渡る。指先が冷えていくのが良く分かった。
「命も頂いてよろしいか?」
「は、は……は?」
「冗談だ。気にしないでくれ」
「は、ははは」
引き攣った笑顔を見せる衛士に、男は微笑んだ。先ほどの嘘などは冗談ですら口に出来ぬような不器用さはどこへやら、瞬く間に男から受けるプレッシャーは消え去っていた。
「いや、君に一つ、直に質問をしたくわざわざ時間を売って貰ったのだがね」
「はぁ……」
ちなみにお幾らなのですか? とは口が裂けても聞けない。彼が帰った後で聞こうと衛士は考えた。
どうやら男は衛士を殺しに来たわけではなく、精神的に、社会的に追い詰めに来たというわけでもないらしい。少なくともそれが理解できて、衛士はほっと胸を撫で下ろした。
時計の秒針が刻む音だけが響くその空間は静寂が支配し始めるが、その前に彼は言葉を続ける。
「君は何色が好きかね?」
「色、ですか……」
――衛士はそのひと言で男の目的を確信する。
直接聞かなければならない事。それは恐らく、それほど大事ということではなく、相手に直感で答えてもらいたいというだけなのだ。考える時間も、質問の意図を調べる暇も与えない。それが恐らく、一番重要なのだ。
そしてこれは心理学の一種だろう。色彩によって深層心理を判断するものである。それが絶対というわけではないが、少なくとも参考になる。その中で信頼性があって一般的であり、簡単なモノだった。
衛士は、その意図を理解するが故に、考える素振りも無く口にした。
「青です」
「ほう。理由は……あるかな?」
「いえ、特には」
「そうか……。なら次だ。君は喉が渇いて自販機に向かう。すると、何のラベルも貼られていないサンプルばかりだった。君は構わずボタンを押し、缶ジュースを購入した。その内容物の色はなんだと思う?」
「……無色、ですかね。理由は――何か、入ってたら嫌ですから。何も描いてない缶なら尚更だと思いますが……」
ふむと、男は顎を指先で掻くようにして考える。
衛士は答えを間違えたかと額から汗を一筋流すが、彼はやや俯き気味だった顔を引き起こして、口元に笑みを浮かべたままでそれを続行した。
次だ、と言う言葉が胸に突き刺さるようだった。
「君は地下への扉だけは決して開けてはいけないと言われて育ってきた。だがある日、鍵が開いている。君は好奇心のままに扉に手を掛け開けてみた……。その先は、何処に繋がっていた? 近所? 国内外の遠い場所? 宇宙?」
「地下帝国……だから、国内外の遠い場所になりますかね」
「君はブランコを漕いで思い切り跳んだ。一体何処に落ちた?」
「バンカーに埋まりました」
「君は高層マンションに住んでいる。誰かの悲鳴が聞こえた気がしてベランダを覗いてみると、そこには血に塗れた男が居た。振り向く彼と目があった君は、その時彼が指をこちらに向けて口を動かしていたことに気付く。彼は一体何を言っていたと思う?」
「数えてたんじゃないですかね。オレの居る階数がどこか」
「軍人の肖像画が飾ってある。その画の軍人は怪我をしているようだった。それはどこか?」
「目、ですかね」
「ある大統領が施設を訪れたとき、ある少女を見て哀れに思い、プレゼントを贈ることにした。ある日はカスタネットを送った。だが少女は喜ばなかった。ある日はサッカーボールを送った。少女は喜ばない。人形を贈った。だが少女は喜ばない。綺麗な絵画を送った。やはり少女は喜ばない。だがある日ある物を送ると、少女は大喜びして使ったそうだ。ソレは一体なんだと思う?」
「…………縄、ですか?」
「さぁ、決まった答えはないがね」
――正直、初めて聞く心理テストばかりだった。だから彼が何を知りたいのか分からない。しかし少なくとも良い意味のものではない事は確かな気がした。
男は其処で一つ休憩を入れるように、テーブルの上の紅茶を飲み下す。衛士の隣で存在感を完全な無に変えてみせる美琉は同じように紅茶で喉を潤した。
しかし、衛士の喉には飲み物すら通らない。そもそも衛士のために用意されている飲料などは存在しない。それを気にする余裕も無く、何か図られている気がして、とてもよい気分だといえる状態ではなかった。
嘆息するように男は一つ置いてから、次が最後だと、前に置いた。
「可愛い娘が突然知らない男の家に入り浸り始めた。君なら、どうする?」
「……っ!」
男は出来る限り低い声で凄み、衛士を睨む。眼光には怒りが孕まれ、全身から湧き出るような威圧感は周囲全てを押しつぶさんとしていた。
――今までの心理テストはただの余興に過ぎず、恐らく彼自体大きな参考にしていないだろう。前置きに過ぎないのだ。核心を突くためにワンクッションを置いただけに過ぎない。
衛士は蛇に睨まれたカエルのように動きを止めていた。
最早言葉は出ず、頭の中で警鐘だけが掻き鳴っていた。
何かを答えなければいけないという威圧から、無理矢理喉から言葉を搾り出す。
「どうする? 君は、どうする?」
「その男を……見極めます」
「それだけかい?」
「その結果によりますが……」
「なら、私ならどうすると思う? 衛士君」
はは、殴るだけじゃ済みそうに無いですね。
衛士はそう言ってみたかったが、流石に命知らず恥知らずではない。破廉恥ではない上に、意外に慎重派なのだ。だから、ゴクリと喉を鳴らしてから、高鳴る心臓を押さえながら、ぼーっとする頭を必死に動かして考えた。
――何がいい。何が正解だ? そもそも正しい答えなどが存在するのだろうか。こういった問題には、様々な葛藤が存在して然るべきである筈だ。男を認めたい。だが可愛い娘を手放したくない。男を突き放したい。だが娘の悲しむ顔は見たくない。娘の幸せを望みたい。されど娘に想われていたい。
彼が父である限り、娘のためにここまで行動してしまう程に愛が深い限り、その問いにまともな、あるいは確かな答えがあるはずも無いのだ。
「まず心理テストで相手を計って、最後に嫌がらせみたいな質問をすると思います。こんな未熟者にはまだ、父の心情なんて察し切れませんよ。経験が違うんですから」
もうどうにでもなれと投げやりに答えて見せた。
これは先ほどの答えと同様に本心であり、少しばかり言葉を選んだだけである。
彼は反応を見るのが嫌になって顔を俯かせていると――短い嘆息が、耳に届いた。心臓が止まるかと思ったのはそれが原因であった。
「ほう、興味深いな……君は。中々に自分を知っている。さらに慎重派で、やや犯罪者の素質があるためか、危機対応能力が高い。だがその素質と言うのは、万人にあって然るべきものだから気にする必要ないが……君は犯罪を犯すとしたら、どんなものだと思う?」
しかし、予想していた怒号は浴びせられず、飽くまで穏やかさを貫く男は、最後だ、という自身の言葉を裏切って質問を追加した。
だが、これが本当に最後なのだろう。男は真剣な眼差しを持って衛士を捉えていた。それは先ほどまでの邪な気持ちが孕んでいた視線ではなく、何か、衛士に確かなモノを垣間見たような、期待を持つようなものだった。
ここで嘘をついても見透かされてしまうようで、だから衛士は、問いと同時に脳裏に浮かぶそれを、恐る恐る口にした。
「……はは、人でも、殺しそうですね。オレ」
一時の感情に任せれば全てを力でねじ伏せようとする。衛士は実際にあったそれらを思い出してうな垂れた。しかし実際は実力が無いので返り討ちにされるばかりであり、そんな時に役立つのは砂時計だった。
時間があれば冷静になれる。冷静になれば、それ以外の解決法が浮かんで切り抜けてきたのだ。
だから、砂時計が無ければ今頃はいろいろな場所でケンカをし、ボロボロになっていたことだろうと衛士は考えた。
「いや、君には力が無いから無理だ。意気地も無い」
男はそれを捨て台詞にするように、テーブルを支えにして立ち上がる。衛士の両親はソファーに座りながらも背筋をピンと伸ばして同様に立ち上がろうとするが、男はそれを制して、美琉のすぐ横に移動した。
「確かにお前の見る目とやらは確かなようだ。一見勤勉そうで貧弱であるような男だが、素直で芯が通るように見える。だが女……いや、色気には弱いようだがな」
「父様……」
「私も視野が狭すぎたようだしな。この少年ならば、友人であろうと恋人であろうと、許そうと思う。理由が聞きたいか?」
彼女は首を振る。
しかし男は語り始めた。
「私の妻、お前の母さんは、私の親友とも言える女性だった……そう思っていたのは、私だけだったのだがな。お前には、そういった人間を作って欲しいのだ。真っ直ぐな人間と、性差無く信頼できる関係を。お前が認めた人間なら、と。私は飽くまで正常でないか否かを見ただけに過ぎん」
――とんでもない上から目線であった。衛士は全てにおいて見下された気がしてこのままベッドに横になりたかった。今すぐに脱力したかったのだ。だがまだ許されない。傍らでは、涙ちょちょぎれる親子のトークが展開してしまっていた。
衛士は自分にだけ紅茶が出ていない事を気にしながら、壁にかけてある時計をちらりと確認した。
時刻は二三時三二分。然程時間経過はしていないようだったが、やがて男の笑う声が聞こえて、緊張の糸が解けたようにどっと押し寄せてくる疲れに衛士の瞳には世界が歪んで見えてしまい、眼球の裏側が圧迫されるような苦しさを覚える。同時に胸の中に広がる、圧力のようなものが息苦しくさせた。
その直後に、大きく制御しようがない意識の希薄化が彼を襲い――視界は暗転。衛士はテーブルに頭を叩き付けるようにして、意識を手放していた。