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二日目

 衛士の深い眠りを覚醒へと誘うのは、自室に届く頃には些細な響きとなる呼び鈴の音だった。

 代わり映えの無い音色のドアチャイムは短く家中に響いて余韻を残す。思考を停止していればソレが鳴った事に気付く為に数十秒を費やしてしまう程度の、ささやかなものなのだが。

 うつ伏せで布団の中に沈む身体を、鎌首をもたげるように引き起こして四つんばいになる。布団は、彼が夢の中で悪漢を蹴散らすのと一緒に吹き飛ばされ寝台の下に塊となって落ちていた。衛士は頭をブンブンと振って首の骨を鳴らし、起き上がって凝り固まる全身を解して寝台を降りた。

 開けっ放しの窓から入り込む風が背中を撫でる。その窓からはこれでもかと言うくらい眩い朝日が降り注いでいた。

「清々しい」

 言葉は口に出すことによって、彼の心情を強制的に変えさせる。

 そこまでして漸く、彼の頭から眠気は払拭されたのだった。

 机の上に据えて置かれるデジタル時計が示す時間は午前一○時。先日は、というか今朝は午前四時まで姉に付き合わされた彼だから、この時間に起きるというのは我ながら天晴れだと自画自賛する。心豊かで天気が良いのだから、機嫌が悪くなる要因が見当たらないと、彼は鼻歌を歌いながら洗面所へ向かった。

 その最中に、

「エイジ! お客さんだよーっ!」

 母の呼ぶ声が彼の心臓を俄か数秒、停止せしめた。

 ――まさかこの場で大声を張り上げて、そのお相手は一体どなたなんですか? お母さん? と口にするわけにもいかず、だが相手が分からない以上無視するわけにもいかない。そもそも、自宅の場所を知っている人間なんて山田か中村か、その辺りしか居ないはずだ。しかし彼らが今日この時間に訪れるはずが無い。

 なら一体……。彼はどんな夜更かしが続く日々でも染み付いた習慣は拭い切れずに必ず朝早く目が覚め、身支度を整え華麗に家を出るところで目が覚めた。そんな夢を見た直後のように心臓を高鳴らせながら、一段一段、しっかりと降りてますよと知らせるように音を鳴らして降っていく。

 緊張が下腹部を握り締めるような痛みを与えていた。

 なぜコレほどまで緊張と嫌な予感とを携えねばならないのか衛士には分からない。その思考の奥底で、もし訪問者が友人で、家に乗り込まれてしまったら――などと最悪の状況を思い描くが故かもしれないと衛士は考えるが、さらに根底で、姉と出かける約束が踏み躙られ細切れにされる結果を恐れていることに、自覚症状を持てなかった。

 彼女との約束を破って苦い思いをしたのは数知れず。美人と呼ばれる程度の美貌を持ち合わせているのは弟という位置から見ても頷けるが、それに対して性格と言うべきか、そういったものが明かに一辺に偏っていた。彼は幼少期に”天は二物を与えず”を理解したのは、そのためである。

 中学時代のジャージを寝巻きにしている彼は、その姿のまま、その格好であることも忘れてやがて階段を降り切ると、なにやら笑い声が聞こえる。玄関へと目を向けると見えるのは、玄関と廊下とを隔てる段差に腰を掛ける金色の影と、母の姿。相手は相槌を打つだけで声は殆ど聞こえないが、その声音の高さからして女性のモノであろうと衛士は判断するが、それがより、彼の頭を混乱させていた。

「あ、エイジ。遅いわよ。女の子を待たせるなんて」

 栗色の髪を翻し、立ち上がるとお客に手を振りその場を後にする。そうして残されたその金色の影も同様に立ち上がると、なんの躊躇いも無く衛士へと振り向いた。

 衝撃の出会いに時の流れが緩くなる……なんて事があるはずも無く、彼女は衛士の顔を見てにっこりと嬉しそうに微笑んだ。その姿に見覚えが無いはずが無く、衛士は脳裏に半ば反射的に蘇る記憶を見た。

 ――先日の交通事故。彼女との出会いはそれが始めての筈だった。しかし何よりも彼の記憶に残ったのは、彼女になぜか見覚えがあったという事だった。その青藍色の宝石のような瞳にも、透き通るような金髪にも、どことなく漏れ出す上品そうで近づきがたい雰囲気も、いつかみたようなものだった。

 それが何でいつ見たものか思い出せないから、然程重要でも無いと、再び蘇らせた記憶を彼方へと蹴飛ばして、彼女へと向き直る。

「朝早くから申し訳御座いません……しかし、少しでも早くお礼がしたくて」

「お礼……ですか」

 しかし彼女は昨日の事故から偶然でも、オレが助けてくれたと考えているのだろうが……。

 衛士は後頭部あたまを掻きながら困ったように言葉を繰り返す。

 昨日はより確実に安全を得られるようにあの場から距離を取っただけで、実際は彼女たちがあのまま横断歩道を渡っていても恐らく無事だった。暴走車は横断歩道の直前では既に反対車線の縁石に車体を削っていたし、衝突して吹き飛んだのも彼女たちとは正反対の方向である。衛士がしたことはおせっかいと見てもそう間違ったものではないのだが、しかしそれを知らぬものは恩人と感じても仕方が無かった。

 それを知るのが衛士だけだからか、彼は妙に気まずく感じていた。あの行いが自作自演とすら思えてきて、表情が引き攣らずには居られないのだ。

「まぁ、玄関で立ち話も失礼ですし、上がってください」

「ありがとうございます……お邪魔します」

 素性は知らない。なぜ家の場所を知っているのか分からない。

 彼女が、彼女にしては似合わぬ派手な、ヒールの高いブーツを脱ぎ衛士と目線を同じくしたところで彼はそれを思い出し、思考を停止させる。

 もしかして取り返しの付かない事をしてしまったのかもしれないと、振り返って彼女を見ながら額に汗する。相手はまた薄い笑みで微笑むと心が癒されて、可愛いから大丈夫だろうと彼は自分に言い聞かせた。

「母さん、彼女にお茶を出しておいて。ちょっと着替えてくる」

 居間へ彼女を促すと、母は丁度テーブルにお茶を用意しているところだった。声をかけると彼女はこちらへ歩み寄り、そこで引き渡してから衛士は自室へと踵を返した。


「――何? お客さん?」

 髪を逆立たせて衛士の寝台に座り込んでいるのは理恵である。彼は嘆息をしながら服を脱ぎ捨て、パンツ一枚になったところで着替えるための服を探す。タンスを開けると独特な木の臭いが香ってきて、それが鼻をくすぐり勢いよくくしゃみが出た。

「あぁ」

「友達? 買い物は?」

「知り合い……かな。予定では午後だろ? 大丈夫だって」

 ジーンズに足を通し、ベルトを締める。次いでシャツを着たところで、理恵は立ち上がりのそのそと歩き始めたかと思うと、衛士のすぐ後ろで立ち止まった。

「何のようなの? 遊ぶの?」

 まだ頭が醒めていないのだろう。そもそも今朝まで起きていれば彼女はいつも昼過ぎまで眠りこけているのだ。騒ぎが耳に入って偶然眼が覚めただけだろうからと衛士は考え、どうせ説明しても無駄だろうと首を振る。

「オレも知らん。いいから部屋に戻って寝てろよ。時間になったら起こすから」

 この状態なら次起きてもこの時点での記憶は確実に無い。ぼーっと棒立ちして薄く開かれる目には光が無いが、幼子を彷彿とさせる純粋さがそこにはあった。知能指数は限り無く低下し、認識力も理解力も全て畜生以下に成り下っているからだろう。

 だから怒髪天でも衝いているような頭をわしゃわしゃと掻き乱し、部屋から追い出すように背を押した。

 いつもこの位ならまだ可愛げもあるものだ。覚醒時は平気で人を殺しそうな目をする彼女だが、外当たりがいい。だからこそ質が悪いのだ。

 そう考えながら靴下を履くと、理恵は再び衛士の部屋へ舞い戻り、寝台に酷く緩慢で心許ない足取りで向かう。それを見守るとやがて身を傾け、膝から崩れると、そのままうつ伏せに寝転がった。

 彼女の部屋は万年床でさらに寝台ではないからわざとやっているのかもしれないが、本気で衛士ひとの部屋の方が寝やすいと言って寝床を奪う癖がある。そのクセ自分の部屋で寝られると横腹を蹴っ飛ばして無理矢理に起こすのだ。

 衛士は幾度目にかなる嘆息と共に、仕方が無い姉さんだなとひと言残して自身を待つ客人の元へと足を向けた。

「――お待たせ……しました」

 実はあまり知らない人間と打ち解けるのは苦手な衛士である。異性であれ同姓であれ表面上はあたかも打ち解けた風に踏み固められた雪原の如く口は滑るが、会話はプライベートなものには移らない。飽くまで実務的であり、事務的。それでいて自分にとっての疑問を解消するモノと、相手から受けた質問に対する答え。大抵初対面の人間との会話なんてものはそれだけで時間は過ぎて終わるものだ。

 しかし、見知らぬ、歳の近い異性に命を助けられたお礼として家を訪ねられてしまえば、逃げ場は無いし言葉は無いしで、殆ど八方塞に近かった。億劫で憂鬱なのだ。それが例え、お美しいお嬢さんが相手だとしても。

「いえ、美味しいお茶まで頂いて、面目ないです」

「あ、はは。そりゃ良かったけど……」

 テーブルには飲みかけのティーカップ。そこからはまだ淹れたてというのが良く分かるように蒸気が上がっている。彼女はその手前で膝に手を置き椅子に腰掛けていた。正面にはなぜか衛士の母が座り、父親の姿は不在。恐らく先週から趣味となった日曜大工に打ち込んでいるのだろうから、庭にでも居るのだろうと彼は適当に位置を把握する。

 そして母の隣に座ろうとすると、その前になにやら値が張りそうな紙袋が置かれており、達筆な字で店名が書かれていたが、あまりにも達筆すぎるので衛士にはそれがなんと記されているのか読むことは出来なかった。

「それじゃお母さん、ちょっとお昼の買い物に行って来るから」

「あいよ」

 明け渡された少女正面の席だが、衛士は断固として斜め前に腰を落とす。空間は閑静な住宅街に相応しいくらい静寂に満ちていて、玄関扉の開閉の音だけが耳に届いた。やがて彼の母が家を出て、扉を閉める音が聞こえると直ぐに口火を切る少女は、真っ先に件の礼とやらを話題に叩き出した。

「あの時は本当にありがとうございました。もし、貴方があそこで私たちに声を掛けてくださらねば、この命は失われていたかもしれません」

「いや、良く考えて見た方が良いと思いますよ? 自動車は横断歩道の信号が青になって少ししてから衝突しました」

 場所は殆ど反対車線。それも縁石に寄りすぎているから中央線からもやや距離がある位置だ。だから彼女が渡り始めても、いかにも危機一髪という場面だが無傷で通り過ぎることが出来る筈だった。

 それを説明してやるが、彼女は一向に納得をする気配は無く、目にはより力が入る一方だった。

「無かったことになりません?」

「なら無いです。それに、私が一方的に感謝の念を抱いているのに、なぜ貴方の方が恩赦を強要させられている側のような反応なのです?」

 飽くまで静かな口調で論ずる彼女に育ちの良さを覚えた。どんなものであれ一方的に頭ごなしに考え方を否定されれば力が入るものだが、彼女は根気良く頑固に自身の考えを貫きながらも、しっかりと自分を確立させているからだ。

「いやぁあのですね」言っても良いものだろうか。「貴方の明確な目的が分からないものですから」

「え?」

「いやまぁ、感謝の印は頂きましたし、言葉も受けました。だからこれでお開きでもなんらおかしくはないわけですよ。そちらもそれで一応は満足なされたでしょうし。なのにそれでもまだ何か物足りないようなご様子ですから」

 衛士にとって何よりも気がかりなのは、彼女の姿に”見覚えがある”という曖昧な記憶。それと直感的に関与していると感じる砂時計の存在。それらに関連が無ければそれで良い。見覚えがあるという点でも何かしら理由が立つ。だが、もしもという事があれば話はこじれるのだ。

 ――先ほど、ボーイミーツガールという言葉が頭の隅に浮かんで消えた。『オレは既にこんな奇異なボーイミーツガールは経験したぞ』と言葉に成らずともその思いが脳裏に過ぎったからである。そしてその経験した出会いとは、砂時計を与えたミシェルと名乗る女性とのモノだ。彼女は透き通るような金髪を持つ、長髪の美人だった。そして目の前の彼女のように腰は低く、言葉は丁寧。

 だから見覚えがあると思ったのだ。衛士はそこに結論を至らしめるが、決して頷くことは許されない。

 ミシェルとの出会いは運命を変えた。時を繰り返させる砂時計を与えた彼女の正体は未だに不明だが、少なくともこの世界の人間ではない程度の認識は終えている。だから、そんなミシェルと彼女とが同一人物であったら――。

 何が困るのだろうか。

 そこまで考えて彼は気付く。

 彼女=ミシェルだとしても別に何の問題はなく、逆に簡単に頼れるようになって良いのではないか、と。

 しかし、さらに衛士は気付いてしまったのだ。

 目の前の少女と、ミシェルとの決定的な違い。目鼻顔立ちはそっくりで、髪の色も眼差しの強さも上品さその雰囲気さえも同一と思われるほど、まるで生き写しかと勘違いするほど似ている。が、明らかな違いが胸部にあった。その少女の胸は、孤高の寂しさだけを抱いていた。

 分かりやすく言えばすっかすかで断崖絶壁、はさすがに言いすぎであろうが、少なくとも衛士があの日あの時あの場所で見たような、今にも破裂してしまいそうで、だというのに抱きつきたくなるようなふくよかさ、柔らかさは存在していなかった。

 そこには悲しみだけが、満ちていた。

「命が、言葉と羊羹で片付けられますか……?」

 言葉は不意に降り注ぐ。

 声が震えていた。感情を抑え込む様な震え方は、顔を俯かせる少女の口から紡がれる。そこで衛士は漸く気付いた。どうやら自分が考えていたものより随分と大きな問題に発展していたその事実に。

「いえ、貴方の命なら全人類にでも匹敵するでしょうね」

 両手で強くテーブルを叩くと、膨張した風船が破裂するような音が響く。

 どうやら本気で言ったその言葉を、茶化しふざけたものなのだと勘違いされたようだった。

「申し遅れました……。私は早乙女……早乙女美琉さおとめみるです」

「時衛士です。よろしく」はあまりしたくはないが。「お願いします」

「私は、ですね。この出会いを、大切にしたいのです。どうあれ、貴方と出会えたことは、私にとって、非常に掛け替えの無いもの、でしたから」

「大切に……。具体的に?」

「ひざま……うぅ……あの、お友達として」

 嫌な予感がして聞いてみる。

「対等な?」

「はぁ?」

「へ?」

「あっ……も、勿論……ですわ」

 ですわ?

 なにやら分厚い化粧が崩れてきたような気がする。大福を叩くとそれを包むように張り付く片栗粉が塊を成して落ちるように。

 我慢の限界なのか、その口調にそもそもなれて居ないからボロが出てしまうのか。

 跪けと言いかけてみたり、対等かと聞けばあたかも早乙女の方が上であることが世間の常識であるのにも関わらずそんな愚問を投げるのか? というような発言を反射的にしてみたり。恐らく今目の前にしている少女の風貌とは正反対の性格が、腹の奥底に渦巻いている。

 あの踵の高いブーツの時点で気付けたのかもしれない。否、そこで気付かなければならなかったのかもしれない。

 衛士は今すぐに席を立って姉の下に駆け出したかった。シスコンと呼ばれても構わない。今が助かれば、彼女との関係を断ち切れればそれで今は満足だった。

「あの、よろしければ連絡先を交換してもよろしいでしょうか?」

 渇いた喉を潤すために口にした紅茶は、早くも温くなっていた。


 ――携帯電話を取りに自室へと戻ると、寝台に横たわる姿は胡坐を掻いてこちらを向いていた。

 並びの良い白い歯を見せてニヤニヤと笑みを零す理恵は衛士の携帯を顔の横で振りながら口を開く。衛士の背筋が絶対零度によって凍りついたのは、恐らく気のせいでは無いだろう。

「母さんから電話が掛かってきてね、うるさいから出たらアンタの携帯だったって訳だけど……。話は”全て”聞かせてもらった。いえ、聞かせてもらっている、ってわけだけどねぇ……」

「あなたは何やってんです!」

「盗み聞き」

 大股で近寄りケータイを掠め取る。そんな衛士の顔に怒りは無く、蒼ざめ危機感だけを表現していた。一番知られてはいけない人間に知られてしまったと、恐らく理恵でも顔を見て理解で切るだろう。だが彼女は相変わらず嫌らしい笑みだけを浮かべているだけだった。

 こればかりは何をしでかされるか完全に未知の領域である。何せ、衛士にはお付き合いしてきた女性などは存在しないし、女の子を家に連れてきたときも友人に勝手について来た者だけなのだ。親しい女性は何人か居るには居るが、プライベートで遊ぶレベルに進展しているのは皆無である。

 未知数――それがコレほどまで恐ろしいものだとは思わなかった。

 話は変わるが、弱い肉体しか持たない人間がこの食物連鎖で頂点を極められたのは、その知的生命体たる知性であり未知を既知にし得る探究心であったのだ。

 それを考えれば、理恵は自身の欲望を満たすためではあるものの絶えぬ好奇心で知識を蓄えるという行動に学術的な意味は無いであろうが、人間の人間たる生き方を考えれば決して愚劣とは言いがたいはずである。

 何が言いたいのかと言われれば、彼女の行動は極めて本能的であるということである。

「見た感じお嬢様ってヤツだね」

 ――頭はそれでも醒め切っていないのか、舌足らずな印象は着替えに来たときと変わらない。一体何が彼女をそこまで動かすのか。衛士は頭を抱えながら息を吐いた。

「本性が見え隠れしてんだけど、どうすればいいと思う?」

「どんな?」

「跪けって言いかけてみたり、対等なお友達? って聞いたら『はぁ?』だって」

 今は彼女の頭は正常に作動してくれていることを祈るばかりである。だが衛士は気持ち半分で、取り敢えず言って見るだけ言ってみただけであり、彼女の発案や思考を頼りにするわけではない。そもそも、彼女の考えがまともに役立った事自体が少ないのだから、その程度の信頼でも仕方が無いだろう。

 じゃあ、と言葉の前に添える。それだけで、衛士は期待と仄かな不安に駆られてしまった。

「一、お姉ちゃんに全部任せる。二、可愛い娘ちゃんに全部任せる。どっちがいい?」

「……三、オレに任せろ」

「うんうん。自分の問題は自分で片付けなくちゃ。どっちかにしたら、ぶっ飛ばしてやろうかと思ったわよ」

 笑顔で頷き、立ち上がるといつもとは違った優しさで背中を叩く。それからへそ出しルックのまま背を向け、

「ちゃんと起こしなさいよね」

 とだけ残して、今度はしっかりとした足取りで部屋を出て、三メートル離れた隣の自室へと戻っていった。

「関わるのが面倒なだけなんじゃ……」

 残された衛士はその場で大きく深呼吸した後、意を決して早乙女の下へと戻っていった。


 女神のような優しさを持つ目は閉じられていて、ほっそりとした指先は頬にあてたまま硬直する早乙女を見て、衛士はこんな絵画か彫像があったかもしれないと記憶に検索を掛けるが、一秒以内に目的の物がでない。そして別段それはどうでも良いので中止した。

 無駄な行動だと自省した後短く息を吐くと、それに気付いたかのように彼女は眼を開け、にっこりと微笑んで首を傾げた。

「準備は出来ていますよ」

 スライド式のケータイを振って見せる。席に着いてから簡単の操作のうち、連絡先を赤外線で送信する昨日を作動させ、相手の受信部分に傾ける。ややあって相手も同じ操作をして――やがて送られてくる早乙女美琉のメールアドレスと電話番号を”友達”のグループに登録した。

 短く、簡単な操作。それだけで、二人の関係はより深くなる。それが良いものなのか悪いものなのか、衛士には判断できなかった。

「ちなみに、親御さんは先日の事を?」

 口数は少ないという以前に無く、空間は静まり返る。その虚無感がどうにも耐え切れなくなって衛士が口を開くと、早乙女は眉をしかめて顎に手をやった。

「……結局のトコロ、わたくしは無事なワケですから、わざわざそれを報告して心配をさせるのも、されるのもかえって迷惑になりますし、その所為で自由を拘束されるのも困りますから」

「つまり?」

「ふぅ……何も言っていませんよ。わざわざ結論を口にしなければ理解わかりません?」

 やれやれと肩をすくめて首を振る。

 空気の流れが変わったのを感じて、衛士は腕を組んで頷いた。

「ここからは本題、というか聞きたい事があるんですが」

「……? なんですの?」

「何故ここが、分かったんですか?」

「はぁ、そんな事ですか」

 呆れたとばかりに嘆息する彼女は腕を伸ばしてティーカップを手にすると、そのまま口元へ運び喉を潤す。生温いそれはその程度の温度が彼女に好ましいらしく、そのまま飲み干し、テーブルへ戻す。そこでようやく、言葉は続いた。

「貴方が案内してくださった……貴方好みに端的に言えば、尾行させて頂いたのです」

 大体予想は付いていたが、これほどまで簡単に言い切られてしまえば立つ瀬が無い。尾行発言をネタにして思い切り、傷口にナイフを差し込むように抉り突っ込んでやろうと画策していたのに、まるで当たり前のように断言されては突っ込むに突っ込めないのだ。下手をすれば、それが正しいと確信を持って行っていると反論されてしまうかもしれない。そこまで行くと、衛士にはもう手がつけられなかった。

 しかしそれは飽くまで最悪の想像だ。衛士は自分にそう言い聞かせて、腕組みを解く。

「もう一度聞きますが……何が、目的なんです?」

 結局明確な返答は貰っていない。誤魔化されたのだ。彼女の感情に。だから改めて衛士は口にする。この状況で聞けば、もう彼女に逃げ場は無いだろうと信じて。そしてそれが事実だと言わんばかりに、彼女は顔をしかめて俯いた。

 ――沈黙は続き、時計の針が時間を刻む音だけが居間に響く。テーブルの上に置いたケータイのサブディスプレイが瞬いて、一一時になったと知らせてくれた。

 あれから一時間。彼女がこの家に上がり込んでそれほどの時間が経過した。少なくとも衛士には二時間近くにも感じられていたから経過は思ったより短かった。

 ディスプレイから光が失せた頃、そろそろ張り詰めた空気に圧され尽くし筋肉が痙攣し始めた頃、漸く、早乙女美琉はそのトマトのように赤く染まりあがった顔を上げて、口を開いた。

「知らない、世界が欲しかったのです。親も知らない、私しか知らない友達……その付き合い、本当の、私しか知らない私を知ってくれる友達が……」

「そこで偶然であったオレを、その友達にしたい……と?」

 というかもうなっているのだろうが。

 決して口にしていいものではないソレを心に留めて問うと、彼女はその顔の色だけをべらぼうに取り乱して頷いた。その動作には何の飾り気も無く、ただ一人の少女らしいものだった。恥ずかしいことを恥ずかしいと思って、だけれどそれを素直に告白する。それだけでも大きな勇気が必要で、それをもって口にした。そんな彼女はどれだけお嬢様然としていても、やはり少女には違いなかったのだ。

 それだけでも、知れて良かったと衛士は胸を撫で下ろす。それだけで全てが解決した気になっている彼は続けて問うた。

「ちなみに高校生?」

「はい。あの、霊成たまなし学園に通う二年です」

「あー、知ってると思うけどオレもだ。何組?」

「……しー、です」

「あー……奇遇、だな」

 衛士は私立霊成学園に通う二年生。クラスはC組に属し、その中で親しい友人は山田を中心とする数人の男子。そして他のクラスでは、山田に好意を寄せる中村という女子と、一年次に同じクラスだった者達である。

 そんな彼は、一ヶ月も同じ時を共にする学友を忘れるような人間ではない。姿と名前が一致するという偉業は半年もしなければ達成することは不可能だが、それでも姿くらいは認知している。だから戸惑ってしまった。彼女の、C組に属しているという意味の、その台詞に。

 ――なるほど、と。衛士は心の中でうな垂れる。どうやら見覚えがあったのはいつの日かあったミシェルに似ているからではなく、実際にこの一ヶ月間同じクラスで過ごしていたからだったのだ。

 だがそれを覚えていないのは余りにも自分と相手に可哀想な気がして、苦し紛れに言葉を吐き散らす。

「はは、あの、引っ越してきた……とか?」

「十六年間、ずっとこの土地に住んでいます。それに、貴方と出会ったのは確かに偶然でしたけど、あの時に出会ったのが貴方でなければ、私は尾行しここまでしようとは思いませんでした」

「え……?」

「いつも上の空で、それでいて人望があるかどうか分からない人で、授業中はいつも寝ていて、体育だと活躍できるスポーツが偏っていて、人には優しくないし、だけど我が強いとは言い切れない人……不安定で不明瞭、簡単に言えば、貴方は私の目にそう映っていました」

 中々にシビアな評価だった。そこに良い部分を入れないことに何か意図的な画策を感じるが、衛士はあながち否定しきれないと苦い顔で頷き、彼女を促す。

 言葉は滑るように、というか口から滑り落ちた。

「これは使いやすい。わたくしの下僕に為り得るのではないか、と考えたのですわ」

「素直だね」

「取り柄ですから」

「……じゃあ、もう取り繕う必要ないから。自由に喋って構わないから」

 全力でこの一時間を後悔するために、彼女に発言の自由を与える。そもそもこの国ではそれが許されているから彼が与えたのはモラルの欠如だけなのだが――彼女はその言葉を素直に受け取り、いつのまにかその顔の色を透明感溢れる白さに戻して、頬に手をやった。

「しかしもう何も申すことは無いのですが……。そしてソレはまぁ、追々お見せ致します。今日はこの私を貫かせていただきますので」

 衛士はポケットから砂時計を取り出し、テーブルの上に叩き付けるように配置する。砂時計はさらさらと砂を落とし始め、既に五分間の計測に取り掛かる。彼女がその行為に、砂時計に呆気をとられている中で、衛士は構わず口にする。

「なら、オレからの質問タイムだ」

「はい、なんでしょう」

 彼女は膝の上で手を重ね合わせ、笑顔で首を傾げる。

 衛士は腹を決めて言葉を紡いだ。

「下僕ってのは、早乙女とどんな関係になるって事なんだ? 響きからして決して対等なお友達で済むようには思えないんだが」

「うふ、まず辞書を使う事をお勧めいたしますよ?」

「オレぁアンタの思うとおりに動かされなきゃならんのか?」

「理想としてはそうですね。しかし貴方のような下々の人間が直ぐに順応することは無理であることくらいは分かっています。ですから、その前に貴方が望むものを一つ与えて差し上げますよ」

「あぁ?」

「好きなモノで良いですよ? その代わり、決して後悔しない使い方を――」

 それが当然とばかりに彼女は言い切っていた。金品をくれてやるから代償として下僕となれと、彼女は何の躊躇いも後ろめたさも感じずに口にする。衛士には、それが到底理解できたものではなかった。

 少なくともこれは人間関係だ。彼女はまだ高校二年生で、確かに下僕という意味は分かっているだろうが確実にそれを実行させる覚悟は持っていない筈だ。だから、飽くまで友人という位置関係は不動であり彼女にその自覚があろうとなかろうと、衛士はそれを貫かせてもらおうと考えていた。

 彼女が口にする下僕という言葉を冗談半分に捉えて、普通に友達としてやっていこうと思っていたのだ。少々アクが強そうだが、それは姉で慣れているから……と。

「何が良いですか? やはりお金ですか?」

 試してみるか、と衛士は立ち上がり、身を乗り出すとそのまま腕を伸ばし、彼女のほっそりとした顎に手を掛け、顔を固定する。上向きになる顔に顔を近づけさせると、やがて息が掛かるほどの距離になる。

 目を剥いて硬直する彼女の顔にはもう、その上品さも気高さも、存在などしていなかった。

「何でも……だろ?」

 出来る限り悪どい笑みを浮かべ舌なめずりをする。

 が、次の瞬間世界が暗転し――気がつくと頬に強烈な痛みを覚えて、衛士はテーブルの上にへたり込んでいた。

 顔を上げると、腕を振りぬいた形で立ち上がる早乙女がそこに居て、彼女は先ほどのように顔を朱に染め上げたままで立ち尽くす。だがそう間も無く、口は開き、震える唇は言葉を紡ぎ始めた。

「貴方も所詮、他と変わりませんか。幼稚で粗野で汚らしくて、考えが偏っていて、思いやりも無く自分中心。その汚物よりも汚らわしい性欲が抑えきれずに滲み出て……」

「あぁそうだよ……。だがな、言っておくが――アンタはオレだったから選んだんじゃない。あの時に出会ったから選んだんだ。アンタは、運命の出会いに惑わされただけだったんだよ」

「何も知らずに口を利く! 何も知らずに……何も、知らない癖にっ! 貴方はっ!」

「だったら教えてくれ、なんでオレなんだ? いや、違うな……アンタが自分の意思でオレを選んだのなら、なぜ金品ものでオレを釣ろうとする? 思い上がりと笑うかもしれないがな、信じたんじゃないのかよ、”もしかしたらオレなら”ってよォッ!」

 理解されたいのに、誰も相手を理解しようとしない。ヒステリーな叫びによって空間に、二人の間に決定的なまでの亀裂が入ったところで、その選択肢を選んだ世界は其処で終えた。

 ――時は繰り返す。

 不毛だと心の中で呟く衛士は頭を抱え、テーブルに肘を着いた。

 あんな事をしても彼女はまだ、衛士にしがみ付こうとしていた。普通なら、嫌になったら直ぐにでも関係を絶とうとするだろう。

 だが彼女は自分の思いをぶつけようとさえしていた。あそこまでして、少し手を加えれば砕けてしまいそうな関係にまで落ちきったのにそれでも手を引かぬ彼女を見て、衛士はあの時間を幾度反芻しても溜息しか出るものは無かった。

 せめて、せめて最後の問いかけの答えが欲しかった。だが流石にアレを二度三度やるほど衛士は無神経では無いし、二度も三度も、彼女の今にも泣きそうな顔を、壊れてしまいそうな叫び声を聞きたくは無かった。

「あの……良いですか?」

 一人だけ何よりも深い失望と思惟に耽っている衛士に、軽く手を上げ発言許可を貰う彼女は、だが衛士が反応するよりも早く次なる言葉を口にする。

「私は考えているんです。貴方のような下々の人間が私のような人間に直ぐに順応できるはずが無い。そして貴方は何よりも私と近しい位置に居なければならない。だから、少しでも速い理解を求めるために――」

 そこでふと衛士は疑問に思う。彼女は一体どの立場から物を申しているのだろうか、と。

 ――少なくとも人を下賤民だとか愚民だとか言っている時点で上流階級でなければ納得が出来ない。その上で今の台詞から家庭は少なくとも底無しに裕福で無ければならないはずだ。人を尾行し押しかけると行為を差っ引いても問題が無いと思われるほどの人間でなければならない。

 早乙女美琉……聞いた事の無い名前であるが、この街に生まれてからずっと住んでいるらしいから外人で無いことは確かだ。ハーフである可能性は捨てきれないが、それは然程大きな問題ではない。

「どうです? 貴方にとっては良い話でしょう?」

 いや、そもそも大金持ち様だとして、なぜそんなご令嬢が何の変哲も無い私立高校に通っていらっしゃるのだろうか。タダでさえ常人離れした美貌の所為で人からの注目もあるだろう。それに少し電車に揺られれば良家の娘さんが通う伝統のある小中高大一貫の女子校があるわけだし、いまの学園に合格できるくらいだから編入もそう難しい話ではなかったはずだ。

 だがしかし、気になっているのは何故ここに居るのかではない。何者なのか、なのだ。

 カマでも掛けてみようかと、衛士は少しばかり躊躇い、口を開いた。

「――あー、いやいいって! 馬鹿には金と権力だけは与えちゃダメって良く言うでしょ?」

 しかし言葉は紡がれず、背後から大声量で遮る声は、これまでこれから永劫に聞き間違えるはずも無いであろう、理恵のものだった。

 直後にバスケットボールを片手で掴んで持ち上げるNBA選手のような力強さで頭部を押さえつける理恵によって、頭は乱暴に前後左右の概念無くぐりんぐりんと振り回され、人的にコレはいくら何でも首は曲がらないのではないかと思われるほど自由奔放にジョイスティックの如く弄くりまわされた。

 結果として、後遺症でもあるのではないかと思われるほどの痛みを頚椎に覚え、抵抗の甲斐も無く理恵の乱入を許してしまった。

「いやー、早乙女さんてアレだよねぇ。とある国の名だたる貴族の姪にあたるって聞いたけど……」

 無遠慮に、彼女は恐らく盗み聞きから得た情報を駆使してインターネットを利用し調べたソレを口にする。流石に無神経極まりなく、制止を目的として露出された太腿を力強く叩くと、仕返しとばかりに振り落とされた踵が足の甲を打ち砕いた。

 それは酷く、鈍い音であったのだ。脆い何かが突き破られた崩壊音が体の中に走って、どうしようも無い痛みは理性を、とてもではないが維持できるような程度ではなかった。故に衛士は足を抱え、沈黙した。

 早乙女にとってその場では唯一の救済者でなり得た衛士の喪失は非常に手痛いものであったらしく、悪意ないし下心に塗れた問いに対しては、眉をしかめて俯くことしか出来ずに居た。

 ――彼女にとって、その立場と言うものは非常に圧力的である。貴族の娘だから美しく、財産を持て余し、聡明である。全てはその肩書きによって構成され、彼女はそれを受け止める器にしか成り得ない。背後に付くモノでしか価値を計られず、故に個性は早乙女美琉としてのものではなく、貴族の姪としての意味しか持たなかった。

 凡人はそれでも満足だろう。否、同じ立場にあるものでもそれで充足する日々を送る者は居るはずだ。

 だが早乙女は耐え切れなかった。

 それはなぜか? それは直ぐ其処に、目の前に、手を伸ばせば触れられる位置に、彼女にとっての非日常が広がっているからだ。

 人は未知に介入したがる。それは人類を知的生命体たる存在に押し上げた故の本能だ。衛士にとっての日常は早乙女にとっての非現実であり、また逆も然り。

 誰もが想像する、もしかしたら超能力が使えたら、空から美少女が落ちてきたら、教室に何が目的かも分からないテロリストが乱入してきたら、世界の英雄になれたら、ファンタジー世界に召喚されたら……多くの理想、想像、妄想があるものの、彼女にとってのそれらは、世界の殆どの人間が寝、起き、働き、学び、遊び、食べ、笑い、泣き、喜び、怒る、そんな平凡な日常であったのだ。

 捨てがたくも忘れやすい変わらぬかけがえの無い平和。彼女にとってのソレはかけ離れたものであり、故にその日常である非日常を渇望した。

 そして彼女の全てを振り切る行動力が起こした結果が、この現状だった。

 そもそも何故こんな積極的に動けたのか――彼女は思い返してみるが、分からない。先日見た『ローマの休日』の内容と一緒に動機はどこかへ流れてしまっていた。

 ――しかし彼女がその身に纏う日常を捨てきれぬのもまた事実。理恵の台詞と共に蘇る、金品贈与を中心とする前後の会話を思い出し、苦悩した。

 答えるべきか、答えぬべきか。どちらにせよ理恵は確信している。ならこの選択には最早意味はなく、どういった返しを行うかが最重要点。早乙女は脳細胞の一つ一つを制御して思考に没するが、無論理恵はただ好奇心のままに尋ねただけであり、ただのひと言がそれほどまでに彼女を苦しませているなどと言う自覚はありすらしなかった。

 早乙女は理恵の問いを反芻し、曲解するまでに考えを至らしめるとやがて答えを見つけ、微笑んだ。そして再び、頭の中で曲がりくねらせ歪めた問いを蘇らせる。

 ――お前は凡人か?

 答えは無論否であり、地に落ちた下賤民に天の民がその答えをくれてやることすら無粋。

 されど早乙女は口を開いた。目標の血縁関係があるならば話は違うからだ。

「想像に、お任せしますわ」

 ――何かが垣間見えた気がした。

 痛みに苦しむ中で窺う状況。一筋の光のようなものが、その中に差し込んだ気がした。衛士はそれを直感的に感じていた。

「あはっ、誠実ねぇ」

「……何が、でしょうか?」

「いやいや、わざわざ口にするのは野暮でしょう?」

「……良くわまりませんが」

 二人の間には明かに食い違いが存在していた。しかし構わず理恵は首を突っ込もうとするものだから、衛士は流石にと制止する。何か、同情に似た感情が膨れ上がったのが原因だろう。

「姉さん、困ってんだろ」

「……わかったわよー」

 本気だぞと言わんばかりに彼女の横顔を睨むと、理恵は膨れっ面になって席を立った。

 結局何をしに来たのか目的が不明瞭のまま居間を後にする彼女に頭を抱えつつも、衛士は、困ったように眉を下げる早乙女に愛想笑いだけを返した。しかし彼女は何かを考えているのか、衛士の最大にして最高の気遣いにも気付かずに無表情を極め、ただ一点だけを見つめていた。

 それからややあって、彼女はふと思いついたように立ち上がる。驚いて衛士は彼女を見ると、我に返ったように衛士へと向き直り、携帯電話を手に取った。

「今日はここで失礼させていただきます。また明日、ご迷惑でなければお会いしたいのですが……」

「え? あ、あぁ、ごめん。明日はバイトが一日入ってて……」

「ご迷惑ではありませんか?」

「は?」

「その、バイト先へ行っても……」

「目的にもよるけど」

 迷惑といえば迷惑になるだろう。明日は土曜日で人も多いし、恐らく彼女が来ても相手にしている暇は無い。そして彼女だからこそ人から目立つだろうし、色々と支障が出るに違いないのだ。

「……ならまた後日に」

「あぁ、ごめんね」

 顔の前で両手を合わせて、暫し思考する。

 彼女はそれからそう口にした後、間も無く衛士宅を後にした。

 彼は果てしない嫌な予感と言うものをひしひしと感じながらも、それに抗えないであろう事を理解し――だがあながちそれが悲しいことでも無く不幸で無いことを覚えていた。理屈無く、いつもどおりの直感だが、彼はそれを底無しに信頼している。それはその第一感に幾度とも無く、助けられたからだった。

 やがてそう時間を置かずに母が帰宅した。それによって思い出したかのように胃腸は空腹を訴えるように鳴き出して――。



「うはは、この可愛いヤツめ!」

 嫌がる頭を押さえつけるようにして胸に抱く。もごもごと暴れて彼女を叩くが、その細く長い艶やかな指に撫で回されるとその内、不思議と気分が抗う気力がごっそり失われた。やがて胸に顔を擦り付けるようにすると、理恵はくすぐったそうに笑っては優しく頭を撫でる。

 酷く心地が良いのであろう猫は喉を鳴らして、他の猫たちもその場に座り込む理恵の傍で寝転んだり、身体を突付いたりなど、彼女はやたらに人気者だった。

 ――満腹時に襲い掛かってくる睡魔に、これが淫魔だったらなぁと思いを馳せながら身体を思いのままにさせるその最中に頬を二度叩かれ、目が覚めた。

 その直後に手を引かれて駅前に来ると、最近出来たという猫カフェに訪れたのである。

 大分前から買い物に付き合えと言われて居たのでどれほどの荷物を持つ羽目になるのか不安を抱えていたのだが、買い物以前にお茶をしながら猫と戯れる場所に来たのだから、衛士は俄かに安心した。

 ここで一、二時間消費すればその分だけ買い物の時間も、資金も少なくなる。そうすれば相対的に量も減り、負担は少なくなるのだ。

「チッチッチ」

 舌を鳴らして指を振り、近くの白と黒のツートンカラーで決める猫の注意を引くが、一度こちらをチラリと窺ったきりで、そっぽを向いてどこかへと去ってしまった。

「エージはなんかもう、喰ってやろうって感じが丸出しなんだよね」

「猫なんか食うかっ!」

 なにやら猫にすら構われず拗ね始める衛士は、メロンソーダの注がれるコップを手にとって喉を潤し、更に氷を噛み砕いて一休憩を入れてから、めげずに猫を誘う。

 しかし猫畜生は依然として衛士の半径一メートル以内に近づくことは無く、理恵が目の前にまで連れてきた猫にさえ逃げられる始末だった。

 ――心が傷ついて一時間後。

 時刻は一四時に差し掛かっていた。これから遊ぼうと買い物に行こうとしてもゆうに時間が有り余る昼下がりである。猫カフェを背にして、理恵は満ち足りたような、だがまだ次を楽しみにするように、

「どこへ行こうかなぁ」

 などと呟いて実は無計画であることを露呈しながら、衛士を傍らにして歩みを進めた。

 大体予想が付いていたことだから彼は特に文句を垂れることも無く、背を叩かれればソレを甘んじ、腕に抱き付かれればそれを拒まずに歩き、やがて前にするのはまた駅近辺の百貨店デパートだった。

 向かうは第三階層に埋め込まれるブティック。そもそもの目的はここなんだよねぇと嘯く理恵に二度見をかましつつ、衛士は彼女に着いていった。結局拘束されることは変わりなく、暇でありながらも彼女に付かなければ怒られるからだ。そんな理不尽な怒りを被るのは勘弁してもらいたいと心底願う衛士は、最低限それを回避するために理恵の機嫌をとっていた。

 だがそれ故に調子付く理恵は彼にカゴを持たせ傍若無人の限りを尽くすように、服やその装飾品である小物などをそこに突っ込み、抵抗せず口を挟まぬ衛士はそれ故に荷物を持たされ続ける。残るのは右腕に覚える筋肉疲労と、空白の時間がもたらす思考力の脆弱化であった。

 特に女性客が多いブティックである。次に目立つのはカップルの姿だ。男性客単独で見ることは決してなく、あ、と思って男を二度見してみたりするがそれが店員であったことはざらにあった。

「どっちがいい?」

 衛士に向き直る彼女の手には、二着の洋服が吊るされていた。片方は襟と裾に紺色の二本の線が入り、胸元のリボンが特徴的な長袖の白いワンピースで、もう片方は肩が丸出しになる、黒色のワンピース。対称的な印象になるそれらをそれぞれ身体にあわせて見せて、彼女は衛士に尋ねていた。

 彼は頭の中でそれぞれを、着せ替え人形のように理恵に着せてみてから簡単な思惟をする。また下手な事を言うと素直な答えだとしても文句を言われることは必至であるからと、額に冷や汗を浮かばせた。

「白いほうは姉さんにしては子供っぽい気がするし、黒いのは派手じゃない? まぁ、どっちも似合うだろうケドさ」

 無難な答えだと衛士は思った。実際にその二つは、ずばりこちらのほうが良く似合っていらっしゃると褒めちぎるほどのモノではないのだ。だからといって無下に流すことは出来ず、故の発言である。

「んー、そうかー」

 服を吊るし直し、口元を手で隠すようにして身を引いてから服の羅列を全体から眺める。その行動の後暫し硬直して、手が右から左、左からやや右へなど何を手に取ろうか迷い、列を移動しまた別の場所にきてはそれらを繰り返してようやく、一着を手に取った。

 灰色が地の色になっていて、両肩の位置から大きな縦に長いひし形が連なって裾まで延びる柄を持つカーディガンであるそれを身体にあわせ、再び彼女は衛士に尋ねる。

 下に着ているのがそもそもタンクトップにサイズの大きいシャツの重ね着であるから、カーディガンによってなにやらアンニュイな姿になってしまっているが、他のものを合わせてきれば中々に似合うのではないかと彼は考えた。

 その旨を伝えると、彼女は、それじゃあ! と笑顔でそれをカゴに突っ込み、彼の手を引きレジへと促した。どうやら返答は見事なものだったらしく、彼女の機嫌は最高潮に達しているらしい。衛士は携帯電話で時刻を確認してから、ほっと息を付いた。

 アナログ腕時計は短針を三に、長針を六に伸ばす。体感時間と常識と店の開店時間を考え白昼夢の可能性を除けば現在の時刻は一五時三○分なのであり、つまり恐らくこの買い物が終われば帰宅できる可能性がグンと高まる。少なくとも低下する可能性は確実に無い。それは寝起きに欠伸が出るくらいの確実さを持っていた。

 仲睦まじい恋愛関係の男女であるならばもう少し百貨店を無目的でうろうろぶらぶらとまるで肥満体型のダイエッターの如くウィンドウショッピングへとしゃれ込むのであろう。そしてそれから少しばかり洒落た、ないし雰囲気のあるレストランで食事を済ませばデートは半ば成功と言えるだろう。

 しかし衛士と理恵は喜ばしいか、悲しいか。無論そんな関係ではなく、互いに好きあっていると仮定してもそこに恋愛的な意味を持つ愛は存在しない。

 会計している理恵の後ろから端数である二八円を差し出して、お釣りを貰い、商品を受け取ってブティックを後にする。

 そこから少し歩いたところでベンチが背中合わせで五つ並んでいるのを発見し、彼らは何の合図も意思疎通も無しに座ろうという共通意思を持って、ひと言も交わさない内に互いに並んでそこへと腰を落とした。

「あっはー、金欠! それでいて喉が渇いたわねぇ」

 軽くなったサイフを肩に掛けるバッグにしまいながら彼女は口にする。衛士は座ったばかりの所で言われたものだから少しばかり疲労感を覚えるが、いつもの事だからこの程度で一々ストレスを抱えていられないと立ち上がり、尻のポケットから財布を取り出した。ポジティブでお気楽、頭空っぽにして言いなりにならなければならない。

 衛士は少なくとも、短命はお望みではないからである。

「何がいい?」

「炭酸! オレンジの」

 それが当たり前のように彼女は答える。慣れたものだし、そもそも衛士自体がそれを当たり前だと認識しているから、そのまま返答を受け止め反芻して忘れないように記憶する。

「無かったら?」

「コーク!」

 注文を受けて、そこから少し離れたエスカレーターまで歩みを進める。人通りはやはり土曜日であるから多く、華麗なステップで人を避けなければ誰かに肩をぶつけてしまいそうな勢いを孕んでいた。

 子連れにカップル、友人と、なんて姿が殆どであり、大変賑やかだ。

 衛士はそんなお客達に辟易しながらも隙を縫っては進み、やがて自動販売機の前に到着した。

 サイフから五○○円硬化を取り出し、投入。途端に商品のサンプルの下にある選択ボタンが光りだし、衛士はオレンジの炭酸飲料を探し出した。次に続けてビタミン系の清涼飲料水を購入し、それらを小脇に抱えておつりを財布に仕舞い込み、来た道を戻る。

 そのまま歩いていると、そもそもベンチの周囲状況を良く覚えていなかったためか、このまま進んでいて良いものかと不安になった。

 人波に馴染みすぎて危うく見過ごしそうになるベンチであるそこは、だが確かに先ほど腰掛けていた場所らしい。慌てて歩みを緩めて進路を変更し、ベンチへ近づいた。

 彼がその場所を通り過ぎかけたのには、他にも似た場所が多いことと、もう一つ重大な理由がある。

 常識的に考えて待っているべきである其処に、理恵の姿が無かったからである。

 もしかしたら本当に通り過ぎて一つ向こう側のベンチに来てしまったのかもしれない。もしかしたら手前のベンチで止まってしまったのかもしれない。衛士は出来る限りそうであって欲しい可能性を頭の中に走らせるも、すぐ近くに先ほど寄ったばかりのブティックを見つけて嘆息した。

「自分勝手な人だ!」

 放浪癖があるわけじゃない。ただ少々、気紛れなだけなのだ。

 衛士は肩を落としてからベンチに腰掛ける。もしかしたらトイレに行っているだけかもしれないからであり、少なくとも数分はここで待機しているという選択のほうが確かなはずであるからだ。

 ――五分が経過する。

 理恵はまだ現れない。衛士は大きいほうなのだと理解した。

 ――それからさらに十分が過ぎていった。

 理恵の姿はちらりとも見えない。腹痛が悪化しているのだろうと衛士は心配した。

 ――さらに十五分が経ち……。

 彼の頭の中で二つの選択肢が新たに現れた。

 探しに行くか? ここで待つかの二つである。

「いいや、限界だッ!」

 かくして彼は、理恵失踪から三○分が過ぎたところで行動を開始したのである。

 ――まず向かうのは彼女が行きそうであり、そこからそう離れた位置にはない本屋である。読書家でも文学少女でもない彼女がこの場所を好む理由は、漫画が好きだからである。小説的な活字は苦手でも噴出しの長文は難なく読める。そんな彼女であった。

 だから小難しい、つるだかつただか分からない漢字を起用し店名にする本屋へ足を踏み入れ、まずは少年コミックスコーナーへ向かう。大股で距離を縮めて、やがてその本棚がある通路を覗いてみるものの、やはりそう簡単に都合よく見つかるはずも無く。

 青年コミックスコーナーも同様で、ならば両手で遮るような中に”一八”と書かれたマークが特徴的に描かれる黒地カーテンの中へと入ってみようかと思ったが、そこに居たら居たで恐らく気まずいだろうと考え、雑誌類が陳列されている方向へと向かう。

 服やアクセサリー、髪型などに関する種類のものではなく、週刊、月刊漫画雑誌の新刊が並ぶ場所。

 果たして彼女は、そこに居た。

 分厚い、彼女の手には主にであろう厚さの雑誌を両手で支え、その指先に買い物袋をつる提げる。顔は俯き本に集中しているらしいが、

「ねぇ無視しないでよー」

「漫画より面白いことしない?」

 なんて事を周りで囁く男が二人、随伴するようにしていたのが気がかりだった。

 一人は頭が金と茶とが混じったような色の頭をし、不気味な画が印刷されるバンドTシャツのようなモノを着て、穴だらけのジーンズを穿く。今時の若者と言うような雰囲気を醸しだす二人は、そんな似たような格好をしていた。

 ――理恵は漫画に集中するも、ページは一向にめくられない。

 いくら難解な特殊能力が出現したとしても、それを理解するためにはそのページだけを凝視するのではなく一つ前に戻ったりする筈である。

「ったく」

 衛士はやがて彼女の心情を察すると大きな溜息だけをその場に残して、大股で胸を反らせ、彼に出来うる最大限の険しい表情を顔に携え男たちに肉薄――する前に、慎重派である彼は棚に砂時計を置き去りにした。

 それから歩みを進めると、やがて男たちは彼に気付いたのかちらりと視線を流し、その足が確かにこちらへ向かっているのだと理解すると、顔を見合わせ様子を窺うようにしてから道を開けた。どうやら悪意は無いらしく、衛士は彼らのそんな行動を意外だと思いながらも、やがて彼女の斜め後ろに立ち止まってから、肩に手を乗せる。

「姉さ――」

 男たちは喉を鳴らしてそれを見守った。

 衛士は見事な自分の活躍に誇らしいという喜びを抱いていた。

 理恵はその瞬間に何倍にも膨れ上がった恐怖によって肉体の制御が効かず、半ば無意識に、振り向き様に肘を振りぬき――。

 鼻筋に鋭い衝撃が突き抜ける。激痛は脳に届かんとして、視界は明暗を逆にする。

「んがぁっ!」

 情けない叫びを響かせ、やがて衛士の足元はおろそかになって、なぜだか自分の足に足を引っ掛け後ろにすっ転ぶ。受身も取れぬ身体はそのまま背後の棚に首筋を叩き付けるような形になって――衛士の意識と視界は、朦朧としてきていた。

「あー、俺たちが悪ぃのかな」

「ごめんな少年。多分その大打撃は俺たちのせいだ」

 通路を塞ぐように倒れる衛士に、屈みこんで言葉を掛ける男たち。やはり彼らは何か本質的には良い人間なのだと衛士は理解した。やがて理恵の声が聞こえるが、それはもう彼には届かない。

 意識はそっと、その場を後にした。

 ――かくして時間は、砂時計を棚に置く手前にまで遡り……。

「――ヒドイ目にあった……」

 結局男たちと和解して理恵に声を掛けた衛士は、再び肩に手を置いた。その瞬間に懲りず飛来した肘鉄は迷わず鼻筋を打ち抜き、その五分前と全く同じ状況を作り出してしまったのだ。唯一違うといえば、衛士が倒れず踏みとどまり意識を必死に抱きかかえ逃がさぬようにしていたところだろう。

「だーかーらー、ごめんーって!」

 彼らはフリーの美人をナンパする事によって自身の魅力を競っていたようだ。だから衛士の、弟の存在を認識し、その上彼女の余りにもな生娘ぶりを確認してようやく手を引くことを決めたらしかった。

 そんな暇の潰し方にはやや同意できないものの、素直で悪意はあるようでない言動に衛士は既に心の中で彼らを許していた。

 鼻にこよりにするティッシュを突っ込んで溢れる血液をせき止める。息苦しくなり、口の中に鉄の味を覚えるが、もう暫くすれば血が止まるだろうから今は我慢するしかないのだ。

「いやー、でも私も公式で美人に認められてるってワケだよね。もうエージがどうこう言ってもこの事実は覆らないわけだけど?」

 彼女が席を離れた動機はちょっとした悪戯心。衛士が自身の姿を視界内から喪失させた後、一体どういう行動に出てくれるのか見てみたかったというものである。

 最初は呆然とベンチを眺め、座り込んで魂が抜けたように制止していた姿を間抜けだと押し殺すようにえらく笑っていたそうだが、五分経過しても動く気配が無いのを見て飽きてしまったらしい。そして衛士が自身を見つけてくれるまでの暇つぶしに読書へと洒落込んでいる最中に声を掛けられ、動けなくなっていたという事だった。

「外観が”ミス”と呼ばれるくらいでも、中身が俗だと見透かされるって何かで言ってたよ」

「誉めてるつもり?」

「……好きな風に捉えればいいよ」

 溜息をついて鼻からティッシュを引き抜くと、既に血が乾いていたのか鼻腔内に張り付き少しばかりの痛みが走る。衛士はもう一枚取り出し勢い良く鼻をかんだところで、大きく伸びでもするように立ち上がった。

 痛みなどはとうの昔に引いている。動くのに問題は無いが、激しい運動は抑えておいた方が良いと身体のだるさから理解し、ゆっくりと胸の奥底から息を吐く。傍らに立ち並ぶ理恵は何が嬉しいのか彼の横顔を眺め口元を緩ませ、上気でもさせたような薄桃色を頬に広げていた。

「夕飯は何が食べたい?」

「何って……希望を述べても母さん次第だろ?」

「今日はめでたいから外で食べて来なさいってお金貰ってきた」

「めでたい?」

 外食出来るのは確かにめでたいことだ。だが”めでたい”とはその”めでたい”ではなく、他に何か”めでたい”と思わせる要因があるから”めでたい”のであり、しかし今の衛士にはその要因に思い当たるものが無く、だから頭の中は軽い混乱症状に陥っていた。

 しかし貰った金を律儀に取っておくなんてのは、理恵にしては珍しいことである。いつもの彼女ならば使った後に、取って置かなければならなかったことを思い出すのだ。買い物を頼んだときも、いつも自分のものに金を使って帰ってくる彼女だから、それが衛士が混乱するその背を押したきっかけにもなっていた。

「何がめでたい?」

 答えない彼女は、気がつくと奇妙に複雑な表情を作っていた。

 衛士はこの状況について更にワケが分からなくなって、頭を抱えた。

 困ったり混乱したり気まずくなったり――つまりそれは、自分に対して不利になったり疑問を解消できなくなったりする際に抑えられずにする癖のような行動であり、自身の持つ情報のみでは処理しきれなくなった事を親しい仲の人間に知らせるものでありもした。

 理恵はそんな彼を見て、全く困った弟クンだなぁと、年上であり姉である事実を見せ付けるようにして背中を叩き、

「エージが家に女の子を連れてきたからだよ」

「勝手に来たんだよ」

 ――同級生であるものの感覚的には初対面の少女が、である。そして彼女の背景やら心情やらを考えると拒みきれない自分も自分で悪いのだが、周囲……というか両親はそれに過敏になりすぎている。確かに今まで女ッ気というものがさっぱり綺麗に無かったからかもしれないが、本人よりも浮かれているというのはそれで問題な気がする。

 そもそもオレはただ流されただけのような気がする。ただ外見が似ているだけで彼女がミシェルに関係があると勘違いしてそのまま話を進め、そして引き返せなくなったところでそれが違うことに気がついた。泥沼だ、と思い返してうな垂れ肩を落としたくなった。

 衛士が言い返すも、理恵は既に言葉を耳に入れておらず、自身の腹具合だけを心配していた。

「でもまだ四時過ぎなんだよねー」

「あー、二階にゲーセンがあったし、其処に寄ってから適当な時間になったらご飯食べに行けば良いんじゃないかな」

「そういえば四階がご飯食べる所だったよね。外に出るところで食べる?」

「ノー。日差しがきつい」

「っさいわねー。私が食べるって言ったのよ。夕方で夕日が鋭く冷たい風が吹く外で一緒に食べるの!」

 ――都合がいいとは自分でも思うが、彼女の、先ほどの申し訳ないという心が既に失せていることに気付いてオレは少し残念だった。姉さんに謝罪されるなんてのは一年に一度あるかないかの事である。知っている人間の中で特に謝るというのが嫌いな人だから、そんな思いがより強くなるのだろう。

 何によって腹が立ったのか分からない彼女は声を抑えて怒鳴りつけると、そのまま衛士の手を引いて下りのエスカレーターへと誘った。文句を言いつつも何だかんだで衛士の提案を受け入れているように見えるのだが、ただ単に彼女の興味がそちらへ向いただけだから彼は素直に喜べない。

 ――結局それから三時間以上を夢中になってゲームセンターで過ごし、店員が寄越した紙袋に大量のヌイグルミやらストラップを詰め込んで、百貨店内に埋め込まれるファミレスへと二人は足を向けたのだった。

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