初日
世界は限り無く平和だ。
現代社会では流石に戦争と言うものはなくならないが、知る限りでは紛争程度しか起こっていない。それも日本から遠く離れた異国での出来事であり、極めてオレとは無関係だ。
「テスト終了五分前、クラス番号氏名の書き忘れが無い様にしっかりと確認すること」
そんな事を考えながら解答欄の半分を埋め終えた所で集中力を力いっぱい引きちぎるやる気の無い声が耳に届き、短く息を吐いた。少年は目に掛かる髪を掻き揚げながら、そこだけが丁寧な氏名欄の『時衛士』を二度、三度確認し、もう一度大きく嘆息する。
秒刻みでリズムを取る指先は解答用紙の上から机を叩き、それが二○○近く繰り返された中で、不意に音が途絶える。直後に彼は机の中に手を突っ込むと、その中で倒れた”砂時計”を掴み、手の中で微妙な重さを理解しながら砂が溜まっている方を上にしてガラスのくびれの部分をつまむ様にして持ち直し、体勢を崩して床に置く。慣れた手つきで行う彼を横目に、隣の席に座る男子生徒は大袈裟に腕で解答用紙を覆い隠した。
それから程なくしてテスト終了の合図である終業の鐘が校内に響き渡る。彼は担当教師の指示に従って彼は立ち上がり、解答用紙の回収を迅速に行った。
「おいエイジ、出来たか?」
壁に沿わせるように置くカバンの中から教科書とノートを手に席に着いて、テストの復習とばかりにそれらを机の上に展開。血眼で暗記するように答えを凝視する彼の肩を叩くのは、その友人であった。が、彼はその言葉に返答することも反応することも無く、ただ指先でリズムを取りながら、先ほど埋められなかった解答欄の問題を思い出しつつ答えを暗記していた。
短髪を掻き毟り首を振る彼は、「勉強熱心なことで」と一つ溜息混じりに呟くと衛士から離れ、他の友人の下へと歩み寄って離れていった。
砂時計の砂はあと数秒もすれば完全に落ち終わる。そんな頃になってようやく彼は顔を上げ、
「勝った!」
ざわめく教室内が一瞬にして静まり返る程の、叫び声に似たその勝利宣言は彼の起立と同時に放たれて――。
次の瞬間。ただ一度のまばたきによる世界の暗転の直後。
教室内は完全なる静寂と適度な緊張感に包まれていた。先ほどまで出歩いていたクラスメイトは机を凝視するようにして皆席に着いており、さらに時衛士は机の上に雑に捨てた筈の筆記用具を手に半分が空欄の解答用紙を睨んでいた。
その内容は、つい先ほどまで解いていたテストと相違ないモノであって――彼は口元に嫌らしい笑みを浮かべながら、素早く覚えたばかりの解答を、その空欄に書き込んでいく。
それから間も無く、二度目の鐘がテストの終了を伝えた。
口々に堕落の言葉を吐き続け、やがてそれが耳に心地よいざわめきになる頃、彼はつい先ほどとは違う緩慢な足取りでテストを回収し、自分の席に戻る。カバンを机の上に叩きつけるように置いてあけると、彼は机の中に手を突っ込んで、砂時計を掴んだ。
「おいエイジ、出来たか?」
軽く肩を叩く友人に、衛士は笑顔で振り返る。そんな表情を見て彼は嫌味だな、と顔を引き攣らせた。
「このオレが出来ないとでも思ったか?」
砂時計をカバンに仕舞い、それから筆記用具を突っ込んで立ち上がった。
「どっか行く?」
「そーだなぁ、でも山田、お前部活あるんじゃなかったっけ?」
あ、と思い出したように間抜けな声を上げる彼に、衛士は肩をすくめて苦笑する。山田は既に帰り支度を済ませており、スポーツバッグを左肩に掛けて両手はポケットに突っ込む格好のまま顔を伏せるように前屈みになって唸り、
「エイジ悪い、俺行くわ」
ポケットから抜いた手を挙げて、彼はそそくさと教室を後にした。
――セミの声が聞こえ始める季節。高校二年の中間テストはそれを最後に終了した。
「くははっ! 常勝すぎて笑いが止まらん!」
つい数ヶ月前まではテストなぞは未解答で提出するのが世界の常識だと思い込んでいた彼は、笑いがなら限り無く楽しそうに人通りの多い廊下を闊歩した。本来の目的も忘れて不正行為にばかり手を染める彼は、その中でどうしてこんな幸せな気分で居られるのだろうかと考える。
そう、それは今から約一ヶ月前――高校二年生に進級した春の出来事である。
「あんた、また何か頼んだの? 大層な封筒が届いてたわよ」
入学式から帰宅するとまず出迎えたのは、母親のそんな台詞だった。
「は? いや、何にも注文んじゃ居ないケド……」
「まぁなんでもいいけど、部屋に置いといたから」
「だっ、勝手に部屋に入るなって! いつも言ってるだろ!」
口元に手を当てながらも笑いを零す母を背に、衛士は見に覚えの無い品物を頭の中で思い描く。だがどうにも最近は通信販売を利用した覚えも無いし、懸賞に応募した記憶も無い。だから何かが届くわけも無い筈だった。中学卒業と同時に引っ越したから旧友から何かが送られてきたのかもしれないとも考えたが、その友人等に住所を教えていないことを思い出す。
「じゃあ何なんだ?」
その答えを待ちきれなくなった彼はその半ばから階段を駆け上がり、廊下に到達したところで取っ手を掴み自分の身体を引っ張るようにして加速。そのまま突き当たりにある自分の部屋に駆け込んだ。
ドアノブに手を掛け、捻り、扉を突き破るようにして身体全体で押し入る。大きな音を立てて扉は壁に叩きつけられて、彼はその反動で跳ね返されて吹き飛び跪く。その瞬間の事である。
急に、人の気配が強くなったのは――。
「トキ・エイジさんでお間違い無いですね?」
跪く彼の脇に立つ少女が居た。紡がれる声は空間内の全ての障害物に染み渡るような、透き通る声音だった。素直に耳に入り込むその言葉はただの本人確認だけだったのだが、それでも彼はその台詞を理解できずに居た。
不意に声を掛けられた驚きで心臓を激しく高鳴らせながら、大きく息を吸い込んで立ち上がる。彼は声がした方へと向き直ってその主を見据えた。
「お届けモノですが、この道具を扱うには専門的な”慣れ”が必要です。その為に不躾ながらもお邪魔させて頂きました。少しお時間をお借りいたします」
日本人離れした琥珀色の瞳が衛士を捉える。
彼女はその身体に張り付くウェットスーツのような衣服だけを着込み、一体化しているようなブーツを履いたままそこに立つ。漫画に良く出てくる強化服のようだと彼は思いながら、はっと我に帰って飛び退く様に身を構えた。
「だ、誰だアンタは!」
何故この部屋に居るのかは今理由を述べられたから聞かなかった。土足で上がり込んでいるところを見ると外国人なのだろうと適当に考えた。だがそれを踏まえても明かに異常な事態だったから、彼はそう聞かずに入られなかった。
常識はずれだと心の中で叫びながら、彼の瞳はウェットスーツのような素材が故に形が丸々分かる豊満な乳房に釘付けだった。
彼女は透き通るような金髪の上に疑問符を浮かべながら、衛士の視線を受ける乳房を掴むと、おもむろに左右それぞれを揺らして裏声を上げた。
「私ハ乳デアル。名前ハ未ダ無イ」
それから手を離す。と支えを失ったソレは大きく揺れてから、彼女は再び衛士へ顔を向けた。
「私はミシェルです」
その行動から、彼は彼女をとんでもない人間なのだと理解、認識する。それと共にもう一歩分退くと、彼の背は廊下へ向いた。
動揺、それと恐怖。言い知れぬそれらを感じた彼は本能的に逃げを選択しようとする。だが単純な好奇心が勝り、それを一歩手前で押さえつけていた。
だから言葉は口をついて、会話を続けてしまう。
「……その、道具ってのは何なんだ?」
「先に説明致しますと、砂時計です」
彼女が背にする位置には勉強机がある。最もそこは勉強をするためには使用されて居らず、ただパソコンが据え置きされているだけであった。そしてそこに置かれる、粗品と書かれた箱を彼女は取って見せた。
「粗品って……」
そんなものを送って、さらに使い方を教えるために上がり込んだのか? だが砂時計を利用するのに専門的な慣れが必要ってなんだよ……。彼は心中で愚痴を零しながら、箱を開けて、やがてどこにでもあるような砂時計を取り出すその手元を凝視した。
箱を机の上に戻し、砂時計――と妙な一枚のカードはその手の中に。彼女はそれを見せるように外枠をつまむように持つと、説明の為に口を開いた。
「これ以降の説明には驚かないで口を挟まないで下さると好ましいです」
「はい」
「ありがとうございます。ではこの砂時計、五分間測れる品物なのですが……この砂時計で五分を測り終えた直後、自動的に五分巻き戻ります」
「意味が分かりません」
五分巻き戻る。それはつまり、砂がもう片方に溜まるから直ぐに五分計れますということなのだろう。だからなんだというのだ。一度しか使用できない砂時計なぞ聞いた事が無いから、それが当たり前の筈だ。
ふつふつと湧き上がる疑問と怒りを胸に抱くと、彼女は首を振る。そうして半歩右側に寄ると、机に置かれた白い小さな箱が見える。ミシェルはその上に砂時計を置いて、その五分を測り始めた。
「この砂が完全に落ち切った瞬間、全世界の時間は”砂時計を使用する直前”まで巻き戻ります」
彼女は言いながらもう一歩横にずれて、デジタル時計を手で指した。促されてそこを見ると、時刻は一一時二二分。彼女の言葉が事実ならば、その時計が二七分になった瞬間にそれを認識する暇も無く一一時二二分に戻る筈である。
ミシェルは続いて、残ったカードを差し出した。それは運転免許証のような形式で、氏名と生年月日、それと”交布”の欄に今日の日付が刻まれてある。どこで入手されたのか顔写真も張られてあって――何よりも目を引くのは、『善行を一○○回積むまで有効』と青いラインが引かれる箇所に書かれる一文である。
何が有効なのかは分からない。しかしそれに、衛士は得も言われぬ不安を覚えた。
何かが理不尽だ。巻き込まれたような気がする。もう逃げられないと、直感が頭の中で囁いた。
「これはこの砂時計を使用する為の免許証です。関係者には貴方様がこれを使用することを連絡してありますが、念のため、です。それから残りの善行数の確認にも使用いただけます」
「この、善行云々ってのは……?」
「こちらは一応”仮免許証”となっておりまして、権限としてはこの砂時計の使用のみとなっています。正式な免許証を取得するために、ノルマである善行一○○回を積むことが原則なのです」
「ノルマ? 原則? やらなきゃ一体何が起こるんだ?」
プラスチック製のそれを弄びながら、疑問を呈する。彼女は涼しい笑顔で答えて見せた。可愛いなぁと頭の中でお花畑を構成し始める衛士の耳には、もう言葉は届かない。
「仮免許証と砂時計の剥奪に加え、それに関連する記憶の操作を行います。また記憶操作が不完全だった場合、貴方様の存在を隔離させていただきますのでご了承ください」
デジタル時計が二六分を示す。それに気付く衛士は不意に緊張によって胸を高鳴らせて目を見張った。砂時計はもう数十秒もすれば上の管から完全に砂が失せるだろう。彼女はそれに気付いて口をつぐみ、それ故に室内の張り詰めたような緊張感はより高まって……。
最後の一粒が流れて落ちる。その瞬間――何も起こらなかった。否、正確には衛士が予想していたようなド派手な時間の巻き戻しが無かっただけなのだ。
ミシェルは相変わらず棒立ちしたままであったが、砂時計は彼女の手の中に在り、ついでに言えば衛士が手の中で弄んでいた免許証は消失していた。彼女は横に数歩分ずれるとデジタル時計が見える。時刻は一一時二一分で、間も無く二二分に移行した。
――時間は確かに、砂時計を使用する直前に巻き戻っていた。
だが、だからなんだというのだろうか。使用した瞬間に五分間巻き戻るのならまだ使い道も分かるが、わざわざこれから五分間を体験した上で、体験する前に戻るなんてのは使い勝手が悪いのではないだろうか。
彼が口を開こうとする。だがそれを遮るかのようにミシェルはルージュによって肉感溢れる唇は言葉を紡ぐ。
「そしてこの砂時計の効果を理解する者は、体験した五分間の記憶だけを持ち越せます」
彼女の言葉から察するに、何も知らぬ人間は五分間が巻き戻ったという自覚はないらしい。
部屋は驚くくらいに静かで、彼の鼓動は、先ほどの高鳴りを忘れたように落ち着いていた。
「時間は流れの速さ遅さこそ個人によって違いますが、存在は誰にでも平等です。時間は観測者が居るからこそ存在し、貴方の身に”何があっても”進みますし、巻き戻ります。さらに、砂時計の効果を他者に教えるのは自由ですが、使用する許可を持つのは貴方様だけですので、お気を付けください」
「……他人に使わせたら俺にペナルティを課す、って事か?」
彼女はこくりと頷く。
衛士は信じざるを得ない信じがたいこの状況を仕方無しに、真実だと自分に刻み込む。だが当分は無理だなと、少し現実離れした、夢でも見るような感覚で接するように試みる。
「ペナルティの内容はその状況に応じて変わりますが、砂時計の計測時間が減ると考えていただければ良いでしょう」
――この砂時計を使えるのは衛士だけ。そして五分間しか計れず、巻き戻せない。必要なのは先を読む力……いわゆる、先見の明というモノだ。
出来るか? オレに。いや、普通に、常識的に使えば良いのだろうが……。
そう考える中で、彼女は何かを思い出したように手を叩く。衛士はそれに反応して、俯いた顔を上げた。
「砂時計を使用して不正行為に手を染めた場合は勿論ペナルティを課しますが、内容は善行のノルマにプラス三をする事となっておりますのでお気を付けください」
彼女はそこで深く一礼する。重力に引かれる乳房は再び衛士からの注目を受けるが、彼女は然して気にする様子も無く立ち直り、
「また本件に覚えが無い場合、誠に大変お手数ですが以下までご連絡をお願い致します。電話番号――」
唐突に、端的に機械的に明かに日本のモノではない電話番号を口頭で告げる。そんな突然の行動に番号を暗記もメモも出来るはずも無い衛士はただ呆然として、また一礼する彼女の胸に目を向けた。
「また正式免許取得まで担当がお付き致します。何か不備や疑問が有りましたら、仮免許証の裏に記載されている電話番号までお願いします」
では。彼女は満面の笑みで少女らしく手を振ると、「お借りしたお時間をお返しします」と最後に残して――。
一度のまばたきの後、部屋の中から彼女は消え去った。
机の上には、未開封の『粗品』と記された白い箱。その奥にあるデジタル時計は時刻を一一時一八分を示していた。
そんな僅か数分間の出会いが、事の発端である。
「ねぇトキィッ!」
「何の恨みがあってそんな力のこもった呼び方すんだよ」
ウキウキと肩の荷が下りたような気楽な気分で廊下を歩く。やがて三階から二階へと降りる階段に差し掛かったときに背中を蹴飛ばすような叫び声が彼の動きを止めた。
振り向くと女子生徒。見覚えがあるのは山田に積極的なアプローチをしている彼女だからであるが、山田には全く通じていない可哀想な女の子である。
肩に掛かる髪を乱舞し廊下を全速力で駆け抜け肉薄する。敵影だと思わず誤認した衛士は数段降りて手すりを背にし彼女が通り過ぎるのを待つ。と、間も無く想像通りに彼女は通り過ぎ、まるで効かないブレーキでようやく立ち止まると再び衛士の下へ急いだ。
「や、山田クンは!?」
空気を貪るような呼吸のせいで肩が激しく上下する。それほどまでに急ぐ用事とはなんだろうかと想像するも、どうせ山田とイチャイチャラブラブするための計画を実行するためなのだろう。
山田、という名字のせいで勘違いされやすいが、彼の顔面はかなり整っている。きりっとした目鼻立ちはステキで、すらりとした体型は締まった筋肉質。運動は勿論抜群にこなし、勉強もそつなく片付ける。これで女生徒から人気が出ないはずが無かった。
「もう部活に行った。……お前も随分と執念深いね」
「あら、執念深いとはお言葉ね。深いのは愛だけよ」
衛士が背を向けて階段を降り始めると、彼女は乱れた髪を正して呼吸を整え横に並ぶ。
そろそろ衣替えの季節のせいか、少し動くとすぐに汗が吹き出てしまう。だから制服も乱れやすくなってしまうし、生徒の半数以上は制服を崩して着る。だが彼女と山田だけは、去年から見ていて一度も妙な気を起こすことは無かった。彼女は山田の影響を受けているだけだろうが――などと考えながら、ネクタイを緩めてワイシャツの第一ボタンを外す。それから胸元を扇いで少しでも冷えた空気を服の中に送るも、冷却効果は薄かった。
「はぁ、またバスケ……。マネージャーにでもなろうかしら」
「なれなれなっちまえ。俺は一々お前に因縁つけられて精神的にキツイぞ。学校が嫌になるくらい」
「ちょっと、アンタねぇ、女の子に向ける言葉がソレ? だからモテないのよ」
――何か、奇妙なくらい嫌な予感がする。心臓にズキンと響く痛みがあるのが決定的だった。
彼はショルダーバッグに手を突っ込んで砂時計を掴む。それをすぐさま反転させ、雑に握る手の中で砂時計を作動させた。しかし慣れた様に顔は、会話の中で不自然にならないような表情に固めたままである。
「大体ねぇ……」
彼女は相変わらず彼の言葉に突っ掛かって愚痴を零し――その中で、不意に彼女の左肩が大きく揺れる。
「あ、悪い!」
背後から追い越し急ぐように階段を駆け下りる男子生徒はそれだけを残して瞬く間に姿を消す。彼女は驚いたように目を見開きながら体勢を崩し、衛士へ向いて縋るように手を伸ばす。が、既に段差に背を向けて踏ん張れない状況にあると理解した瞬間、延ばした指先はすぐさま拳を作り、悲壮に満ちた笑顔を見せた。
「中村ッ!」
馬鹿野郎と心の中で怒鳴りつけながら、衛士に迷惑を掛けぬ選択を選んだ彼女と、嫌な直感が現実となった状況に苛立ちつつ手を伸ばす。何よりも素早く差し出されたその手は槍のように鋭く彼女の腹部辺りを鷲掴んだ。が――無防備となる人体は想像以上に重量を持っていて、到底、運動も何もしていない彼が堪えられるものではなかった。
時の流れが遅く感じる。下腹部に、締め付けられるような鈍い痛みが走った。噛み締める奥歯がギリリと軋む音を鳴らす。指先に掛かる彼女の全体重が腕全体に纏わり付いて、引き寄せようとしても彼の身体が彼女に近づくだけだった。
――頭の中が妙に冷える。いや、正確には既に頭の中は冷え切っていた。
既に砂時計は使用している。だからここで彼女が死のうと大怪我を負おうと無傷であろうとも、結局は何事も起こらなかったあの時間に戻る。
だから衛士がここで彼女を護ろうとしても、逆に蹴飛ばそうとしてもなかったことになる。助けても彼女の記憶に残ることは無いし、彼自身が、人間として助けようとした、その選択を実行したという事によって自尊心は保たれる。
だから、もう良いんじゃないかと、誰かが心の中で囁いた。
時間が巻き戻っても、肉体の損傷は無かったことになっても、痛いと感じた記憶だけは残るのだ。
だから、もう――。
「違う! でも、まだ――だッ!」
叫び、彼は全ての力を腕にこめて彼女を引き寄せる。最早状況確認をしている余裕は無い。倒れた体勢が危険な角度だったから、入射の瞬間に後頭部を叩きつける危険性があったという事しか認識できていない。
やがて彼女が衛士に近づいたところで、今度は彼が壁に背中を叩きつける。そうすることで壁沿いに彼らは滑り――彼は体勢と整える余裕も無く横転。
段差に背を叩きつけ、身体が僅かに浮き上がった瞬間に今度は後頭部を叩きつける。衝撃が体内に駆け巡って、肺の中から全ての気体を吐き出させた。脳細胞が半分以上は死んだだろうと思う程の激痛が脳内に浸透したところで世界は白く染まりあがり、暗転。
「――大体ねぇ……」
そして時間は巻き戻る。
「だっから! うるせぇって!」
そして衛士は間髪置かずに並ぶ彼女の肩を掴み、力いっぱい引き寄せる。気分的には人命救助だが、その行動は客観的に見るに柄の悪いナンパ男のようだった。だから「初めては山田君に」なんて悲鳴じみた言葉を彼女は発して……直後、慌てたような高速度で階段を駆け下りる生徒が通り過ぎていった。
――頬に拳が突き刺さる。同時に悲鳴が鼓膜を貫いた。
「へ、変態! ド変態! クソムシ! そう言う人間だとは思わなかったわ……弱みに漬け込んで力任せになんて……馬鹿ぁ! 山田君にいいつけてやる!」
廊下の中腹辺りで怒鳴りつけられ浴びせられる罵詈雑言は、そこだけに留まらず周囲数十メートルに響き渡る。故になんの騒ぎだと詰め掛けてくる野次馬魂逞しい人間が集まってきて、それにバツが悪くなったのか、中村は人垣の中に飛び込むようにして逃げ出した。
間も無く姿は見えなくなって、残された衛士は、一つ脱力の息を吐く。
「畜生、誰か慰めてくれ」
心が折れそうだと嘆くが、最早彼の精神は幾度かの鍛錬によって鋼に変わっていた。だから彼が思うより彼の心は下手に折れたりはしなかった。
時衛士の周りには周囲を見ない人間が多い。だからこそ、命に関わる危険ごとが奇妙な程に多かった。今のがその良い例である。
そして衛士は、今回の事がきっかけでようやく身体を鍛えようと決意した。
「なんで体感した五分を巻き戻すんだよ……巻き戻したいときに五分巻き戻すので良いじゃんか!」
もう痛いのは嫌なんだと頭を抱えて衛士は嘆く。その右手には、薄いプラスチックカードが握られていて――残りの善行数は、一○五で止まっていた。
だが幸いなのは、善行をするのに砂時計を使用しなければならない、という原則が無いことだろう。だから年寄りに好意で席を譲っても、道に迷う外国人の案内をしても確実に善行を一つ積んだと認識される。免許証に刻まれた数は、その行動を終えた瞬間に自動的に一つ減った数に修正される。
また、不正行為に砂時計を利用した場合は、悪意を持って砂時計を作動させた瞬間に数が三つ増える。
現在、衛士が知っているのはその程度の情報だけであった。
どこからが善行なのか、世界を救う行為でもたった一つの善行なのか。そこだけは知っておきたかったが、見知らぬ番号に電話を掛けるのは気が引ける程度の警戒心を持ち合わせる彼は、妙にそこだけを拘って、未だに電話を掛けられずに居た。
『私立・霊成学園』は広く大きい閑静な住宅街を抜けた先にある。住宅街から少し進むとアーケード街があって、そこを過ぎると大きな百貨店が良く目立つ駅前に到達する。ここまでが約三○分であり、衛士の自宅はそこからさらに真っ直ぐ進んで十五分程の場所にあった。
当ても無くアーケード街をぶらつき、その中の本屋で新刊を漁って購入。散策もやがて一時間が経とうとする中で、衛士は空っぽの胃が悲鳴を上げるのに気付いて空腹を理解する。だから、さて帰ろうかと本屋を後にし、アーケード街を抜ける。
そこの入り口はまず右側に伸びる一車線の道路があって、正面には徐々に幅広になる二車線歩道付きの道路が視界内に広がる。駅に向かうには、ただ車の往来だけを気にして歩道に入り、真っ直ぐ歩けば良いだけだった。
衛士はまばらなになる人の行き交いの中に割り込んで歩道へ。やがて車道と歩道を隔てる縁石が顔を出して安全性を確立させていた。時間が経ったせいか制服姿はとんと見かけなくなり、見かける影は買い物帰りの主婦や昼食に出かけるスーツ姿の会社員が殆どだった。
やがて車の通りが相も変わらず多い駅前を抜ける。
しばらくして、右折するために信号が青で点滅する横断歩道の前で立ち止まる。走って渡れば赤になって数秒程度の所で向こう側にたどり着けたであろう距離なのだが、空腹が彼の足を重くしていた。
帰りは怠惰を極めよう。そう頭の中で宣言していたのだ。
車道の信号が赤から青に移り変わる。エンジンを唸らせるバイクを口火に、発進しても良いという合図をまっていた後続車はここぞとばかりにモータを唸らせ滑るように道路を走った。
――その中で、頭の中で羽虫の蠢きが鮮明に浮かび上がるような不快さが彼を襲う。衛士は慌てて、震える腕をバッグに突っ込み、砂時計を地面に置く。その時点から五分間は計測され、本来感じる一秒が二秒にも三秒にも感じられる緩慢な時間の流れを覚え、衛士は大きく息を吸い込んだ。
体内は僅かな安堵を得て、目を細めて信号を睨む衛士はただ何事も起こらずにソレが青になる事を祈っていた。その時点で周囲を確認することこそが、本来自分に出来て、しなければならない事だと言う事も忘れて。
「後一分……」
しかし何事も起こらず、緊張に高鳴る心臓は落ち着きを取り戻し始める。同時に車の通りも静かになり始め――信号は黄色に移動し、やがて赤になる。
彼は安堵の息を吐いて膝から崩れ落ちそうになる。そんな彼の脇を、仲睦まじそうな親子……というよりは姉妹のような二人が過ぎて行った。透き通るような金色の髪を巻いてセレブさを醸しだす姉と、小学校低学年らしい内気そうな女の子。両者はそれぞれフリルのついたワンピースを着て優雅そうに横断歩道を歩いていた。
衛士が心臓を跳ね上げたのは、彼女等に心を癒された次の瞬間のことである。
ふと視界に入り込む、左側から走ってくる普通自動車。それは中央線を跨ぐ位置で走り続け、既に停止線からそう距離も無いのに徐行も減速もする気配が無かった。極めつけは、
「走れ!」
顔を伏せて動かない運転手が見えたことであった。
居眠り運転。衛士はそう確信して思わず叫び、道路に飛び出した。
ただ呼んだだけではその足を止めてしまう。否、恐らく殆どの人間が突然叫ばれたら、その内容に関わらずその場で止まってしまうだろう。しかし、せめてその危険から逃れる可能性があるならば――。
刹那――その思考は突如として掻き消され。
次の瞬間、彼の視界からはその車も、仲睦まじそうな姉妹の姿も消えてなくなった。
砂時計が規定の時間を経過させ、世界は砂時計に手をかける直前に戻っていた。
なら、もう後は彼女等に声を掛け引き止めれば良いだろう。出来る事は、しなければならない事はそれだけだ。
衛士がそう考えて安堵するのは、それが今まで通用したからで、今回もそうだと信じていたからだ。
しかし胸に渦巻く不安は未だ拭えず、下腹部に奇妙な違和感を覚えたままだった。
「……まだ、何かあるって言うのか?」
顎に手をやり、砂時計を片手に考える。
本当にそれだけか……? いや、違う。もっとだ、もっと深く考えろ。
あの――居眠り運転に姉妹が轢かれた直後の展開。否、今回は姉妹が轢かれなかった場合だ。衛士が何もせず声も上げず運転手が居眠りに落ちる中で、彼はどこで、そしてどうすれば覚醒するのか。そこが今回で一番重要になる。
思惟の最中で信号は青から黄色に移り変わり、衛士は無数の展開を頭の中に思い描きながら、地面に砂時計を置く。すると背に、先ほどまでは余裕の無さから感じられなかった気配を覚え、彼はちらりと背後を窺った後、知り合いでも見つけたような気軽さで振り向いた。
それに気付いて衛士を捉えるのは、青藍色の瞳。不信感を抱いていると表現する細い眉はしかめて眉間に皺を寄せる。前で組む手を解いて口元に伸ばすと、恐る恐る、彼女は疑問を呈した。
「あの……何か?」
この平凡な街には似つかわしい外観を持つ女性は、しかし衛士とは然程年齢が離れているようには見えず、大人っぽい少女といっても差し支えはなさそうだった。
長い髪は幾本かに分けられ縦に渦を巻き、上品そうな雰囲気は彼女の背に隠れる子どもからも伝わってきた。
初めて出会ったという気がしない。何か、因果的に繋がりがあるのではないかという程、彼女には見覚えがあった。しかし彼女がどこの誰なのか分からず、またどこでいつ出会ったのかすら思い出せない。恐らくテレビか何かで彼女に似た人物を見ただけなのだろうと結論付けて、間を空けてから、衛士は口を開いた。
「あ、いやぁ、特に用と言うのはないんですがね。実は――」
刹那、全ての音を掻き消す警笛が耳に劈き――間も置かずに、ついに反対車線飛び出してしまった車と、本来通るべき道を走っていた車と瞬く間に距離を縮めた。クラクションは絶えることなく、停止している車に肉薄する対向車はなす術も無いままに、車を降りて歩道へ避難。そして残された車へと、居眠り運転士は速度を落とす事無くそのまま縁石に側面を擦り火花を上げながら、その車の正面から衝突した。
凄まじい爆音が周囲に衝撃波の容易に走り、衝突の衝撃によって浮かび上がる車体は、縁石を乗り越えて衛士を含む姉妹ら三人の目の前へ飛び出し、襲い掛かる。
身体が硬直する。
何かを思考するよりも早く、空中で横転する車の側面が頭を弾き飛ばした。酷く簡単に、衛士の首はひしゃげて意識は途絶え、無防備になる肉体を、車体は無慈悲に巻き込んでいく。
何が起こっているのかすら理解できていないその姉妹は悲鳴を上げることすらままならず、ただその背後に通りかかったサラリーマンによって後ろに引かれ距離を取り、やがて車が横断歩道の正面にある建物に突っ込み大破するのを見届けた。が、その光景が彼女等の記憶に確かに刻まれたのかは定かではなかった。
そこから約二分が経過して――。
「畜生、どうすりゃいいんだッ!?」
生命と意識を蘇らせた衛士は叫び、砂時計を地面に置く。頭を抱えて地団太を踏みたいところだが、そんな時間的余裕は存在しなかった。
車道の信号が赤に変わる。
――三度目の正直だ。
「あの、どうかされましたか?」
優しい声が背中に降り注いだ。
砂時計を地面に叩きつけながら振り返ると、彼女は驚いたように身を引いた。だが構わず、衛士はその怒りと恐怖と悲壮を混じらせた表情を解けずに言葉を紡ぐ。
「一生のお願いだ、ここから離れていてくれ!」
怒りに任せて、恐怖を抱く心を誤魔化すように喚き散らす。驚愕か恐怖か、そのいずれかに表情を染める彼女はただ呆然とするように衛士を見詰める。そんな彼女に心の中で地面で額をすり潰しながらその場から離れて道路に飛び出し、やがて見えてくる居眠り運転の車へと走り出した。
「起きろ起きろ起きろおおぉぉぉぉッ!」
一度死んだ。その事実は記憶として刻まれた。
そしてその時の、瞬間の恐怖はまだ肉体に息づいている。傷一つ無いその側頭部に、強烈な打撃を受けたような痛みの余韻が残っている。
だから怖い。今すぐにでも縮こまって暫く一人きりで居たい。でもそれだけじゃ寂しいから誰かと一緒に居たい。そんな矛盾した気持ちが腹の奥底で膨らんだ。
彼の行動は既に常軌を逸する異常性を持っており、少なくとも今彼を理解できる人間は居なかった。だから道行く人々は足を止めて彼に注視する。視線は何よりも冷たいが、衛士はそれを気にする時間も、それに気付く余裕すらもない。
――車が見える。
運転士の頭は未だ俯いていた。
「テメェが起きてりゃ、平和なのによォッ!」
一つまばたきをすると、車はもうすぐ目の前に迫っていた。運転士の頭は、未だ下がっている。時間的な問題によって彼を起こすことはもう不可能で――身体は殆ど反射的に、右側の車道へ飛び込んだ。
警笛が周囲に鳴り響く。間髪置かずに暴走車は衛士の横を通り過ぎた。
「君! 危ないよ!」
背後で、クラクションにも負けないくらいの、喉を破らんばかりの大声が誰かに向けられる。破裂しそうなくらい大きく高鳴った心臓に痛みを覚え、衛士は振り返り、見た。
横断歩道のど真ん中でクセのある長い黒髪の子どもを抱いて立ち止まる、先ほどの彼女の姿を。
そして次の瞬間――人の姿が車影に飲み込まれ、鈍い音が響く。
衛士の、今回の記憶はそこで途絶えた。
それから幾度かの五分間が経過した。
「――あのすいません、ちょっとここらへんでハンカチ落としたみたいなんですけど、知りません?」
「ハンカチ……ですか。すみません、どのような柄でしょう?」
「青と白のストライプです。あはは、あの……もしよろしければ」
「はい、お手伝いしますよ」
金髪縦ロールの彼女は目を細めて笑い、頷く。それから身を翻して、来た道を引き返す。衛士は何度も見た暴走車の登場を再び視界に収めた後、地面を向いてありもしないハンカチを探す少女の後に付いた。
――間も無く警笛が鳴り響き、衝突音が耳に届く。周囲の人々の悲鳴が聞こえて、横転し縁石を越える車が地面に叩きつけられ、それは転がり建物に突っ込んだ。
辺りはざわめきに満ちて、それに驚く少女等は事故現場に視線を向け口元を押さえて硬直する。それほどまでに、始めて見る光景とは衝撃的なのだろう。衛士は他人事のように思ったのは、酷く冷め切った感想だった。
衛士はそれらに短く嘆息して、ズボンのポケットから青と白のストライプ柄のハンカチを取り出し、彼女の視線の先を塞ぐような位置で振る。と、それを捉えた彼女はようやくハンカチに焦点を合わせた。
二人の停止した時が再び刻み始める。それを確認してから彼は口を開いた。
「あはは、すいません。ポケットにありました」
冗談めかしく頭を掻いて、
「ありがとうございました」
短い感謝の言葉を最後に彼女等に背を向ける。
呼吸は無意識に苦しくなる。最早それは見慣れた事故現場であるはずなのに、心臓は懲りずに高鳴り緊張する。
――だけど、もうそれが終わった。砂時計を使ってないから時間は決して戻らない。
衛士に助けられるのはこの二人が精一杯だった。しかし幾度もの検証の中で一番被害者が少ないのが、彼が出来る中で最良なのがこのやり方であった。運転士一人の犠牲。自業自得と言えばそれまでだが、彼にとって納得のいくやり方では決して無い。しかし全てが丸く収まるなんて事は、今回に限っては存在しなかった。
「あ、あの……」
踵を返し、振り向いて帰路を急ぐ。呼び止める声が背中を掴むが、衛士は足を止めない。
「……もう嫌だ」
無意識に呟くソレを残して、彼は足早にその場を後にした。
――午後一○時。
部屋で腕立て伏せにはげんでいると、不意にドアが開く。そこから家政婦のような鋭さで中を覗き込むのは、衛士の姉『時理恵』だった。
「はぁはぁ聞こえたから」
というのが彼女の言い訳だ。特に責めても無いのにも関わらずそう口にするのは、やましい気持ちだけを原動力にしてドアノブを捻ったからなのだろう。
衛士は苦しそうに息を吐くと立ち上がり、首に掛けたタオルで汗を拭う。彼女は興味津々な年頃の娘のような清々しい笑顔を見せ、頬を薄桃色に上気させていた。
まだ五月なのにタンクトップにホットパンツと言う薄着で大丈夫なのかと衛士は思うが、春夏秋冬、暑い日も寒い日もソレで乗り切った彼女なのだから大丈夫なのだろう。ヨレヨレのタンクトップから胸元が露わになるが、それも一切気にならなくなるのが姉弟の悲しいところだと彼は吐き捨てた。
「こんな美人のせいで目が肥えちゃってるからね」
のしのしと大股で部屋の中を横切り、衛士の寝台に座り込む。腕と足を組み、まるで部屋の主のような大きな顔をするのが彼女の日常だった。
「何の用?」
筋トレを中断して椅子に腰を落とす。彼女は勝手にベッドに寝転がり壁を背にすると、そのまま小器用に窓を開けた。もう六月に近いからか風は少しばかり冷たさを失っていて、しかし汗を噴出す衛士にとってはそれさえも心地よく感じられた。
「用が無いと来ちゃダメ? あと……そこどいて」
「だって姉さん、オレが寝るまで普通に居座るから……」
――体がだるい。疲労が溜まっているのだろうか。瞼はもう開けていられる程の力を持たず、彼女の要望に答えられるような体力は残っていなかった。
脱力したまま背もたれに全身を預け、それから深く長く、息を吐き続けた。
――席を立つと、入れ替わって彼女が座る。そのまま肉付きの良い二の腕を震わせながらパソコンへと手を伸ばし、電源ボタンを押す。机の上に据え置かれるディスプレイには数秒の内にBIOSが起動し、やがてOSが起ち上がった。
彼女は人目を、というか衛士の眼も気にせずソーシャルネットワーキングのサイトと動画共有サービスのサイトとを入れ替わりで閲覧し、最後にゲームをして彼が眠る頃になって漸く席を立つ。それがここ一ヶ月近く続いているせいで、彼は精神的に休まる暇が無かった。
どちらにせよ殆ど筋トレも終わりだったから、と衛士は諦めて肩をすくめた。
立ち上がり、彼はぶっきらぼうに言葉を投げる。
「風呂、入ってくるよ」
「あ、それじゃついでに私も入ろうかな」
短い嘆息。期待を裏切られたというような視線を理恵へ投げると、彼女はあくまで冷静に首を傾げた。
「……入るなら先に良いよ」
「違うのよ。私はエージと一緒に入ろうかな、って意味で言ったわけよ」
――今日ばかりは、彼女の相手をする元気が出ない。
身体を動かすことで気を紛らわせていたが、それでも”死んでしまった”と言う奇妙な後ろめたさが残っているのだ。しかしこの胸の中のモヤが、本当に自分の死について意味しているのか分からない。もしかしたら、車に轢かれたあの姉妹の方かも知れない。だがそれを知る術は無く、今は吹っ切るしかない。だからといって、誰かに頼る事も出来ないのだ。
砂時計の事は誰に喋るわけにもいかない。情報漏洩は極限にまで少なくするのが、彼の理想であり最低限守らなければならないことだった。
「じゃあ入る?」
投げやりに吐き捨てたその台詞は、
「――おーおー、立派になっちゃって」
水着姿で現れる理恵に、風呂場で背中を流されるという事態を招いていた。
――最後に彼女と風呂を一緒にしたのはいつだろうか。確かアレはまだ二人とも幼かった小学……六年だったような気がする。本当に幼かったのかと頭を捻るが、自分の記憶ほど曖昧なモノは無いとの言葉をどこかで聴いたのを思い出して、回想を断念する。
一つ年齢が離れただけの彼女だ。同じ血が流れてるとはいえ、流石に弟と裸の付き合いが出来る程の無神経な女性ではない。
柔らかな泡を纏うスポンジが――無い。きめ細かい肌がその代わりとなって、そのまま手で背を撫でるように洗ってくれている。多分気紛れなのだろうが、気にならないと言ったのが嘘のように、彼女を女性として考えてしまう自分に戸惑った。
「そういえば今日女の子と階段でイチャイチャしてたでしょ」
理恵は同じ学園の三年生である。だから無論、彼の動向を知られてもそう不思議なことでもない。が、とても恥ずかしいことではあった。
多分彼女が言うのは、中村が男子生徒とぶつかって階段から転げ落ちそうなった時の――否、ぶつかりそうになったのを衛士が引き寄せ、防いだ際の事を指しているのだ。それを説明した上でただの善意と言いたいが、その直後に顔面を殴られてしまえば、説得力は失われてしまう。
仕方無しに、白状するよと米国のホームドラマのような白々しい所作で肩をすくめる。
「あぁ。後ろから人が来たから危ないっつって抱き寄せたら……あのザマだ」
「ちゃんと事情を話さないからよ。アンタはいっつもヘンなところで口下手なんだから。昔っからねーちゃんねーちゃんで育ってきたのが原因かもしれないわねぇ」
それなのに最近になって何を改まったのか、突然姉さんなんて呼び始めて……。そんな愚痴と共に彼女は背中を強く叩き、泡が宙を舞う。衛士は促されたようにシャワーを渡して、栓を捻った。
「わざわざトレーニングしなくてもいい肉体じゃない。ムキムキの筋肉質より薄く腹筋が割れてる程度の方がいいのに」
「それは姉さんの個人的な趣味だ。オレはもっと、こう……簡単にへこたれないくらい強くなりたいんだよ」
精神的にも、肉体的にも。そうすればあの時死なずに済んだかもしれない。誰かが犠牲にならなくても良かったかもしれない。
だがあの事故の責任が衛士にあるわけでも無いし、それを背負っているわけでもない。単なる自己満足に過ぎないのだが、彼の決意は揺るがなかった。
「……ったく。なんで私がここに居るか、まだ分からないの? ニブチンさんよ」
「はぁ? 気紛れだろ?」
「アンタが帰ってきてからずっと死にそうな顔してるから話しやすい環境を作ってるんじゃないのよさぁっ」
――風呂まで付いて来たのは声が外に漏れないようにとの配慮である。ちなみに彼女は既に二時間前に入浴を終えており、今回で二度目の湯浴みであった。
衛士はそこまで言われて始めてコレが彼女の好意であることを理解する。”死にそうな”と言う言葉で思わず胸を高鳴らせたが、反応の無い彼女にはどうにか誤魔化せたらしいと確信する。が、理恵は勿論それに気付いているのだ。衛士がそれを察せ無いのは、やはり大きな動揺が原因となっていた。
伊達に姉をやっていないな、と嘆息し、首を振る。脇から手を伸ばしシャンプーを手のひらに乗せる彼女は、そのまま擦って軽く泡を作り、頭をわしゃわしゃを掻き乱した。
「話したくないの? 話せないの?」
――今回の問題が一体何なのか、衛士自身理解しきれていない上に確実に砂時計が関わっている事象だから両方なのだろう。
申し訳ないという気持ちが膨張し、ごめんなさいとすら口に出来ない自分に呆れる。首筋に嘆息の吐息が掛かって、その感情はパン生地を寝かせている最中のような緩慢さで膨らみ始めた。
だけど、このままじゃいけない。これではなにも変わらない。今までと同じだ。何も変わらずに強くなれるはずが無い。すぐに変わることは誰にも無理だが、強くなるヤツは皆、変わろうとする始めの一歩を強く踏み出している筈だ。
だから――。
「――もし、さ……」
勇気を持って、喉の奥から声を絞り出した。呼吸が苦しくなるのは、緊張から来るストレスの所為だろうか。
理恵はただ静かに頷き、口を挟まない。それが今の彼には大きな助けとなっていた。
「もし、オレが……」
勇気を持って、告白する。もしオレが死んでしまったという事実を持っていたとしたら。説明が下手な彼はそれを口にするのにも精一杯だった。なのに……。
――浴室の扉が勢い良く開かれる。乱暴に突き破るような音を立てて入り込む気配に驚いて振り返ると、
「エージッ!」
それを遮る声が、背から抱きつく彼女がその行動自体を完全に阻止し――覚えた。彼女の肉体に何かが突き刺さる感覚を。
――強盗。殺人鬼。空き巣。
脳内に連想が全て浮き上がる。
首だけを向けて振り返った。
――男。勝てるか? 凶器は包丁。見知らぬ男? 知り合い? オレも、殺される?
悲鳴は出ない。恐怖は、否、衛士の肉体からは意識以外の全てが抜け落ちていた。
――包丁を抜いた。姉さんは死……? 嫌だ。死にたくない、嫌だ、もう、嫌だッ!
身体は動かず、背後に立ち尽くす男の挙動だけが妙に理解できる。背中が熱い液体で濡れる。心臓は破裂しそうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らしていた。
――死にたくない。殺されたくない。守りたい。だけど、もう……。
「いや、違う」
「……ジッ!」
男の鈍い声は、言葉を紡がない。壊れたラジオのノイズじみた音声は舌打ちの様に音を鳴らし、正体不明のその存在にさらに不気味さを付加させた。
勇気が腹の奥底から迸る。同時に、その全てを塗り替えてしまうほどの恐怖が根底にはあった。
足に力が戻る。衛士は踏ん張り、理恵を背負ったまま立ち上がる。腕に力が戻る。理恵を抱きしめ、そっと床に寝かせて、彼を睨んだまま立ち尽くす男の影へと対峙した。
――死にたくない。
なら最後まで抵抗してやる。
――殺されたくない。
その直前まで足掻いてやる。
――守りたい。
なら叫べ。
「でも、まだ――だッ!」
「エージッ!」
声と同時に降り注ぐのは平手打ちだった。
「どけってのに寝ちゃうし、寝たら寝たでうなされるし、泣いちゃうし……風邪引くわよ?」
薄く開く目は景色をぼやけて映す。だがすぐに理解できたのは、汗によって濡れる衣服から感じる不快感と、数キロを全力疾走でもしたかのような激しい鼓動のせいで苦しくなる呼吸だった。
身を起こすと途端に感じる、肩の鋭い痛み。そこでようやく椅子に座ったまま眠っていたことに気がついた。
右腕の感覚が無いのは腕が痺れているせいだろうが、震えてしまっているのは本当にそれが原因なのだろうか。彼は腕を引き上げ顔の前に寄越すと、すぐさま理恵が手を優しく両手で包んだ。
「明日は土曜だから別に良かったんだけどさ」
凄惨な光景が、まるで本当にあった事のように蘇る。しかし恐怖が薄れているのは、理恵が握る手のお陰だった。
やがて視界が鮮明になる。そうすると、顔を覗きこむ様にしていた理恵の、心配そうな顔がまず目に入った。それから、申し訳ないという気持ちが膨れ上がって――ソレに、妙な既視感を覚える。ここ最近で、砂時計を使用せずに見るデジャヴはこれが初めてだった。
「せっかく買い物に付き合ってもらおうと思ってたから、風邪でも引かれちゃ計画もおじゃんになっちゃうし。エージの看病でせっかくの休日を潰すのも、エージのバイト先にお休みの電話を入れるのも嫌だしさ」
「姉さんが買い物に付き合えってウルサイから明日は休みを入れてあるし、風邪引いてても自分で電話するし、そもそもそんな甲斐性があるような事言ってても、結局看病してくれるの母さんだし」
「っさいわねぇ」
「そのせいで今日、来週にプラス一日シフト入れられたんだからな」
「いいじゃない。親愛なる超美人のお姉様のお買い物にお付き合いできるのよ? 学園でどれほど人気があるかアンタも知ってるでしょ?」
――所詮、姉といっても現実はこんなものだ。
しかしさすがは夢と言ったところだろう。オレが求める理想の姉の像が見事に反映されていた。鋭い洞察眼と、人を思いやる気持ち。そして極上の優しさと、命の危機があるのにも関わらず、それを顧みぬ行動で弟を守る聖女的献身さ。彼の眼に映る彼女には、それらが欠如していた。さすがに完璧なまでにとは言い難いが。
彼は心の中で愚痴を零す。全身の凝り固まった筋肉を解しながら椅子から身体を引き剥がし、漸く立ち上がる。大きく息を吐くと、それだけで体内に溜まった全ての毒が抜けたような清々しさが通り抜けた。
「姉さんの”美貌”は客観的に見ても確かに”それなり”だけどさぁ、実際学園で姉さんの話題なんか聞いたこともない」
「ナニその強調部分」
「別に。あ、そうそう、今から風呂入ってくるけど……絶ッ対に来るなよ! もう夢じゃないんだからな!」
力いっぱいに警告する。もしアレが正夢となっていれば冗談では済まないからだ。が、彼女はなにやら呆然と軽蔑の眼差しを衛士へ向けるだけだった。
「……さっさと入ってきて、その寝ぼけた頭と面を覚まして締めて来なさい」
机上のデジタル時計は一○時一三分を示していた。あれほど濃厚な夢のせいで一時間も二時間も過ぎた気になっていたが、どうにも僅か数分の出来事だったらしい。
彼は嘆息して、なにやら恨みがこもった様に叩かれた背中の痛みの余韻を感じながら、寝巻きを手に部屋を後にした。