1月 逃げる
頭が沸騰して激しく泡立つ。その勢いのまま真紀は椅子から立ち上がり、コートとバッグを手に取ると踵を返して、逃げた。
視線の端に驚いて腰を上げた周平が見えたが、構わず走った。パンプスのヒールは心音と同期して激しく鳴り響く。ファッションビルの中は服や雑貨の店がぎっしり詰まっていて、間を縫うようにかき分けて進み、階段を駆け上がった。
三階に降り立ち、近くに化粧室が目に入ってそのまま飛び込む。鏡の前に立ち肩で息をした。襟の崩れたチャコールグレイのスーツ、紅潮した頬、ぼさぼさの髪。髪を撫で付け、水で濡らした手のひらで火照った頬を包んだ。何してるの!なんで逃げちゃったの!後先を考えない自分の性格が、つくづく嫌になる。今日たとえここを逃げ切ったところで、今度会ったらどんな顔をすればいいのだ。頭を抱えながらメイクも直して15分。そうそう籠もってもいられない。真紀はついにそこを出ることにした。
おずおず扉から顔を出したが、彼の姿はなくほっと息をつく。すぐ近くのブティックにディスプレイされている服を眺める振りで足を踏み入れた。何の気なしにハンガーにかかったワンピースを手に取ってみる。深い紫色の襟の空いたニットワンピースは、シンプルだが身体の線に沿ったデザインで、いつもの自分なら選ぶような品物ではなかった。自分の気持ちを落ち着かせるようにその柔らかい生地を撫でていると、
「それ、いいですよねぇ」
巻き髪の若い店員が音もなく背後にすっと寄ってきたので、真紀は驚いて肩を揺らした。
「びっくりさせちゃいましたぁ?」
店員は無邪気に笑った。ミルクティ色の髪にスレンダーな体は何をきても似合いそうだ。肩先までのまっすぐな黒髪をいじりながら真紀はこの店に入ったことを後悔した。店員は構わず真紀の後ろからワンピースをあててみる。
「このワンピ着てみるとすごく女らしいラインがでますよぉ。シックなんでお呼ばれの時だってオッケーです。首元がスクエアカットなんで、開いてても上品ですっきりきまるでしょう?チョーカーとか大振りのネックレスをしてもいいし、ティペットとかしてもおしゃれですよ。可愛くないですかぁ?」
さすがプロ、そんな言葉と一緒にいつのまにか試着室に送りこまれてしまった。こんなはずじゃなかった。真紀は情けなくなりながらもたもたと着替えた。
「どうですかぁ?」
店員の明るい声に真紀はしぶしぶカーテンを開いた。
「ああ、やっぱり!肌が白いからパープルが映えますよぉ。」
店員はにこにこと肩を押すが気後れする事この上ない。余り着ない色、深めに空いた襟ぐりから際立つ白いデコルテ、シェイプされたAラインに包まれた腰はかなり強調されて見える。真紀の所在なさげな気持ちが顔に出たのだろう。店員はにっこりして
「こういう服普段着ないですかぁ?でもすっごくお似合いですよぉ!この位イメチェンした方が彼氏さんも喜びますって」
彼氏。周平の顔が浮かんで思わずどきっとした。そうだ、彼から逃げてたのに。こんなことしてないで早く帰らなくちゃ。しかし気がつけば彼女はワンピースを買うはめになっていた。流されやすい自分が嫌になる。もう一度スーツを着る時間が惜しく、このまま買った服を着ていくことにした。
「彼氏さんの感想も聞かせて下さいね〜」
否定しとくんだった。満面の笑顔で送り出され、着ていたスーツの入ったショップ袋を持って真紀はそそくさと逃げ出した。