1月 蒼い焔
「少し歩くけど」
彼は駅を出ると駅前の路地に入った。古い店と言ったが、そこは5階建てのファッションビルの2階にあった。女性向けの雑貨や洋服のテナントが入った今風の建物だ。
「元はもっと地味な地元の店が入ってたんだけどね、何年か前に改装して女の子向け店舗ばっかりになって。おかげで入りにくくなった」
2階の奥まった一角に時の止まったような喫茶店があった。ショーケースにコーヒー豆の詰まったコーヒーカップとサンドイッチやパフェの蝋細工の見本が並んでいる。
「夜のバーの時間はビルが閉まるんで、こっちの入り口は閉めて外階段から出入りするんだ」
きょろきょろする真紀に周平は微笑んだ。中に入るとテーブル席に一組若い女性客がいる他、客はほとんど中高年とおぼしき人ばかりで、皆カウンターに陣取っていた。
「常連さんが多いんだよね。マスターの知り合いとか。このビルのオーナーも同級生らしい。マスターの娘さんは俺の高校の同級生」
「ふうん」
二人は窓際の席に座った。交差点が見下ろせるその席からは横断歩道を行き交う人の流れが見えた。
「周平君かあ、久しぶりだねえ」
鼻の下に白髪まじりのヒゲを蓄えたマスターは、にっこりして二人の前に水のコップを置いた。
「ご無沙汰です。順は元気?」
「お陰さまで。お連れさんとは珍しいね」
ぺこりと真紀は頭を下げた。
「会社の同期の、藤沢真紀さん。アイリッシュコーヒーを飲ませたくて」
名前まで紹介されるとは思わなかった。緊張する真紀にマスターはいたずらっぽく微笑んだ。
「うれしいね、でも恋人じゃないんだ?」
真紀は思わず、違います、と口を開きかけたが、頬杖をついた周平が口の端を上げて静かに微笑んだ。
「・・・ええ、不本意ながら、まだ。」
不本意?・・・まだ?
真紀は聞き間違えかと思った。彼はそんな軽口を叩ける人間ではなかったはずだ。慌てて問うように周平を見ると、一瞬目が合った。彼から先ほどの笑顔は消え、ぐっと深くを探り当てるような視線がそこにある。マスターも驚いたのか少しの間彼の顔を見ていたが、そこは店主、お盆を持ってあっさりカウンターに引き返していった。
「さてと。ここのアイリッシュはね、マスターが目の前で入れてくれるんだ。結構質の良いウイスキー使ってるから、お酒の弱い俺でも悪酔いしない」
話し始めた彼はいつもの周平だ、と思う。イベントの後ではしゃいでいたのかな。それとも昔なじみの店に来たから?さっきのはちょっとした冗談だろう。
真紀はほっとしながらコーヒーに興味を戻した。
「酔う程ウイスキーを入れるの?高校の時から来てたって言ってたけど?」
「アイリッシュを最初に飲んだのはちゃんと20歳になってから。俺酒弱いの知ってるでしょ。マスターも同級生の親父だし。成人したら飲ませてやるってずっと言われてて、初めて淹れてもらったときは感激した。アルコールもこれを飲むために鍛えたようなもんで」
そのうちマスターがブラウンシュガーの入った砂糖壷やアイリッシュウイスキー、コーヒーポットなどをカートで運んできた。手慣れた様子で二人分のホット用の小さいグラスにブラウンシュガーを入れウイスキーを3分の1くらい注ぐ。そこにアルコールランプを翳し火を付けた。青い炎がめらめらと立つ。マスターはグラスを持つとくるくるとグラスの底を回すように揺らした。グラスがテーブルに擦れる音とともに焰の青が踊ってウイスキーの芳香が上がる。ふと顔を上げると、炎越しに彼と目があった。ブラウンシュガーが溶けて・・・溶かされる。熱い。燻る香りに酔いそうだ。そう思った瞬間、マスターが手を止めてコーヒーを注いだ。瞬間、炎の青が消えコーヒーの香りがウイスキーと混じって螺旋階段のように絡んで立ち上ってゆく。最後にとろりと濃厚なクリームが乗せられ、二人の前にグラスが置かれた。マスターは一礼するとすぐに去って行った。
「どうぞ」
自分もグラスを持ち上げて、周平が微笑む。真紀もあわててグラスを取った。ぷん、とアイリッシュウイスキーの香りが鼻腔に飛び込む。冷たいクリームが唇に付いた後、濃厚な甘さと香ばしい苦みがウイスキーに溶けて舌を刺激する。こくんと一口を飲み下すと、絡み付くようにのどを落ちてゆく。真紀は小さくうなってグラスを置いた。
「どう?」
周平がゆったり微笑んだ。
「香りだけで酔いそう。熱くて、冷たくて、濃くて、甘くて、どれもtoo muchなんだけど・・・美味しい」
真紀がうっとりと答えると、周平は一瞬目を開きまたすぐ目を細めた。
「・・・良かった」