12月 ふたりの距離
それから。駅や電車でふたりが会った時はかなりの確率でバーナードカフェに寄った。
「もう条件反射だよ」
周平は苦笑した。
「真紀の後ろに、スパイシーバニララテの幻が見える」
仕事が違うのでそうそう一緒にはならなかったが、会う時は大概遅い時間で、ふたりともぼろ布のようにくたびれている。空腹だったがそれよりもカフェで過ごすゆったりした時間が心地良くて、途中下車までする周平につきあう真紀だった。蜜のような甘さとオリエンタルな香りを楽しみながら、ぽつりぽつり言葉を繋いでゆくと、不思議と元気になれた。
そのうちたまにだが夕食を共にするようになり、アルコールが入った時だけ、自分を崩さない彼が少しだけ本音を吐くようになった。仕事の愚痴、自己嫌悪になった出来事。彼は自分が、正義感が強く融通が利かないので、怒ると歯止めが利かない、特に女性には引かれてしまうのであまりネガティブなことを言わないようにしているのだと、照れくさそうに言った。
「最近周平君と仲良いらしいじゃん」
同期の美砂がサンドイッチを頬張りながら何気なく言う。それが聞きたかったか。真紀はわざととぼけた。
「前から仲はいいでしょ、美砂も良介君も、鉄の絆の同期4人ですから」
良介はもう一人の同期で最近美砂の彼氏になった。前々から美砂に熱を上げていた彼の恋が実った時は、真紀も自分のことのように喜んだものだ。
「そういう意味じゃなくってさ、わかってるんでしょ」
美砂は肘で真紀をつついた。
「おかしいと思ったよ。寒がりの美砂が公園でランチしよ、なんて」
師走に入り御用納めまでは目の回る忙しさだ。でもランチくらいは、という美砂の提案で、デパ地下の高級デリを買って公園で食べることにした。本日のメニューはクリスマスが近いのでターキーのサンドイッチ。ほんのりジンジャーブレッド風味の丸いパンに、はみ出すほど挟まったターキー。パプリカの赤とピーマンの緑がさらに季節感を醸し出している。実際のクリスマスはおそらく残業だろうけど。
「うちの後輩がさ、ちょっとした周平ファンで」
入社当時同じ課だった美砂は、現在広報室の担当だ。仕事柄か活発な雰囲気で彼女の後輩も皆明るく美人揃いだった。周平のいる企画部と同じ階で少なからず交流がある部署だ。彼は見た目も悪くはないし、クールだが誰にでも丁寧に対応する誠実な人柄は女性に受けるのかもしれない。
「その子あんたと駅が一緒なのよ。周平君と歩いてるのを何度も見たらしくてさ、つきあってるんですかって」
見られていたなんて。かっと頭に血が上った。
「そんなんじゃじゃない!」
語気が強くなったのに気付いて、真紀はサンドイッチの包装を畳む振りで下を向く。恥ずかしい、秘密基地を暴かれて怒る子供みたい。
「こないだも電話した時カフェで一緒だったじゃない」
「あれが初めてだって」
初めてバーナードカフェにふたりで入った時に、たまたま真紀の携帯に掛けてきて、周平と一緒だ、と言ったら代われ代われとうるさかった。
「確か周平君て真紀と降りる駅違うじゃん。わざわざ浅葱で降りるわけでしょ?」
美砂の追求はもっともだった。
「偶然電車が一緒になった時だけだよ。うちの駅にあるカフェの秋冬メニューがお気に入りで。最近周平君の企画が通ったじゃない。任されるのも結構大変らしくて、ゆっくり甘いものでも飲んで休んでから帰りたいらしいよ。言うなれば茶飲み友達?」
自分でも饒舌すぎるかな、と真紀は思う。
「ああ、周平君あんまりお酒飲めなかったもんね」
入社当初、飲めない酒をしこたま飲まされては何度もつぶされていた。
「それが最近は食事するとグラスだけどワインとか頼むんだよ。この3年で相当鍛えられたんだね、っと」
そこまで言って、真紀は美砂が興味津々で自分を見つめていることに気がついた。美砂はにやっとして、
「つまり、二人はカフェ友であり一緒に食事してお酒も飲むと。」
「おかしな言い方するのやめてくれないかな」
真紀は、バーナードカフェに比べると薄くてコクもないコーヒーの残りを飲み干すと、ゴミ箱に紙コップを投げた。
「何、怒ってんの」
「ふたりで食事したっていいじゃない。美砂だって帰りが一緒ならそうするよ」
「そりゃそうかもしれないけど。ただ・・・」
美砂は口ごもった。
「実はこないだ、私もあんたたち見たのよ、赤松駅で。」
赤松は会社の最寄り駅だ。
「そう、声かけてくれれば良かったのに」
「だって、二人ともすっごくうれしそうにしてて、」
美砂は自分が恥ずかしそうにした。
「なんか入り込めない感じだったんだよ。これはひょっとするのかなって」
「そんなの、」
真紀は立ち上がった。
「条件反射だって!本人も言ってたもん!私を見るとラテを思い出すって!」
びっくりした鳩が2,3羽空に飛び立って行った。
「ごめん、真紀、悪かった」
美砂も立ち上がって彼女の肩をつかんだ。
「・・・うん」
真紀はもう一度美砂と座ると、大きなため息をついた。
「私こそ。パニック体質だから、騒いじゃってごめん」
「パニックっていうか、直情型?真紀『ティファール』とか呼ばれてたもんね。『あっという間にすぐに沸く』」
不名誉なあだ名に顔をしかめる真紀に美砂は容赦がなかった。
「当時は上司にだって楯突いてさあ。そう言えばよく周平君が静かにその場を収めてくれたよね。真紀も最近では随分と大人になったと思ってたんだけどなあ。」
同期には適わない。真紀は苦笑した。
「はあ。本質は変わんないよ」
「そういう意味でも貴重な存在だもんね、周平君は」
「え?」
「変な意味じゃなく、真紀の手綱を引いて諌めてくれるっていうかさ」
一見派手目に見えるのに時代小説を好む美砂は、時々こんな言い回しをする。私は暴れ馬か。真紀はため息をついた。
「周平君てさ、ああ見えてもほんとは怒りっぽくて、いつも何とか我慢して押さえてるんだって。だから私の沸騰の勘所がわかるんじゃない?それだけだよ」
あはは、と美砂の笑い声が乾いた空気に冴え渡る。良く気が回り明るく前向きな彼女に、真紀はいつも救われていた。自分もこうありたいと思うのだけれど、すぐ負のループに入って、もがいて抜け出せなくなってしまう。大騒ぎをして迷惑をかけて、よく愛想をつかされないと思う。失うのが怖い、友情も、居心地の良い時間も。コーヒーの香り越しの穏やかな彼の声、ふたりの時にみせる柔らかな笑顔。
バーナードカフェも2月には春の新しい商品の看板が鮮やかに掲げられるだろう。彼の好きな冬の甘く香ばしいラテなど、元々なかったかのように。そのうち街ごと暖かい陽気に浮き立ち、むせ返るような春に塗り替えられてしまうのだ。
春が、来たら。ふわふわと淡雪のように降り積もる曖昧な関係も、知らぬ間に溶けてなくなっていくのだろうか。