はじまりは9月
気がつくと、逃げ出していた、彼から。
真紀は彼と相対する喫茶店の座り心地のいい椅子を蹴倒すようにして、駆け出していた。ビルの2Fのその店で、ただ冬の街並を眺めながらコーヒーを飲むのを楽しんでいたはずなのに。
真紀と周平は会社の同期で、この秋に彼女が引っ越してから電車の路線が一緒で。時折帰りが一緒になればカフェに行ったり、ごくたまに食事をしたりしていた。急に天気が崩れたとか、残業で疲れたとか。要するに待ち合わせではない、サラリーマンの「今日コレ行きますか」みたいな、偶発的カンパニー。
でも最近は、仕事帰りに周平のふわっとしたくせ毛の頭を見つけると、真紀は浮き立つ気持ちを抑えることができない。わざと気付かぬ振りをして、彼が微笑みながら近づいてくるのを待った。
彼はいつも冷静で、めったに感情を顕にしない。すぐ熱くなる真紀は、入社当初の目まぐるしい日々の中そんな彼によく助けられた。諭されても彼からなら悪い気はしない。彼にはそんな確かな信頼があった。
「やり過ぎた感はあるけど、黙っていられなかったんだろ。真紀らしいよ」
彼の言葉はいつも真紀を落ち着かせ、森の中に連れて行かれたように深い息を継ぐことができた。帰り道を共にするようになった最近、改めてしみじみと彼のありがたみを噛み締める。その低く穏やかな声が発せられる唇さえ美しい形に見えた。
始まりは9月の会社帰り、電車の中だった。周平は自分の読みかけの本に指をはさんだまま、その背表紙で真紀の肩を軽くとん、とたたいた。真紀は音楽を聴いていたイヤフォンの片耳を慌てて外して、向き直る。
「また会ったね」
はじめは一緒だった部署も去年配置換えとなり、今ではなかなか会うことがない。今日は珍しく休憩室で会って話したばかりだった。
「周平君、この路線だった?」
「うん、笠倉町」
ここから25分くらい、真紀の駅のひとつ先だった。
「お隣だね、私は浅葱町」
「確か前は会社の近くに住んでたよな?」
以前の部屋は会社から徒歩3分で、同期の美砂がよく泊まりに来ていた。
「最近越したの。大家さんの都合で変な時期になっちゃって。夏休みほとんど引っ越しに使っちゃったよ」
エアコンの設置に時間がかかり、数日間冷房のない部屋で荷解きをしていたら脱水状態になりかかった、と言ったら、
「そっか俺は実家だから、そういう大変さはないなあ」
と笑った。残暑のけだるい空気を電車のエアコンがかき回してゆく。
「じゃああの1年目の時も、笠倉から通ってたわけ?そりゃ仮眠室の住人になるわ」
入社した頃は会社が事業を拡大したばかりで、殺人的忙しさだった。深夜までの作業は当たり前で、家族より一緒の時間が長かった。それだけに彼女の同期は結束が固いと評判だ。まさに同じ釜の飯を食った戦友で、いじっぱりでクールに見える彼の寝顔も、頼れる機転も、ぶっきらぼうの優しさも全て見てきた。彼も当時を思い出して苦笑した。
「よく真紀の弁当ごちそうになったもんな」
当時、朝一番に出社するのは真紀で、仕事部屋に入るとかなりの頻度で仮眠室からくしゃくしゃ頭の彼が出てきた。彼が淹れてくれたコーヒーを飲み、真紀のお弁当のお裾分けが彼の朝ご飯になった。
「だってあんまりにもかわいそうで。あの頃コンビニも近くになかったし。よく乗り切ったよね」
「真紀の五目おにぎり、うまかったなあ。あのこんにゃく入ってるやつ」
3年目にしてこぼれた台詞に驚いた。当時は何がおいしかったなんて言ってはくれなかったし、第一覚えていてくれているとは思わなかった。
「あの時言ってくれたらよかったのに」
照れ隠しにそう言ったら、
「言えば張り切って作るだろ。真紀だって同じだけ忙しかったんだから」
静かに微笑む。そうだった、彼はそう言う人間だった。
「そうだよね。最近やっと仕事に余裕できたから、私もこっちに引っ越せたんだもん」
彼女の駅までは会社の最寄り駅から20分。会社の近くより家賃は少し高めだが、買い物も便利で部屋の近くは緑も多かった。
「そっか浅葱町か。駅前にバーナードカフェあるもんな」
彼は突然沿線のコーヒーチェーン店の名を言う。真紀が首をかしげると、彼女のバックからはみ出した赤い保温マグを指した。セントバーナード犬の樽の部分に「バーナードカフェ」と店のロゴのついたマグだ。これを使うと会社でも暖かいうち飲めて、50円引きになるので、よく利用していた。
「昼休憩室で会った時、秋冬限定スパイシーバニララテの濃厚な匂いが」
周平はそういっていたずらっぽく笑う。
「ええっ?匂いだけでわかるの?」
確かにかなり特徴的な香りではあるけれど。彼は得意げに微笑んでいる。
「俺、あれ毎年すっごく楽しみにしててさ、帰りに浅葱で途中下車するくらい好き。」
意外だった。あんな甘い飲み物が好きだと、素直に告白する彼が。
「今日も午後からずっと飲みたくて。真紀のせいだ」
何だか言い方まで甘くて、どきどきした。ここにいるのは、あの周平なのに。赤くなる頬を隠すのに、俯いて音楽プレイヤーを止める振りをした。
その日真紀は「奢るよ」という周平に連れられて、本日2回目になる浅葱町のカフェに寄った。彼は独特なスパイスの香りを吸い込んで満足気に微笑む。赤いガラスのランプシェイドが彼の笑い皺を深く見せ、3年という時間が彼を柔らかく解したような気がした。
いい男になったな、くやしいけど。
二人の時間の始まりだった。