【6:結末と書いてコレカラと読む】
もはや、それは、一つの終着点だった。
一切の雑念が消え、すべてを忘れ、ただ身体を沈め、持ち上げ続ける。
ジョーも、ムーンも、お互いのことなどとうに忘れていた。
腕立て伏せサドンデス。
起き上がれなくなれば、その時点で負け。
肉体レベルが同等で固定され、純粋に精神のみが勝敗をわかつこの戦いで、
カウントが10000を超えるころ。
そこまでともに戦ってきた二人の身体が、完全に動きを止めた。
「……!!」
パイジィも、山賊たちも、息を呑む。
表情はまだ薄暗い森の中でよく見えないが、それでも眼だけはまっすぐ前を見つめている。
唇が真っ白になるほど歯を食いしばっているのがわかる。
ついた手の周りには既に血が滲んでいる。
始まる前に乾いていた地面は、ずいぶんと前に出尽くした汗が結晶化した塩と、血でぬかるんでいた。
腕の形もおかしい。骨などとうに折れているのだ。
いつの間にか夜は明けて、差し込む朝日に照らされる。
最後の一回。
相手が止まった以上、先にあと一回を出した方が勝つ。
デインが思わず叫ぶ。
「ムーンさん……!!あと一回で勝てる……勝ってくれ……!!!」
つられて、山賊たちも口々に叫ぶ。
みんな、地に伏したまま涙を流している。
それでも、ジョーの精神は強靭だった。
形のおかしい腕、動く道理のない腕。
既に疲労しきり、電気信号を受け付けない筋肉を、強大な意志で沈み込ませていく。
ギリギリまで沈み込んで、それでもなお、上り始めた。
「嘘だろ……このままじゃムーンさんが……負ける……」
それでもなお、ムーンは微動だにしない。
「……あ……!」
ジョーが、最後の一回を登り切るにつれて、朝日が射し込んでいく。
そうして、ムーンの顔が朝日に照らされたとき、みんなが理解した。
そこには、前を向いて不敵に笑う、ムーンがいた。
腕立て伏せの、起き上がった姿勢。
腕の骨ではなく、筋肉が硬直して身体を支えているだけの無様な姿。
そんな姿で、瞳孔の開ききった眼だけが、朝の光で煌々と輝いていた。
同時に、ジョーの腕が嫌な音を立てた。
その身体がついに支えを失い、地面に沈む。
「……ムーンさんの……負け……?」
うつむくデインに、ジョーが掠れ声で声をかける。
しかし、あまりにもか細いその声は、デインたちには届かない。
パイジィは駆け寄り、ジョーの口元に耳を寄せた。
それを、デインたちに伝える。
デインのひげ面の前に正面から立ち、堂々と顔を見て宣言した。
「ジョーさんが言ってる。この勝負は、相手より多く腕立て伏せをできた方の勝ちじゃない。先に沈んだ方の負けなんだと。最後までしぼりつくしてなお、立ち続けられた奴の勝利なんだと、最初に言っていた。」
「俺は最後の最後で沈んだ。だから、この勝負は、ムーンの勝ちだ、って」
デインはそれを聞き、驚いた顔をすると、
ややあって優しげな顔になり、ムーンに言った。
「勝ちましたね、ムーンさん」
全く意識のないムーンの口角が、誇らしそうに少しだけゆがんだ。
そうして、しばらく。
あまり嗅いだことのない匂いでムーンが目を覚ます。
固くなったパンをかじったとき、時折かすかに感じていた、香ばしく甘い本当のパンの香り。
貧民街で上から流れてきていた、体を包むように温かく食欲をそそるスープの匂い。
周りは簡易テントのようになっているようで、外からは談笑の声が聞こえる。
「良い匂い……」
起き上がろうとして腕をついたとき、鋭い痛みが身体を襲う。
バランスを崩したムーンは、そのまま倒れこんだ。
その音を聞きつけたのか、ひょいとパイジィが顔を出した。
「あ、起きたんですね。」
「お前……俺は……」
「まだ安静にしててください。ムーンさんはまだ動ける状態じゃないですよ」
「あの人……ジョーさんは?」
「ジョーさんの方はあの後30秒くらいで回復しました。ドン引きですね」
「そうか……じゃあ俺は、負けたんだな」
「いいえ、あなたは勝ちましたよ。」
「え?」
「”先に沈んだ方の負け”。ムーンさん、意識飛ばしても身体を起こしてたんです。」
パイジィはジョーの理屈を説明した。
ムーンはそれを黙って聞いていたが、ふと視線を落としたとき、重要な事実に気づいてしまった。
「……え」
「あ、そうですね、ごめんなさい。服を脱がせるのは私がやりましたから、心配しないでくださいね。」
「え、え、え」
「でも驚きましたよ、まさかムーンさんが――」
「――女性だったなんて。……まあ、お仲間の方はうすうす気づかれていたみたいですけど……」
「……終わりだ……俺……」
思わず敷いてある木の葉と草を集めたベッドに突っ伏してしまう。
……貧民街で生きるのは厳しい。
男でも力を持たなければ死ぬ世界で、女ならもっと舐められる。
だから、ムーンはこの秘密を仲間にすらずっと隠してきた。
幸い、スレンダーで隠し通せるくらいの体型だったのも大きかったが。
それが、それが、こんなところで露見するとは……
しばらくそうしていると、聞きなれた声がする。
「……パイジィさん、入ってもいいですか?リーダーの様子は……」
「ダメ。ムーンさんは女性ですよ、デインさん!心配なのはわかりますけど、あっち行っててください」
「うう……すみません……」
ぴしりと言い放つパイジィと、情けない声を出して引き下がるデイン。
ムーンが寝ている間にすっかり状況は変わってしまったらしい。
「すっかり仲良しになってるんだな」
「……あなたたちを許したわけじゃないです。でも……」
ぐう、とムーンのおなかが鳴る音。
「……私は、料理人ですからね。おなかがすいた人にご飯を作るのが仕事です。……ほら、冷めちゃいますよ」
ま、簡単なものしかできませんでしたけど、と言いつつ、
ずいずいと食器を押し付けるパイジィ。
木の器のスープからは香ばしい湯気が出ており、早く飲んでくれと身体がせがむのがわかる。
ムーンの腕は動かないので、パイジィがパンをちぎって口元にはこぶ。
もっちりとした焼きたてパンをちぎり、スープに浸す。
一口。パンの柔らかな甘味を、スープの塩気が引き立てている。
嚙みきるまでもなくほろほろと崩れるそれは、味をしっかり味わう前につい飲み込んでしまった。
二口、三口。
黙って食べ進める。
「……美味しいですか?」
優しく聞いてくるパイジィの声。
パンを飲み込む。
頬を伝う涙の理由はなんだろう。
返事をしたくて声を出そうとしたが、何も詰まっていないはずの喉からは、嗚咽のような音が漏れてくるだけだった。
「……ごめん、な……さい……」
それだけ言うと、ムーンは泣き始めてしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
パイジィは、ただ、それを黙って聞いていた。
と。
外からそんな空気をぶち壊す会話が聞こえてくる。
「スゲェ……!!ジョーさん!!!何やってんすか!?」
「トレーニングだ」
「に、人間の動きじゃねえ……アンタ、タコかなんかなのか……!?」
「柔軟性はケガをしないようにするのに必須だからな」
「そういうことを言ってんじゃねえんだけど……うわ!!!なんだその動き!!気持ちわりぃ!!」
焚火の火で影がテントに映るが、明らかにその影の動きはモンスターである。
ぎゃあという悲鳴に、笑い声。
ムーンとパイジィは思わず顔を見合わせて、笑い合った。




