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ねえ、私が悪役令嬢だった頃の話をしましょうか

作者: 松本雀
掲載日:2026/01/06

私が悪役だったかどうかなんて、いまさらどうでもいいことだ。人は誰かの物語の中ではたいてい脇役で、もっと言えば、時には悪役でさえある。


三月の終わり。私は王都の喧騒と、そこに纏わりつくすべての重い役割から、身を剥がすように南を目指した。


馬車は石畳を外れ、土と砂利の道へと入っていく。硬い座席に七日間揺られ続けた旅路は、過去の記憶を洗い流すための、長く、そして静かな禊のようだった。


目的地は、海の波音だけが響く小さな港町。

王都の地図にも記されていない、時間がそっと足を止めたような場所だった。


馬車を降りた瞬間、海風が優しく髪を撫でる


世界を満たすのは、打ち寄せる波の低い響きだけ。海風に磨かれた古い船着き場には、潮の香りと錆びた錨が静かに横たわっていた。


この町には、人々が生活を営むためのごくわずかな建物しかない。それでも一つだけ、遠くの船乗りのために立ち続ける象徴的な存在があった。


それは、湾の入り江にそっと腕を伸ばすように建つ、古い石造りの灯台だ。長年の風雨に晒され、石肌はしっとりと湿り気を帯び、苔むしている。私はその灯台に向かって自然と足を進めた。


灯台の足元、すなわち長い歳月をかけて波が打ち寄せる、岩場と土が混ざり合うその境界のような場所で、私は立ち止まった。


そこには一本のミモザの木が、力強く、しかし優雅に枝を広げ、春を告げるように空気を黄金色に染めていた。


誰がこの海辺の厳しい環境に、こんなにも華やかで、どこか慎ましい花を植えたのだろうか。王都の整えられた庭園に咲く花とは違い、このミモザはただそこにあり、ただ咲いている。


不思議とその花が、この静かな町でずっと私を待っていたような気がした。


――家を借りるのは、驚くほど簡単だった。


元貴族だと伝えると、家主は一瞬だけ私の身分に眉をひそめたが、数ヶ月分の家賃を丁寧に前払いするとそれ以上は詮索しなかった。


町の人々は、私の出自や過去に全く関心がない。市場で買い物をしても、小さな喫茶店で本を開いていても、誰も好奇の目を向けることも、まして話しかけてくることもなかった。その無関心さこそが、私がこの町に求めていた、何よりも穏やかな歓迎だった。


ある日の午後、私は町に一つだけある、古びた図書室の冷たい木の椅子に座っていた。


湿気を吸った紙の匂いは、王都の華やかな香水よりも、私にとってはずっと心地よい。頁をめくる手の動きだけが、静かな室内に小さな音を立てていた。


その時、一人の少女が私の向かいの席に立った。


十二か十三か、それくらいだろうか。まだ幼さが残る顔立ちだが、瞳には不思議な強さと、世界に対する鋭い疑問が宿っているように見えた。


すこし風に遊ばれたのか、栗色の髪がぴょこんと跳ねていて、彼女はその年の子にしては分厚すぎる詩集を、両手にしっかりと抱えていた。


そして、何の躊躇いもなく、私に向かって静かに言葉を投げかけた。


「あなた、昔はお姫さまだったんでしょう?」


その質問のあまりの唐突さに、一瞬、手にしていた本の題名を忘れてしまった。私は笑って静かに首を横に振った。


「違うわ、悪役令嬢だったのよ」


彼女は聞いたことのない言葉に首を傾げた。


「なにそれ」


私はティーカップを持つ仕草をしてみせた。


「つまり、お姫さまを困らせる役よ。ドレスの裾を踏んだり、舞踏会で意地悪な言葉を囁いたり、ね」


少女は私の話す言葉を、まるで珍しい物語を聞くように真剣な眼差しで受け止めた。


「ふうん。でも今は、誰も困らせてないでしょう?」


「そうね。今は、紅茶の葉がうまく開かなくて、自分が困っているわ」


私の軽口に、彼女は声を上げて笑った。その笑い声は、図書室の静寂を破るにはあまりにも無邪気で、透明だった。


私もまた、つられて笑った。


思えば誰かとこんな風に、飾らない心で一緒に笑うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


――その日から、少女はときどき私の家に来るようになった。


窓越しに差し込む光が、カップの紅茶に淡い金色を落とす部屋で、私たちは向かい合って座る。私は彼女のためにゆっくりと紅茶を注いだ。


テーブルには、町のパン屋で買ったクッキーと彼女の好きな苺のジャムを並べた。彼女は、王都では誰も見向きもしなかった私の淹れる紅茶を、いつも「良い匂い」だと言ってくれた。その言葉に、私の世界は静かに色を取り戻していくようだった。


私たちは、何か特別な話をしていたわけではなかった。


図書室で見つけた古い本を静かに読み進めたり、窓の外で揺れるミモザの枝をぼんやりと眺めたり。あるいは、町の人の噂話を、まるで遠い異国の物語のように楽しんだ。


私が彼女に過去を語ることはなく、彼女が私に未来を問うこともなかった。春が少しずつ深まっていく中で、そんな静かで穏やかな時間が、いくつも丁寧に積み重なっていった。


ある雨の日。


窓の外では、春の終わりに降る冷たい雨がミモザの花を打っていた。黄色い花びらが水を含み、静かに地面へと散っていく様子が見える。ティーカップを持つ彼女の手が、ふいにぴたりと止まった。


そして彼女は唐突に、しかし真摯な声でこう言った。


「あなたって、本当に悪役だったの?」


私は視線を窓の外に向けたまま、静かに肯定した。


「そうよ。昔、物語の中で色々悪いことをしたの」


「どうして?」


その単純で、しかし最も重い問いに、私は息を詰まらせる。しばらくの沈黙の後、私は言葉を探すように静かに答えた。


「誰にも愛されなかったの。それに、自分のことも、どうしても好きになれなかった。そんなふうに生きていると、つい、誰かに意地悪をしてしまうのよ。そうやって少しずつ、本当に悪役のような人間になってしまったの」


少女は詩集の頁を閉じる時のように、静かに、優しく、その言葉を受け止めた。そして、私に微笑みかけた。


「私は好きだけどな。あなたの話し方とか、声とか。あと、あなたの淹れる紅茶の匂いも」


私は何も言えなかった。ただ、窓の外のミモザを見た。雨に濡れて散りゆく黄色い花は、まるで過去の私が流した、誰も知らない涙のようだった。


昔の私は、誰かの物語のなかで確かに悪役だった。あの物語の主人公を泣かせて、彼女が望むもの、愛するものを奪おうとして、そして――誰にも惜しまれずに、物語の舞台から姿を消した。


けれど、今ここで。


私は、かつての物語には登場しなかった一人の少女に「好き」と言われ、春の終わりを告げる雨の音に静かに耳を傾けている。


――それからというもの、彼女は以前にも増して頻繁に私の家に来るようになった。


まるで、散ってゆくミモザを惜しむかのように、春の終わりに残された時間を大切にしているかのようだった。


一度だけ、私は彼女に訊いたことがある。学校へは行かないのかと。彼女はティーカップを揺らしながら、窓の外を見つめた。


「行ってるよ。でもあそこは退屈。みんな似たようなことばかり話すし、似たような服を着て、似たような将来を夢見てるから」


「君は違うの?」


「違うつもり。……たぶんね」


彼女はそう言って、再び窓の外を見た。ミモザはもうほとんど散ってしまい、代わりに瑞々しい緑の若葉が、枝の隅々までを覆っていた。


季節は確かに、誰にも止められることなく、静かに夏へと向かっている。


そのとき、ふと思った。かつて、王都で暮らしていた頃の私も、きっと彼女と同じような目をしていたかもしれないと。


自分は特別だと思っていた。選ばれる側の人間だと。輝く物語の主人公になる資格を持っているのだと。けれど、結局私は選ばれなかった。物語の表紙に名前を書かれず、背表紙にも記されず、ただ、物語が終わるころには、誰も私のことを覚えていなかった。


私はそんな、誰にも語ることのなかった話をぽつりぽつりと彼女に聞かせた。それは、過去の自分を少しずつ手放していく儀式のようだった。


話を聞き終えた彼女は、真っ直ぐに私の目を見て問いかけた。その眼差しは、未来へと開かれた海のようだった。


「じゃあ、今のあなたの物語は、どこに向かっているの?」


私は少し考え、窓の外に広がる、光を反射する海を見つめた。


「向かうというより……たぶん、解けるのを待っているのよ」


「ほどける?」


「そう。自分を縛っていた役割や物語が、潮風や時間にさらされて静かに解けていくのを。すべてが解けきった後なら、初めて誰の筋書きでもない私として、静かに歩き出せるでしょうから」


少女はうん、と静かに頷いてそれ以上は何も言わなかった。


彼女は、裁くでも励ますでもなく、ただそこに在る事実として受け入れてくれた。


不思議なことに、この少女といると、私は自分のことを話せた。それはまるで、長年蓋をして重石を乗せていた箱をようやく開けて、そこに新鮮な風を通すような気持ちだった。


――やがて、彼女は来なくなった。


ある日の午後、いつものように紅茶を淹れ、彼女の好きなジャムを用意して待ったが、ドアがノックされることはなかった。次の日も、そのまた次の日も、彼女の跳ねるような足音は、灯台の石畳に響くことはなかった。


私はそれを、少しだけ胸の奥で寂しく思いながらも、追いかけることはしなかった。誰にだって、自分の物語があり、次に進むべき時がある。


少女は私という脇役から離れ、彼女自身の広大な世界へと軽やかに飛び立っていったのだろう。そう信じることこそが、私にできる彼女への最も静かな祝福だと思った。


六月のある午後。海辺の強い日差しが部屋いっぱいに光を広げる頃、郵便受けに一枚の素朴な絵葉書が届いていた。


裏面にはインクの匂いさえ香ってきそうな見覚えのある文字が、几帳面に、丁寧に並んでいた。


『あなたと過ごした時間は、静かに咲いて、静かに散っていく花のようでした。


あの紅茶の香りとミモザの優しい黄色を、私はきっと忘れません。


私はあの場所で、自分の物語のはじまりを受け取ったのだと思います。


ありがとう。


あなたに出会えて、本当によかった。』


差出人の名前はなかった。しかし、その文字は間違いなくあの少女のものだった。


私はそのメッセージが書かれた絵葉書を、手のひらで包み込むように胸に当てて、そっと目を閉じた。


ひとの物語に登場することには、少しばかりの痛みと、少しばかりの救いがある。もし私があの少女の短い物語の中で、悪役ではなかったとしたら、それで充分だった。


私は立ち上がり、家の裏庭からすっかり葉を茂らせたミモザの木の下へ行った。青々とした葉を広げたその姿は、春の華やかさこそ失っていたが、まるですべてを知っていて、すべてを許しているかのように穏やかだった。


私はそっとその幹に声をかける。


「来年もまた、咲いてくれる?」


その瞬間、強い風が少し吹いて、葉を茂らせた枝がかすかに揺れた。まるで、「もちろん」と答えたように。


私は心から笑って、そしてまた、静かにお茶を淹れるために家へ戻った。

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