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冬の勇者は打刻しない  作者: 妙原奇天


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9/11

第9話 リサの絵の具

 静音の翌日、街は妙に明るかった。

 雪は止み、アスファルトの黒がまだらに濡れて、光を散らす。スクリーンは昨夜の続きを何事もなかったように流し、通りの会話は「昨日、いた?」「三分、やばかったね」「動画撮れた?」と、祭りの翌朝めいた浮かれで満ちている。SNSのタイムラインはさらに賑やかだった。

《三分スゴかった》《街がひとつになった》《新しい市民運動では》

《あの旗の角度、ルール作ろうぜ》《無署名ありがとう》《犯人映さなかった局は空気読めてる》

 称賛、冗談、誤解、企み。軽い言葉ほど拡散は速く、重い言葉ほど足元へ沈む。支援室のモニターは昨日に続いて稼働し、拡散の波の形だけが静かに映っていた。


「“止まる手順”の常設化に舵を切る」

 朝のブリーフィングで黒江雪が言った。

「掲示物は仮設から常設へ。訓練は週次から日次に。けれど、名前は付けない。キャンペーンと呼ばない。イベントでもない。ただ“街の手順”。名付けた瞬間、見世物になる」

 頷く音が散発的に重なる。凪は首肯しながらも、胃のあたりの薄いざわめきを拭いきれなかった。

「“誤った勢い”が次の災厄を呼ぶ」

 昨夜の交差点で、拍手を制した自分の手の感触がまだ生々しい。誰かが善意で声を上げ、それに別の誰かの善意が乗り、合図のように加速していく。善意は燃料にもなるし、爆薬にもなる。どちらに転ぶかは、だいたい一拍遅れてから分かる。


 午前、凪は白波リサのアトリエを訪ねた。ビルの三階。階段の踊り場に乾いたペンキの匂いが留まり、扉を開けると冷気と一緒に色の粒がこちらへ飛んでくる感じがする。

 リサはエプロンの紐を結び直し、手話で「おはよう」を作った。いつものように、声を出さない。「昨日の“間”を見た?」と聞かれている気配だけが、目の前に立つ。

「見た。耳で、目で」

 凪は頷き、スマホを取り出した。無署名の詩文のスクリーンショット、昨夜の現場で採った簡易波形。共鳴ノイズの帯域を記したメモを机に広げる。

「これが昨日の“間”。五、三、五、七、七。数え癖。言葉の切り方が歩幅をいじってくる。音は抜けるのに、間だけが残って、人を引っ張る」

 リサは少しだけ目を細め、キャンバスを二枚並べた。

「歩く絵、やってみる」

 彼女はマスキングテープで白い地面に目印を落とし、筆を握った。メトロノームは使わない。代わりに床へ白いテープを二本貼り、足先で軽く触れては離す。筆が動き始める。

 筆触は一定に見えて、わずかに揺れていた。縞の幅がミリ単位で変化し、太さもところどころ息継ぎをする。凪はその前に立ち、耳に集中をかける。

 耳鳴りが、ふっと薄くなった。

 数秒。ほんの数秒。

 細い糸に絡まっていた頭の後ろの熱が、指でほぐされたみたいに解ける。

「……効いてる」

 凪は思わず笑った。笑うと頬が軽い。

 リサはメモパッドに短く書く。

「歩幅に同期。止める音楽じゃなく、歩く絵」

 歩く絵。言葉の手触りが、すぐ骨に馴染んだ。

「街に貼れない?」

 凪が問うと、リサは次の紙に矢印を描いた。

「床に矢印。窓に格子。欄干に帯。目が“歩く間合い”を覚える」

 音が抜けても、目が歩く。指示の代わりに間取りで歩かせる。

「行政、説得できるかな」

「名前、なし。作品名、なし。署名、なし」

「視覚の“対抗式”だね」

 うなずき合う。凪は意識の奥で、昨夜レオが投げてきた“止まれ”の間をもう一度辿る。音ではなく、間合いで命令する手口。その上から、歩幅のパターンで上書きする。


 午後、凪は黒江とともに区役所へ向かった。景観条例、広告規制、道路占用許可――窓口を回るたびに、用語が増える。

「公共性の担保」「安全上の合理性」「広告に該当しない表現形態」。担当者の口から出る語は、どれも正しい。正しいが、街の速度とは音階が違う。

「作品のタイトルは」

「ありません」

「作者名は」

「ありません」

「キャンペーン名は」

「ありません」

「……では、どう説明しますか」

 黒江は表情を変えずに答えた。

「“街の手順です”。名付けた瞬間、見世物になる。見世物になれば、誰かが握りに来る。その時点で手順は手順でなくなる」

 担当者は戸惑い、凪のほうを見た。

「人が転ばないための図形です。転ばないことには、名前が要りません」

 窓口の空気が少しだけ柔らかくなった。担当者は「検討します」を丁寧に二回言い、書類の端に小さくチェックを付けた。


 行政の歩みが遅いのは承知の上だった。期待は商店会に置く、と黒江は言った。予想は当たり、夕方には商店会のグループチャットが鳴り始める。

《店の前に簡単な矢印描いといた》《レジ横に“非常時の並び方カード”作った。手書き》《紙コップ、昨日助かった。こっちも三分無料やる》

 写真も届く。白いマーカーで描かれた雑な矢印。紙片にペンで書いた「半歩待つ」。ガムテープで床に貼られた斜めの帯。派手さはないが、体温がある。

 凪は思わず画面を保存した。こういう雑なもののほうが、身体に移るのが速い。完璧な図形より、手の跡が残っているほうが、人は真似しやすい。


 支援室へ戻ると、データ班から凪宛ての封筒があった。湾岸工場のロッカーから出たメモの筆圧、渋谷で拾った浅い足跡の写真、そして昨夜レオが投げた無音の“共鳴呪”の成分分析。

 凪は椅子に腰を下ろし、一枚ずつ並べる。

 メモの筆圧は上下にブレが少なく、ペン先の摩耗が左右均等。仕事で文字を書く人間の癖。

 足跡はやや内旋。左の踵が先に落ちる。疲労時に出る歩き方。

 成分分析は、低い母音に癖があった。胸声の域で持続を乗せるタイプ。鍛えられた声ではないが、沈む。沈む声は、集団の足並みを下へ引く。

 凪はペン先で紙の端を叩いた。

「“補助回路”がある」

 口に出すと、情報の点が線になった。

 返納デバイスではなく、市販の無線機。蓄電ユニット。古い病院で使われていたアナログのアラーム装置。どれもネットで手に入る。接続には専門の資格すら要らない。

 誰でも集められる部品が、“空白”を拡声器に変える。

 内部協力者の存在と、外部の“空白に寄りかかる連帯”。その間を繋いでいるのは、敷居の低い技術だ。敷居が低いのは、善でも悪でもない。ただ、速く広がる。


 片桐誉は、局内で孤立を深めていた。編集会議で「顔を映さなかった理由」を何度も訊かれ、数字の山と谷を示されたグラフを突きつけられ、それでも「煽れば街が壊れる」と繰り返した。

 だが、彼のメールボックスに届く文は違った。

《映さなかったことに、ありがとう》《手旗と腕の映像で、うちの祖母が理解した》《ベビーカーの押し方、初めて分かった》

 短い文の中に、体温が残る。数字は揺れるが、体温は消えない。

 彼は街へ出た。商店の“対抗式”を撮り溜める。派手さのない、しかし温度のある画。白いガムテープの矢印、手描きのカード、レジ横の「三分、無料」の札。

「地味」と言われる映像は、録音の音がいい。紙の擦れる音、床にテープを貼る指先の爪の音、ペンの先が震える音。三分のあいだに触れる音だ。片桐はそういう音を集め、編集のタイムラインに置いた。


 夜、凪は再びリサのアトリエにいた。床の広いスペースに白いテープを貼り、歩幅のガイドラインを作る。テープは一直線ではなく、微妙に蛇行する。リサが「一直線だと訓練になる、蛇行は歩行になる」と紙に書いた。

「じゃあ、歩く」

 凪は靴を脱ぎ、テープの上を歩いた。足裏で紙の繊維を感じる。視線は二歩先。肩は下げ、腕をぶら提げる。

 一歩、二歩、三歩――耳鳴りが弱まる瞬間が来た。胸郭の奥で硬くなっていた輪がほぐれ、空気が入る。

「これ、効く」

 素直に笑う。笑うと、リサも目を細める。彼女は巨大なロール紙を取り出した。

「大きくしよう」

 床が紙で覆われる。そこへ筆が入る。細い線が何百本も走り、蛇行が絵になる。歩くための絵。

「明日、商店会の許可が出た場所に敷く」

「準備は僕がやる。持ち運びの筒、いくつか調達しておく」

 凪がメモを取り、買い出しリストに「テープ」「カッター」「滑り止め」を書き足したとき、スマホが震えた。支援室の共有回線。新しい投稿のアラート。


 無署名の新たな詩文がアップされた。

 画面は白地、文字は黒、行間は広い。


 冬至に、街を休ませる

 太陽が短い日、都市を短く

 働きすぎた信号に、夜を

 走り続けた路線に、眠りを

 病院にも、三分のやすらぎを


 日付は一週間後。広域。

 凪は指先に汗をにじませた。詩文は美しいほど危険になる。美しい言葉は、第一段で疑いを越えるからだ。

 黒江に電話をかけた。

「見ました」

「見た」

「間に合わせる。名前のない“会議”を」

「集める。あなた、リサさん、片桐、商店会、地下鉄、救急、学校、区役所。名札も議題も作らない。机の上に“歩く絵”と“手順カード”だけ置く」

「会議じゃない会議ですね」

「街の手順は、会議で決めない。会議で始める」


 通話を切り、凪はロール紙を両手で抱え上げた。紙は意外に重く、肩に心地よい負荷がかかる。

「やろう」

 リサは頷き、椅子の背からコートを外した。外の空気は冷たく、夜の大通りは昼よりゆっくり動いている。

 階段を降りる途中、凪はふと立ち止まった。昨夜、交差点の中心でレオが投げた“止まれ”の間が、階段の踊り場の静けさと重なって聞こえた。低い母音の癖。胸の奥に沈む持続。

「レオは“実行犯”じゃない。立たされている。トリガーの位置に」

 小声で言った言葉は、踊り場の壁で吸われた。

 補助回路は、誰でも手に入る部品で作れる。空白は、誰でも寄りかかれる。なら、手順も、誰でも手に入る形にしておく。躊躇なく真似できるように。マニュアルではなく、間取りで。

 外に出る。ビルの谷間に冬の星が一つ見えた。街灯の白が丸く、その内側を人の声が往復している。

 凪はロール紙を背中に回し、歩き出した。歩幅はテープの上と同じ速さ、同じ揺れ。耳の奥の熱は穏やかで、鳴らすべきときにだけ鳴る芯が残っている。


 翌朝、商店会の通りに“歩く絵”が敷かれた。開店準備の店員が足を止め、並べられた蛇行の線を眺める。試しに歩いてみる。笑う。

 歩幅がそろう。

 誰も命令しないのに、そろう。

 レジ横の“非常時の並び方カード”に、リサの小さな矢印が重なる。白いテープの帯が通路の角に現れ、欄干には細い布が巻かれて風に鳴る。

 名前はない。タイトルもない。署名もない。

 ただ、歩ける。止まれる。譲れる。

 そのことだけが、街中にゆっくりと染みていく。


 支援室では、黒江が電話を矢継ぎ早にかけ、名札のない“会議”の時間と場所を整えた。会議室ではない。商工会館の広い廊下。机は少なめ。椅子は多め。壁に映すのは数字ではなく、街角の写真。紙コップは多め。カメラは一台。録音はしない。

 片桐は小型カメラを肩にかけ、会場へ向かう前に一本だけ動画を上げた。

「“手順の顔”を撮り続けます。顔は人ではなく、手の角度、旗の振り、紙の線。冬至まで一週間。街は休まずに、休む練習をします」

 コメント欄は相変わらず賛否で割れたが、その下に、商店会の若い店主からのコメントが静かに並んだ。

《うちもやる》《線、借りたい》《テープ、まとめて買います》


 夕方、凪はリサと並んで通りを歩いた。蛇行の線は人の足を柔らかく誘い、子どもはそれを遊びに変え、老人は杖の先で線の縁を辿った。

「効くね」

 凪が言うと、リサは親指を立てた。

「冬至まで、間に合わせる」

 凪は胸ポケットから手順カードを一枚取り出し、角を指で撫でた。カードの紙厚が心地よい重さを残す。

 レオはまだ“救われる前”に立っている。救われる前に動く人は、合図に寄りかかる。寄りかかった合図は、誰かの肩を巻き込む。

 だから、手順を増やす。

 歩く絵を増やす。

 名前のない会議で、街の止め方を共有する。

 冬至に“街を休ませる”という詩文に、歩幅で反論する。


 夜、支援室の窓から見える通りに、テープの白がかすかに光った。誰かが歩き、誰かが立ち止まり、誰かが譲る。その往復の中に、昨日の三分の続きが確かにあった。

 拍手はない。いらない。

 線だけが残る。

 歩ける線、止まれる線、譲れる線。

 それを増やすために、凪は明日の買い出しリストをもう一度見直した。テープ、カッター、滑り止め、ロール紙。ついでに、紙コップ。

 カップを握る手の温度は、街の温度になる。温度は数字にならない。数字にならないものが、街を守る日がある。冬至は、きっとその一日だ。


 スマホが震えた。黒江から短いメッセージ。

《明日十時、廊下。“会議”》

 凪は親指で「了解」を返し、窓の外を見た。白い線が夜の底に細く続いている。

 耳の奥は静かだ。鳴らすべきときに鳴る芯は、まだ温かい。

 冬至まで、あと七日。

 街に歩幅を配る七日間だ。

 剣は要らない。

 絵の具とテープと、短いカード。

 それで十分、街は歩ける。

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