表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の勇者は打刻しない  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

第8話 交差点の三分

 金曜。十七時五十六分。

 渋谷の空は雪が舞い、薄い雲が街を低くする。スクリーンは年末商戦の光で過剰に明るく、どの広告も三秒おきに自分の正しさを主張しては消える。交差点のアスファルトは湿り、白い粒が溶けては消えて、縁だけを白く残していく。


 青井凪は歩道橋の上で、旗の柄を握り直した。薄い手袋越しに木の温度が伝わる。手旗は二本。片方は赤に近い橙、もう片方は海の色を薄くした青。胸のポケットには、支援室で作った生活手順カードが束になって入っている。歩行者誘導、妊婦・子ども優先線、手旗信号、カフェでの一時保護。文字は大きく、短い。絵は簡単で、真似しやすい。


 無線が耳の後ろで小さく鳴った。

「設置班、東口パネル問題なし。アクリル反射、角度許容範囲。ベビーカー導線、誘導札見える」

「南側のカフェ、三分提供の準備完了。紙コップ二百。レジ一つ、無料窓口に切替」

「地下、通風良好。視覚パネル三枚目、縞幅調整済み」


 黒江雪の声が入る。

「全隊、カウント開始。三分にこだわらない。あくまで基準。波の立ち上がりを先に見て、旗と声で上書き。青井くん、歩道橋から初動、頼む」

「了解」


 その頃、片桐誉は東口側の移動中継車の後ろで、ディレクターと短く言い合っていた。

「オープニング、事件煽りVはカットする」

「は?」

「切る。いきなり手順カードを出す。画面の右上に“生放送”固定。テロップは“止まった時の三分、まずはコレ”。分割で手旗の角度と腕信号。カフェの一時保護も同時に出す」

「数字が落ちる」

「落ちてもいい。街を上げる」

 ディレクターは唇を噛み、数秒黙り、サインを出した。スイッチャーに指示が飛ぶ。モニターの色が切り替わり、煽りVのスタンバイランプが暗くなる。代わりに白地のカードが画面に出た。

 歩行者誘導。太い矢印。

 妊婦・子ども優先線。絵の中の線は柔らかく、角が丸い。

 手旗信号。角度の図が三枚。

 カフェでの一時保護。カップのイラストが小さく笑っている。

「行くぞ」

 片桐は腰の無線を握り、凪のいる歩道橋を見上げた。


 十七時五十九分。

 凪は旗を肩にかけ、周囲の空気の粘りを測る。雪は西から流れ、北風が交差点の中心を斜めに横切る。人の流れは厚い。観光客、通勤の群れ、買い物袋を提げた若者、修学旅行生。声はまだうるさく、スマホの音楽が漏れ、スクリーンの新曲が薄く耳につく。


 十八時ちょうど。

 刹那、音が消えた。


 信号は黒へ落ち、広告は白に抜け、地下通路の送風音が止まり、雪の筋だけが視界を横切る。静音。三分。

 凪は一歩前へ出て、青の旗を上げた。肩の可動域を最短に使い、肘の角度で矢印を描く。

「歩道橋上、青一、下へ。地上A、応答」

 無線。

「地上A、応答。青、受領」

「南側、受領」

「地下、受領」

 地上の腕章を付けたボランティアが腕信号で応える。旗より少し遅れて、声が走る。

「ここで半歩、待ちます」

「ベビーカー、右へ。優先線、こちら」

「白杖の方、肩の前に手を添えます」


 凪は赤の旗を斜め下に切り、停止線を作った。横断したがる波が一度持ち上がり、旗の角度に合わせて落ちる。背の高い男が肩をすくめ、笑って一歩退く。笑いの角度は悪くない。怒号がない。

 視覚パネルの前で、通路の人間が一様に速度を落とした。縞の幅が目に勝手に作用して、読むように歩かせる。歩くという行為に、わずかな読みを混ぜるだけで、ぶつかりは激減する。


 驚くほど滑らかに「人のレール」が立ち上がった。無音の交差点の中で、目に見えない線が増え、踏み外す足が減っていく。凪は旗を入れ替え、半歩の合図を続けた。ボランティアの腕が揃い、声が旗の補足になっていく。

 このままいける。三分は過ぎていく。凪は呼吸を肩で整え、旗の角度を短く修正した。


 その瞬間、耳の奥で残響熱が跳ね上がった。

 視界の端。コートのフードを目深に被った青年が、交差点中央に立ち尽くしている。雪に濡れた肩。膝の微かな揺れ。手の位置。

 灯村レオ。

 凪の喉に、言葉にならない音が引っかかった。


 レオは口を開き、声にならない“共鳴呪”を投げた。音ではない。届くのは、言葉の「間」。切る位置。重ねる位置。

 止まっていい。

 止まれ。

 止まれ。

 その単語が凪の鼓膜の裏に触れ、膝が一瞬落ちた。戦時の悪夢が白い光の裏からにじむ。作戦夜、呼吸の同期が外れ、回路が崩れ、仲間がこちらを見た瞬間の目の色。

 凪は自分の舌を噛んだ。痛みで帯域が一段落ちる。耳鳴りの芯を掴み、低いところへ押し下げる。自己手順。五指タップを内側の筋肉で置き換える。吸う、吐くではなく、歩く、止まる、渡すの順で思考に線を引く。


 旗が一瞬遅れた。

 黒江の声が無線で弾む。

「青井くん、初動維持。安全優先。追わないで」

「了解」

 凪は歩道橋の手すりを掴み、段を飛ばさずに駆け下りた。雪で濡れた踏面は滑る。足の裏に力を残しながら、踵を使わない。地上に出る。視界が低くなる。人の目線と同じ高さに雪が落ちる。

 レオは交差点の中心で、目を伏せていた。誰も彼の顔を知らない。だが、凪には分かる。呼吸で分かる。

 伸ばした手の先で、レオの肩がわずかに揺れた。凪の手が届く。肩に触れる。

 と思った瞬間、雪に足を取られ、別の肩がぶつかってきた。凪の膝が打ち、旗が肩から滑り落ちる。視界が斜めに崩れ、レオの体がすり抜ける。

 掴めない。

 掴むな。

 その二つの声が同時に鳴り、凪は地面に手をついて体勢を戻した。旗を拾い、雪を払う。


 片桐のカメラが、レオを捉えていた。ズームが滑らかに寄り、交差点の中心が画面の中心へ吸い込まれていく。中継車の中でディレクターが息を呑む。コメント欄に文字が溢れ始める。

 映せ。

 犯人だ。

 名前は。

 顔は。

 片桐は首を横に振った。

「切り替え」

 画面は一瞬だけ揺れ、すぐ生活手順カードに戻る。二分割で、地上の誘導と旗の角度。カフェの窓の向こうで紙コップが並び、店員がドアを押さえている。

 コメント欄が割れた。

 映せ。

 映すな。

 それより手順を。

 旗の意味がわかった。

 今できることが見えた。

 片桐は喉を守るように短く言う。

「犯人は映さない。必要なのは、明日の街を生かす画」


 凪は倒れた老人の肩に自分の上着をかけた。肩甲骨に直接布が触れないよう、手を挟む。

「ここで半歩、待ちます。すぐ立てます。白線の内側で」

 周囲の人が自然と輪を作る。保護半径。誰が言い出すでもなく、半径の外側に目が向く。引き波を作らないように、みな足の向きを調整する。

 レオは視界の向こうで流れに紛れ、消えた。雪が足跡を浅いままに留める。誰のものか、もうわからない。

 凪は追わない。追わないことの方が、今は難しい。それでも、追わない。旗を持ち直し、合図を入れる。腕信号が応答し、ベビーカーの列が滑らかに右へ寄る。白杖の先が安全な床を探り、肩の前に添えられた手が歩幅を合わせる。

 無音の三分の中で、街は自分の足場を選び直す。


 信号に小さな光が戻った。点のような緑。広告の白が再び色を取り、地下の送風音が弱く戻り、ざわめきが街の底から湧く。

 終わった。

 誰かが拍手しかける。凪は手を上げ、首を横に振った。

 ここは舞台ではない。

 拍手は要らない。手順だけが残れば、十分だ。


 片桐はスタジオに接続し、カメラの前に立った。背後のモニターには、さきほどの手順カードと現場の短い映像が交互に流れている。

「ご覧いただいたのは、静音が発生した直後の交差点です。編集部の判断で、個人を特定しうる映像は使いません。代わりに、今、誰にでもできる“生活手順”を繰り返しお伝えします。旗の角度、腕の高さ、声の距離。どれも特別ではない。でも、積み重ねると街を守ります」

 コメントは賛否に割れた。

 犯人を映せ。

 映さない判断に賛成。

 ぬるい。

 役に立った。

 片桐はブレない。

「煽りは街を壊します。数字が下がっても、私たちは手順を出します」


 歩道橋へ戻る途中、凪は体温が一段下がったのを感じた。雪が襟元から侵入し、皮膚の上で溶けて冷たさだけ残す。耳の奥はまだ少し無音を抱えている。静けさは重くはない。重くないが、油断すると眠くなる。

 黒江が歩いてきた。息は上がっていない。足音も速くない。

「生きてる?」

「生きてます」

「よくやった。初動の上書きが効いた。半歩の合図も」

「レオを、掴めませんでした」

「掴もうとしなかったのは正しい。あれは合図の中心に立つ人。今日、彼は“トリガー”の位置に置かれていた。個を掴んでも、面は崩せない。面は、こうやって崩す」

 黒江は視覚パネルの列を示した。横を通る人々は、無意識に速度を落とし、次の角でぶつからずに曲がる。

「次は、止め方を街に広げる。今は“止められても大丈夫”の記憶を、みんなの足に入れる時期」

「対抗式の拡張ですね」

「そう」


 無線が短く鳴る。設置班から撤収の報告。カフェから紙コップの残数。地下の通風再開。各ポイントの小さな成功と小さな失敗が、報告書の端に並ぶ。凪はそれを頭で並べ替え、次の訓練の図に置き直した。

 歩道橋の上には、片桐のカメラがまだ残っていた。彼はレンズを下ろし、凪に軽く会釈した。凪も会釈を返す。言葉は交わさない。言葉を使うと、喉が擦れるときがある。今は、擦らない方がいい。


 雪は弱まり、交差点の輪郭が少しだけ硬さを取り戻した。スクリーンはいつも通りに浅い笑顔を流し、観光客が自撮り棒を高く掲げ、修学旅行生が声を上げる。音は戻った。

 凪は旗を畳み、束ねて肩にかけた。指先の血の巡りが戻る。膝の痛みは鈍い。転倒しかけた時の石の角が、布越しに皮膚を押した場所がまだ疼く。

 地面を見下ろすと、白い浅い足跡が短い列を作って消えていた。レオの足跡かもしれないし、違うかもしれない。もう確かめようがない。

 凪は目を閉じた。耳の奥の無音は、まだ少し残っている。だが、鳴らすべき時に鳴る芯は温かいままだ。

「続けよう」

 自分にだけ聞こえる声で言い、旗の柄を押し上げた。


 夜。支援室に戻ると、片桐の生放送の録画が映っていた。彼はスタジオで、犯人を映さない判断を短く説明し、すぐに手順の解説へ戻っている。視聴者の反応は賛否が混じり、画面の端で数字が上下する。

 黒江は軽く息を吐いた。

「やるじゃない。あの局で、よく切り替えたわ」

「彼は喉を守るのが上手いです」

「喉も街も守った。次は、街に止め方を増やす」


 凪はうなずいた。手順のカードを一枚抜き、角を指で撫でて、引き出しにしまった。

 レオはまだ“救われる前”に立っている。止め方を知らない止まり方は、誰かの肩を巻き込む。止めるなら、止め方から。

 雪は降ったりやんだりを繰り返し、窓の外の街を少しだけ柔らかく見せた。

 凪は机に地図を広げ、ペンを一本手に取った。

 次の三分のために、対抗式を広げる。

 旗。声。腕。視線。歩幅。半歩。

 舞台はいらない。拍手もいらない。誰かが次の角で転ばないことだけが、ここでの勝ち負けだ。


 歩道橋の上、さっきまで立っていた場所に、雪が薄く積もった。足跡は、すぐ浅くなる。浅くなって、消える。

 それでも、手順は残る。

 街の中に、目に見えない線として。

 それが、今日の三分の手応えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ