第7話 レオ、消失
朝いちのフロアは、電気ポットの湯気がまだ細かった。コピー機の待機ランプが緑の点を保ち、窓の外は前夜の雪が薄く残って、街路樹の根元に白い綿を寄せている。
黒江雪はいつも通りの歩幅で現れ、いつもと違う短さで告げた。
「灯村レオがいない」
会議卓の空気が一段沈んだ。紙の擦れる音さえ止まる。黒江は余計な飾りを付けない言い方を選ぶ人だ。飾らないから、伝わる。伝わるから、刺さる。
「アパートは空。寝具は冷たかった。洗面台に溶け残りの錠剤。ロッカーは空で、残っていたのは“金曜十八時/渋谷/三分の優しさ”と書かれた紙片だけ」
凪は立ち上がる前に、椅子の背を一度握った。掌が温まる。耳の奥が、まだ静かだ。静かに保つ。
「足取り、追います。湾岸工場の警備記録、終電ログ、防犯カメラの死角を洗い直したい」
「三田、データの引き直し。港湾管理の監視映像、昨夜の雪の降り始め以降を優先。青井くんは現場。私は封印倉庫のログの再監査に入る」
会議は要点だけで散った。凪はコートをはおり、湾岸へ向かった。地下鉄からモノレールに乗り継ぐと、雪の名残りがレール沿いの芝生に残って、朝陽に薄く光っている。車窓に顔を近づけず、視線はまっすぐ前。思考が焦っているときほど、視線を上下させない、と戦時に教わった。視線が揺れると足元が揺れ、足元が揺れると、判断が滑る。
工場の守衛詰所では、夜勤明けの守衛がインカムを耳から外しながら端末を差し出した。
「灯村くんの入退場、昨夜から今朝にかけての履歴はこちら。入場はある。退場は、記録が空白になっている」
「空白?」
「表示は出る。時間が通しになってる。けど、実データを吸い出すと秒の刻みに穴がある。まるで、見えない薄い紙を挟んだみたいに」
凪は、防犯カメラの配置図を広げて、赤点で死角を塗った。ロッカールーム、資材搬出口、仮眠室前の通路。ひとつずつ映像を巻き戻し、早回しと等速を切り替えながら目を走らせる。
映らない、は不在の証拠ではない。映りたくない構図を作る人がいるだけだ。レオの姿は、どこにも映らなかった。代わりに、別の“影”が映った。資材搬出口の前で、モップをかける清掃員。顔はマスクで隠れ、背丈は中背。動きが妙に正確で、水平と垂直を忠実に辿る。プロの清掃員のそれとも違う、図面の上を動く人の姿だ。
「この清掃員、どの会社です?」
「外注。倉庫側の下請け。最近、増員削減で契約が変わったほう」
守衛の言い方は無機質だが、無関心ではない。
「清掃名目で、外側だけ請け負うようになったと聞いてます。中には入らない契約だが、境界線は曖昧だ」
凪は端末を閉じ、港の風に顔を向けた。雪の粒はもう空に溶け、空気の角だけ残している。
支援室へ戻る前に、匿名掲示板の特定スレをスマホで確認した。明け方に、短い詩文が投下されている。末尾に“×”。交差点を象徴する記号。投稿は数秒で消え、キャプチャだけが転載されて渦になっていた。
×は交差。交差は拍の相互乗り換え。×は拒否。拒否は結線の切断。どちらの意味でも使える。
凪は指で画面を拡大し、詩の切れ目を目で数えた。五、三、五、七、七――昨夜の投書に写っていた下書きと同じ“数え癖”。同一の筆なのか、同じ教本を共有しているのか。どちらにせよ、これは“個”ではない。手口を教える教室がどこかにある。
支援室に戻ると、黒江が封印倉庫のログ解析の紙束を机に置いた。
「五箇所。毎回、秒単位の小さな穴がある。穴の直後に台車の重量ログが一度だけ“軽くなる”。戻りで“重くなる”。中身の入れ替え」
「内部協力者の手は固い」
「ええ。でも、犯人探しに全振りしない。空白は人を飲む。個の断罪だけでは埋まらない。私たちは明日の三分を通す。空白に寄りかかる連帯の“面”を剥がす」
凪は頷き、渋谷の現地調整に出た。午前の空は薄く晴れ、風は北。視覚パネルの搬入を先行させる設置班と合流し、ビル管理会社との調整を済ませる。通路の幅、掲示位置、通行の妨げにならない角度、アクリルの反射。
コンビニの店長にも頭を下げた。
「三分だけ、ライトとモバイルバッテリーの貸し出しを“無料提供”に切り替えていただけますか。あの、事前にレジを一つ、現金を扱わない窓口に」
「うちも人手が……」
「その三分は、支援室の職員がレジ前に立ちます。説明を僕らがやります」
店長は眉を寄せ、少し考え、頷いた。
「三分だけですよ」
「三分です」
三分は短い。短いから、お願いが通る。短いから、やり過ごせる。やり過ごせると知っていれば、人は怖がりすぎない。
交差点を俯瞰できる歩道橋に上がる。午前中だが人の波は厚い。観光客の集団、修学旅行らしき高校生、マフラーで顔を半分隠した会社員。凪は手すりに肘を置かず、足元の線に視線を落とす。
呼吸の揃い方。肩と肩の間隔。靴底の滑り。信号の変わる速度。
静音が来れば、音が抜けて、足が止まり、誰かが転ぶ。転ぶ人を支えようとして、別の人が転ぶ。そこへスマホが掲げられ、動画が撮られる。誰かの“優しさ”が、足元から崩れていく。
凪は、戦場で鍛えた反射を呼び出したくなる衝動に肩を固くした。あの一歩で、視界の端から中央までを一気に取りに行く動き。あの声で、全員の耳を掴んでしまう言い方。
けれど、黒江の言葉――勇者じゃないやり方――が、膝の裏に重りのように下がる。
手順に落とす。
視覚パネルの縞の幅を確認し、旗の角度を再調整する。腕信号のテンポを半拍ずらす。声は“旗の補足”。旗が先、声が後。
歩道橋の風が一段冷たくなった。西から雪雲の影。空の色に連動して、街の速度が僅かに変わる。目には見えないが、変わる。そういうものに、手順は効く。
午後、支援室へ戻ると、データ班から報告が上がっていた。
「封印倉庫のアクセスログ、昨夜以外にも“数分の穴”が繰り返し検出されました。周期は不規則。が、作業終了時刻の十五分前後に集中」
「終わる直前」
凪は口の中で転がした。終わる直前は、緩む。終わるときに、人は“次”を見て足元を見ない。
黒江はホワイトボードに線を引いた。
「内部協力者の洗い直しに入るけれど、犯人をひとりに絞るための聴取はしない。まず“癖”を見る。封印テープの貼り方、台車の押し方、台帳のソートの癖、数字の整え方。空白は癖に出る」
「はい」
凪は地図を広げ、渋谷の“人のレール”を書き直す。交差点からの解散線、駅への吸い込み線、カフェとコンビニへの逃がし線。ベビーカーは右側を保つ。白杖の誘導地点にパネルを一枚追加。
レオのスマホはオフのままだ。最後の既読は、画面の中で固まっている。
《止めて くれ》
凪は画面を伏せ、拳を握った。
「止める。けれど壊さずに」
口に出すと、喉が定位置に戻った。声は強くない。だが、届く位置に置ける。そこが、今の自分の立ち位置だ。
*
その頃、片桐誉は局内の会議室で、台本の白紙と赤字の間に挟まれていた。ホワイトボードには太字で「元勇者の反乱」と書かれ、下に視聴率の折れ線グラフが踊っている。
「タイトルはこれで押す。分かりやすい。煽りも必要」
編成の男が言う。
「片桐くん、君の“手順の顔”企画は第二部に回そう。第一部は“犯人像”で数字を取り、第二部で生活情報。尺は短くなるが仕方ない」
「第一部をやれば、第二部が聞かれにくくなります」
片桐は低く、はっきり言った。
「“反乱”という見出しで引っ張れば、明日の街に“予感”を撒くことになる。予感は揺れを呼ぶ。手順を伝える尺を削れば、現場は孤立する」
「君はいつも理屈が立派だが、テレビは現実だ。数字の現実。数字を取らなければ、次の企画も通らない」
「はい。だから、数字を手順で取りたい」
「抽象論だ」
「具体で撮ります。旗の角度、腕の高さ、声の距離。視覚パネルの縞の幅。観客が明日、真似できる画。顔ではなく、手口。誰かを吊るすためじゃない、明日の三分を通すための映像です」
会議室の空気が刃物の刃先みたいに細くなった。編成の男は舌打ちしかけて、やめた。
「……いいだろう。最低限の枠は確保する。だが、第一部の“反乱”は残す。上も見ている」
「ありがとうございます」
片桐は一礼し、会議室を出た。胸ポケットの中に、昨夜の封筒の紙があった。差出人は、古い喫茶店で会った小柄な女性。封印倉庫の下請け業者。返納監査の増員カットで契約を切られ、今は清掃名目で倉庫の外側だけを請け負っていると言っていた。
彼女は言った。「個人の犯行なんかじゃない。正体は空白。誰か一人が消しているんじゃない、みんなが見て見ぬふりをして空白が広がる」。
彼女は代金も受け取らずに去った。片桐は、封筒の中身――詩文の下書きの写真と、交通・医療・通信、三系統を同時に“揺らす”回路図の断片――を指で押さえ、編集長の机へ向かった。
「直訴があるんです」
編集長は眉を上げた。
「犯人はまだ描かない。描けない。空白を描く。明日の生放送は“街の手順を伝える番組”へ切り替えるべきです。第一部の言葉で煽れば、明日の街は壊れる」
「片桐」
編集長は声を低くした。
「君は真面目だ。そこがいい。だが、放送は一本で決まらない。現実は複数で決まる」
「だから、僕は僕の現実を置きたい」
編集長はため息をつき、机の端に置いた赤ペンを片付けた。
「最低限の枠は確保する。責任は私が持つ。君は撮れ。“手順の顔”を」
「はい」
*
午後の渋谷は、光の層を重ねていた。雲が薄く、ネオンが昼から元気だ。交差点の上空に新しい広告が回り、音は規定のボリュームで街全体に均されている。
凪は設置班と合流し、視覚パネルの最終確認をした。アクリル越しに見る縞は、人の目にだけ揺らぐ。カメラには素通りで、観客の頭の中にだけ作用する。
手旗と腕信号の共有。通路幅が狭まる地点に「半歩」の札。カフェには温かい飲み物を三分限定で無料提供してもらう旨を掲示。地下コンコースにはパネルを三枚増設。
「声は“ここで半歩、待ちます”。お願いでも命令でもない言い方で。語尾に疑問符を置かない」
「了解」
若い職員が腕章を直し、旗の角度を確かめる。
凪は歩道橋に戻り、群衆の呼吸を目視で測った。目で、肩で、膝で。北風が斜めに抜け、雪雲の影が西から来る。夕方には気温が落ち、靴底の滑りが増える。静音が来るなら、音は抜け、人は立ち止まり、ぶつかり、転ぶ。
戦場の反射を使いたい衝動が、また肩に乗った。だが、落とす。落とし続ける。旗と声で、手順で、上書きする。
耳の奥は静かだ。鳴るべきときにだけ鳴らす。
夕方、支援室に戻ると、黒江が封印倉庫の報告をまとめていた。
「アクセスログの穴は、やはり繰り返し。内部協力者の洗い直しは指示済み。聴取は“癖”から入る。犯人を一人に決めない。空白を増幅する手を見つけて、切る」
「はい」
凪は地図の上で、人のレールを再々度なぞった。
机の隅で、スマホが震えた。新しい通知はなかった。レオからも、既読はつかない。最後の一行だけが、画面の中で暗く見える。
《止めて くれ》
凪は拳を握り、置き直した。
止める。けれど壊さずに。
それが、今日の、明日の、仕事だ。
*
夜、片桐は古い喫茶店に再び足を運んだ。店の扉の真鍮の取っ手は冷たく、磨かれているのに、冬だけは指先を受け付けない。カウンターのマスターが新聞のページをめくり、ラジオは音楽の合間に交通情報を淡々と流している。
奥の二人掛けの席に、昼の女性はもういなかった。代わりに、白い封筒がひとつ、テーブルの真ん中に置かれている。店の人に預けたのだろう。席に座り、封を切る。中には短いメモ。
空白は、誰かを必要としない
必要とされない誰かが、空白を必要とする
片桐は天井を見上げた。音は静かだ。言葉だけが、背中に重く乗る。
彼はメモを胸ポケットに入れ、立ち上がった。明日の朝の段取りを頭で辿る。カメラの位置取り、無線のチャンネル、現場班の導線。“手順の顔”を撮るための最短ルート。
扉を押し、外へ出る。雪はもう降っていない。けれど、街の輪郭は昨夜の雪のぶんだけわずかに鈍く、光は丸い。丸い光は、人の顔を柔らかく見せる。柔らかい顔のまま、硬いことを言わなければならない夜がある。明日がそうだ。
*
凪は支援室の窓際の机で手順の最終確認を終え、立ち上がった。
「現地は?」
「設置完了。ビル管理、コンビニ、カフェ、各点の連絡系統もチェック済み。片桐さんの班、九時に東口合流」
「よし」
黒江は腕時計を見て、「解散」と短く言った。
「各自、睡眠を確保。耳を温めすぎないこと。明日は長い三分が、何度も来る」
「了解」
外へ出ると、空気は薄く透明で、街の音が遠くまで届いた。歩道橋に上がる。夜の交差点を見下ろす。人の波は昼より柔らかい。ネオンは硬い。硬いものと柔らかいものが混ざるのが、この街の普通の姿だ。
凪は手すりに手を置き、ひとつずつ、明日の三分を頭の中で並べた。旗。声。腕。視線。歩幅。半歩。
耳の奥は、まだ静かだ。鳴らすべきときに、鳴らす。鳴らさないときは、鳴らさない。
その静けさの中で、胸ポケットのスマホが一度だけ震えた。画面を開く。新しい通知はない。だが、待っているときの震えは、身体が作る錯覚とよく似ている。
錯覚を錯覚のままにしない。手順に置き換える。
凪は目を閉じ、短く息を吸って吐いた。呼吸ではない。準備だ。
街のあちこちで、カウントダウンのテロップが踊り出す。新店オープン、セールの予告、月末のライブ、特番の告知。数字が街に均等に配られ、誰かの胸の中で三、二、一に変わる。
拍手が来る前に、手順を置く。
明日、三分の優しさが来る。
優しさを、手順に変えろ。
*
その夜の遅く、湾岸の工場の外れで、雪の名残りがまだ地面に固く残っている場所があった。街灯の下、白は灰色に見える。
カメラのどこにも映らない死角に、誰かが立っていた。背を壁につけ、顔は見えない。ポケットからスマホが覗き、画面は黒い。電源は落ちている。
止めて、くれ。
その言葉が、まだどこかに浮いている。
足元で、氷が小さく割れる音がした。音は誰にも届かない。届かない音は、音の形を保ったまま、空気の中で消えた。
*
支援室の灯りが順に落ち、深夜のフロアは機械の待機音だけになった。コピー機の緑がひとつ、コーヒーメーカーの赤がひとつ、窓の外の街灯の白がいくつも。
凪は自宅で腕章と名札を並べ、革靴の底の汚れを落とし、旗の生地の端を指で撫でた。叩き込んだ手順は、モノの触り方に移る。モノの触り方が安定すれば、明日、声が安定する。
ベッドに横になる前に、スマホをもう一度だけ見た。レオからは、何もない。
画面を消し、目を閉じる。
明日は金曜。十八時。
交差点に、合図が来る。
合図に、合図で返す。
その準備は、もうできている。




