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冬の勇者は打刻しない  作者: 妙原奇天


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第6話 雪の夜、封印倉庫

 金曜の前日、空は昼から白く濁っていた。窓の向こうで風向きが落ち、東京の輪郭がひとつ曇る。社会復帰支援室のロビーに貼られた「明日、三分の手順」のポスターは、角に小さな折れがついている。出入りする職員の肩が擦れて、紙が少しずつ柔らかくなっていく。


 午後三時、凪は黒江とともに湾岸の封印倉庫へ向かった。モノレールの窓から見える港は、まだ凪いでいる。だが、白い粒が風の筋に乗り始めていた。初雪。誰も騒がない。騒がないが、足取りはやや早くなる。雪は東京の時間を、少しだけ前倒しにする。


 倉庫の門をくぐると、冷気が一段濃くなった。カードキーをかざし、重い扉が開く。低い天井、金属ラックの整列、赤い封印テープ、番号札。空気は乾き、音は吸い込まれる。現場に長くいる職員ほど、静けさに声を合わせて喋る。今日の監査は、第三者機関の担当者も立ち会うとあって、空気はさらに硬かった。


「まずはここから」

 黒江が管理台帳を指で押さえ、棚番号一二三の段にしゃがむ。返納済みタグの並びは整然。だが、三つのケースは軽い。封印テープは“規格通り”に貼られているが、爪でなぞると、接着面が一度剥がされて再接着された痕が爪先に触れた。


「ダミーで確定」

 第三者機関の担当者が頷き、封印破棄の手続きを音読する。静かな声が倉庫に淡く反響する。作業手袋がケースのベルトを外し、蓋が持ち上がる。中には詰め物の緩衝材、重量を合わせるための砂袋。品名札は本物。中身だけが抜けている。


 隣のケースも、同じだった。緩衝材の角のひとつに、うっすらと黒い粉が付着している。凪はライトで照らし、粉を綿棒に取った。金属の匂い。焼けた線材の残り。現場から戻る通り道に鉄粉が舞う設備、あるいは解体工程。封印倉庫の外に、それを扱える場所があるのか。あるとすれば、搬出路は限られる。


「ログを見せて」

 黒江が低い声で言う。管理端末の画面が開かれ、入退室の履歴が表示される。時刻の刻みは正確、のはずだが、三箇所だけ、秒の表示が飛んでいた。十六時二十四分台、三十一分台、そして十九時台。画面上では滑らかな行に見えるのに、データを抜くと、そこだけ小さな空隙がある。


「内部協力者がいる」

 黒江は断言した。ためらいはない。

「記録の“空白”を作るには、権限と知識が要る。棚の並び、台車の負荷、出入口の死角、そして“数字の整え方”。一人じゃない。“個”に絞ると見落とす。青井くん、あなたが言っていた通り、“空白を増幅する手”として見なしたい」


「賛成です。犯人像に顔を与えるのは、向こうの狙いでもある。顔の劇場に引き込めば、手順が抜ける」

 凪はケースの角に触れ、封印テープの端の癖を確かめた。貼った人間の指の長さ、手の重さ。癖の出方は職業病みたいなものだ。端から剥がして戻すとき、角が僅かに斜めに折れて、繊維が毛羽立つ。封印が生きているふりをしながら、内部だけが抜ける。

「抜かれたのは、音響遮断フィールド二基と、応答コンダクタ一本。それと投射器の補助核が一つ」

「応答コンダクタは、人混みで“拍”を拾える。音響遮断は、三系統の同時停止に使える。渋谷の図面に置き換えると――」

「道路、鉄道、病院」

 二人は同時に口にした。第三者機関の担当者が顔を上げ、メモのペンが止まる。

 黒江は台帳を閉じた。

「内部からの取り込み、外部の詩文、そして現場の“停止信仰”。三点で三角形が立つ。どれか一角が欠けても、立ち続ける。だから、三角形の“面”を崩す」


 監査が終わると、外は本降りになっていた。白い粒は音を持たない。音を持たないが、足音を変える。職員用の入口から外へ出ると、港の風が雪を水平に押す。視界の端で、コンテナの影が白に滲む。


「戻りましょう」

 黒江が言い、二人はモノレールの駅に向かった。ホームに上がると、人の肩がいつもより近い。雪の日は、誰もが自分より前の誰かの背中に視線を置く。自分の足元が頼りなくなるからだ。

 車両が入ってきて、扉が開き、温い空気が足元を撫でた。座席は八割が埋まり、立つ人の手袋から白い滴が落ちる。凪は吊り革を持たず、ドアのそばで壁に背を当てた。耳は落ち着いている。落ち着いているが、周囲の呼吸の速度はいつもより早い。


 発車。車輪の音が均された直後、ふっと世界が薄くなった。あの、芯が抜け落ちる瞬間。凪は体重を低くし、手の届く範囲にいる人々の顔の向きを確認する。アナウンスが途切れ、車内灯が一拍遅れて落ちた。暗転。外の雪だけが、窓に薄明かりをくれる。


 誰かが短く叫び、誰かが泣き、誰かがスマホを掲げた。画面は白いまま。通信遮断。

 凪は深く息を吸い、声を出した。勇者の声ではない。夜勤のコンビニで、終電を逃した酔客や泣き止まない子ども、倒れかけの高校生に向けた、あの声色。温度を上げすぎず、間合いを詰めすぎず、語尾を尖らせない声。

「大丈夫です。非常灯が、この上の角にあります。手元のライトは上向けにしないで、膝のあたりを照らしてください。お子さんは抱き上げて、座席の端に寄ります」

 近くの親子に目線を合わせ、座席の端を指で示す。立っていた高齢者には、「ここ、掴まれます」と手すりの位置を伝える。泣き声の方角には、「今ここ、止まっただけです。三分を待ちます」と短く返す。

 「三分」という単語は、今は刃ではない。時間の基準だ。三分を数えるあいだ、人は自分の呼吸を取り戻す。凪は手元のスマホのライトを足元に向け、座席の端から端へ「今ここ」を回した。


 暗闇の中で、人の呼吸が揃った。深さは違う。それでいい。揃いすぎるのは危険だ。揃いすぎると、合図に飲まれる。揃い“かけ”で、止める。

 耳の奥の残響熱は、逆に静まった。熱は高ぶる前に、別の体温に吸われる。誰かの吐く白い息、濡れた手袋の冷たさ、膝の上のカバンの重さ。そういう具体が、熱を吸う。


 非常灯が点いた。薄い緑。アナウンスが戻り、車両がゆっくり動き出す。雪の筋が窓の外で斜めに揺れる。

 凪は肩の力を抜いた。隣の高齢者が、軽く彼の肩を叩く。

「ありがとう、若いの」

「いえ。みんなで三分、待っただけです」

 拍手は起きない。起こさない。車内は、再びいつもの揺れ方を思い出す。非常時ほど、平常に戻す手順は小さい。


 駅に着くと、ホームの空気が濃い雪を連れていた。外へ出た瞬間、黒江から着信が入る。

「青井くん、レオが消えた」

 その言葉は雪の中でも輪郭が鋭かった。

「工場?」

「勤怠の退場記録、未確定のまま。アパートに行ったけれど、部屋は空。ロッカーには紙片。『金曜十八時/渋谷/三分の優しさ』」

 凪は歩道の端に避け、雪を避ける庇の下で壁に背を当てた。

「合流する?」

「いいえ。あなたは支援室に戻って、明日の手順をもう一度見直して。レオは、呼吸が乱れる時に“合図”を探す。合図に寄りかかる癖は、明日、誰かを巻き込む。彼に罪を着せる番組も、もう動き始めている」

「片桐が止めようとするはず」

「片桐は止める側の言葉を持ってる。でも、彼一人に重しを全部載せられない」


 その頃、局では会議室の空気が乾いていた。編集部のホワイトボードに「元勇者の反乱」と仮タイトルが太字で書かれ、誰かのペンが斜線を重ねている。

 片桐は机に爪を立てた。音は出ない。爪を立てるのは、喉を守るためだ。声を荒げると、相手と同じ速度に落ちる。

「煽れば数字は取れる。でも、街は壊れる」

 彼は言った。

「“反乱”と銘打つなら、反乱の実像を見せるべきだ。実像は顔じゃない。手口だ。空白を増幅する手、封印倉庫のダミー、三系統の結線。止める側の手順もあわせて出す。角度と声。視覚パネルの配置。観客が明日、真似できるものにする」

「難しい話だ」

 編成の男が笑い、笑いはすぐ乾いた。

「視聴者は単純な“善悪”を求める。今夜の数字が明日の編成を救うんだ。君も分かってくれ」

「“今夜の数字”で“明日の街”を傷つけたくない」

 片桐は一礼し、会議室を出た。喉が乾く。水を飲んでも、乾きはすぐ戻る。

 デスクに戻ると、白い封筒が一通。差出人なし。以前届いた匿名投書の筆跡。中身は短いメモだった。

 会いたいか

 住所と、時間。今夜。

 彼は迷わなかった。迷わない方が、喉が擦れない。迷いは声を荒げる。

「行ってきます」

 同僚が目を丸くする。

「危ないかもしれませんよ」

「危ないほうが、話が真っ直ぐになることもある。カメラは置いていく。録音だけ」

 片桐はコートを取り、夜の路地へ出た。雪が静かに降る。街灯の周りだけ、光が丸い。


 支援室に戻った凪は、フロアの隅で机を広げた。地図のコピー。視覚パネルの設置位置。手旗の色と角度。腕信号の型。協力店のリスト。

「もう一度、歩幅で読む」

 凪は独り言のように言い、指で地図の線をなぞった。東口の階段、柱Bの根元、左側の手すり。スクランブルに出る前、マークをひとつ置く。井の頭線の入口、途中の狭窄部で“半歩”を一回増やす。ベビーカーの列は右側に寄せ、視覚パネルで視線を一枚、先に送る。

 チェックリストの枠が一つ埋まるたび、凪の耳の奥は静かになった。

 どこかで、雪が強くなった。窓の外を白く塗るほどではないが、街灯の周りの円が少し太る。夜の温度は一定に見えて、その実、歩いている人の温度に合わせて微妙に変わる。今夜は、誰もが少し早く歩く温度だ。


 「ひと休みして」

 黒江が紙コップのスープを置き、椅子の背に寄りかかった。

「明日の渋谷、片桐の取材班が東口から入る。彼は“手順の顔”を撮るつもりだって」

「映るのは僕の顔じゃなくて、旗の角度と声の距離でお願いしますと伝えました」

「伝わってる。彼の上司は、別の画を欲しがってるけれどね」

 黒江はスープを一口飲み、目を細めた。

「レオの件、工場の近辺で目撃情報がいくつか。『雪の中、駅に向かった』『スマホを見ていた』『誰かと通話していたようだ』。通話記録の取得は申請中。匿名投書の差出人は、片桐が会いに行った」

「無茶はしない人です」

「無茶をするときの手順を持ってる人、のほうが正しいかな」


 夜十時を回り、凪は外へ出た。渋谷へ。雪はやむ気配を見せない。だが、降り方は静かだ。ビルの谷間を斜めに落ち、肩に積もる前に溶ける。歩道橋に上がると、交差点の全景が見えた。誰もが映像で知っている場所。だが、ここに立つと、“知っている”の中身が変わる。寒さ、匂い、靴底の滑り、信号の待ち時間の長さ。数字の外にある具体が、身体の側に寄ってくる。


 凪は手すりに手を置き、明日の手順を何度も反芻した。

 人の波。信号の消失。手旗の色。腕の角度。視覚パネルの縞の幅。声の高さ。語尾の位置。半歩。

 脳裏には、車内の暗闇で揃い“かけ”た呼吸が残っている。揃いすぎないこと。誰かの速度に一気に合わせないこと。合わせすぎると、次の合図で崩れる。

 雪は静かに積もり始め、都市の輪郭を白く鈍らせる。ネオンの硬さは、雪でひとつ丸くなる。丸くなると、期待も丸くなる。丸くなった期待は、拍手に形を与える。拍手に手順を差し込む隙は、今夜のうちに探すしかない。


 ポケットの中のスマホが震えた。通知は多い。宣言の引用、賛否、煽り、沈黙。だが、その中にひとつだけ、凪の指を止めるメッセージがあった。

 片桐から。

『会う。行ってくる』

 その短さは、喉を守る人の文だった。長く書かないのは、声を荒げないのと同じ理由だ。

 凪は返信を考え、結局「戻ったら連絡を」とだけ送った。


 歩道橋の上で、凪は目を閉じた。明日の三分を頭の中で数える。吸う、吐く、止める――ではなく、歩く、止まる、渡す。

 脳裏に浮かぶもうひとつの顔。灯村レオ。彼は明日、来る。来ない可能性もある。来たとして、合図に寄るのか、寄らないのか。寄ったとして、誰かの肩に手を置けるのか。置けないのか。

 凪は迷いをひとつずつ棚に置き、棚の奥の箱を引き出すみたいに、手順を取り出した。迷いは消えない。消えないが、横に置ける。横に置いたまま、歩ける。

 雪が手の甲に落ちる。冷たい。冷たいけれど、刺さらない。冷たさと刺さる冷たさは違う。刺さるのは、合図だ。合図を合図のままにしない。合図に手順を被せる。被せる厚みは、明日の三分。


 歩道橋の下、信号が赤から青へ変わる。人の波が動き、また止まる。三分の一にも満たない短い波。短い波の連続で都市はできている。

 凪は手すりを離れ、階段を降りた。明日の配置位置を、もう一度歩く。柱Bの根元、左側の手すり。視覚パネルを置く幅の誤差。腕章の見え方。声を届かせる距離。届かせない距離。

 耳の奥は静かだった。静かでいて、いつでも鳴らせる場所にある。鳴らすのは自分だ。鳴るタイミングも、自分で選ぶ。


 帰り際、交差点の角で、電光掲示板のテロップが目に入った。カウントダウン。別のイベントの数字が、あくまで自分の文脈で踊っている。

 三、二、一。

 街は知らないうちに、拍手の形を整えていく。

 凪は心の中で、別のカウントを重ねた。

 半歩、半歩、半歩。

 明日、三分の優しさが来る。

 優しさを、手順に変えろ。


 同じ頃、片桐は指定された路地にいた。雪が路面を薄く濡らし、広告看板の裏で風が巻く。自販機の明かりが青白く、足元の空缶を冷たく照らす。

 遅れてやってきた影が一つ。コートのフードを深く被り、顔が見えない。

「あなたが――」

「無署名、ではない」

 低い声。笑いではないが、語尾に薄い揶揄が混じる。

「私は、“空白に寄りかかる連帯”の一人。あなたが求めている名前は、ここにはない」

「ならば、手口を教えてください」

「あなたはテレビだ。手口を聞いても、顔を映す。顔を映さなければ、数字が死ぬ。数字が死ねば、あなたが死ぬ。死なないために、何を削る」

「具体は削らない」

「なら、具体を受け取れ」

 白い封筒が差し出された。厚みは薄い。中身は紙一枚か二枚。

「道路、鉄道、病院。三系統を揺らす結線の“示意”。実物ではない。示意で十分、都市は揺れる。揺れる“予感”が、揺れを呼ぶ。あなたの編集は、予感を育てるのか、それとも、手順を育てるのか」

 片桐は封筒を受け取った。雪がその上で溶け、紙に丸い染みを作る。

「明日、私は“手順の顔”を撮る」

「そうすればいい。あなたもあなたの連帯に寄りかかる。空白は、どちらにもある」

 影は踵を返し、雪の向こうに消えた。足跡は、すぐ薄くなる。雪は痕跡を平等に減らす。

 片桐は封筒をコートの内ポケットにしまい、息を吐いた。白い息は、テレビ局の明かりを遠くに含みながら漂い、冷えて崩れた。


 雪はさらに強くなり、都市の音を薄く包んだ。

 凪は支援室へ戻り、最後の確認を終えた。声、旗、腕、視線、歩幅、半歩――紙に書いた言葉は、どれも短い。それでいい。短い言葉は、身体に移りやすい。

 黒江が時計を見て、「解散」と言った。

「明日は八時集合。設置班は六時半出発。片桐の班は九時合流。雪は弱まる予報。予報は当てにしないで」

「了解」

 凪は名札を胸に戻し、出口へ向かった。ドアを開けると、外の空気は思いのほか柔らかかった。雪が空気を丸くする。丸くされた空気の中で、都市はうっすらと息を止める。


 明日、三分の優しさが来る。

 優しさを、手順に変えろ。

 凪は胸の内側で、静かに繰り返した。合図のように。合図を上書きする合図として。

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