第4話 報道のカメラ
支援室の会議卓に、普段は置かれない黒い箱が三つ並んだ。レンズ。それから、取材班の足音。硬い革靴がフロアの吸音材を踏むと、やけに自信のある音がする。ここは静かに働く場所で、音は控えめに、が暗黙のルールだ。今日だけは例外らしい。
「密着、ですって」
コピー機の前で書類を抱えた若手職員が、私語の音量を慎重に二割下げて、黒江に耳打ちした。
「世論形成のため。私たちの失敗を世間に予告しておいて、成功したら倍褒めてもらう作戦よ」
「リスク高めの戦法ですね」
「社会復帰支援室の標準装備。青井くん」
名前を呼ばれて顔を上げると、黒江は目だけで笑ってみせた。
「今日は言葉に角を立てすぎないで。丸いからといって転がり出さないで。要するに、いつものあなたで」
「いつもの僕は、角の丸い石ころです」
「なら転がらないように、誰かの靴で踏んでおきましょう」
と、扉が開いて、テレビ局の取材班が三人、空気を明るく持ち込んだ。照明マン、音声、そして先頭を歩くのはグレーのスーツに紺のネクタイ、名刺を差し出す仕草が妙に似合う男。
「片桐です。片桐誉。報道制作の記者をしています」
はっきりした声だった。こちらの耳に届く前から、言葉に形があって、その形の通りに印象が決まるタイプの声だ。
名刺を受け取りながら、ぼくは自分の手汗を気にした。残響熱のせいで、緊張すると掌の温度が先に上がる。握手の前に袖で拭いたら、黒江に軽く肘で小突かれた。
「この後、ブリーフィングを撮らせていただけると」
「どうぞ。ただ、個人情報と具体の固有名は出せません」
「了解です。今日は主に“現場の実務”について。英雄ビジネスの光と影、みたいなまとめではなく」
さらっと刺す言葉を、さらっと抜く笑顔。
「英雄ビジネス、ですか」
「視聴者が好きな古いラベルです。落伍、再起、リハビリ、そういう言葉とセットで棚に置かれてきた。僕は棚卸しをしたいんです。ラベルじゃなく、中身を」
うまいことを言う。ぼくだって、言えるなら言いたい。が、カメラの前だと舌が固くなる。目の前に人の瞳孔が二枚ある、みたいな気分になる。レンズと記者。どちらもこちらを丸ごと写すつもりはなく、必要な部分だけを切り抜く。切り抜かれる側は、切られても立っていられる姿勢を選ばないといけない。
会議室でのブリーフィングは、だいたい普段通りだった。黒江が静音の発生時刻の分布を説明し、データ班が掲示板の予告文の新しい変奏を読み上げ、ぼくは現場での人の流れの扱い方を、図を使って簡単に示す。
「三分は短い。でも、短いから崩れる。短いから持ち直せる。平衡に戻すコツは、合図の上書き。声を届かせる順番と、届く場所の角度です」
言いながら、舌の根っこで言葉を選んでいる自分に気づく。カメラが空白を嫌うのは知っている。けれど、ぼくは空白を選んでしまう。黙って確かめたいことが、話すことより先にある。黙ると、耳の奥がじわりと熱くなる。残響熱は、沈黙中に育つ。育ちすぎると、うまく笑えない。
片桐は、黙ってメモを取っていた。時折、質問を投げる。
「犯人像は、一人に絞らないべき、と。連帯の形を疑う」
「ええ。空白に寄りかかる連帯。責任も拍も、空白に置いて共有する」
「それは逆に、止める側のあなた方にも適用される?」
黒江が頷く。
「もちろん。だから、うちは個人名を推さない。青井くんが今日どれだけ働いても、報告書では第三班の一行」
「あ、はい。ぼくの名前は、ええと、画面の端にちょこっとあるくらいで」
「それでも、見つける人は見つける。英雄に飢えた視線は、どこにでもいますから」
片桐は冗談めかして言い、すぐ真顔に戻った。
「でも、今日は飢えを満たしに来たわけじゃない。ほんとに」
休憩時間、紙コップのコーヒーが減らないぼくを見て、片桐がベンチに腰を下ろした。カメラは少し離れたところで床を向いている。
「あなたは、何で働きたい?」
真正面から来た。避けようとして、道が一本しかないと分かる質問。
ぼくは言いかけた。誰かの三分を、崩壊させないため。言い切る手前で、舌を畳んだ。言葉が綺麗に過ぎる。綺麗な言葉は、詩文の側に親戚がいる。今は距離を保つべきだ。
「できる仕事が、ここにあるからです」
「正直だ」
「受けが悪いほうの正直です」
「テレビは、そういうのを切り落としがちだ。でも、残った人間関係に効くのは、だいたいそっちの正直だと、私は思ってます」
封印倉庫の点検にも同行することになった。湾岸の建屋は、昼より夜のほうがまし。照明塔の下で、片桐は息を白くしながら歩く。彼は現場の温度に合わせるのが早かった。革靴の音を少し抑え、ライトを壁に向け、カメラマンのケーブルに気を配る。
金属ラックが並ぶ通路で、黒江が手帳を開いた。
「返納済みタグ、棚番号一二三。ここ」
テープで封印された空のケースが三つ、隙なく置かれている。中身を示す印刷ラベルは正しい。重量センサーは、かろうじてグリーン。中空に詰め物。
「ダミー返納」
黒江は眉をひそめ、管理台帳にペンを走らせた。
「内部の手がないと無理ね。型番の順列、棚の混雑具合、搬出入の時間帯。外部から来て箱を持ち出すのは、舞台裏を知らない観客にはできない」
「犯人像、煽れますよ」
ぼくの横で、カメラマンが小声で冗談を言い、慌てて手を振った。
「すみません、つい。現場の皆さんの前で言うことじゃない」
片桐は苦笑いもせず、ただ天井の鉄骨を見上げた。
「編集部は、もっと刺激的に、と言ってきます。犯人像を煽れ。視聴率が欲しいんだろうと。悪いのは数字じゃない、数字を口実にした怠慢だ。怠慢は、被写体の具体を削る。削られた具体は、戻らない」
彼の声は、少しだけ掠れていた。何度も同じ話をして、喉が摩耗している人の音。
「具体を積み上げるのは、地味です」
「でも、崩れない。崩さないために撮りたい」
取材を終えて、クルーが帰ったあと、黒江は小さく肩を回した。
「疲れた?」
「取材に向いた顔の筋肉が、少ししかないみたいです」
「鍛えればつく。無理に笑うのはだめよ。空白が増えるなら、増えた空白の理由を、あなたが持っていればいい。誰かが勝手にキャプションを足す前に」
夜、ぼくは白波リサのアトリエに向かった。昼のギャラリーと違って、ここは作業の匂いがする。石膏、解けたナイロン、焦げたヤスリ、冷えたコーヒー。奥のテーブルに、ノートが広がっている。
リサは小さな体で脚立に乗り、壁に何かを貼っていた。ぼくに気づくと、脚立から降り、両手を胸の前で合わせ、開く。こんばんは、の手話。
「お邪魔して、いい?」
彼女は頷き、机の隅を手で払ってスペースを作った。ノートには、詩文の断片と、譜面に似た線が並ぶ。
「共鳴呪に似てる」
ゆっくりと、筆談。
「戦時の。言葉の間合いで、集団の呼吸を合わせるタイプ」
「やっぱり、そう聞こえる?」
彼女は新しいページに、点と線を描いた。
「詩文。切る位置。おなじ意味でも、切り方で呼吸が違う。止めるなら、音じゃなくて、目で止める。視覚のリズムで、分解」
作品プラン、と彼女は書いた。巨大なパネルに細い線を無数に引き、見る人の視線を一定の速度から外す。読む速度を狂わせる。詩文の拍に乗せず、違う拍で歩かせる。
「音を止めるなら、視覚で対抗できるかも」
ぼくは頷いた。剣でなく、手順。魔法でなく、間合い。
「街に置ける?」
「ミニ。二十枚。駅の通路に、間隔をずらして。読む人の速度が、隣とぶつからないように」
「支援室で調整します。掲示許可、間に合うかな」
黒江の顔が浮かぶ。彼女なら、合図の上書きの効果を説明して、管理側を口説ける。
リサは壁のスケッチを見渡して、ふっと息を吐いた。
「あなた、前より、ゆっくり喋る」
「遅くなりました?」
「落ち着いた。耳が熱いとき、早くなる。今日は、そこまで熱くない」
見透かされて、ぼくは笑った。
「テレビカメラの前だと、熱かったです」
「カメラの熱は、映る。あなたに寄る。あなたから街に寄る。だから、冷まし方が必要」
彼女は指先で、机の上の紙片を並べ替えた。すっと、線が合う。ぼくは手順の感触を、確かに掴んだ気がした。
支援室に戻ると、夜のフロアは静かで、コピー機の待機ランプだけが緑だった。机の上に封筒が一通、白いまま置かれている。差出人はなし。局から回ってきた、とメモが添えられていた。片桐の机に届いたものの写しだという。
無署名の正体を知りたいか
便箋に、それだけ。短い誘いのくせに、余白が長い。封筒の中には写真が二枚。
一枚目は、詩文の下書き。罫線入りのノート、書き直した跡、消しゴムのカスの影。行間に、小さく数字がある。五、三、五、七、七。俳句でも短歌でもないのに、音の数え方だけが古典を真似ている。
二枚目は、回路図の断片。道路、鉄道、病院。三系統のシンボルが、同じタイムラインの上に置かれ、結線は点線で示されている。点線の先に、印。無署名。
ぼくは写真をファイルに取り込み、データ班に送った。黒江にも共有。返信はすぐ来た。
「煽りに乗らないでね」
分かっている。乗りたくない。けれど、乗らないで済むなら、そもそも詩文は流行らない。
机に肘をつき、ぼくは目を閉じた。金曜の渋谷。十八時。人流が最も重くなる刻。道路、鉄道、病院。三系統。どれかひとつが数分止まれば、残り二つが乱れる。三つ同時なら、乱れは拍ではなく渦になる。渦は人の足を掬い、転ばせる。
対策の絵を頭に広げる。視覚のリズムのパネルを通路に配置。柱ごとに声の角度を設定。合図に対して、先に合図。勇者は打刻しない。けれど、働く。働くために、今度はレンズを使う。カメラに映るのは、誰かの顔ではなく、手順の図面だ。
帰り際、ぼくは外の自販機でぬるいココアを買った。紙コップの蓋を開けると、湯気が薄く立つ。耳の奥の熱と喧嘩しない温度。
携帯が震えた。片桐からだった。
「封筒、見ました」
「はい。こちらでも共有しています」
「編集部は喜ぶでしょうね。僕は、困っています」
彼は少し笑い、すぐ真面目な声に戻った。
「明日、渋谷でカメラを回します。刺激的に煽る映像は、とろうと思えば撮れる。けど、僕は現場の“具体”を撮りたい。人がどう動き、どう助け合い、どう止まらずに済むか。あなたが空白を抱えたまま喋る顔も、たぶん必要だ」
「顔は、ちょっと控えめに」
「控えめに映して、濃く伝える。できると思いたい。あなたは、何で働きたい、の答え、さっきの続きがあれば、明日、教えてください」
通話が切れた。ぼくはしばらく自販機の明かりを眺めてから、飲み終えた紙コップを捨てた。ゴミ箱の蓋がゆっくり戻る。三秒。三分の、六十分の一。
耳の奥の熱は、穏やかだった。空白は、消えない。埋めなくていい。持ち運べばいい。明日の渋谷に持っていって、誰かの空白と重ねないように、隣で並べておく。重ねず、離さず。
ぼくは支援室の玄関で安全靴に履き替え、外へ出た。夜風が顔を撫でる。遠くの街に、薄い音の膜がかかる。
報道のカメラは、明日、ぼくらの手順を映すだろう。映した上で、誰かの家の夕飯の時間に、溶けていくだろう。
それでもいい。溶け残るものが一つでもあれば。たとえば、三分の呼吸。たとえば、声の角度。たとえば、視線の置き場。
金曜、十八時。
ぼくらは、いつもの時間を、いつものままに通すために、いつもと違う準備をする。
その頃、片桐の机には本物の白い封筒が残っていた。差出人なし。差出人のいない手紙は、受け取った人を差出人にしてしまう。彼は封筒を二つ折りにして、胸ポケットに入れた。編集部のチャットは、赤い通知で煮え立っている。
もっと刺激的に。犯人像を煽れ。
彼は返信を打たなかった。打てば、同じ言葉を自分の喉に掛けることになる。喉を守るには、守る手順がいる。呼吸を整える。文を削る。削り切らない。削らないで置く。
彼はデスクの上の小さな卓上カレンダーをめくった。金曜のマスに、青いペンで小さく書き込む。
渋谷。三分。具体。
湾岸の風が、街の端から端へと走る夜だった。
ぼくは駅のホームで、広告の隙間に立ち、電車を一本見送った。ホームの端で、女子高生が笑っている。笑い声は軽く、軽いものほど長く残る。
視線をあげる。ホームの柱に、空いたスペース。リサのパネルを置ける幅。管理の許可が下りるまでの時間。
三分の優しさが来る前に、三分の手順を置く。
それが明日の仕事だ。英雄の話じゃない。ニュースにもならない。けれど、現場の誰かには、たぶん、残る。
電車が滑り込み、ドアが開く。風が巻き込んで、紙ゴミが一枚、足元を通り過ぎた。拾ってゴミ箱に入れる。誰にも見られていない。拍手はない。
それでいい、とぼくは思う。
拍手は終わっても、手順は残る。残るように、書く。書いたものを、明日、街に置く。
次回、金曜十八時の渋谷へ。




