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冬の勇者は打刻しない  作者: 妙原奇天


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第3話 工場の夜勤、呼吸

 湾岸の風は、昼より夜のほうがましだと誰かが言った。潮の匂いが冷たさを丸め、照明塔の白光が空の底を浅くするからだ、と。

 青井凪は、その白い底を踏みながら、フェンスに囲まれた巨大な工場の守衛詰所へ歩いた。門扉の向こうで、フォークリフトがゆっくりと横切り、奥に見える建屋の壁が呼吸のように陰影を変える。規則正しく回る赤い回転灯。足元の金属製グレーチングが、靴底に寒さを伝える。


「夜勤帯に伺いたいのですが」

 凪は身分証と支援室の紹介状を差し出した。守衛は書類に目を走らせ、インカムに短い言葉を飛ばす。

「管理課に通す。待ってくれ」


 守衛詰所の壁には、安全週間のポスターが整列していた。ヘルメットのイラスト、指差呼称の矢印、数字で刻まれた“無事故記録”。この建物の中では、リズムが命令だ。人も機械も、その命令に合わせて動く。


 管理課の係員に案内され、凪は定期検診室の隣にある休憩スペースへ通された。明るさはコーヒー色、自販機の前に丸椅子、壁掛けテレビはミュートのままニュースの字幕だけが流れている。

 この空間も、息の仕方を規定してくる。長居はできない、でも立ち話で済ませるには少し居心地がいい。三分のための部屋。


「灯村レオさんは、今のロットで出ています。十分ほどで交代です」

 班長らしい男が、紙コップを握ったまま言った。日焼けの名残が頬に残り、目尻は疲れているのに、視線は現場に開いている。

「あなたが支援室? あいつ、戦時の英雄なんだろ。でも、ウチじゃ普通の作業員だ。普通であってほしい」


「普通は、いつもいちばん難しいです」

 凪は応じた。

「少しだけ話をさせてください。ここで」


 ドアが開き、油の匂いと、加工熱の乾いた香りが流れ込む。灯村レオが入ってきた。痩せた。肩幅の線はまだ真っ直ぐだが、上腕の筋肉は使い方を忘れたように細っている。顔を上げた瞬間、目が凪を捉える。驚きが通り過ぎ、警戒が残る。

「青井、か」

「久しぶり」

 二人は、ごく短い沈黙を挟んで向かい合った。休憩スペースの時計が、一分を噛むように刻む。そのテンポが、二人の間に置かれる。


「拍手は終わったよ」

 椅子に腰を下ろすと、レオは笑った。笑いは形だけで、音がない。

「誰も見ていないとき、人は壊れ方がわからない。だから、ここでは壊れないふりをする。ラインは続く。俺は、続けるふりをする」

「拍手がないから、呼吸を忘れる?」

「そうだな。いや、ちがう。拍手があると、俺は早くなる。拍手がないと、遅くなる。どっちにしても、ラインとは合わない」


 ライン――建屋の奥から届く低音が、会話の隙間を埋めた。一定の間隔で鳴る重いクリック、コンベアのローラーが回る擦過音、遠くでロボットアームが戻る停止音。それらが編まれて、工場の心拍を作っている。

 凪はその心拍を、戦時の音と重ね合わせる。野営地の発電機、作戦管制のメトロノーム、界縁を開く前のカウント。音が合わないと、身体は反射的に“緊急”を起こす。

「ここで倒れたって聞いた」

「二度ほどな。笑えるだろ。突撃のときも倒れたことなかったのに。停止ボタンを押しただけで、息が詰まった」


 班長が一度こちらへ視線を送る。凪は会釈で返し、声を落とした。

「レオ、あの詩文、読んだ?」

「どれだ」

「三分の優しさ、ってやつ」

 レオは鼻で笑った。

「見た。いい言葉だ」

「“いい”は危ない」

「分かるさ。でも、合図は合図だ。社会が止まっていい、って言われるのは、助かるやつがいる」

 助かる――その言葉だけが、レオの胸腔にとどまり、ほかの言語を押しのけたように見えた。


 入替のベルが鳴り、班長がドアを開けた。「持ち場、戻るぞ」

「あと二分」

 レオが手を上げた。班長は凪を見て、短く頷き、ドアの外に消えた。

 レオはヘルメットを膝に置き、指先で縁をなぞる。その指が、ふっと震えた。

「なあ、青井。お前は、いま、何の拍に合わせてる」

「“ここ”の拍。空調、時計、足音」

「戦時の拍じゃないのか」

「忘れないけど、持ち込まない。持ち込むと、誰かが躓く」


 言葉を返そうとしたとき、工場全体の空気が、ほんの少しだけ傾いた。低音が止む。テレビの字幕が白紙になり、空調の送風音が薄くなる。遠くから来るはずのトラックのバックブザーが、途中で溶けた。


 静音が走る。


 休憩室の蛍光灯は消えない。だが、世界の芯を支える見えない棒が一瞬抜かれたように、体の芯が浮く。レオの喉が鳴った。呼吸音が小刻みになり、肩が二度、三度と浮く。

「レオ、見て。俺を」

 凪は席を半歩寄せ、右手をレオの視界の中心に掲げる。左手で彼の手首を取り、掌を開かせる。

「五指タップ、いくよ。親指から。いま、ここ」

 親指に人差し指で軽く触れ、離す。人差し指、中指、薬指、小指。一定のテンポで往復させる。目線は手の甲、動きは小さく、呼吸は指の打点に合わせる。

「吸う、吐く、止める。打点に乗せて。吸う、吐く、止める」

 レオの視線が指の往復に集中する。肩の上下が浅くなり、喉仏の跳ねが落ちる。掌の温度が戻り、冷えていた指先がわずかに赤みを帯びる。


 静音が抜ける。工場の心拍が戻り、低音が連結し直され、ロボットアームの停止音が規則に復帰する。

 レオは、大きく一度息を吐いた。

「……助かった」

「拍は、奪われたら奪い返すか、別の拍に乗り換える。いまは、乗り換えた」

「お前、変わらないな」

「変わらないと、ここで働けない」

 軽口を返すと、レオの口元に、ほんの少し笑みが戻った。


「でもな」

 ヘルメットを被り直しながら、レオが言う。

「静音は優しさだ。社会が止まっていい、って合図だから。止まっていいって、誰かに言ってもらえるのは、救いだ」

「止まるにも手順が要る。無手順の停止は、人を傷つける」

 凪は目を逸らさずに告げた。

「緊急停止は、ルールがある。合図も、場所も、役割も。静音は、それを剥がす。剥がれた場所は、崩れる」

「……分かってる。分かってるんだ」

 レオは握り拳をほどき、歩幅を作るように足を開いた。

「俺は、止め方を忘れた。突進の止め方じゃなくて、生活の止め方。だから、三分だけ、止まっていいって言われると、助かる。たぶん、それが間違いの始まりなんだろうけど」


 班長が顔を覗かせる。「戻るぞ」

 レオは立ち上がり、凪の肩を軽く叩いた。

「またな」

 背中はまだ真っ直ぐだ。ラインへ戻る戦士の背中と、同じ角度で。違うのは、誰も太鼓を叩かないこと。拍子は、彼自身が取り戻さなければならない。


 凪は休憩室にひとり残り、テーブルの上の紙コップを捻った。底に残った水が微かに揺れ、静音の残り香のように輪紋を作る。

 席を立ち、ロッカールームへ向かう。レオの番号は分かっている。戦時の仲間の番号は、どうしても覚えてしまう。

 ロッカーの扉には、油で黒ずんだ作業手袋が掛かっていた。その下、磁石で留められたメモ用紙。走り書き。

 文字は丸いのに、筆圧が強い。

 三分の優しさ、金曜18時


 凪は喉の奥で息を止めた。湾岸から渋谷へ、電車で三十数分。金曜の18時は、あの街が最も“揺れる”刻だ。人流は膨らみ、信号の待ち時間は最長、店の入替と退勤が重なり、歩道橋に波が立つ。

 メモの端には、細い線が一本、斜めに引いてある。合図だ。外部から来た言葉ではない。ここで書かれ、ここに貼られた。

 凪はメモの写真を撮り、支援室の即時共有に上げた。件名に“渋谷圏ピーク一致”と添える。送信の振動が掌をくすぐる。


 戻る途中、通路の窓からラインを眺める。レオがアームの隙間で位置決めをし、工具を取り、部材の端を見ている。呼吸は戻っている。だが、その背中のどこかに、三分という単位がぶら下がっているように見えた。

 工場の外に出ると、潮風が強くなっていた。港の水面は黒く、照明塔の光を細かく砕いている。遠くで貨物船が汽笛を鳴らした。

 凪はコートの襟を立て、支援室へ電話をかけた。

「黒江さん、レオのロッカーに“金曜18時”のメモ。渋谷圏のピークに合わせてます。現場は、だれかから合図を受け取ってる」

「写真、見た。ありがとう」

 黒江の声の背後で、端末がいくつも鳴っている。

「こっちも報告。封印倉庫で“ダミー返納”が見つかった。返納リストに載っていたデバイスの一部が、模造ケースに差し替えられてた。重量も寸法も近いけど、中身が違う。抜かれている」

「誰が」

「署名は“無署名”。もちろん、記録上は空白。内側に、手がある。外の詩文に合わせて、内側から拍をずらす人間。技術も記録も分かる誰か」

 凪はフェンスに指をかけ、金属の冷たさを確認した。

「レオの“停止信仰”は、むしろ前景だ。裏に、拍の作り方を知っているやつがいる」

「同感。渋谷は多層化しよう。警察ともラインを合わせる。あなたは、現場の拍を拾って。合図に連れていかれないように」

「了解」

 通話が切れる。湾岸の夜風が、インカムを外した耳に直接触れる。鼓膜が小さく縮む。残響熱は上がらない。上げない、と決めた。


 帰りのバスを待つ間、凪は三分を分解した。歩行者の平均歩幅、コンコースの柱間、エスカレーターの段差、横断歩道の白線の数。三分で、どれだけ動き、どれだけ留め、どれだけ迷うか。

 渋谷の地図を頭に広げ、ピークの流れにピンを立てていく。東口の階段、宮益坂の交差、スクランブルの中心、井の頭線入口の狭間、センター街の導線。どこを軽くし、どこで詰めを作るか。合図に合わせず、合図を越える。

 バスのライトが近づく。扉が開くと、暖かい空気が足元に流れ込んだ。シートに座り、窓に頭を預ける。工場の白光が遠ざかり、港の黒が深くなる。


 そのころ、工場の第六ラインは、夜勤の中盤に入っていた。灯村レオは、規定の動作を淡々と繰り返す。部材を受け取り、固定し、確認し、送り出す。

 視界の端で、回転灯がゆっくり回る。音はもう怖くない。さっきの五指タップで、身体が“ここ”に戻る道を覚えた。

 彼は胸の内側で、自問した。

 止める、ということ。止められる、と言われること。止めていい、と言ってほしい自分。

 あれは、甘えなのか。救いなのか。

 答えは、まだ要らない。手は動く。ラインは進む。


 休憩のベルが短く鳴り、彼は水を飲むためにロッカールームへ向かった。扉を開けると、わずかな違和感。床のマットの角が、いつもより半歩分ズレている。ロッカーの取っ手が、手のひらの位置よりやや下に曲がっている。

 誰かが触った。

 扉を開く。中のものは、きちんと並んでいる。作業服、替えの手袋、折り畳み傘、栄養ゼリー。

 その奥に、薄いカードが差し込まれていた。名刺大、白。印刷ではない。走り書き。さっきのメモと同じ筆圧。

 止めて、くれ


 四文字。余白が多い。

 レオは喉を鳴らした。天井の蛍光灯が、肉眼では見えないほどの微細な唸りで空気を震わせる。

 止めてくれ――誰の声だ。自分の声か、誰かの声か。

 その答えが形を持つ前に、視界の端に砂嵐が走った。古いブラウン管のテレビが感情を失ったときのような、灰色の粒。ロッカーの内側、金属の地肌が斜めにざわめき、線がノイズで塗りつぶされる。

 息が短くなる。五指タップを、と思うが、指先にうまく力が入らない。

 視野の中心に、白い点が浮かぶ。遠くの信号が融けて収束したような点。そこから、音のない拍が広がる。

 三分――ではない。測れない。測る前に、測る手が奪われる。


 レオは唇を開いた。

「止めて、くれ」

 言葉は壁に吸われた。返事はない。

 ノイズが、もう一段濃くなる。ロッカーの内側の世界が、薄紙のようにめくれ上がり、裏面の無地がこちらを向く。

 拍手は、ない。

 誰も、見ていない。

 それでも。

 彼は、左手の指を開いた。親指、人差し指、中指、薬指、小指。遅くてもいい。乱れてもいい。五つ揃えば、戻れると、誰かが教えた。

 その“誰か”の声が、ノイズの向こうで、たしかに小さく鳴った気がした。


 湾岸の風が、夜を浅くする。照明塔の光が、工場の壁に薄く浮かぶ。

 凪はバスの窓に映る自分の顔を見て、息を吐いた。

 明日は金曜。

 金曜の街に、三分の優しさを、と誰かが書く。

 ならば、三分の手順で返す。

 手順は、優しさよりも軽い。だが、長持ちする。


 支援室に戻ると、黒江は地図の上にピンを増やしていた。封印倉庫の棚から抜かれたデバイスの型番が、渋谷一帯の見取り図に小さなバツ印で重ねられていく。

「“音響遮断フィールド”が二基、行方不明。携行サイズじゃないけど、分解されていれば別。あと、応答コンダクタが一本。人混みで“拍”を拾うのに使える」

「連帯の設計者は、現場を知ってる。舞台監督みたいに」

「幕も照明も、音響も、観客も、全部セットでね」

 黒江は目を上げた。

「青井くん。明日、渋谷の呼吸を見て。レオの呼吸も、拾えるだけ拾って」

「拾います」

 凪は名札を胸に戻し、窓の外の夜を見た。

 都市の呼吸は浅く、しかし途切れていない。

 誰かがそれを止めようとしても、止める手順のない停止は、止めきれない。

 止めるなら、止め方から教える。動かすなら、動かし方から戻す。

 青井凪は、耳の奥の熱を、手で軽く押さえた。鳴らないベルが、そこにある。鳴らすのは自分だ。鳴るタイミングも、選ぶのは自分だ。


 湾岸の工場の奥で、灯村レオはノイズの向こうから、ゆっくりと指を戻していた。一本、また一本。視界の砂嵐が、さざ波に変わり、金属の地肌が模様を取り戻す。

 止めて、くれ――

 その四文字は、ロッカーの中で静かに白を保ち、次の合図を待っていた。

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