第2話 静音の手口
社会復帰支援室の会議室は、匂いの薄い新築の箱のようだった。白い壁、吸音パネル、正面のスクリーンには地図ソフトとタイムラインが並ぶ。窓の外に見えるのは高架を走るバスの影で、足元で暖房が静かに唸っている。
青井凪は、黒江雪の向かいに座り、紙コップの水で喉を濡らした。会議室の空気は乾燥していて、少し話すだけで咳が出そうになる。
「ブリーフィングを始めます」
黒江が短く言い、スクリーンに三枚のスライドを送る。そこには都内各所で発生した静音の記録が、秒単位のログで貼り込まれている。停電マップ、基地局の圏外ログ、交通信号の同期停止。それが数分単位で連動しては、波のように引いていく。
「結論から。静音は物理破壊を主目的としていません。停電、圏外、交通停止を短い周期で同期させ、都市のリズムを崩す。恐怖とミスを誘発する、いわば合図型テロです」
合図型、という言葉に、凪の肩が反射的に強張った。戦時、彼ら界縁師が開く動線も合図で動いた。正面から殴り合うのではなく、秒針をずらして崩す。真っ向の力ではなく、拍子の乗り換えで勝つやり方だった。
黒江は次のスライドを示す。匿名掲示板に投下された詩文調の予告文のスクリーンショット。丁寧な漢字遣い、季語を思わせる語彙、そして末尾の印には、判のように押された文字がひとつ。
無署名。
スクリーンの下で、室内がざわついた。支援室の若手職員たちが囁き、メモを取る。凪は文面を目で追った。そこにはこんな文があった。
夜の廊下に、消しゴムを転がす
音がないとき、ひとはやさしくなる
やさしさが重いから、机は沈む
だから、三分だけ、机を軽くしよう
綺麗だが、嫌な綺麗さだ。文そのものが速度を持ち、読む者の呼吸を勝手に合わせにくる。戦時に敵方の宣伝文で嗅ぎ取った、あの冷たい芳香に似ていた。
「犯人像を一人に絞る視点を捨ててください」
黒江は言った。視線は穏やかだが、語尾は揺れない。
「これは単独犯のマインドで設計された現象ではない。〈空白に寄りかかる連帯〉を疑うべきです。責任を分散し、名を捨て、空白自体を旗印にして集まる群れ。名前がないから切れ目がない。切れ目がないから止めにくい」
「連帯、ね」
凪は小さく繰り返した。思い出す。戦の終わりに見た、金網フェンスの外で手だけを振っていた人々。勝者でも敗者でもない、ただ役割が終わった人たち。役割の余白は、雪のように降り積もり、やがて重みで何かを折る。
「それと、旧勇者関連」
座席の端で手を挙げたのは、データ班の三田だった。童顔で、声が少し上ずる。
「灯村レオの所在が、ここ二週間ほど、曖昧です。戦時に突撃勇者として称賛されましたが、戦後は工場ラインで働いていた記録。過呼吸で倒れて救急搬送、が二回。工場側からは“無断欠勤”で報告されていますが、住居の出入りは昨日まで検知なし」
灯村レオ――名前が出た瞬間、並んだ写真が脳裏に浮かんだ。テレビの特番で、がらんどうの目をして英雄と呼ばれていた青年。槍のようにまっすぐな突撃、その背中に追いつける者は少なく、凪の開く動線がたびたび彼のために捩じ曲がった。
工場ラインでの過呼吸という噂は、凪も聞いたことがあった。単純な速度に、身体が別の戦場の速度を思い出してしまう、それだけで息は閉まる。
「灯村が静音に関わっている、とまでは言いません」
黒江は慎重に言葉を選んだ。
「けれど、連帯の核ではなくても、周辺で“空白に寄りかかる”人間は、確実に増えています。元英雄も、その一部に含まれる」
沈黙が降りる。紙の擦れる音、ボールペンのカチリという音。凪は耳の奥に微かな熱を感じた。それは警戒のサインであり、同時に、何かを思い出す合図でもあった。
「今日の午後、封印倉庫の棚卸しを行います」
黒江が最後のスライドを出す。薄暗い倉庫の写真。金属ラックには番号札の付いたケースが並び、赤い封印テープが交差する。
「返納済みデバイスの再点検も。勇者機材の一部が民間に混在している可能性を否定できません。現場の実態を掴みます」
勇者の残骸が、社会に混ざっている。
黒江が言うまでもなく、凪は、それが一番の火種だと感じていた。装備だけではない。言い回し、動き、間合い、視線、過去の拍子。それらが人々の生活の中へ紛れ込み、別のリズムを誘発する。
ブリーフィングがひと区切りつくと、黒江は凪に目配せをした。
「白波リサの展示、見てきてくれる? 招待状が来ているの。あなた、彼女の救出に関わったでしょう」
「名前、覚えてたんですね」
「彼女の名を忘れる現場は、二度と作らないって決めたから」
凪は頷き、会議室を出た。廊下の壁には、支援室が受け持った案件の抜粋が掲示されている。虐待家庭のための隠れ家アパート、元召喚者の就労支援、失踪者の捜索、無籍者の医療相談。戦が終わった後の仕事は、終わったことに起因する仕事ばかりだ。
ギャラリーは、神宮外苑の通り沿いにあった。白い箱のような建物の中に入ると、香りは薄く、床のワックスだけが光を反射している。受付で名前を告げると、スタッフは一瞬驚いた顔をした。青井凪、という名札に気づいたのかもしれない。
展示のタイトルは、沈黙の彫刻。白波リサ。小柄で黒髪、前髪を切りそろえた彼女のプロフィールが壁に貼られている。戦時、異界から召喚された少女。帰還後、声を失い、一年の沈黙を経て、最初の作品を発表。以降、評価が集まっている。
会場の中央には、透明なアクリルの箱があった。箱の中に、小さな机と椅子が置かれている。机の上には消しゴムひとつだけ。観客は、箱の外に立ち、覗き込む。どこにも説明の札はない。ただ、薄い反射の中に自分の顔が浮かぶ。
「現代的でクール」
後ろで誰かが言う。若いカップルの声だ。彼らの声は弾み、スマホのカメラが小さく鳴る。もう一組の観客が、作品の前で立ち止まり、写真を撮る。撮られたのは、机の上の消しゴムと、それを取り囲む沈黙の空気だった。
凪は歩いた。奥の小部屋には、細長い白い柱が並ぶ。柱の表面には、点字のような突起がある。触らないでください、という小さな注意書き。それでも人は表面に目を凝らし、指先を動かしそうになる。
隅のベンチに、リサが座っていた。黒いワンピース、目元だけが少し赤い。凪に気づき、彼女は立ち上がる。声は出さないが、口元が笑う。
「久しぶり」
凪は会釈する。リサは胸の前で手を合わせ、開いて見せる。ありがとう、の手話だった。凪は、あの夜のことを思い出す。崩れかかった通路、開いた動線、リサの手首、温度、震え。この世界に戻ってきた彼女の手は、やけに軽かった。
作品のひとつに、壁に文字が刻まれているものがあった。
音がないとき、ひとはやさしくなる。
やさしいひとが多すぎるとき、机は沈む。
だから、三分だけ、机を軽くする。
凪は眉をひそめた。掲示板の文と、ほとんど同じだ。出どころはどちらか。あるいは同じ源。作品は半年前から制作が始まっているらしい。ならば、掲示板が引用したのか。あるいは、別の場所に原型があるのか。
そのとき、ギャラリーの外から、小さな波が押し寄せるような気配がした。空気の重心がずれる。展示室のダウンライトが、わずかに瞬く。スタッフが受付で顔を上げる。同時に、通りの車の音が、ふっと途切れた。
静音。
照明が落ちるわけではない。外の喧騒だけが、薄い膜の向こうへ押しやられる。通りにいた人々が足を止め、空を見上げる。その表情が、ガラス越しにスローモーションで見えた。ギャラリー内の観客たちは、何が起きたか分からず、しかし本能的に息を浅くする。
次の瞬間、外で拍手が起こった。散発的な拍手。仲間の合図のような、でも、ただのテンションの発散のような。誰かが笑い、誰かが動画を撮り、誰かが走り出す。短く、それだけ。静音は三十秒も続かず、通りは再び音を取り戻す。
展示室の薄闇の中で、凪の背中に冷たい汗が流れた。静音が、パフォーマンスとして消費される。まるでライブの演出みたいに。危機を危機としてではなく、演目の一部として受け取る人々。いったんそうなれば、手口は広がる。観客は、参加者へ変わる。
凪は外へ出た。通りの電柱に貼られたフライヤーが剥がれかけ、風に揺れる。スマホを掲げていた青年がこちらを見た。
「今の、見ました? すごくないっすか。これ、あの、無署名のやつでしょ」
「すごい、ね」
凪は短く答えた。青年は満足したように頷くと、動画の編集画面に戻った。画面の中に、先ほどの静音の瞬間がタイムラインに並ぶ。そこに効果音が足される。皮肉なことに、静音の映像には音が必要だ。
ギャラリーに戻ると、リサが深く息を吐いて、壁にもたれていた。彼女の指先が微かに震えている。凪は近づき、視線で問いかける。大丈夫、と彼女は小さく頷く。けれど、その目は言っていた。これは、違う。わたしの沈黙と、違う。
凪は礼を言い、ギャラリーを後にした。夕方の色が街の角にたまり、信号は順番に赤黄青と巡る。そのリズムが崩れないうちに歩幅を合わせる。支援室に戻らねばならない。
封印倉庫は、湾岸の物流区画にあった。古いコンクリの建物にカードキーをかざし、鉄扉を開ける。中は低い温度に保たれていて、湿度計の針が淡く揺れる。金属ラックが規則正しく並び、ラベルの番号が視界に等間隔で入ってくる。
「こっちが返納済みのデバイス。こっちは解析済み、こっちは未解析」
案内をしてくれたのは、倉庫担当の年配職員だった。背中が丸く、だが歩幅は大きい。現場の体力が残っている。
「ひとつひとつ、起動チェックまではしない。封印が破られていないか、外観確認が主。青井さんは、見覚えがある機材があれば教えて」
凪は頷き、並ぶケースに指をかけた。封印テープの上から、品名が読める。界縁用投射器、補助核、応答コンダクタ、音響遮断フィールド、視域広角。戦時、名字よりよく口にした名前ばかりだ。
「ここ、封印に微妙な歪みがある」
凪は一本のケースに目を留めた。テープが一度剥がされ、また貼り直されたような痕。細い繊維が一部立っている。
年配職員が近づき、ライトで照らす。「ああ、これ、先週の棚卸し時に搬出されたかも。貸出記録は……」タブレットを操作する。「あれ、出てるな。記録上は社内移動。だが、戻りのチェックがない」
胸の内側で、音が大きくなる。勇者の残骸は、社会に混ざっている。封印を飛び越え、かつてそれを使っていた者の手に戻り、あるいは触れたことのある者の手に渡る。道具は手口を呼び、手口は拍子を呼ぶ。都市のリズムは、少しずつ外からではなく内から変わっていく。
「黒江さんに報告を」
凪が言うと、年配職員は頷き、電話機の受話器を掴んだ。施設内回線の低い発信音が鳴る。凪は倉庫の通路を歩いた。ケースの影が規則正しく連なり、足音が吸い込まれる。どのケースにも、過去の誰かの時間が詰まっている。汗、血、命令、失敗、成功。そういうものは拭き取っても拭き取れない。
戻る道すがら、黒江が現れた。彼女は早足で来て、封印の歪みを一瞥した。
「これ、貸出承認は私じゃない。第三班の署名……違う。署名がない。つまり、無署名」
「内部にも?」
「連帯は、外と内の区別を好まないわ。空白に寄りかかる、ってそういうこと」
黒江は短く息を吐き、表情を引き締める。
「一度、班を解いて再編成します。青井くん、現場常駐、お願いできる?」
「ええ」
即答してから、自分の胸の内で一瞬、誰が頷いたのか考えた。勇者としての集中が首をもたげる。だが、それに名前を与えない。これは支援の仕事だ。合図に引っ張られず、合図を逆用する仕事。
夜、支援室の灯りが落ちるころ、凪は自席で耳を揉んでいた。残響熱がまだ引かない。指で軽く圧をかけると、熱が耳殻の縁を回り、喉に落ちていくように感じる。スマホの通知が震えた。匿名掲示板の監視アラート。データ班が設定したキーワードに一致があったのだ。
新しい予告が投下されていた。画面を開くと、白地に黒い文字が映える。構成は簡潔で、しかし練れている。最初に、街の描写。次に、時間の指定。そして最後に、印。
金曜の街に、三分の優しさを
凪は椅子から体を起こした。喉の奥で、音がひとつ弾ける。美しい。文として、美しい。だからこそ、凶暴だ。善性の語彙で、破壊の拍を取る。優しさは重い。重さで机を沈め、机を軽くするという名目で支えを外す。三分。短いから、参加しやすい。短いから、笑って済ませられる。短いから、気づいたときには手遅れだ。
黒江から内線が飛ぶ。
「見た?」
「見ました。金曜、って、明日です」
「そう。明日、通勤帯。三分の優しさが、どこでどう働くか。私たちはその三分を、別の三分に変えないと」
「別の三分?」
「救助の三分、ね」
黒江は淡々と続ける。
「彼らが合図する三分に、私たちが呼吸を合わせる必要はない。合図を反転させる。ここが肝心よ。あなたの声で、人の動きを、日常の側に繋ぎとめて」
通話を切ると、凪は窓の外を見た。夜の街は、昼よりも規則正しく見える。赤い点、白い線、黄色い矩形。過剰な情報が間引かれ、リズムが露わになる。それは同時に、崩しやすいということでもある。拍が見えるなら、ずらせるのだ。
机の端に置かれた名札を手に取る。青井凪、と印字されたプラスチック。指で滑らせると、端が少し欠けているのに気づく。欠けは、角で生まれる。角は、拍がぶつかる場所だ。
帰路、凪はわざと人の多い通りを選んだ。金曜の前夜、街は浮き足立つ。居酒屋の前に列ができ、コンビニのレジで温め待ちが発生し、バス停のベンチで誰かが眠そうに欠伸をする。小さなリズムのずれが累積するとき、そこに合図を挿し込むのは容易い。だから、見ておきたかった。どこが弱く、どこが強いのか。
交差点の角で、信号の切り替わりを三回分、カウントする。歩車分離のタイミング、スクランブルの幅、横断歩道の枠線の擦り減り。横断し終える寸前、スーツの男性が立ち止まり、スマホを空へ掲げる。電波は正常。彼は満足げに下ろし、再び歩き出す。
コンコースに上がると、壁の大画面に広告が流れた。ドラマの予告編。誰かが泣き、誰かが抱きしめ、音楽が盛り上がる。そこでは優しさが商品になっていた。包装紙に包まれ、消費され、来週には別の優しさが並ぶ。
自宅に戻ると、部屋は静かだった。畳の上に置かれた小さなテーブル、その上に書類が積まれている。隅に折りたたまれた世界地図、戦時に配られた応急セット。捨ててしまえばいいのに、捨てられない。そういう残骸が、ここにもある。
凪はシャワーを浴び、冷蔵庫から水を取り出し、一口飲んだ。喉を通る水の音が、やけに大きい。耳の残響熱は、ようやく下がりかけていた。
スマホが震えた。黒江からのメッセージ。明日の配置が送られてくる。主要駅のコンコース、百貨店のエントランス、地下の連絡通路、バスターミナル。そこに支援室の職員と、協力員が薄く散らばる。名前の横に、凪の名もある。コンコース、東口、柱Bのあたり。
返信を打つのはやめた。明日の朝、現地で会えばいい。寝具に横になると、天井の四隅が闇に溶け、視界は四角い箱のように狭まった。静かな箱。ギャラリーのアクリルを思い出す。机と椅子、消しゴムひとつ。息を吸い、吐く。三分、という時間を身体に刻む。三分の呼吸。吸って、止めて、吐いて。三度繰り返し、目を閉じる。
夢の中で、凪は長い廊下を歩いていた。壁に掛けられた時計が、わずかに遅れている。誰かが背後から走ってくる音。振り返ると、灯村レオが立っている。彼は笑顔で、けれど目は笑っていない。槍の影が床を斜めに切り取る。彼は言う。間に合うかどうかは、合図じゃなく、足だよ。凪は頷く。分かっている。だが、足だけでは届かないことを知っているのも、凪だった。
翌朝、空は薄い青に戻りかけていた。金曜の空気は少し軽い。スーツの背中がいくらか弾み、駅へ吸い込まれていく流れに、凪は逆らわず身を乗せる。コンコースは、音が多いほど静かだ。一定の音量が広がると、相対的に身体は落ち着く。それを切断するのが静音の手口だ。音は壁になる。壁を抜くのは簡単だ。
東口の柱Bに着くと、黒江が既にいた。ベージュのコート、髪はいつもより緩くまとめられ、顔の疲れは消えていないのに、目が生きている。
「おはよう」
「おはようございます」
「三分の優しさ、準備はいい?」
「優しさは重い。だから、軽くするのは私たちの役目で」
黒江が口の端を上げた。
「いいリハーサルね」
腕時計の秒針が、十二の位置に近づく。コンコースの照明が一定に光り、電車がホームに滑り込む。人の流れが膨らみ、圧が増す。真下の空調の風向きが変わる。凪は深く息を吸い、吐く。耳の奥が温まる。
そして、その瞬間はやってきた。音がすっと抜け、誰かの足音が床に吸われる。すぐ隣で、子どもの手が離れかける。母親の目が驚きで見開かれる。アナウンスが途切れ、電光掲示板の文字が白に変わる。
「落ち着いてください」
凪の声が、柱に反響して広がる。合図は奪うのではなく、奪われた後に繋ぎ直す。声の高さ、速度、語尾の角度を、身体が覚えているところに置く。
「小さなお子さんは抱き上げて、柱の内側に寄ってください。歩いている方は止まらないで、前の人の肩幅を目安に半歩ずつ進んでください。階段は使わず、エスカレーターを避けてください」
黒江も別方向に声を飛ばす。支援室の職員が点のように散り、点と点の間に視線の糸が張られる。誰かが笑う前に、別の誰かが頷く。頷きは拍を取り戻す。運ばれた拍は次の人へ伝わる。三分は短い。短いから、連帯が育つ。短いから、逆連帯も育てられる。
静音が解ける。アナウンスが戻り、電車のブレーキ音が鉄骨を震わせる。コンコースの空気が一瞬だけ柔らかくなる。安堵の拍手は起こらなかった。誰も、これを演目と誤解しなかったからだ。凪は胸の内で小さく頷いた。
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。データ班からの速報。別地点でも同時に静音が起き、掲示板には新たなレスが付いている。そこには短い、しかし決定的な文があった。
優しさ、ありがとう。次は、夜景で。
凪は黒江と目を合わせた。彼女は頷く。合図は終わらない。合図は次の合図を呼ぶ。だから、こちらも続けなければならない。勇者は打刻しない。けれど、働く。働き続ける。合図が終わるその日まで、あるいは合図という言葉が別の意味へ疲れていくその瞬間まで。
凪は耳の奥で、また小さな開始ベルを鳴らした。今度は、誰にも聞こえない音量で。金曜の街に三分の優しさを、と誰かが言うなら、こちらは三分の呼吸で返す。呼吸は、誰のものでもない。誰にでも渡せて、誰にも盗めない。
この都市のリズムは、まだ折れていない。折らせない。凪は柱に手を当て、冷たい感触を確かめた。ここが、今の戦場だ。




