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冬の勇者は打刻しない  作者: 妙原奇天


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第12話 打刻しない勇者

 冬至の翌朝、街は拍子抜けするほど静かに目を覚ました。

 新聞の一面を飾る逮捕者の見出しはなかった。きのう、どこかのカメラが「犯人」を切り取ったわけでもない。駅の電光掲示は色を取り戻し、病院の廊下にはいつもの靴音が戻り、商店のシャッターに貼られた「三分無料」の紙はゆっくり剥がされ、代わりに小さな言葉が残る。「また困ったら言ってね」。

 封印倉庫の穴は塞がれた。入札制度は、何行かの文言が変わっただけに見えたが、その何行かの「最優先」が少しだけ場所を譲った。安さの代わりに、教育。スピードの代わりに、手順。書類の行間に、冬の朝の白い息が薄く滲む。


 夜。片桐誉の特集が放送された。タイトルは最後まで空白のままで、番組表にはただ「特集」とだけ出た。

「空白の正体――誰のミスでもあり、誰のせいでもない」

 画面に映るのは、駅員の手袋、店長の笑っていない口元、看護師の胸ポケットの三色ペン、先生の肩、ボランティアの腕章、商店の掲示、マンションの階段の踊り場のテープ。誰も英雄ではない。名前はあえて出さない。本名の代わりに、役割の名前がテロップに流れる。

「改札の人」「湯気をくれた人」「歩く絵を貼った人」「丸の上で半歩待った人」

 数字は跳ねない。跳ねないのに、画は落ちない。視聴者は録画にして、あとから、何度も見返す。派手さはない。けれど、日常の手触りが画面から溢れて、部屋の温度を一度上げる。


     *


 昼。保護病棟の四階。灯村レオは眠っていた。白いカーテンの向こう、窓の外の空は薄く晴れていて、真ん中だけ灰色が残っている。

 青井凪は消毒液の匂いを吸い込み、ベッド脇の手すりに手を置いた。ベッドサイドテーブルの上に、白い紙と鉛筆。自分でも笑ってしまうほど、字は丸い。

「止まり方の手順」

 紙の右上にそう書いてから、凪は行間を空けずに四行、箇条書きにした。

「息を四拍で吸う」「二拍止める」「四拍で吐く」「次の丸を見る」

 その下に小さく付け加える。「君の“止まる”は、世界の“動く”を邪魔しない」。

 レオは眠ったまま、眼窩の下に乾いた跡を残していた。頬の赤みは薄れ、唇に血色が戻り、呼吸は規則正しい。凪が紙をクリップで留めていると、レオの睫毛が震え、ゆっくり瞼が開いた。視線が手すりへ、紙へ、凪へ移る。

「……俺、止まれた?」

「止まれた。手順で止まった」

 凪は笑って、紙を差し出した。

「これ、覚えなくていい。見て真似するだけでいい」

 レオは紙を受け取り、読み、唇の端を上げた。泣き笑いみたいな顔になって、うまく頷けずに、息だけが大きく出る。

「ありがとう」

 その一言は小さく、けれど部屋のすみにやわらかく残った。凪はベッドの柵を軽く叩き、立ち上がった。

「また来る。今度は丸を持ってくる」

「丸?」

「丸のシール。病室の床に貼る」

 レオが笑う。泣き笑いが、笑いに寄る。


     *


 支援室は、冬至を越えたその日から「一段落」と「人員整理」を同時に抱えた。机の上には、短期対策のチェックリストと、雇用契約の期限が並んでいる。

 夕方、黒江雪が凪のデスクにやってきて、紙コップのコーヒーを差し出した。

「ごめん。予算は冬至までの契約」

 凪は受け取って、湯気で鼻をあたためる。

「知ってます」

「言いにくいのは、わかってる」

「言いやすくする手順は、まだ研究中です」

 冗談を挟むと、黒江の口元が小さく緩んだ。

「……うちに来ない?」

 黒江は半分冗談みたいに言って、視線だけは冗談じゃない色で凪の目を見る。

「この“うち”はどこの“うち”ですか」

「私の“うち”。つまり、何か起きたらまた呼ぶ、という意味」

「いつでも」

 凪は肩をすくめた。

「打刻しない働き方、覚えたから」

「打刻してもいいのよ?」

「してもいい。でも、鳴らすベルは自分の中で十分です」

 黒江はふっと笑い、紙コップを自分の唇に運んだ。

「あなたのそういうところ、たまに面倒だけど、助かる」


     *


 その頃、白波リサは新作の公開準備を進めていた。タイトルは決まっている。

「日常の長い音」

 展示室に入ると、歩道橋のガラスの細い擦り傷が、商店のシャッターの波打つ金属の縦線が、駅の壁に残ったテープの痕が、巨大な写真になって壁一面に貼られていた。写真と写真の間には、細いスピーカーが隠されている。流れてくるのは音楽とは呼べない何か。雑音と呼ぶには秩序がある、長い帯。

「耳鳴りの外側に、一本だけ線を引く」

 リサはそう言って、スイッチを入れた。

 凪は会場の中央で立ち止まり、耳をすまして、呼吸を浅くして、もう一度深くした。音は、音楽ではない。けれど、歩幅の長さをそろえる。肩を落とさせ、首の後ろをゆるめ、足の裏に体重を戻す。

「ね、踊れるでしょう」

 リサが笑う。

「踊れる」

 凪はうなずいた。

「これが街の魔法だ」


 オープニングの日、観客は最初、戸惑っていた。写真は地味だ。音は地味だ。言葉はない。解説文もない。けれど、数分後、誰もが会場を回る速度を自然に合わせ、角で半歩止まる。「間」が身体に移る。帰り道、無意識に蛇行で歩き、丸を探してしまう。会場の出口に、薄い紙が一枚置かれていた。

「持ち帰らなくていい。明日、真似してください」


     *


 局の会議室では、表彰状の話が出ていた。片桐誉は、担当役員に呼ばれ、短い言い合いのあと、静かに首を横に振った。

「辞退します。番組の最後に、現場の人の“役割の名前”だけ流させてください」

「君の名前は」

「要りません」

「視聴率は」

「残ります。数字じゃなく、再生数のほうに」

 役員は計算の早い目で片桐を見て、ため息を一つだけ落とした。

「勝手にしろ」

「勝手にします」

 番組の最後に、静かな音の上に白い文字が流れた。

「改札の人」「湯気をくれた人」「丸を描いた人」「肩を落とした人」「笑わなかった人」「終わってから笑った人」

 視聴者は、自分の周りにも同じ人がいることに気づく。テレビの向こうではなく、隣の席に。エレベーターの前に。レジの向こうに。


     *


 冬の終わりが見え始めたころ。

 凪は夜間学校の非常勤講師を頼まれた。「防災と“手順のデザイン”」。肩書に“勇者”はない。履歴書にも書かない。代わりに、カバンにチョークを入れた。初めて買う、自分だけの白い棒。

 夜の教室で、最初のベルは自分で鳴らした。指先で机を軽く叩く、あのリズム。生徒は十数人。高校生もいれば、商店の店員、保育士、鉄道の新米、マンションの理事の若い人。

「今日は“人のレール”を描きます」

 黒板に、白い線が一本。蛇行して、角で丸になり、また蛇行する。

「一直線は訓練。蛇行は歩行。歩行は真似しやすい。丸は“待つ”の形。半歩は、合意の最小単位」

 生徒の一人――保育士の女性――が手を上げた。

「声はどうしますか」

「机越しの声です。語尾は上げない。お願いします、も、いいですか、も付けない。声は補足」

 鉄道の新米が言う。

「旗は?」

「旗も補足。先に“歩く絵”を敷く」

 商店の店員が笑う。

「テープはどこで買いますか」

「ホームセンター。明日、リストを渡します」

 凪は黒板に短い言葉だけを残し、チョークの粉で白くなった指先を見下ろした。ベルはない。けれど、授業の始まりと終わりは、教室が決める。人のレールは、黒板から足へ、足から街へ伸びていく。


 授業が終わると、窓の外には雪解けの水が路肩を細く流れていた。アスファルトの黒は深く、街は“普通の音”を取り戻している。信号の微かな息継ぎ、踏切のカタカタ、電柱の上で鳴る風の細い音。

 校舎の前で、凪はポケットからタイムカードを取り出すふりをした。誰も見ていない。自分で小さく、空に手を上げる。

 打刻はしない。

 けれど働く。

 誰かの三分を壊さないために。


     *


 無署名のアカウントが消えたのは、その週の金曜だった。

 最終投稿は、ただ一行。

「街は、あなたのものです」

 いいねも、罵倒も、議論もつかなかった。数分で流れて、すぐ埋もれた。けれど、街角には「歩く絵」が薄く残っている。テープの粘着はとっくに弱り、雨に削られ、靴に踏まれ、輪郭は崩れているのに、足は自然とその幅に合う。目が覚えているのだ。身体が覚えているのだ。

 凪は投稿を画面の中で見て、特にスクリーンショットを取ることもなく、スマホを伏せた。

 信号が青になる。横断歩道の上、丸はない。丸はないが、半歩で足が揃う。蛇行の線は消えたが、体幹は蛇行を覚えている。

 支援室の前の廊下で、黒江が手を振った。

「夜、来る?」

「授業です」

「仕事人」

「打刻しないので」

 黒江は笑い、紙コップを持ち上げて見せた。湯気が薄く上る。

「また“会議”をやる。名札なし、議題なし、紙コップ多め」

「行きます。ベルが鳴ったら」

「あなたのベルでいい」

 凪はうなずいた。ベルはいつでも鳴らせる。息を吸い、二拍止め、吐く。歩幅を整え、角で丸を探し、半歩だけ待つ。


 夕暮れ。歩道橋の上に立って、街を見下ろす。人の流れは冬の終わりの色をして、肩の位置が低い。誰かが走る。誰かが止まる。誰かが譲る。誰かが笑わない。終わってから笑う。

 青井凪は振り返らずに歩き出した。

 冬の勇者は、今日も出勤する。

 タイムカードはない。

 ベルは、自分で鳴らす。


<おしまい>

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