第1話 履歴書の勇者欄
雪にはならなかった。
でも、空はずっと雪になる準備をしているようだった。
東京の空気は、朝から鉛のように重く、吐いた息が白くもならない中途半端な冷たさで、青井凪は派遣会社の面接室にいた。
白い机。使い込まれたパイプ椅子。壁際の観葉植物は、葉先が茶色く枯れていた。
面接官は二人。ひとりは眼鏡越しにタブレットを見つめ、もうひとりは履歴書をめくっていた。
「……あの、青井さん?」
書類を持つ中年の男が言った。
「この“勇者経験あり”というのは、どういう意味でしょうか?」
凪は軽く頭を下げた。
「五年前の異界戦争のときに、界縁師として従軍していました。そのことを……」
「いや、わかりますよ。わかりますけどね……」
男は苦笑いを浮かべ、履歴書を指で叩いた。
「今はうち、物流倉庫の派遣ですから。フォークリフトの資格は?」
「持っていません」
「じゃあ、ちょっと厳しいかなあ」
彼らの笑い声は、かつての戦場の“音”とは違う。
あのときの指令室では、笑いが生存確認のサインだった。
だが今のそれは、単に退屈をやり過ごすためのものだった。
面接官が履歴書を裏返す。その動作ひとつで、凪の数年が裏返された気がした。
戦いを終え、魔法デバイスを返納し、残ったのは耳の奥の“残響熱”だけ。
人々が忘れていくほどに、勇者たちは現実に馴染めなくなっていった。
「また連絡します」と言われ、凪は礼をして外へ出た。
冬の風が階段の踊り場を抜け、足元の広告紙をめくる。
地下鉄の通路へと降りていく途中で、凪はイヤフォンを耳に差した。
流れるのは、古いヒーローアニメの主題歌。
「今となっては」だ。子どもだった頃、勇者は画面の中にいた。
いまは履歴書の中で笑われるだけ。
改札を抜け、地下通路を歩く。
午後五時前。帰宅ラッシュには少し早い時間帯。
電光掲示板がちらつき、アナウンスが途切れ、照明が一瞬、明滅した。
凪は足を止める。耳の奥が、微かに熱を帯びた。
嫌な予感というより、訓練された反射。
次の瞬間、静音が起きた。
蛍光灯が落ちるように、すべての音が止んだ。
モニターの広告は白紙になり、電車の走行音も、アナウンスも消える。
ただ、群衆の息づかいだけが残った。
子どもが泣き出す。母親が口を塞ごうとするが、声が出ない。
凪は一歩前に出た。
――これは、あの頃と同じだ。
異界との境界が乱れる前兆。魔力ではなく、残響構造の崩壊。
「静音」は、現代社会に残された戦後の“余波”だ。
スマホを取り出す。画面も真っ白。通信遮断。
だが、人は止まらない。パニックは波のように広がる。
「落ち着いてください!」
凪の声が、通路に響いた。
耳の奥が熱くなり、声に圧が乗る。訓練で身についた指揮の声だ。
「お子さんを抱えてる方は、左側に寄ってください。高齢者の方は壁側を使ってください!」
彼はスマホのライトを点け、それを中心に数人のライトが集まる。
光の結び目ができ、通路が“線”として見え始める。
「今ここ」――それだけを伝える言葉の連鎖。
戦場で培った判断力が、身体の奥から蘇る。
誰かが言う。「あなた、自衛隊の人ですか?」
凪は首を振った。
「ただの求職中です」
そう言いながら、口元に笑みが浮かんでいた。
忘れていた感覚だった。
自分の声が、誰かの行動を変える――それだけで、世界は動く。
やがて、非常灯が一つ、また一つ、点いた。
“静音”はゆっくりと解除され、遠くで電車の音が戻る。
群衆が安堵のため息を漏らし、拍手が起きた。
その中に、ひとりだけ、拍手をしていない女性がいた。
黒いコート、銀のピンで髪をまとめた短髪の女性。
黒江雪。
その名を、凪は覚えていた。
「……黒江さん」
「久しぶりね、青井くん」
彼女は笑わない。戦場のときと同じ表情だ。
冷静で、現場を見て、次を考える人。
「ここにいるなんて、偶然ですか?」
「仕事中よ。社会復帰支援室のコーディネーターになったの。今日は“静音”の調査で来てた」
「静音……これ、また?」
黒江は頷いた。
「最近、都内で頻発してるの。ネットでは“残響病”とか“無署名現象”って呼ばれてるけど、内部では“旧勇者系統の反応”だと見てる」
「旧勇者?」
「戦後、魔法デバイスを返納した元英雄たち。あなたみたいにね。残響を制御できず、無意識に発火させるケースがある」
凪は黙る。
確かに、自分の耳の奥はまだ熱い。
あの“熱”が、自分から出たものだとしたら。
恐ろしいが、どこかで納得している自分もいた。
「でも、僕はもう関係ないですよ。勇者じゃない」
「そう言うと思った」
黒江は小さくため息をつき、スマホを操作する。
画面に、支援室のロゴと「非常勤協力員登録」の文字が浮かぶ。
「非常勤でいいの。要は“今みたいな時に、誰かを導ける人”。あなた、さっき自然に動いてたでしょ? それが仕事よ」
凪は首を振った。
「もう戦いたくないんです」
「戦いじゃない。支援よ」
黒江の声は静かだった。
「止めるべきは電気じゃなくて、“空白”。役割が終わった後にできる穴。その穴が、いま東京中に空いてる。だから、あなたの声が必要なの」
通路の非常灯が完全に復旧し、人々が流れ始める。
凪は、群衆の中で立ち尽くした。
“役割が終わった後の穴”。
それは、自分自身のことのようだった。
「……わかりました」
彼は小さく息を吐く。
「打刻しない出勤、ってことで」
黒江はふっと笑った。
「いい言葉ね。じゃあ、明日から“無署名対策班”へ。正式な研修じゃなくて、現場同行でお願い」
ふたりは地上へ上がる。
地下の冷気から抜けた瞬間、街の空気が柔らかく感じた。
空は雪になる前の鈍色。
ビルの隙間から見える光が、凪の頬を照らす。
自販機の前で、黒江が缶コーヒーを買い、一本を差し出す。
「おかえり」
その言葉に、凪は返す言葉を探せなかった。
戦場に戻るわけではない。
でも、自分の中で何かが再起動した感覚があった。
缶のプルタブを引く音。
その瞬間、耳の奥で小さく“開始ベル”が鳴った。
――勇者は打刻しない。けれど働く。
吐く息が、ようやく白くなった。
遠くで、雪の粒が光に変わる。
その中で、凪は歩き出した。
自分の仕事が、ようやく始まるように。




