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東京の北、札幌の空

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/10/23

第一部 揺らぎ


1. 三年という時間の形


凛、三十三歳。丸の内の化粧品会社でマーケティングの仕事をしている。彼女の人生は、丁寧に組み上げられた寄木細工のように、安定し、満ち足りていた。三軒茶屋の駅から少し歩いたところにある、日当たりの良い1LDK。そこで過ごす健太との時間は、三年という歳月を経て、すっかり生活の景色に溶け込んでいた。

「凛、これ、味見してくれる?」

キッチンから顔を覗かせた健太が、小さなスプーンを差し出す。同い年の彼は、大手飲料メーカーの営業職で、凛と同じく三十三歳。スプーンに乗ったラタトゥイユは、週末に二人で仕込んだものだ。口に含むと、トマトの酸味とパプリカの甘みが優しく広がる。

「ん、おいしい。ちょうどいい」

「よかった」

健太は満足そうに微笑んで、鍋に戻る。その背中を見ながら、凛は思う。この穏やかな日常が、愛おしい。仕事は順調で、東京での女性の平均年収と言われる額よりも少し多く稼いでいるおかげで、経済的な自立もしている 。健太との関係も、大きな波風が立つことはない。ただ、その凪いだ水面の下には、無視できない小さな澱が静かに溜まっていた。

結婚。

その二文字が、凛の心の隅で、低いハミングのように鳴り続けている。周りの友人たちは次々と結婚し、子供が生まれ、ライフステージを変えていく。SNSのタイムラインには、ベビーシャワーの写真や、新居のリビングで寛ぐ家族の姿が溢れていた。焦りというほどではない。けれど、確かな時間意識が、凛の中にあった。三十三歳という年齢は、決して無視できない節目だった 。健太のことは愛している。この平穏な関係が、いずれは自然と次の段階へ進むのだと、漠然と信じていた。しかし、彼の口から具体的な将来の話が出たことは、これまで一度もなかった。

その夜も、二人はソファに並んで座り、他愛もない話をした。健太が担当する新商品の話。凛が進めているキャンペーンの進捗。肌に触れる腕の温かさと、部屋に満ちるラタトゥイユの匂いが、凛を安心させる。この心地よさが、いつまでも続けばいい。そう願いながらも、心のどこかで、何かが変わるきっかけを待っていた。


2. 内示


そのきっかけは、凛が想像もしなかった形で、ある火曜日の夜に訪れた。

夕食を終え、洗い物をしていた健太のスマートフォンが、テーブルの上で鋭く震えた。画面を一瞥した彼の表情が、わずかに強張る。上司からの電話だった。

「はい、お疲れ様です。……はい。……えっ」

健太の声のトーンが変わる。凛は手を止め、彼の横顔を見つめた。電話は数分で終わった。ゆっくりとスマートフォンを置いた健太は、どこか遠くを見るような目で、深く息を吐いた。

「どうしたの?」

「……内示が出た」

「内示?」

「転勤だ。札幌支社に」

札幌。その言葉が、凛の耳の中で奇妙な反響音を立てた。東京から800キロ以上離れた、北の都市。健太は、興奮と戸惑いが入り混じった早口で語り始めた。北海道エリアの営業統括。大きなチャンスだということ。責任も重くなるが、キャリアにとっては間違いなくプラスになること。彼の言葉はすべて、仕事という文脈の中にあった。

凛の心の中では、感情の嵐が渦巻いていた。衝撃。不安。遠距離恋愛になることへの恐怖。しかし、その嵐の中心には、奇妙なほど静かな一点があった。それは、希望の光だった。

これだ。私たちが待っていたきっかけは。

こんなに大きな人生の変化なのだから、二人の将来について、結婚について、話さないわけにはいかないはずだ。この転勤が、停滞していた私たちの関係を動かしてくれる。そう、凛は思ったのだ。

しかし、健太の言葉は、凛の期待をすり抜けていく。

「引き継ぎ、どうしようかな。後任は誰になるんだろう。向こうでの挨拶回りも大変そうだ……」

彼は、転勤に伴う膨大な業務のことばかりを口にする。内示から実際の赴任までは、通常1ヶ月から2ヶ月ほどしかない 。その短い期間に、仕事の引き継ぎと引っ越しの準備をすべて終わらせなければならないプレッシャーが、彼の心を占拠しているのは明らかだった。

それでも。それでも、凛は待っていた。彼が「俺たち、どうしようか?」と切り出してくれるのを。だが、その言葉は一向に出てこなかった。彼の関心は、東京での業務の終結と、札幌での業務の開始にしか向いていないように見えた。それが、最初の、そして最も重大な危険信号だった。


3. 最初のすれ違い


数日が過ぎた。健太は仕事の引き継ぎ資料の作成に追われ、毎晩遅くに帰ってきた。凛は、このままではいけないと意を決し、「大事な話がある」と彼を誘った。場所は、仕事帰りに寄りやすい東京駅。丸ビルの「椿屋茶房」を選んだ。大正ロマンを思わせる、静かで落ち着いた雰囲気の喫茶店。ここなら、ゆっくり話ができるはずだった 。

席に着き、サイフォンで淹れられた珈琲が運ばれてくるのを待って、凛は切り出した。

「札幌のことなんだけど……私たちのこと、どうするか、考えた?」

健太は、カップに角砂糖を入れる手を止めずに答えた。

「それがさ、もう、やることが多すぎて。まず部屋を探さないとだろ?今の部屋の解約通知もしなきゃいけないし、引っ越し業者も予約しないと……」

彼はスマートフォンを取り出し、転勤が決まった社員向けの社内ポータルサイトを見せた。画面には、「転勤やることリスト」がびっしりと並んでいた 。新居の内見と契約、退去連絡、引越し業者の手配、役所での転出届、ライフラインの解約と契約……。その項目の多さは、確かに見るだけで眩暈がしそうだった。

「でも、健太。そういう手続きの前に、一番大事なことがあるでしょう?」凛は、彼の目をまっすぐに見て言った。「あなたが一人で行くのか、それとも……私たちが、一緒に行くのかを決めることよ」

その言葉に、健太は一瞬、視線を泳がせた。そして、困ったように眉を下げて言った。

「なあ、凛。今はまず、この現実的な問題を一つずつ片付けさせてくれないか。正直、他のことまで考える余裕が、まったくないんだ。頭がパンクしそうだよ」

彼は、転勤という客観的で処理可能なタスクの壁の後ろに、隠れてしまった。凛が求めているのは、感情的なコミットメントという、正解のない、脆弱さを伴う対話だ。健太は、その対話から逃れるために、膨大な事務手続きを盾にしている。それは凛にも痛いほどわかった。

彼の態度は、悪意からではないのかもしれない。キャリアの正念場で、男性が結婚という責任の重圧から目を背けたくなる心理も、理解できなくはない 。だが、その態度は、凛の心を深く傷つけた。

珈琲は、すっかり冷めていた。窓の外では、東京駅の赤レンガが夕闇に浮かび上がっている。この街で、二人で、三年という時間を積み重ねてきたはずだった。それなのに、今、二人の間には、北の空へと続く、見えない亀裂が走り始めていた。


第二部 亀裂


4. 一人分の検索履歴


健太の引っ越し準備は、恐ろしいほどの速度で進んでいった。凛は週末に彼のアパートを訪れ、「手伝うよ」と言った。しかし、健太はすでに一人で、着々と事を進めていた。

彼がノートパソコンの画面を食い入るように見つめている。凛が背後からそっと覗き込むと、そこには札幌の賃貸物件情報サイトが映し出されていた。そして、凛の心臓を氷の矢が貫いた。

検索条件の欄に、無慈悲な文字が並んでいた。

「間取り:1LDK」「こだわり条件:一人暮らし向け」

血の気が引いていくのがわかった。彼は、「二人」の家を探してはいなかった。彼が探しているのは、彼が「一人」で住むための部屋だった。転勤が決まったカップルが最初にすべき「単身赴任か、一緒に行くか」という話し合いを、彼は独断でスキップし、すでに結論を出していたのだ 。

凛は何も言えなかった。その場で彼を問い詰める言葉が見つからなかった。代わりに、彼女は静かに彼のアパートを後にして、自分の部屋に戻ると、憑かれたようにパソコンを開いた。

彼女自身の、札幌に関するリサーチが始まった。

東京と札幌の家賃相場。札幌の冬の光熱費は東京よりずっと高いらしい 。マーケティング職の求人数。東京とは比べ物にならないほど少ない 。気候、文化、人々の暮らし。夏は涼しく、梅雨もないが、冬は厳しい雪に閉ざされる 。人々は東京よりもゆったりとした時間を生きているように見えた 。

彼女は、札幌のカフェの画像を検索した。大きな窓から藻岩山の緑が見えるカフェ 。定山渓の崖の上に建ち、眼下に渓流を望むカフェ 。きらめく夜景を一望できる、シックなカフェ 。その窓辺の席に、健太が一人で座っている姿を想像した。凛の知らない街で、凛のいない生活を、彼はもう始めている。その想像は、鋭い痛みとなって彼女の胸を締め付けた。

彼がこれから住む世界を、彼女は必死で理解しようとしていた。自分が決して招かれていない、その世界を。


5. 繰り返される会話


それからというもの、凛は何度も健太と話そうと試みた。しかし、その試みはすべて、空回りに終わった。まるで、同じ場所をぐるぐると回り続けるメリーゴーラウンドのようだった。

一度は、新宿の賑やかな居酒屋で。わざと騒がしい店を選べば、深刻な話も紛れるかと思ったが、健太は周囲の喧騒を言い訳に、凛の言葉を巧みにかわした。

次は、銀座の個室のある和食店を予約した 。誰にも邪魔されない空間で、腹を割って話すために。そこでようやく、彼の本心らしき言葉の断片が漏れ聞こえてきた。

「今は、本当に仕事に集中したい時期なんだ」 「結婚って、経済的な責任が半端じゃないだろ。正直、まだその自信がない」 「今のままじゃ、ダメなのか?俺は、今の関係で十分幸せだと思ってるけど」

彼の言葉は、どれも男性が結婚をためらう理由としてよく聞くものばかりだった 。悪意はない。ただ、彼自身の不安と、現状を変えたくないという抵抗があるだけだ。しかし、その言葉は、凛の未来を否定するものだった。

週末には、井の頭公園を散歩しながら、さりげなく話を振ってみた。健太は、札幌の自然の豊かさについて、目を輝かせて語った。冬にはスキーができること 。少し足を延せば、雄大な景色が広がっていること 。彼の話に出てくる主語は、いつも「俺」だった。「俺たち」ではなかった。

凛は悟った。問題は、場所やタイミングではない。問題は、健太自身なのだ。彼は、凛に明確な答えを与えるつもりがない。与えることができないのだ。彼への愛情と、ないがしろにされているという苛立ちが、凛の中で激しくせめぎ合った。愛だけでは、この関係はもう成り立たないのかもしれない。その予感が、日に日に強くなっていった 。


6. 東京での最後の夜


健太の出発前夜。彼のアパートは、がらんとしていた。家具はほとんど運び出され、残っているのは、宛先ラベルが貼られた段ボール箱の山だけ。かつて二人の思い出が染みついていたはずの空間は、今はただの通過点に過ぎない、無機質な場所になっていた。

空気は重く、沈黙が支配していた。もはや言い争う気力も、何かを問いただす言葉も、二人には残されていなかった。言葉にしなくても、これが終わりなのだと、お互いにどこかで分かっていた。

「明日のフライト、何時だっけ?」

「朝9時発の便」

「……寒いだろうから、暖かい服、ちゃんといれた?」

「うん、大丈夫」

会話は、またしても事務連絡に戻っていた。しかし、以前のような回避のためではない。それは、二人に残された、唯一の安全な会話領域だった。言葉と言葉の間の静寂が、この数週間で言えなかったすべての言葉を、雄弁に物語っていた。

凛が、最後にもう一度部屋を見渡して、玄関に向かう。

「じゃあ、体に気をつけて」

「うん。凛も」

健太は、ドアを開けた。そして、こう言った。

「着いたら、連絡するよ」

その声には、恋人に向ける親密な響きはなかった。遠くへ引っ越す友人にかけるような、丁寧で、そして決定的な響きがあった。

凛はアパートを出て、駅へと歩き出した。見慣れたはずの東京の夜景が、ひどく冷たく、よそよそしく感じられた。


第三部 静寂


7. 距離が奏でる音


健太が札幌へ発ってから、一週間が過ぎた。最初の週末、彼から電話がかかってきた。スマートフォンの画面に彼の名前が表示されたとき、凛の心は小さく揺れた。

「もしもし、凛?元気?」

彼の声は、電話越しでもはっきりと聞こえた。けれど、どこか違う。物理的な距離が、声の響きそのものを変えてしまったようだった。

彼は、札幌での新しい生活について、少し興奮した口調で話した。

「雪、すごいよ。こっちの人はみんな、滑らない靴を履いてるんだ。あと、道が広くて、空が広い。東京とは全然違う」

新しいオフィスの窓から見える景色。初めて食べたスープカレーの味。彼は、旅行者のように、目にするものすべてが新鮮なのだと語った。そして、ふと我に返ったように尋ねた。

「そっちは?何か変わったことあった?」

凛の日常。丸の内のオフィスと三軒茶屋のアパートを往復する、昨日と何も変わらない毎日。彼の新しい世界の話を聞いた後では、自分の生活がひどく色褪せて、矮小なものに思えた。

「ううん、別に。いつも通りだよ」

そう答えるのが精一杯だった。

電話をしながら、凛はぼんやりと考えていた。もし今から札幌に会いに行くとしたら。飛行機なら片道1時間半、料金は安くても1万円近くかかる 。新幹線なら8時間以上もかかって、料金は3万円近い 。その時間とお金をかけて会いに行くほどの、強い意志が、今の自分たちにあるだろうか。その問いに、どちらも答えを出せないまま、電話は当たり障りのない言葉で終わった。「私たち」という主語は完全に消え失せ、「君」と「私」という、二つの孤独な点だけが、800キロの距離を隔てて存在していた。遠距離恋愛が、いかに脆いものであるかを、凛は初めて実感した 。


8. 心の棚卸し


健太からの連絡は、次第に間遠になっていった。凛は、一人きりのアパートで、静かな時間を過ごすことが多くなった。その静寂の中で、彼女はゆっくりと、自分自身の心の棚卸しを始めた。

日記帳を開き、健太との三年間を振り返った。楽しかった思い出。彼がくれた優しさ。今でも、彼のことを愛しているという気持ちは、確かにそこにあった。

しかし、その隣のページに、ここ数週間の出来事を書き出していく。彼の曖昧な態度。結婚の話からはぐらかされ続けたこと。彼女の未来を、人生を、真剣に考えてはくれなかったこと。

三十三歳。女性にとって、この年齢が持つ意味を、彼は本当に理解してくれていなかった。出産やキャリアプランを考えたとき、無為に時間を過ごすことへの恐怖。結婚の意思がない相手と付き合い続けることは、「時間の無駄」なのではないかという、冷徹な問い 。

愛している。でも、このままではいけない。

この関係を続けることは、自分の人生の目標を、自分自身の尊厳を、犠牲にすることだと、凛ははっきりと理解した。彼が変わってくれるのを待ち続ける痛みよりも、ここで関係を断ち切る痛みのほうが、ずっとましだ。彼のコミットメントへの恐怖を、自分の愛で癒すことはできない。

決断は、静かに、しかし確固として、彼女の心に根を下ろした。それは、彼を憎むからではない。自分自身を、これ以上裏切りたくなかったからだ。


9. 北からの風


次の週末、凛の方から健太に電話をかけた。コール音が数回鳴った後、彼が出た。

「もしもし?」

「健太。私」

凛の声は、自分でも驚くほど、穏やかで澄んでいた。非難の色は、どこにもなかった。

「大事な話があるの。私たちのこと。……もう、これ以上は続けられないと思う」

電話の向こうで、健太が息を呑むのがわかった。長い沈黙の後、彼が絞り出すように言った。

「……どういうこと?距離が、原因か?」

「距離が、はっきりさせてくれたの」凛は静かに続けた。「私たちは、違うものを求めているんだと思う。私は、未来が欲しい。計画が欲しい。あなたが今、それを私にあげられないのは、仕方ないことだと思う。でも、私がそれを待ち続けるのは、もう無理なの」

健太は、何も言い返さなかった。反論も、弁解もしなかった。彼の沈黙の中には、諦めと、そしておそらくは、安堵の色さえ滲んでいた。彼にとっても、この曖昧な関係は重荷だったのかもしれない。凛が、彼に代わって、決断を下したのだ。

「……そっか。わかった」

それが、彼の最後の言葉だった。

「元気でね」

「うん。凛も」

静かで、悲しい別れの言葉だった。

凛は、通話を終えたスマートフォンを、そっとテーブルに置いた。そして、窓辺に歩み寄り、外を見た。眼下には、無数の光がまたたく東京の夜景が広がっている。広大で、無関心な、けれど、紛れもなく自分の街。

胸の奥に、ずっしりとした喪失感が横たわっている。涙が、頬を伝った。しかし、その悲しみの底から、静かで、鋼のように強い何かが、ゆっくりと立ち上ってくるのを感じた。

もう、宙吊りの状態ではない。一人になった。けれど、自分の足で、確かに立っている。

未来がどうなるかは、わからない。でも、その未来は、これから自分の手で描いていくのだ。

窓を開けると、ひやりとした夜風が吹き込んできた。それは、まるで遠い北の街から吹いてくる風のようだった。凛は、その風を顔に受けながら、じっと、東京の空を見つめ続けた。


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