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Instrumental

InstrumentalⅡ

作者: 蒼林 海里

 何気ない出会いから始まって、心を近づけ合って傍に感じて――恋をしたとすれば、それは自然な道理なのかも知れない。

 伊藤克仁は、音羽奏太郎に恋をしていた。

 克仁がそれに気づいたのは、奏太郎に勇気づけられたあの日から一年後のことだ。

 秋が通り過ぎ、冷えた空気が身に染みる――冬の季節のことである。


 口から漏れる溜め息は、白い息として宙を舞ってゆく。

 それを目で追って空を見上げれば、どの季節よりも空の色が澄んでいた。澄み渡る空が夜空に変われば、きっと月や星が綺麗に見えるだろう。

 空から視線を外して、克仁は再び溜め息を吐き出した。ここのところ口から吐き出されるそれは、恋煩いとしか言いようがない。

(……何だかな)

 克仁は、心の中でぽつりと呟いた。

 克仁が奏太郎に恋愛感情を抱くようになったきっかけは、特に何もない。奏太郎が作ってくれた安らげる空間を行ったり来たりして、いつの間にかそうなっていた。

 あの日から、克仁は家族との歩み合いを心がけている。長い間に渡って作られた深い溝は、簡単に埋められるものではない。しかし、克仁は奏太郎を信じて、家族へ少しずつ歩み寄っていった。

 おかげで、家族仲が少しだけ良くなっている。両親は頭ごなしに冷たく当たらなくなり、出来た兄は出来損ないの克仁を煙たがらなくなった。このまま続けて行けば、互いに解かり合える日がきっとやって来る。

 きっかけと勇気を与えてくれた奏太郎に、克仁は心から感謝していた。

 考え事をしながら学校へ向かう克仁の肩を、ふいに誰かが軽く叩く。振り返れば、綺麗な笑みを浮かべる奏太郎がそこに居た。

「よっよう、音羽」

 言葉をどもらせる克仁に、奏太郎は綺麗な笑みを湛えたままで頷く。『おはよう』と、挨拶をしているようだ。

 奏太郎が克仁と肩を並べる。そうして、二人は揃って歩き出した。

 歩きながら、克仁は自分よりもやや上背の彼を、ちらりと何度も盗み見る。

 奏太郎は出会った時と何も変わらない。何処か清冽な空気を纏って、克仁の隣で落ち着いた足取りで歩いている。

 克仁の視線に気づいて、奏太郎が彼に視線を向けた。『どうした?』と、小さく首を傾げてみせる。

 すると、克仁は頬を微かに赤らめて、慌てたように無言で首を左右に振った。

 奏太郎がまた首を傾げる。その表情が僅かに曇った。

『――家でまた、何かあった?』

 奏太郎の手話を見て、克仁は「それは大丈夫」と即答する。そして、良く見せるようになった子供っぽい笑顔を浮かべた。

「家のことは、もう心配すんなよ。――お前のおかげで、前よりかはずっと良くなって来たんだからさ」

 克仁の言葉に、奏太郎が『良かった』と安堵したように笑う。

 奏太郎の笑みを見ながら、克仁ははぐらかすように別の話題を口にし始める。

「そういや、明日から冬休みだな」

 その言葉に、奏太郎がこくりと頷いた。

「冬休みと言えば、く、クリスマスだな。音羽は、誰かと一緒に過ごすのか?」

 克仁の問いに、また奏太郎がこくりと頷く。その反応に、克仁は「……そっか」と呟いた。

『伊藤は?』

 奏太郎にそう返されて、克仁はしどろもどろになりつつ頷いてみせる。しかし、本当のところはその予定は全くなかった。

『そうか。お互いに、楽しいクリスマスが過ごせるといいね』

 克仁を見下ろしながら、奏太郎が綺麗な笑みを浮かべる。

 奏太郎のその笑みが、克仁の胸を締めつけていく。

 奏太郎も同じに気持ちだったら――と密かに思いつつ、「そうだな」と克仁は笑い返しながら相槌を打った。

 二人は一学年と同様に、二学年も別々のクラスだ。昇降口に辿り着けば、それぞれの組の下駄箱へ向かい、そこから別々に行動をする。

 奏太郎は克仁と違い、誰からも好かれる人柄だ。男女問わずに友人が多い。克仁の見詰める先で、今日も彼は様々な生徒から挨拶を受けたり、笑い合ったりしていた。

 奏太郎と正反対の克仁は、一年経っても相変わらずである。無意味な暴力や喧嘩、遅刻や無断欠席はなくなり昔よりは丸くなったものの、彼に寄りつく者は以前と全く変わらない。喧嘩を吹っかけてくる他校生や、喧嘩の助っ人を頼みに来る生徒ばかりだ。他人に与えてきた印象は、そう簡単に拭うことは出来ない。

 奏太郎から視線を外して、克仁は今日もひとりで教室へと向かっていった。


 明日から冬休みと言うこともあり、学校は午前中で終わる。SHRが終わり、克仁は席を立って教室を出て行く。すると、奏太郎が廊下で克仁を待っていた。

『一緒に帰らないか?』

 そう誘ってきた彼に、克仁は周りを気にしながらも無言で頷いた。

 一年経った今でも、二人が行動を共にしていることを、周りは不思議がって好奇心に満ちた目で盗み見てくるのだ。始めの頃は気にしていなかった克仁だが、その視線が多くなるにつれ気になり出していた。

 他人の視線が気になる。他人の反応が気になる。その感情は今まで、彼の中になかったものだ。だから、奏太郎と出会う前まで、彼は自由気儘に日々を過ごしてきた。

 克仁にとっての自由――例えそれが数々の非行だったとしても、彼にとってはそれが当たり前の自由だった。家族や周りに自分の存在を、当時はその方法で主張するしかなかった。

 けれど、奏太郎と出会ってから、克仁は言葉で伝えることの大切さを学んだ。暴力だけでは解決のしようがない感情の捌け口は、言葉によって浄化される。伝えたいと言う意思があれば、言葉はどんなものよりも勝るのだと漸く思えてきた。

 相手が奏太郎だからこそ、克仁はそう思えたのかも知れない。

(……俺に勇気があったら、この感情も言葉に出来るのかな)

 そんなことを、克仁はいつも思っていた。

(俺らしく、ないよな。こんなの)

 しかし、彼はその気持ちを伝えることに躊躇っていた。世間体が気になるのではなく、奏太郎のそれに対する反応を恐れたからだ。

 克仁の口からまたひとつ、溜め息が漏れる。

 そんな克仁を、奏太郎が何かを探るような目でじっと見詰めていた。しかし、克仁は考え事をしていて、それに気付くことはない。

 二人並んで校門を抜け、登下校で毎日通っている川沿いの土手道を歩く。そこを通り抜ければ、二人は別れてそれぞれの家路へつくことになっている。

「じゃあな、音羽。また新学期に会おうな」

 そう言って、克仁は別の道へ歩き出した。

 そこで、奏太郎が克仁の腕を掴んで引き止める。

 克仁が振り返れば、奏太郎は真剣な眼差しでこちらを見ていた。

「な、何だよ?」

 その眼差しに、克仁の声が何故か上擦る。

 奏太郎が克仁から手を離して、ゆっくりと両手を動かした。

『伊藤。俺の家へ寄って行かないか?』

 奏太郎の手話に、克仁は驚いたように目を見開く。

 奏太郎があの日以来、克仁に何かを促すことは滅多にない。彼はいつでも黙って、克仁のやりたいようにさせていた。だから、克仁は驚いた。

 奏太郎が僅かに顔を曇らせる。

『俺は君が心配だ。……何か悩みがあるんだろう?』

「悩みなんか、ねぇよ」

 克仁がそう誤魔化したとしても、奏太郎に効きはしない。克仁の様子が、明らかにおかしいことは一目瞭然である。

『話せられることなら、話した方がいい。悩みを吐き出すことで、少しは楽になるかも知れない。相談をしたいなら、俺はいつでも乗るから』

 克仁は視線を落として、考えるように押し黙った。

 そして、暫くして――。

(……別の奴の話にしといて、試しに訊いてみようかな。そしたら、音羽のそういうことに対する考え方が判るかも知れないし)

 ふとそんな思いが、彼の心の中を過ぎった。

 男が男を好きなるという初めての特殊な恋を抱え、一人で悶々と考えていた克仁にとって藁にも縋る思いである。

(卑怯なやり方だけど、今の俺にそれしか方法は残ってないから……やるしかないよな)

 克仁はそう決心して思い立って、手の平を拳に握り締めると勢い良く顔を上げた。その表情は僅かに強張っている。

「あのな、ダチのことで、ちょっと悩んでんだ。――相談に乗ってくれるか?」

 表情と相まって、克仁の声も強張っていた。

 奏太郎が『勿論』と深く頷く。

『それじゃあ、行こうか。昼食は気にせず、俺の家で済ませばいいから』

「分かった。音羽、有難うな」

 克仁は奏太郎に礼を述べた後、その場から彼と共に音羽家へ向かって歩き出した。


「いらっしゃい、伊藤君」

 音羽家の玄関を上がると、奏太郎の父である誠一郎が穏やかな笑みで克仁を迎え入れる。

 克仁がこの家に来るたびに、彼は大概がエプロン姿で現れる。しかし、今日は何処かへ出かけるのか、余所行きの格好をしていた。

 克仁は、誠一郎に「お邪魔します」と軽くお辞儀をした。

 誠一郎が、克仁から奏太郎へ視線を移す。

「奏太郎もお帰り。僕はこれから、急ぎの用で暫く出かけくる」

 その言葉に、奏太郎がこくりと頷く。

「夕方に戻るから、それまで家のことは頼んだよ。――それじゃあ、行ってきます」

 そう言い置いて、誠一郎は急ぎ足で玄関を出て行く。

 それを見送って、克仁と奏太郎は目の前にある二階へ上がる階段を上っていった。

 二階へ上がれば、目の前に奏太郎の部屋がある。

 部屋の中へ入ると、奏太郎が手早く折り畳み式の小さなテーブルを部屋の中央に置く。そのテーブルの前に、克仁は落ち着かない様子で座り、部屋で動き回る奏太郎の姿を目で追っていた。

 奏太郎が部屋のストーブをつけ、克仁に視線を向ける。

『飲み物を持ってくる。昼食は、話の後で構わないだろう?』

 その手話に、克仁は無言で頷いてみせた。

 克仁の同意を確認して、奏太郎はこくりと頷くと部屋を出て行く。

 静かに部屋の扉が閉められた。

 奏太郎が部屋を出て行った途端に、克仁は心を落ち着かせるように大きく深呼吸をする。しかし、克仁を支配する緊張は解れることはなかった。

 数分も経たない内に、奏太郎が飲み物を持って戻ってきた。小さなテーブルを挟んだ向かい側に座り、持ってきた飲み物を克仁に差し出す。

 克仁は奏太郎に礼を言い、すぐに飲み物に口をつけた。緊張で喉が渇いていたようだ。

 その様子を眺めて、奏太郎がゆっくりと両手を動かしていく。

『それで、君の悩みはどんなことだ?』

 奏太郎の切り出しに、克仁は俯きながら両手をテーブルの下へ持って行き、手の平を拳に握り締めた。

 そして、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始める。

「……かなり特殊な話になるんだけど、ダチん中のひとりが、男を好きになったらしいんだ。その相談を受けて、どう返せばいいかのか悩んでて」

 そう言って、克仁は奏太郎を窺うようにちらりと見やった。

 奏太郎に変わりはない。落ち着き払った様子で、克仁を見詰めながら話に耳を傾けている。

「そいつは――男を好きになったのって初めてらしいんだ。相手もそういうケがある奴じゃなくて、コクれば気持ち悪がられるだろうし。かと言って、相手を諦め切れないみたいだし。……そいつは、その気持ちを持て余しているんだ」

 そこまで話して、克仁はまた奏太郎を窺い見た。すると、奏太郎が先を促すようにこくりと頷く。

 克仁は、それに答えるように口を開いた。

「それで、そいつは悩んでいるらしい。……音羽。男が男を好きになるって、やっぱりおかしいことなのか? 世間的にはそうかも知れないけど、俺はそこのところが良く判らないんだ」

 克仁が答えを求めるように、奏太郎を一心に見詰める。その瞳に縋るような微かな揺らめきがあった。

 奏太郎は、克仁の心の揺れを敏感に感じ取っていたようだ。克仁を安心させるように、ゆっくりと微笑んでみせた。

『ほとんどの人が、同性を好きになることをおかしいと思っていることは事実だと思う。けれど、それは単に少数派だから認めていないだけで、人が人を好きになる形は自由だと俺は思っている。――そう言った先入観に、囚われなくてもいいんじゃないか?』

 その手話に、克仁は「……本当に?」と問いを投げかける。

「もし、……もし、男の誰かが音羽にそんな気持ちを向けてきたとしても、そう思っていられるのか? 音羽のそれは、他人事だから言えることだろ?」

 不安そうな顔で指摘してきた克仁を、奏太郎は戸惑うように見詰めるしかない。

 克仁は握る拳に力を込めながら、さらに言葉を紡ぐ。

「……本当は、音羽だって嫌だろ? そんなことは、知りたくもないだろ」

(俺だって、自分の気持ちに気づく前までは気色悪ぃって思ってたんだ。……それが当たり前なんだよ)

 心の中でそう思いながら、克仁は顔を俯かせた。表情はいつの間にか、苦しげで辛そうなものに変わっている。

 その克仁の様子を見て、奏太郎の表情も次第に曇っていった。しかし、克仁はそれに気づくことはない。

 奏太郎が、小さなテーブルを人差し指で軽く叩いた。まるで、『顔を上げて』とでも言っているかのような合図に、克仁は恐る恐る顔を上げてゆく。

 すると必然的に、克仁は奏太郎のその表情を目にすることになる。

『……ひょっとして、この相談は君自身のことなのか?』

 奏太郎のその手話で、克仁は全身を強張らせた。その額からは、冷や汗が噴き出てくる。服越しからでも判るくらいに、心臓は激しく脈打っていた。

 克仁の反応は、肯定を明らかに示している。

 奏太郎はそれを目にして、小さく息を吐いた。それは何に対しての溜め息なのか、彼にしか知る由もないことである。

『……君の言う通り、俺の伝えたことは他人事だから言えることだね。同性からそんな気持ちを向けられたとしたら、俺はきっと驚いてしまうし戸惑ってしまう』

 そこまでを伝えて、奏太郎が克仁をじっと見詰める。克仁は顔を強張らせたままで、そんな彼から目を離すことが出来なかった。

 暫くの間を置いて、奏太郎が続きを伝える為に『けれど』とゆっくりと手を動かす。

『――だからと言って、俺は相手に対して頭ごなしに気持ちが悪い、おかしいとは思わない。その気持ちを受け止めることは出来ないだろうけど、向けられた気持ちを真剣に考えることはする』

 奏太郎の手話を最後まで見て、克仁はまた顔を俯かせた。

(やっぱりな、……そうだよな)

 考えるように顔を俯かせることで、今にも泣き出してしまいそうな感情を奏太郎から隠してゆく。

 克仁は奏太郎に対して、これ以上の相談という名の探りを入れることが出来なかった。先ほどの手話で、全てが解かってしまったからだ。

(真剣に考えてくれても、結局は報われないんだろ? 音羽。――どう足掻いても、諦めるしかないんだよな)

 胸を締めつけていく切なさに耐えるように、克仁は拳に握った手にまた力を込めた。すると、爪が手の平に食い込んだ。それでも、克仁はさらに力を込めていく。

(何で、……何で俺は、こんなにも音羽に拘ってんだろ。駄目なら駄目で、潔く諦めればいいだけなのに。それで、何もなかったように今までみたいに……)

 そう思いかけていたところで、克仁ははっと我に返り驚いたように顔を上げた。考え事をしている間に、奏太郎が隣に移動してきて克仁の手に触れてきたからだ。

 奏太郎が、克仁の強く握り締められた拳を解いていく。解かれた手の平には、血の滲んだ爪の痕が残っていた。

 奏太郎が眉根を寄せて心配したような表情で首を左右に振る。まるで、『駄目だよ』と言っているようだ。

 そんな奏太郎の優しさに、克仁の身体は無意識の内に動いていた。体当たりをするような勢いで、奏太郎の身体を抱き締める。

 奏太郎は驚きに目を開きながら、その身体をしっかりと受け止めた。そして、克仁の身体を離させるようにゆっくりと押しやる。

 すると、克仁はその肩口に顔を埋め、抱き締める腕に力を込めた。それはまるで、奏太郎の反応を恐がるかのような行動だ。

 奏太郎は身動きが取れなくなり、手話で何かを伝えることが叶わなくなった。しかし、だからと言って、克仁を無理に引き剥がすことはしない。そんな彼に残された手段は、ただひとつだ。

 奏太郎が克仁の耳元に唇を寄せる。

「ど、う、し、た?」

 克仁が聞き取れるような発音で、ゆっくりとその低く通った肉声で言葉を伝えた。

 その言葉は、ちゃんと届いたようだ。克仁が小さく身動ぎながら、くぐもった声で話し出す。

「お前って、鋭いのか鈍いのか良く判らねぇよ。俺のこの行動を、変に思わない?」

 克仁の問いに、奏太郎の返答はなかった。その代わりに、彼の身体がぴくりと僅かに動く。

 克仁はさらに続ける。

「俺の好きな相手、もう判っただろ?」

 克仁の臆病な心とは裏腹に、口は勝手に動いていく。

「――俺は、音羽が好きなんだ」

 それは成り行き上の告白だ。言ってしまえば取り返しのつかない気持ちを、克仁は奏太郎に伝えてしまった。

 克仁の中で、奏太郎との思い出が崩れ去る。奏太郎への気持ちに悩んだ日々が崩れ去っていく。これからの二人の関係が、予測のつかないものとなった。

(……それならいっそ)

 克仁は開き直るように思い立つ。

(報われないならいっそ、この場だけでも)

 思うよりも早く、克仁は行動に移していた。先ほどまでの彼とは正反対の行動だ。奏太郎と出会う前なら、やりかねないやけっぱちの行動である。

 克仁は奏太郎に全体重をかけ、床に押し倒していた。

 あまりの唐突な出来事に、奏太郎は抗いもせず呆然と克仁を見詰めるしかない。

 そんな彼に構わず、克仁はその唇に自分の唇を押し当てた。獲物を喰らい尽くす獣のように、奏太郎の唇を貪っていく。

 荒々しく貪りながら何度も角度を変え、まだ抵抗を見せない身体から上着を剥ぎ取る。すると、奏太郎の引き締まった上半身が晒された。

 克仁が唇を離して、奏太郎を見下ろす。

 奏太郎が――悲しげな眼差しでこちらを見ていた。克仁を蔑むのではなく憐れむでもなく、ただ純粋に悲しみの宿った瞳がその姿を映している。

 黒い瞳に映る自分の姿を目にして、克仁は動きを止めた。その瞳に映る、はっと我に返ったような表情が、次第に泣き出しそうなものに変わっていく。

「……音羽。……ごめん」

 頼りない声音でそう呟くと共に、克仁の目に奏太郎が滲んで見えた。

 ぽたりと、奏太郎の頬に大粒の滴が落ちていく。それは幾度も落ちてゆく。

 克仁は、泣いていた。

 奏太郎はゆっくりと片手を上げ、涙を溢れさせる克仁の目許を拭う。しかし、拭ったとことでそれは止まることはなかった。

 克仁の口から嗚咽が漏れる。それと一緒に「ごめん」の言葉が、涙声で幾度も呟かれた。

 克仁の下で、奏太郎が身体をずらしていく。そして上半身を起き上がらせ、泣きじゃくるその身体を抱き寄せた。

 克仁にとって思いも寄らない、奏太郎の行動だ。涙を流したままで、驚きに目を見開いた。

 奏太郎があやすように、克仁の背をゆっくりと優しく叩く。『泣かないで』と、その仕種から彼の優しい思いが伝わってきた。

(……何でだよ。お前は何で、俺にそんな優しくするんだ)

 心の中ではそう思うが、克仁はその優しさに甘えようとしている。しかし、自分のやったことを思い返せば、それはしてはいけないことなのだと思い止まった。

 奏太郎の腕の中に居た克仁は、彼の裸の胸を押し返し、自らの意思でその腕から離れた。

 言葉もなく奏太郎の上から身体を起き上がると、克仁は逃げるように彼の部屋から駆け去っていく。

 そして、克仁の手によって勢い良く部屋の扉が閉まった。まるで、その扉がこれからの二人の間を隔てる壁のようだ。

 部屋にひとり残された奏太郎が何を思い、何を考えているのか、階段を駆け下りる克仁に知る由もない。これからも、知る術を持たないのだろう。

「ごめん、音羽。今まで有難うな」

 音羽家の玄関を閉め終わると、克仁はその言葉をぽつりと口にした。

 それは今回のことをきっかけに、奏太郎から離れようと決意する克仁の心の表われだ。

 音羽家から走り去って、暫くしてのことである。

 克仁は「あ」と小さく声を上げて、急ぐ足を止めた。そして、自分の両手を見詰める。

 その両手に、彼の荷物はない。荷物は全て、奏太郎の部屋に置き去りにしてしまっていた。

(……どうしよう)

 そう思っていても、克仁にその場を引き返す勇気は残っていない。

 立ち止まったままで暫く逡巡して、克仁はとぼとぼと歩き出した。彼は音羽家に向かうのではなく、自分の家に真っ直ぐ帰ることを選んだ。

(明日か明後日に、こっそりと取りに行けばいいよな)

 心の中では、自分にそう言い聞かせていた。

 克仁がそう思うのは、明日がクリスマス・イヴで明後日がクリスマスだからだ。誰かと一緒に過ごす予定の奏太郎は、恐らく家には居ないだろうと考えていた。

 暗い表情で俯き加減に、元気のない歩調でゆっくりと歩く。コートやマフラーも彼の部屋に置き去りにしたままで、吹き抜ける冷えた風がいつも以上に身に染みていた。

 寒さに震える身体とかじかむ両手は、もうどうすることも出来ない。克仁の走る気力を見事に奪っている。

 そんな克仁の横を、前方から白い車が通り過ぎて行く。その直後に、後方から克仁を呼ぶ聞き慣れた声が聞こえてきた。

「伊藤君」

 再度そう呼びかけてくるのは、奏太郎の父親である誠一郎だ。

 克仁が後ろを振り返れば、誠一郎が白い車の運転席から顔を出していた。

「もう帰るのかい? 家まで送るよ。さあ、車に乗って」

 誠一郎にそう言われて、けれど克仁は首を左右に振って彼の申し出を断る。

「大丈夫ですから、気にしないで下さい」

「遠慮することはないよ。それに、その格好では風邪の引いてしまうよ」

 誠一郎に心配そうな表情をされて、克仁はそれ以上断ることは出来なかった。車の後部座席に、渋々と乗り込んだ。

 克仁が車の中に乗り込んだことを確認して、誠一郎が車を発進させる。

 克仁はこれまでに、何度か誠一郎に家まで送って貰ったことがあった。車は迷うこともなく、順調に克仁の家を目指している。

 その最中で、ふいに誠一郎が口を開く。

「……ところで、荷物はどうしたのかな?」

 そう問われて、克仁はぎくりと肩を強張らせた。その様子を、誠一郎が車のミラー越しにちらりと見やる。

「……音羽の部屋に、置いて来たままです」

 暫くの沈黙の後、克仁はそれだけを誠一郎に伝えた。

 すると、誠一郎がまた克仁をちらりと見やる。

「そうかい。荷物は、いつでも取りに来ていいからね」

 誠一郎は気遣うような口調でそれだけを言って、それ以上のことは何も言わなかった。その様子は、彼が克仁と奏太郎の間で何かがあったことを察しているように見て取れる。

「あの、有難うございます」

 克仁が様々な意味合いを含めて礼を述べれば、誠一郎は「お礼なんていいんだよ」と温厚な笑みを浮かべた。

「伊藤君。奏太郎は、君に出会ったことで随分と変わったよ。僕の方こそ、君に感謝したいくらいだ」

「……え?」

 唐突な誠一郎の話に、驚きの声を上げるしかない。

「君に出会うまでの奏太郎は、当たり前のように誰にでも優しくしているけれども、他人に気を許すことは一度もなかったんだ。家に誰かを上がらせることだって、君が初めてだったんだよ」

「……何で、ですか?」

「奏太郎は、小さな頃から口の利けない子供だったからね。それが原因でいじめにあったり、必要のない同情を受けたりしていたんだ。奏太郎はその全てに、自分が口の利けないことに傷ついて苦しんでいたよ」

 誠一郎から紡がれる奏太郎の過去に、克仁は真剣な面持ちで耳を傾けてゆく。

「いじめは小学校を卒業したと同時に終わったけれど、奏太郎に対する同情は止むことがなかった。それは仕方のないことだったのかも知れないけれど、奏太郎はそう言ったことを省いて、純粋に誰かと接したかったんだろうね。そんな中で、奏太郎は君に出会った」

 そこまでを語って、誠一郎が克仁の様子を窺うようにミラー越しに見やった。

 克仁は誠一郎の話を聞きながら、奏太郎と出会った当時を思い出していた。

『君は同情の目で俺を見ていない。だから、驚いた』――確か、彼はそう言っていた。その言葉の意味合いは、誠一郎の話したことが含まれていたに違いない。

「他人から一歩引いたところに居た奏太郎は、君と出会ってからその一歩の距離を縮めようと頑張っていたよ。あの時――奏太郎が君に怒っていた時は、僕も驚いてしまったよ。あの奏太郎が感情を剥き出しにするなんて、いじめに遭った時の一度だけだったからね」

 そう語り終わると同時に、誠一郎は車を止めた。その行動は、克仁の家に着いたことを知らせている。

 誠一郎が、後部座席に座る克仁を振り返った。その表情は、何処までも穏やかなものだ。

「伊藤君。奏太郎を救ってくれて有難う。――君が良ければの話だけれど、これからも奏太郎と仲良くしてやってくれないかな?」

 そう言われて、克仁は何と答えればいいのか判らず曖昧な返答を返すだけだ。

「それと、僕が話したことは内緒だよ。多分、奏太郎は君にこのことを知られたくはないだろうからね。……それじゃあ、またね。君が僕たちの家に遊びに来ることを、奏太郎だけではなく僕も妻も楽しみにしているよ」

「……有難うございました」

 誠一郎に深く一礼をして、克仁は車を降りて行った。

 車がゆっくりと発進してゆく。

 白い車が見えなくなるまで見送り、克仁は漸く家の中へと入って行った。

「ただいま」

 それだけを家族に伝えて、克仁はそのまま二階へと上がって行く。

 そして自分の部屋に戻った途端に、彼は扉に凭れたままで、その場に崩れるようにして座り込んだ。

「……離れようとしても、そんなことを聞かされたら離れられねぇじゃん」

(だけど、友達として付き合って行くなんて器用なこと――俺にはもう出来ねぇよ)

 膝を抱え込んで、その膝に額を強く押しつけていく。

(俺は、どうすればいいんだ? 音羽。お前だって、自分をそう言った対象で見ている奴と、一緒に居たくないだろ?)

 心の中で問いかけたところで、奏太郎からの答えが返ってくるはずもない。自分の中でも答えを見出すことは出来なかった。

 思い考え悩むことは、いつも堂々巡りだ。出会ったことで、克仁だけではなく奏太郎も変われたことを聞かされて、だからと言ってこの現状は何一つ変わらない。

 部屋の暖房をつけることもなく、克仁はその堂々巡りの思考に耽っていった。



 克仁がはっと目を覚ませば、家の中も外も無音の世界が続いていた。

 ベッドの布団から手だけを伸ばし、近くに置いてある携帯電話を探り当てる。その携帯電話で日時を確認すれば、二十四日の午後五時と示されていた。

「……俺、丸一日も寝てたのか」

 その言葉通りに、克仁はあれから食事もせず、ベッドの中へ潜り込んで睡眠を貪っていた。その最中に、家族の誰かが起こしに来てくれたのかも知れないが、その記憶は曖昧であまり残ってはいない。

 ベッドから気だるげに身体を起こし、箪笥たんすから着替えを取り出すと、克仁は部屋を出て行った。

 家の中は、やはり静まり返っている。二階を下りた先に、一年前から作られた家族の掲示板には、「父、仕事」「母、お茶会」「兄、外出」とだけ記されていた。

 掲示板をちらりと見やり、克仁は一階の浴室へと向かう。

 浴室で手早くシャワーを済まし新しい服に着替え終えれば、克仁は再び掲示板へ向かって行った。

 「弟、外出」――掲示板にそう記すが、大した用事でもない。音羽家に置き去りにしたままの荷物を取りに行くだけである。誠一郎やその妻が家に居たとしても、今頃奏太郎は誰かと過ごしているだろう。

 克仁が玄関で靴を履き終わったと同時に、唐突に呼び鈴が鳴る。

 何の構えもなく玄関の扉を開ければ、黒いコートを纏った奏太郎がそこに居た。ボタンをかけていないコートの中は、何故かスーツ姿だ。

 奏太郎の背後では、白い粉雪がちらちらと舞っていた。

「……何か、用か?」

 長い沈黙の後に、克仁は漸くその言葉を紡いだ。

 奏太郎はその問いに答えることはなく、手にしていた克仁の荷物の全てを差し出してくる。その表情は、無表情に近い。

「あ、有難う……」

 今まで見たことのない彼の表情に、克仁は俯きながら差し出された荷物を手にした。

 すると、奏太郎が玄関の扉を支えている克仁のもう片方の手を掴んで外し、玄関の中へと入って来る。

 その行動に、克仁は驚きに俯いていた顔を上げた。奏太郎の視線と克仁の視線がかち合う。

 奏太郎は口許に笑みを浮かべていた。

「……音羽?」

 遠慮がちに克仁が呼びかければ、奏太郎はその両頬を優しく包み込んだ。そして、その仕種と同じくらいの優しい口づけを、克仁の額に送る。それはやがて、克仁の唇に押し当てられた。

 克仁は驚きに目を見開き、手にしていた荷物をその場に落としてしまう。

 口づけは、まだ続いていた。触れるだけのキスはやがて深さを増し、奏太郎の舌が克仁の口の中へと忍び込んでくる。

 舌を絡め取られ、口内を奏太郎の舌によって貪られ、克仁は息苦しさに目蓋を閉じながら喘いだ。その口許は、どちらのものなのか判らない唾液で濡れている。

「い、とう」

 唇を離してそう囁くと共に、奏太郎は克仁の濡れた口許を優しく手の甲で拭い去った。

「……何で、お前」

 克仁の呟きに、奏太郎はただ綺麗な笑みを浮かべるだけだ。

 奏太郎が克仁の頬から手を外し、人ひとり分の距離を空けると両手を動かし始める。

『迎えに来たんだ。君を連れて行きたい場所がある。――俺と一緒に、来てくれるか?』

 そう手話で話して、奏太郎は克仁へ手を差し伸べた。

 克仁は一瞬の戸惑いを見せるが、奏太郎に抗うことが出来るはずもなく、遠慮がちにその手を取る。

 すると、奏太郎は嬉しそうに微笑んだ。

 届けられた荷物を玄関の下駄箱の上に置き、克仁は奏太郎と共に外へ出た。

 外へ出れば、そこかしこで薄く雪が積もっている。粉雪はまだ舞い続け、明日には数十センチの雪が降り積るかも知れない。

 門の先では、見知った白い車が停車していた。

「あれって、もしかして」

 克仁がそう声を上げれば、奏太郎は微笑みながら頷く。

「今晩は、伊藤君。急に連れ出して、すまないね」

 そうすまなそうに運転席から声をかけてくるのは、誠一郎だ。その助手席には、奏太郎の母親らしき女性が座っている。二人とも、奏太郎と同じようにスーツを着込んでいた。

 奏太郎が後部座席のドアを開け、克仁に『乗って』と促す。克仁は訳の判らないままで、車の中へ乗り込んでいった。すると、その隣に奏太郎が身を落ち着かせる。

 車がゆっくりと走り出した。

「……あの、何処へ行くんですか?」

 克仁が不安げに問えば、誠一郎が温厚な笑みを浮かべる。

「この市の文化会館だよ。今日と明日に、奏太郎の通っている音楽教室の発表会があるんだ。奏太郎から聞いていなかったかい?」

 誠一郎にそう言われて、克仁は隣の奏太郎を見た。すると、奏太郎が申し訳ないような表情で克仁を見返してくる。

(……誰かと過ごすって、もしかしてこのことだったのか)

 自分の飛んだ勘違いに、克仁は恥ずかしさに微かに頬を赤らめた。

『本当は、あの日に誘うつもりだったんだ。けれど、君が誰かと過ごすと言っていたから、邪魔になると思って伝えられなかった』

 奏太郎の説明に、克仁は「そっか」としか言えない。勘違いして強がって見せた自分に対して、深い後悔が心の中に押し寄せてくる。

「車に乗せてしまったけれど、ひょっとして今日は誰かと予定があったのかな?」

 誠一郎にそう問われて、克仁は視線を運転席に移しながら首を左右に振った。

「……荷物を取りに、そっちへ行こうとしていたところでした」

「そうかい。それは丁度良かったよ」

 そう言って、誠一郎が微笑んだ。助手席に座る奏太郎の母親も微笑んでいる。

「――奏太郎が突然、伊藤君を迎えに行くと言い出してね。慌てて君の家に向かったんだ。すれ違いにならなくて、本当に良かった」

「あの、俺普段着なんですけど、このまま行っても平気なんですか?」

「大丈夫だよ。そんなに堅苦しい発表会ではないからね」

 「そうですか」と誠一郎に相槌を打って、克仁が奏太郎を見やれば、奏太郎もこくりと頷いていた。

 克仁はその会話が終わると口を閉ざし、窓の外の流れる景色を眺め始める。

 考えることは、隣に居る奏太郎のことだ。

(――何で、俺にあんなことを?)

 答えは何となく判っているが、克仁はまだそれを信じられずにいる。昨日の一件のことを思い返せば、尚のことだ。そして、今ここに居る自分が不思議でならなかった。

 今まで疑問にしてきた全てのものを、奏太郎にぶつけてみたいと克仁は思う。今なら出来ると、何となくそう感じていた。そうさせるのは、きっと、奏太郎が原因なのだろう。

 克仁は気づかれないように、隣に座る奏太郎を盗み見た。すると、視線に気づいたのか、奏太郎がこちらに視線を向けてくる。

 『何?』と首を傾げる彼に、「何でもない」と言うように首を左右に振った。そして、再び窓の外の景色を眺め続けてゆく。


 車が市の文化会館に辿り着いたのは、それから数十分経った頃のことだ。駐車場にずらりと並ぶ車と会場の入り口へ向かう人の波で、今回の発表会が大きな催し物だと容易に知ることが出来た。服装は普段着の克仁と違い、誰もが余所行きの格好をしている。

(……俺、マジで場違いじゃん)

 心の中でそう漏らすも、克仁は来てしまったものは仕方がないと気を取り直した。

 そんな克仁の背中を、奏太郎が優しく押しやる。克仁がはっと我に返り奏太郎を見ると、彼は微笑みながら頷いていた。『行くよ』と、そう促しているようだ。

 克仁たちは会場の入り口の人の波に加わることはなく、それを追い越して会場の中へ入って行く。本来は並んで会場内に入るのだが、演奏者の関係者として優遇されているようだ。会場の入り口で並んでいる人々が、様々な意味合いのこもった視線を克仁に向けていた。

(……発表会って、こんな感じなのか? これじゃあまるで、プロとかのコンサートみたいだ)

 そう思いながら、渡されたプログラムのパンフレットを見れば、それは強ち間違ってはいないことを知る。

 奏太郎の通っている音楽教室は、テレビで特集になる程の音楽界で有名所だ。克仁は以前に、その教室の名をテレビで見たことがあった。

(……音羽がこんな有名なところに通っていたなんて、知らなかった。だから、あんなにピアノが上手かったんだ)

 知らなかったことが知れて嬉しい反面、克仁はそれを知らずにいたことを寂しく思う。

「奏太郎、そろそろ控え室に行った方がいいんじゃないかな?」

 奏太郎にかける誠一郎の声に、克仁ははっと我に返って奏太郎を見詰めた。

「……頑張れよ」

 まだ気まずさを残しつつも、彼にその言葉を送ることが克仁にとっての精一杯だ。

 奏太郎が克仁をじっと見詰めた後、変わらない綺麗な笑みを浮かべる。その笑みからは、緊張と言う感情は感じられなかった。

 奏太郎が踵を返して、何処かへと向かって行く。その背中を見送って、克仁たちもまた踵を返してホールの中へ足を踏み入れた。

 まだ埋め尽くされていない座席の通路を通り、一番前の座席を目指してゆく。本来なら二階または一階の真ん中辺りが音楽を聴き易いが、そう言ったことが初めてな克仁は進んで前を選んでいた。そんな彼に対して、誠一郎は何も言わず、同じように一番前の座席に座る。

 目の前にある舞台は、幕が下ろされたままだ。ホールが明るい内に、克仁はプログラムを確認する。

(音羽は、最初から二番目か)

 ずらりと並ぶ人名から、克仁は奏太郎の名前をすぐに見つけることが出来た。その横に、二つの曲名が記されている。その他に見知った人物のものはない。

 そうこうしている内に、ホールのブザーが鳴る。ふいに後ろを振り返れば、いつの間にかほとんどの座席は人で埋め尽くされていた。

 やがてホールから明かりが消え、舞台を眩い明かりが照らし出す。それと同時に、幕がゆっくりと上がっていった。

 舞台は真ん中にピアノ、その後ろには扇形に並ぶオーケストラの面々が座っていた。

(何か本格的だな)

 それが、克仁の発表会に対する感想だ。

 司会者らしき人物が舞台袖から現れて、挨拶をしている。その次は、音楽教室の代表と思われる人物の挨拶が始まる。どれも形式的なもので、克仁としては「詰まらない」の一言だ。危うく居眠りをしてしまいそうであった。

 様々な人の長い挨拶が終わり、漸く音楽教室の生徒たちの演奏が始まる。

 ひとり目は、克仁と同年代の少女だ。オーケストラの前奏が奏でられ、それに合わせて少女はピアノを弾き出した。有名所の生徒とあって、奏でる音は繊細で技術的にもやはり上手い。クラシックをあまり好まない克仁でも聴き惚れるくらいだ。

 一曲目と二曲目が終わり、少女は座席に向かってお辞儀をすると、多くの拍手に送られながら舞台を去った。

 そして、奏太郎の番がやって来る。

 舞台袖から現れる奏太郎の横顔は、何処までも落ち着いていた。口許に小さな笑みを浮かべ、彼は本当の舞台となるピアノへ歩き寄って行く。

 ピアノの椅子に座った奏太郎が、合図をするようにオーケストラの面々を見やる。そして一瞬だけ息を小さく吐き出して、ピアノを弾き始めた。それに合わせて、弦楽器が音を奏で始め、管楽器と打楽器がそれに続く。

 一曲目は、クラシックとポップス、そして和風が融合したテンポのいい曲だ。聴いたこともない曲だが、何故か心が弾んでしまう。

 克仁は無意識の内に、リズムを取るように首や身体を揺らしていた。はっと我に返って周りを盗み見れば、誰もが克仁と同じような状態だった。薄明かりで見える一部の聴き手の表情は、誰もが楽しそうである。伴奏を務めるオーケストラの面々も、何となくではあるが楽しそうな表情をしていた。

 奏太郎がピアノの弾きながら、聴き手のその表情を、そして克仁を見て嬉しそうに笑う。それにつられて、克仁も嬉しそうに奏太郎へ笑い返していた。

 一曲目の演奏は、やがてスローテンポになり弦楽器の伴奏で終わりを迎える。そして、暫くの間を置いて二曲目が始まった。

 今度は、克仁が聴いたことのあるものだ。

(これって……)

 オーケストラの伴奏により厚みのある曲となっているが、奏太郎と初めて出会った当時にピアノ単体で奏でられていた曲である。

 先ほどの曲調と違い、緩やかに静かでいて切なく、何処か温か味のあるものだ。けれど、出会った当時と、何処かが違っているように克仁には思えた。

(――音羽?)

 注意深く耳を傾けて聴いてみれば、透明感と切なさが強調されている。それを感じ取った克仁は、目頭を熱くさせ一年前と同じように涙を溢れさせていた。

(何で俺、また泣いてんだよ)

 そう思うが涙は止めどなく流れ、克仁は鼻を啜りながら目許を無造作に拭う。

 奏太郎がピアノを弾きながら、そんな克仁を見詰めていた。他の誰でもなく、克仁を見詰めていた。その黒い瞳にある感情は、奏でる曲と同じく透明感と切なさが揺らいでいる。

 克仁がその視線に気づいて、奏太郎を見返した。

『君が好きなんだよ』

 奏でられる曲と奏太郎の瞳が、まるで克仁にそう伝えているようだ。

 拭い去ったはずの涙が、また溢れ出た。けれど、その涙の理由わけを、克仁はちゃんと知っている。

 克仁は涙を流しながら、じっとこちらを見詰め続けている奏太郎に笑いかけた。すると、奏太郎は綺麗な笑みを浮かべ、ピアノの鍵盤へ視線を移していく。

 曲は終盤へ向けて、少しずつ温か味と優しさを帯びていった。それはまるで、克仁と奏太郎の心情を表しているかのような変わりようだ。

 克仁の周りでは、曲の中に隠された何かに心を打たれ、涙を流しながら鼻を啜る音が聞こえる。切なくなった。優しくなれた。奏太郎の曲を聴いて、感じることは人それぞれだろう。

 けれど、克仁だけは奏太郎の曲に隠された真実を知っている。奏太郎から向けられた想いは、言葉ではなく奏でられた曲によって心の中に染み渡ってゆく。

「あの、すみません。俺、トイレへ行ってきます」

 盛大な拍手と共に奏太郎が舞台袖へ身を引っ込めると、克仁は誠一郎とその妻にそう言って席を立った。聴き手の邪魔にならないように、座席の端の通路を歩きホールの外へ向かって行く。

 行き先は、その言葉通りだ。少し腫れてしまった目と、頬についてしまった涙の跡を洗い流す為である。

 奏太郎に会いに行くなんて気の利いたことを、克仁はする気になれなかった。それは単に、気恥ずかしいからであることは言うまでもない。

 ホールの外は、人気がなく静まり返っていた。その静まり返った空間に、高いところに設置されたスピーカーからホール内で演奏されている曲が流れている。

 その中を彷徨さまよい、克仁は漸く近くのトイレを見つけることが出来た。トイレへ駆け込み、清潔感に溢れた手洗い場の蛇口を捻る。

 勢い良く流れ出た水を両手に溜め、それを顔にかけていった。何度かその行動を繰り返し、ズボンのポケットからハンカチを探る。

「あ……」

 そう声を上げたのは、ハンカチがなかったからだ。自分がハンカチを持たない人種であることを、克仁はうっかり忘れていた。

 そんな克仁の手に、誰かがハンカチを手渡してくる。

「悪ぃ、有難うな」

 顔を上げることも出来ず、誰だか判らないままでその人物に礼を述べた。そして、濡れた顔をそのハンカチで拭い始める。

「これ、洗って返すから。名前とか教えて」

 そう言いながら、克仁はその人物を振り返って口を噤んだ。

「……音羽」

 奏太郎が優しい笑みを浮かべて、そこに立っていた。

(これじゃあ、一年前のあの時の再現だな)

 そう思いながら、克仁はあまりのおかしさに小さく笑う。

 けれど、一年前と今とでは、互いの心境が違っていることは目に見えていた。克仁と奏太郎。どちらが変わったかと言えば、それはやはり克仁の方だろう。

「何でここに居んの?」

『父さんたちのところへ戻ったら、君がトイレへ行ったと聞いたから』

「ふぅん。俺を捜してくれたんだ」

 奏太郎に対してわざとらしく素っ気ない態度を取って見せるが、その態度とは裏腹に克仁の表情は嬉しそうだ。

『俺の曲、楽しんでくれた?』

 奏太郎もそれを解っているので、気分を害することもなく克仁に問いかけた。

「一曲目、すげぇ楽しかった。つーか、面白いな、あれ。お前が創ったの?」

『創ったと言うより、元の曲を俺なりに編曲しただけなんだ。楽しんで貰えて良かった。――それで、二曲目はどうだった?』

「……お前の気持ち、伝わってきたよ」

 克仁が素直にそう答えれば、奏太郎が愛おしむような眼差しで見詰めてくる。克仁は気恥ずかしさに頬を染め、彼からゆっくりと視線を逸らした。

「なあ。何であの時、突然俺にあんなことをしたんだ? ……俺も、人のことを言えた義理じゃないけど」

 そう問いを口にして、克仁は再び奏太郎に視線を向ける。すると、奏太郎は困ったような表情をして両手を動かしてゆく。

『今日の発表会の緊張を解す為――と言ったら、君は怒る?』

「……何だよ、それ。怒るより呆れるぞ。まさか、誰にでもやってんじゃないだろうな」

『それはない。相手が伊藤だったから、ついしてしまったんだ』

 さらりとそんなことを言われ、克仁はまた頬を赤らめた。

「いつから、俺を? 昨日は俺を拒んでいたよな?」

『初めから。君を拒んだつもりはないけれど、あのままだとお互いに駄目になると思ったんだ。伊藤が俺を好きなのは、気の迷いだと思っていたから』

「俺が本気だってこと、解った?」

『流石に泣かれてしまったら、ね。俺も色々考えて、この日に伝えようと思ったんだ。今日の選曲が、君と出会った時の曲だから』

「……音羽って、意外に恥ずかしい奴」

 そうぼそりと呟いて、克仁はそっぽを向きながら押し黙る。

(何だよ。色々悩んでた俺って、馬鹿らしいじゃん)

 克仁の思っていることを察したのか、奏太郎はそっぽを向く彼の手を引き寄せた。そして、克仁の何もかもを包み込むように優しく抱き締める。

「なあ。もし、今日俺が家に居なかったら、どうするつもりだった?」

 奏太郎に抱き締められながら、克仁はさらに問いを投げかけた。その勢いは、心の中で渦巻く不安を全て吐き出しているようだ。

 しかし、両手の塞がった奏太郎はそれに答えることは出来ない。その代わりに、克仁の背中を優しくあやしてゆく。

「初めからって、あの音楽室からだよな? ……音羽って、元々そう言う趣味があったとか?」

 後者の問いはないだろうことは、克仁でも解っている。誠一郎から聞かされた奏太郎の過去と照らし合わせれば、奏太郎もまた克仁と同じような理由で好きになったのだろう。

 自分を救ってくれた存在――それが二人の惹かれ合った理由に違いない。

「俺たち、男同士なのに変だよな? 周りは俺たちのことを変に見るだろうけど、人を好きになることって別に変じゃないよな?」

「お前の親父やお袋、俺の親父やお袋、兄貴。みんなに反対されるけど、もしかしたら勘当されるかも知れないけど、お前は大丈夫?」

「つーか、これからあんまいいことないと思うけど、お前は俺の傍に居られる? ずっととか一生とか言えないけど」

 「それから……」と、克仁の不安はまだ尽きることはない。特殊な恋愛をするには、様々な不安や戸惑いが二人に付き纏うだろう。

 永遠と続く克仁の不安を、奏太郎は聞きながらその両腕で包み込むだけだ。『大丈夫』『心配要らない』『傍に居る』など、言葉にすることは叶わないけれど、心で通じ合えたならそれはきっと伝わるはずだ。

 心が通じ合わなければ言葉で、心が通じ合えたなら言葉は要らない。それは何よりも難しいことかも知れないが、楽器だけの演奏で楽しさや感動を与えることと同じだ。けれど――。

「――俺さ、多分ずっと音羽のこと、好きなままだと思うぜ? 音羽は?」

「す、き」

「そっか。……何だか、照れ臭いな」

 そう言って、克仁は奏太郎の腕の中で子供っぽく笑う。

 ――けれど、たまには互いの気持ちを言葉で確認する必要もあるだろう。人の心は楽器とは違い、年月を重ねる毎に移ろうものだ。

「トイレで何なんだけど、キス、してもいいか?」

 そう訊いて来る克仁に、奏太郎は小さく笑いながらその両頬を優しく包み込んだ。

「いや、俺からした……」

 克仁は慌てて自分からしたいと訴えようとしたが、言い終える前にその唇を奏太郎の唇で塞がれた。その口づけは、あの貪るようなものではなく、ただ優しいだけのものだ。

 暫くの間だけ克仁は奏太郎の瞑る目蓋を眺め、やがてゆっくりと目蓋を閉じていった。数十秒、或いはそれ以上だったかも知れない。時間の感覚が判らないくらいに、二人は唇を合わせ、そしてゆっくりと離していった。

「……そろそろ行こうか。お前の親父とお袋が心配してるかも知れないし」

 克仁の言葉に、奏太郎がこくりと頷く。そうして、二人は互いの身体を離してその場を歩き出した。

 トイレの外に出れば、スピーカーから曲はまだ流れている。しかし、その曲は克仁がトイレに入る前とは違っていた。

『この曲は、最後辺りの人が弾いているものだ』

 克仁の前を歩いていた奏太郎が振り返って、そう説明を寄越してくれる。どうやら、結構な時間をトイレの中で過ごしてしまったようだ。

 克仁は空笑いを上げるしかない。奏太郎もまた、苦笑を浮かべるしかなかった。

 それでも、二人は静かにホールの中へ入り、誠一郎たちの座っている座席へ戻って行った。

 誠一郎の隣に克仁が座り、その隣に奏太郎が腰を下ろす。

「どうやら、仲直りが出来たようだね」

 前を見据えたままで、誠一郎が克仁にだけ聞こえるくらいの小声で話しかけてきた。その横顔は、やはり何処までも穏やかだ。

 克仁は誠一郎をちらりと見やるだけで、答えることはしなかった。誠一郎もそれを求めている訳でもない。その証拠に、彼はそれ以上の言葉を口にすることはなかった。

 最後の演奏者と思われる生徒の演奏が終わり、舞台にはオーケストラの面々だけが残っている。

(つーか、すげぇな。長時間も座って演奏して、疲れないのか?)

 克仁の疑問は愚問だ。疲れているに決まっているが、それはプロとしての意地があったに違いない。けれど、表情には出ているもので、初めと比べてみれば何処か疲れているように見えた。

 司会者がまた舞台袖から現れ、そしてまた初めと同じような形式的な挨拶が始められる。克仁はまたそれを聞き流すように過ごし、ホール内が明るくなったと同時に奏太郎たちと共に席を立った。

 賑わう会場内を出口に向かって歩いていると、ふいに誠一郎が思いついたように口を開く。

「伊藤君。僕たちと一緒に、夕食を食べて行くかい?」

「いえ。多分、親父たちも帰って来てると思うんで、夕飯は家で食います」

 それは、克仁が一年前から欠かさずやっていることだ。その努力が、少しずつではあるが家族の溝を埋めている。

 そんな克仁を見詰め、奏太郎は優しい笑みを浮かべていた。

 帰りの車内は行きと違いぎこちなさはなく、明るい雰囲気で満たされている。奏太郎の演奏の話題がほとんどであった。

 そんな車内に揺られながら、克仁は自分の家へ送られて行く。



 その日をきっかけにして、克仁と奏太郎は今まで以上に親密になっていった。互いのことを尊重し、会える日は会い、会えない日は無理して会うことはしない。冷めているように見えがちだが、それが二人の当たり前の距離になった。互いの心が解っていれば、以前のようにヤキモキする必要はない。

 冬休みが終わり、学校へ向かう克仁の口から溜め息はもう漏れなかった。その代わりに、その口許には小さな笑みが刻まれている。

 昇降口へ向かい、克仁は他の生徒と笑い合う奏太郎を見つけた。いつものようにその様子を窺っていると、奏太郎が克仁を気づく。

『おはよう』

 口だけを動かして、そうして奏太郎は克仁に笑いかけた。

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