あんなこといいな
「あんなこといいな、できたらいいな。あんな夢こんな夢いっぱいあるけど」
国民的アニメの夢が詰まったあの曲は、もうすっかり私の頭に染みついている。一日に何度も何度も耳にするこの曲は、仕事中だけではなく家に帰りベッドの中に入ったときまでも私の頭の中で流れ続ける。
私の名前は葵。職場は川崎にある藤子・F・不二雄ミュージアムだ。あのキャラクターをイメージした青色のワンピースと青色の帽子をかぶり、来園したお客様のご案内をしている。日によって持ち場が変わり、お土産コーナーでレジを打ったり、レストランで食事を運んだり。けれど私が一番好きなのは、テラスに出たところに立ち、困っているお客様の手助けをする役目だ。とはいっても、大体のお客様はそれぞれ家族や友人、恋人たちと楽しそうに自由にミュージアム内を見て周る。実際この持ち場についているときは暇と言っても過言ではない。退屈だとこの役割を嫌がる同期もいるが、私はここでこうしてお客様と青い空を眺めながらぼーっとするのが何より幸せだ。
今日もミュージアムは大盛況。夏休み期間だからか、子供連れが多い気がする。皆それぞれに何かに夢中になり、何かにはしゃいでいる。
「パパ! こっちに来て。土管があるよ!」
男の子の元気な声が聞こえる。アニメに登場する公園を模したコーナーには、アニメと同じ形の土管が設置されていて、自由に写真が撮れる場所になっている。
「パパ早く!」
急かすその声は表情を見ずとも笑っていることが分かる。
「元気だなあ」
私は無意識にそう呟いた。
そしてまた、あの曲が頭の中に流れ始める。
「あんなこといいな、できたらいいな」
――あんなこといいな。最後にそんなことを思ったのは一体いつだろう。いつからか私は何かに憧れる気持ちを失ってしまった。幼い頃は私もあのアニメに夢中で、なんでも夢を叶えてくれるあのキャラクターが大好きだった。私の前にも現れないかな。
「あんな夢こんな夢いっぱいあるけど」
――あんな夢、こんな夢って一体どんな夢だろう。ここにいる人達は皆何かしらの夢を持っているのだろうか。子供も、大人も。私には、夢がない。
私には夢も憧れもない。叶えたいことなんて一つもない。
だからもしもあのキャラクターが今私の目の前に現れたとしても、何もお願いすることはない。そんな私にきっとタジタジ。こんな大人になるつもりじゃなかったのに。
以前、同期とあのキャラクターの道具で欲しいものは何かという話題になった。確か同期はどこでもドアと暗記パンが欲しいと言っていた。
「葵ちゃんは?」
そう聞かれ、私は答えられなかった。道具を知らないのではない、欲しいものがないのだ。
「でも、どこでもドアがあったら便利じゃない?」
「いや、私は今の電車通勤が気に入っているからいらない。電車の窓から見る風景ってなんか好きなんだよね」
「じゃあ、オーソドックスにタケコプターはどう?」
「うーん。別に空を飛びたいと思わないんだよね。私歩くの好きだし」
「そっか。葵ちゃん散歩が趣味って言ってたもんね。もしもボックスでなりたい自分になるのはどう」
「なりたい私……。特にないかなあ。今の自分で過不足ないっていうか」
「えー、面白くないなあ。葵ちゃんは夢とかないの?」
「……ない」
そんな会話をした。なりたい私も叶えたいこともない。残念な私。私も同期のようにやりたいことや夢を持って、あの道具が欲しいって語りたかった。そういう夢を持った大人になりたかったよ。
思い出して小さくため息が出た。どうしたら夢が見つかるんだろう。
「きゃっ」
そんなことを考えてながら空を見上げていると、何かが私にぶつかってきた。下を向くと、小さな女の子だ。
「ごめんなさい、お姉ちゃん痛かった?」
女の子は今にも泣きそうな顔をしている。
「痛くないよ、大丈夫。今日は誰と来たの?」
「ママとお姉ちゃんと来た! でも、いなくなっちゃったの」
迷子か。ここでは迷子は日常茶飯事だ。こういうときは慌てずに、女の子から優しく情報を聞き取り、迷子の放送をしてくれる場所へと連れていく。それが今日の私の役目だ。
「お嬢ちゃん、ママがいなくなったのはいつくらい?」
「さっき。あそこでご飯食べて、それからこっちに土管があったから走ってきたの。そしたらママいなくなってて。すぐに戻ろうとしたけど、もう分からなくなっちゃった」
女の子の目から涙がこぼれる。
「大丈夫だよ。お姉さんが必ず見つけるからね。ほら、手繋ごう」
女の子の手を取り、歩き出す。
「お名前は?」
「あおい!」
「えっ、私と同じだね」
「本当に? お姉さんもあおいちゃん?」
「そうだよ」
女の子は泣きながらも少し笑顔を見せてくれた。あおいちゃんの年齢やお母さんの特徴を聞きながら、放送所までの道をあおいちゃんと手を繋いで歩く。
「あのね、私ね今日をすっごく楽しみにしていたの」
あおいちゃんはあのアニメの大ファンでここへ来ることを何日も前から楽しみにしていたようだ。そして私の頭にしっかり染みついたあの曲を歌ってくれた。
「あんなこといいな、できたらいいな」
あおいちゃんが一緒に歌ってと言うので、私も小さく声を出して歌う。
「「あんな夢こんな夢いっぱいあるけどー。みんなみんなみんな、叶えてくれる。不思議なポッケで叶えてくれる」」
「空を自由に飛びたいなー!」
あおいちゃんが歌い、
「はい! タケコプター!」
私が答えるように歌う。あおいちゃんの涙はすっかりひっこんだ様子。放送所に着く頃にはあおいちゃんは満面の笑みになっていた。
係りの人に頼み、迷子の放送を流してもらう。私は元の場所に戻っていいと係りの人が言ってくれたが、もう少しあおいちゃんと話していたくなり、私は無事にお母さんと会えるまであおいちゃんとここで待つことにした。
「あおいちゃんは、どんな道具を使ってみたい?」
「うーん、いっぱいあるけど。一番はお医者さんカバン!」
いきなりお医者さんカバンが出てくるなんて、あおいちゃんは確かに大ファンだ。
「どうしてお医者さんカバンがいいの?」
「だって、お医者さんカバンがあればどんな病気も治せるんだよ」
「あおいちゃんは誰かの病気を治したいの?」
「うん。ぽぽちゃんを治してあげたいの」
「ぽぽちゃん?」
あおいちゃんが両手を頭の上に持っていきパタパタとおいでおいでのような動きをする。
「うさぎさん?」
「そう! うさぎのぽぽちゃんがね、最近元気ないの。ご飯もあまり食べないし、ずっと寝てばかりで。病院の先生はじゅみょうってやつだって言うの。だから私、そのじゅみょうって病気を治して、またぽぽちゃんとたくさん遊びたいんだ」
なんていい子なんだ。私の方が泣いてしまいそうになる。それにあおいちゃんはまだ寿命が何かを理解していない。この先を考えると心が締め付けられそうだ。
「そっかあ。それでお医者さんカバンが欲しいんだね」
「うん、でも私分かってるんだ。今の世界にはお医者さんカバンは存在していなくて、どんな病気でも治せる薬も開発されてないって」
「うん」
「だからね、私は将来動物のお医者さんになるの」
「あおいちゃんの将来の夢」
「うん! 動物のお医者さんになって、ぽぽちゃんみたいな動物さんを元気にしてあげるんだ。そしたらみんな笑顔になるでしょう」
「そうだね。あおいちゃんは偉いね」
「あおいお姉ちゃんの夢は何?」
「お姉さんの夢……」
少し考えたけれど、やっぱり夢は思いつかない。
「お姉さんに夢はないんだ」
「えー。じゃあ使いたい道具は何?」
「実はそれもない。お姉さんは叶えたいことが何もないんだ」
声のトーンが落ちてしまう。子供にこんな話をするべきではないと分かってはいたが、嘘はつけなかった。
「あおいお姉ちゃんには叶えたいことないって本当?」
あおいちゃんが私の顔を覗き込む。
「本当だよ」
心の中で、こんな大人でごめんと呟く。
「すっごーい!」
「えっ」
あおいちゃんの反応は私が予想していたものと真逆だった。
「あおいお姉ちゃんすごい!」
あおいちゃんは目をきらきらと輝かせ私の顔を見ている。夢も叶えたいこともないこんな大人のどこがすごいのだろうか。
「すごくないよ。あおいちゃんはこんな大人になっちゃダメだよ」
「どうして! だってあおいお姉ちゃんはもう全部叶ってるってことでしょう。欲しいものはもう全部持ってるし、毎日が幸せってことでしょう。今の自分のままがいいってことでしょう。いいなあ、私もそんな風に思えるようになりたい!」
「欲しいものはもう持ってる……」
「いいなー、いいなー」
「今の自分のままが、いい……」
「あ! ママだ!」
二人の女性があおいちゃんに駆け寄ってくる。お母さんとお姉さんだろう。
「あおい、心配したでしょう」
「ごめんなさい」
「あの、ご迷惑をおかけし申し訳ありません」
お母さんが私に頭を下げる。私はすぐにそれを止める。
「ママ、このお姉さんもあおいって言うんだって!」
「あら」
「あおいちゃん、とてもいい子で待ってましたよ。あおいちゃんと話せて元気になりました」
お母さんに伝える。
「ママ、あおいお姉ちゃんはすごいんだよ。私もあおいお姉ちゃんみたいになれたらいいな」
「仲良くなったのね」
お母さんとお姉さんは何度も私に頭を下げ、あおいちゃんと手を繋いで帰っていく。あおいちゃんは何度も振り返り、大きく手を振ってくれた。
「そっか」
空を見上げ一人で呟く。
「私は夢がないんじゃなくて、今の自分が好きなんだ」
持ち場に戻るために足を動かしながら、一人で呟く。
「私は今のままで十分幸せなんだ」
はしゃぐ子供たちを見ながら、一人で呟く。
「私の叶えたいことは……」
持ち場に戻るとあの曲が耳に流れ込んでくる。
「あんなこといいな、できたらいいな。あんな夢こんな夢いっぱいあるけど」
私は空に向かって大きく伸びをした。
「私は、今の生活が大好きです。今の生活がずっと続けばいいなと思います!」
そう声に出す。前を通りかかった数人が私を振り返り、不思議そうに見ている。
そっか、私はこのままでいいんだ。小さなあおいちゃんはひみつ道具を使わずに、そのきらきらした目と綺麗な心で私にすごいことを教えてくれた。
「小さなあおいちゃん、ありがとう」
私は明日も電車に乗ってこの場所へ来て、ここで働く。休みの日には趣味の散歩を楽しんで、美味しいものを食べて、たくさん寝る。明後日もその先も続いていくこの生活が私は気に入っている。