雑草にも水やりが必要
夕飯に向けてお腹を空かせようと近所を散歩していると、なんとも奇妙な光景に出くわしてしまった。
曲がり角に建っている古い一軒家、家の周りは低い石垣とその上に乗った鉄製の柵に囲われている。ここまでは至って普通、ポイントはここから。敷地内には一人のおばあさん、その手には容量およそ一リットルのペットボトル。中身はただの水だろうか。
続きが気になるじゃないか。不自然に思われないギリギリまで歩くスピードを落とし、おばあさんとペットボトルを見守る。
「あっ」
なんとおばあさん、柵の隙間へと器用にペットボトルを差し込んで手首をくいっと。ペットボトルの中身は地面へ真っ逆さま。なにをやっているんだこの人……。考えられる選択肢は二つ、いらない水を敷地外へ捨てている(相当ヤバい奴)、もしくは暑い夏の夕暮れに道路へ水撒き(効率悪すぎないか)。なんとも奇妙な光景だ。前者であるならばなるべく関わらない方がいいだろうと、歩くスピードを戻そうとした。けれど見てしまったのだ。撒かれた水の先に生き生きと生えている雑草たちを。
「なるほどなあ」
おばあさんはこの雑草たちに水やりをしていたのか。なんだか納得。でもなんで? なんで雑草に水やりをしているんだろう。気になる、気になるよね。私の好奇心が暴走を始める。
「こんばんは」
気づけば私の足は水撒きおばあさんの元へスタスタスタ。
「こんばんは、一人で散歩かい」
「ええ、ちょっと。お腹を空かそうと思って」
「そりゃあいい。でももうすぐ暗くなるよ、早く帰りな」
「はい」
よし、帰ろう。
「じゃなくって」
水を撒き終えたおばあさんは家の中へ戻ろうとする。
「あの、どうして水を撒いていたんですか」
おばあさんが振り返る。
「ああ、そこに生えている雑草に水やりしていたんだよ」
「どうして? どうして雑草に水やりを?」
「昔母が、雑草にも水やりが必要だって教えてくれたからさ」
ますます訳が分からなくなる。
「ほら、日が暮れちゃうよ」
「でも……」
「そんなに気になるならまた明日おいで。年寄りの昔話が聞きたければね」
「……分かりました」
好奇心はその場で昇華させたいのに。でもここは我慢だ私、このままじゃ本当に真っ暗になってしまう。それにもうお腹はぺこぺこで少し前からぐーぐーとご飯の催促がきている。
今日はいったん引き上げ、また明日おばあさんの家を訪ねる約束をして私は帰路に就く。
「ただいまー」
家の中はいい匂い、これはあれだ、ヤンニョムチキン! 真っ直ぐキッチンへ向かい、フライパンの中を覗くとやっぱりヤンニョム。これは夫の得意料理だ。家に帰ればこんな美味しいご飯が待っているなんて、私は幸せ者だなあ。
「おかえり、遅かったね。もう出来ちゃうから手洗ってきな」
「はーい。ねえ聞いて。奇妙な光景! 雑草水やり、奇妙な後継!」
お得意のラップを披露。なかなかいい出来だ。
「また何か面白いものをみつけたんだね。あとで聞かせて」
「もちろん」
夫の作る美味しいご飯を食べながら、私は水撒きおばあさんの話をした。
「明日も行くの? 仲良くなったんだ」
「違うよ、仲良くなったんじゃなくて、ただ私の好奇心を消化して昇華させに行くだけだよ」
「消化して昇華ね。どっかで聞いたな」
早く明日にならないかな。ご飯を食べて、お風呂に入って歯磨きをして、その日はすぐに眠りについた。
翌日、リモートワーク中の夫に小声で行ってきますを告げ、私はいざ水撒きの謎解きへ。
「こんにちはー」
「あら、本当に来るとは思わなかったよ。もの好きもいたもんだ」
私の来訪を信じていなかったおばあさんに少しムッとしつつ、どうぞと言われ家にあがらせてもらう。
「これどうぞ」
差し出されたのはなかなか高級そうなアイスのカップ。
「いいんですか」
「年寄りの昔話に付き合ってもらうお礼」
「やったー! いただきます」
なかなかいいおばあさんだ。この人けっこう好きかも。私のちょろい好感度センサーが鳴る。
「それじゃあ始めようか」
「よろしくお願いします」
「昔、私がまだあなたくらいの歳の頃……」
――昔、私がまだあなたくらいの歳の頃、私は人生で一番ともいえる失恋をした。私の母はとても綺麗な人で町じゃちょっとした有名人。そんな母のもとに生まれた私は、どうしてだか容姿に恵まれず俗にいう不細工顔。けれどそんな私を母は「かわいいね、すごくかわいいよ」とたくさん愛し育ててくれた。そのおかげか私は卑屈になることも、自分を嫌うこともなく成人を迎えることができた。
そんな私が恋をしたのは二十五の時。相手は近所の豆腐屋の一人息子。そこまでの美男子ではなかったが、家業である豆腐屋を一生懸命手伝う姿に惚れたのだ。私は母のおつかいを言い訳に度々豆腐を買いに行った。その青年もまんざらではなさそうに、いつもおまけなんてつけてくれて。嬉しかった、この青年ともっと親密になりたいと心が跳ねる。
「ねえお母さん、私かわいいかしら」
「どうしたの、あなたはとてもかわいいわよ」
「ありがとう、実は私ね、好きな人ができたの。明日告白したいなって」
「まあ、それはいいことね。お母さん応援する」
母に背中を押され、私は意を決して青年に想いを伝えることにした。けれど母の愛に隠され忘れていたが、私は不細工なのだ。
いつものように鍋を抱えて豆腐を買いに行った。青年の姿が目に映った瞬間に心臓が止まるような緊張が走る。よし、普段通り、普段通り。無理やり言い聞かせ豆腐を買った。「いつもありがとう。君のお母さんにもよろしく伝えてよ」
今日もおまけをつけてくれた青年に、私は想いを伝える。
「あの、あの私……」
泣きながら家へと走った。泣くことと走ることに夢中で抱えた鍋は揺れ、鍋の中の豆腐はもうぐちゃぐちゃだ。
「お母さん」
ぐちゃぐちゃの顔でぐちゃぐちゃの豆腐を持ち帰った私に、母は駆け寄る。
「あら、どうしたの」
「お母さん、お母さん」
優しい母の手が私の震える体を包み込む。
「お母さんあのね、私は雑草なんだって。お母さんは綺麗な花なのに、私は雑草なんだって。だから付き合えないんだって」
青年は私のことを雑草だと言った。いつもおまけをつけてくれていたのは、家で待っている綺麗な母のためだとも。
母親は綺麗な花なのに、お前はそこらへんに生えている雑草みたいだ。俺は雑草とは付き合えない。
傷ついた。それと同時に綺麗な母を、私を雑草として生んだ母をほんのわずかだが恨めしく感じてしまった。けれど母はそんな私に真剣な顔を向け
「雑草にもね、水やりが必要なのよ」
何かを説くように言う。
「綺麗な花だって最初は雑草だったんだから」
「どういうこと?」
「最初はみんな雑草なの。だけどね、誰かがその雑草に毎日毎日一生懸命水やりをして、そしたらある日その雑草が綺麗な花を咲かせるの。その誰かが水やりを怠っていたら、その花はこの世に存在しなかったのよ」
「じゃあお母さんも昔は雑草だったの?」
「そう、私も私のお母さんもみんな最初は雑草なの。でも必死に毎日水やりをして、自分を育てるのよ。そしたらいつしか水やりを変わってくれる人が現れる。私の場合はあなたのお父さん。今の私はお父さんのおかけで枯れずに咲いていられるのよ」
「じゃあ私もいつかお母さんみたいに綺麗になれる?」
「もちろん。これまではね、お母さんがあなたに毎日水やりをしていたのよ。でもこれからは自分で毎日水やりをしなさい。そうしたらいつか、あなたにも水やりを変わってくれる人が現れるから。あなたはどんな花を咲かすのかしら、お母さん楽しみだわ」
「お母さん……」
母がこれまで私に注いでくれていた愛情と、毎日を自分の力できちんと生きることの大切さを一度に教わったようで、私の涙は哀しみから母への愛おしさへと意味を変えていた――
「結局ね、私には水やりを変わってくれる人は現れなかったの」
おばあさんの話を聞き終え、私は何も言えなかった。
「でもね、私は幸せに生きているわよ。だってこんな素敵な子が私の昔話を聞いてくれているんだもの」
「ありがとうございます」
「家の脇に生えている雑草に水をやっているのはね、どんな花を咲かすかなって。私は結婚もしていないし、子供もいないけれど、雑草に水やりをしているとなんとなく母の気持ちがわかる気がするの。こんな気持ちで私を育ててくれていたのかなって」
「そうだったんですね」
「傍から見れば変なおばあさんでしょう」
おばあさんは自分の言葉に自分で笑う。
「でもね、いいの。この水やりは今の私の生きがいなのよ」
帰り道、いつも以上にそこら辺に生えている雑草が目に付いた。
「雑草にも水やりが必要、か」
まだまだ昇華できそうにない。おばあさんから聞いた話を頭の中で何度も繰り返し、おばあさんやそのお母さん、あまりにもひどい豆腐屋の青年、みんなの気持ちを想像しながらひたすら歩く。
「ただいまー」
いつの間にか自宅に到着。
「おかえり。お昼ご飯作ったけど一緒に食べる?」
またまた家の中はいい匂い。ああ、幸せだ。
「食べる!」
「よし、じゃあ手を洗っておいで」
穏やかな笑顔でお皿におかずを盛り付ける夫に問うてみる。
「ねえ、私って花にたとえるとなんだと思う」
空になったフライパンと菜箸で両手がふさがったまま夫が答える。
「うーん。少し前は芍薬だと思っていたけれど、最近少し変わった気がする」
「えっ、少し前は芍薬だと思ってたの?」
「そうだよ」
「詳しく聞かせて」
「じゃあその前に、ほら手洗ってきな」
私は急いで手を洗いに行く。いつの間にか私に水やりをして芍薬を咲かせてくれていた夫の話を詳しく聞くために。それに美味しいご飯も待っている。