ふくらはぎの文学―坂口安吾論―
3年ほど前、コロナで失職して暇だった私はラノベを色々書いていたのですが全く人気が出ず、意地になって流行りに迎合した小説を書いてみてもなしのつぶてで、自暴自棄になっていました。そんな折とあるなろうユーザーの方のエッセイを読み、高い教養から痛烈に現代を批判する文章の鋭さに衝撃を受け、私ももっと普遍的な価値を持つ文学を目指したいと思うようになりました。といっても文学が何なのかもよく分かっていない状態だったので、ドストエフスキー、シェイクスピア、小林秀雄なんかの著作を読みふけり、聖書やウィトゲンシュタインやシオランやニーチェやキェルケゴールにも手を付け……といった具合で文学漬けの日々を過ごすようになりました。しかしいくら読んでみても、「なるほどなー」「たしかになー」とか思う事はあっても一部除いて深い感動というものは得られず、イマイチ文学という物が見えてこず、自分で文学らしき物を書いてみても納得がいくものが書けないという状態でした。
それからクビにされた会社に復職して小説を読み書きする機会も減って来たのですが、たまたま電子書籍の坂口安吾全集が安かったので買って読んでみたら、これが予想を超えてガツンと来ました。坂口安吾は作風に幅があり歴史もの、推理小説、戦後小説、私小説、囲碁将棋の観戦記、ナンセンス小説、随筆など色々と書いているのですが、多くの作品に貫徹しているのは何といっても大衆への深い愛です。坂口は実の母親から愛されず、若いころは随分思い悩んでいたようで、人生は虚しく悲しいという諦観に立っています。それにも関わらず彼の多くの作品に暗い所が殆ど見えないのは、人生は虚しい、死ねばそれまでだと内心分かっていながらも、いやだからこそ、必死に泥臭く生きて破滅に向かう大衆の姿を美しく、愛を持って描いているからでしょう。
色々褒める事はできるでしょうが、結局のところ個人的な話かもしれません。要するに日本に生まれ育った私の大衆性、時代性、個性が坂口安吾がたまたま繋がりを持つことが出来た、というのが大きいでしょう。そもそも坂口が普遍性がある作家であるかというとそこまでではないかもしれませんし、本人もあまりそういう所を目指していないような気もします。『死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。(教祖の文学)』とまで言い切っているくらいです。坂口の良さは日本に生まれ育った人にしか分からないかも知れません。しかし、日本人に理解する事ができるならそれで充分という考え方もできます。地に足がついていない普遍性ばかり追求し象牙の塔に籠って大衆を見下すより、塔から下りてきて大衆と一緒になって泣いたり笑ったりする坂口のほうが素晴らしいと私は思います。
時代を超えて変わらない真理が普遍性である、といえば聞こえはいいですが、時代の色が無い人間離れした真理などに何の価値があるのでしょうか。過去の文学や哲学に共鳴する事があったとしても、それは普遍性に起因するというより、私の大衆性とそれらがたまたま一致しただけという話のように思えます。だから海外の文学にたまたま私に理解できる部分があったとしても、文化が違いすぎて結局のところ本質はわからないのかもしれません。シェイクスピアは生きている間はエンタメ作家としてしか評価されませんでしたが、エンタメとしてシェイクスピアを受け取った人にしか理解できない部分もあったのではないでしょうか。ドストエフスキーはキリスト教とロシアの大地がベースになっていますが、ロシアもキリスト教も大して知らない私達が、ドストエフスキーの神髄を完全に理解する事は難しいでしょう。
小林秀雄は「キリスト教はよくわからない」と諦めて、宗教的切り口からドストエフスキーを探る事を放棄しましたが、それはある意味堅実で謙虚な姿勢ではないかと思います。小林秀雄ほど教養があっても、地に足を付けて手が届く範囲には限界があります。
ただそれでも坂口安吾の書いた島原の乱や隠れキリシタンや宣教師の話を読んでいると、その部分だけキリスト教というものが分かる気がします。私は以前長崎に行って隠れキリシタンの木で作った十字架や藁で作った鞭型の祭具なんかを見たことがありますが、その時人の心そのものを見たような気がしました。救いを求めて生きた人間が、祈りがたしかにこの地域に実在して大衆の中に息づいていた。そのことがはっきり分かって、何故だか嬉しくて堪りませんでした。私がキリスト教について分かる事といったらその程度の事なのでしょう。
結局、普遍性がどうのこうのばかり追い求めていた頃の私は「ものすごい教養を積んで、蒙昧な大衆とは一線を画す文学で普遍性を追求してやる。私はお前らとは違う永遠の死者の国、普遍性の世界を生きるのだ」なんて粋がっていただけで、その態度がまず全く地に足がついていない非文学的な態度だったのではないかと思います。ニーチェ哲学の問題もそこにあって、自分の立っている場所を全否定して自意識のみで語ろうとしても、結局超人がどうたら抽象的な事しか言えなくなります。ニーチェが筋肉ムキムキのギリシャ人だったならともかく、実際は牧師の家に生まれた虚弱な近代人にすぎません。ニーチェが物質を重視すると言うなら、もっと自分の弱さと向き合うべきだったと思います。キリスト教を全否定するのではなく、キリスト教の物質性をもっと掘り下げるべきでは無かったかと思います。
結局古典というのは教養を得る為に読むものでも普遍性の世界に行く為に読むものでもなく、自分の大衆性、時代性、個性に気付くためにこそ読むべきなのではないかと思います。海外に行って初めて自分の国を発見するように、異なる世界に行って自分の世界と変わらない部分や違う部分、共感する部分や反感を覚える部分に気付くことで、自己を再発見することが出来るかも知れません。
自分だけ普遍性の高みに行って過去の偉人に乗っかって現代を「くだらない時代だ」と裁いてみるのも一興かもしれませんが、それはある意味自分の足元を破壊して浮足立って天にツバしてるようなものです。そんな事よりも自分の足をしっかり地に付けて、どんなにくだらなく思えたとしてもまず自分の時代を愛さなければならない。そうしなければ何も始まらないし文学も糞もないでしょう。
もちろん「だから大衆は素晴らしい」「大衆作品こそ志向」なんて事を言っている訳ではありません。大衆作品だろうと文学作品だろうと、つまらないものはつまらないです。ただ、内心虚しいと分かっていてもつまらない作品に頼らなければならない悲しさは、馬鹿にするのではなく自分事だと思わねばならないという事です。私はそういう事を坂口安吾から学んだ気がします。
坂口安吾で一番印象に残ったのは、『教祖の文学』という小林秀雄論です。坂口は、ペシミズムに囚われ生きた文学を否定しているとして、小林を痛烈に批判します。
『「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例ためしがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)とくる。(中略)生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。(中略)歴史には死人だけしか現はれてこない、だから退ッ引きならぬギリギリの人間の相を示し、不動の美しさをあらはす、などとは大嘘だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。もし又生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかつたまでのこと、生死二者変りのあらう筈はない。(教祖の文学)』
『文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。(教祖の文学)』
『人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。
自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。(教祖の文学)』
小林秀雄が死人に肩入れする気持ちは分からないでもありません。祇園精舎の鐘の音は、作者も描かれた敗者も勝者もその悉くが明らかに死んでいる事によって完成されます。しかし、平家物語を現代人が書いたと考えてみれば「諸行無常のくせにあんた普通に生きて印税収入貰ってるよな?」というツッコミがまず入りますし、作者が「印税収入最高! ごめんやっぱ諸行無常じゃなかったわ!」なんて言い出す恐れがあります。そんなことが無いように、作者も描かれた人間もすべて死んでいる必要があるのです。死んでいるからこそ安心して祇園精舎の鐘の音を心に響かせることが出来る。しかし坂口安吾は作者や登場人物が死んでいようが生きていようが眼中にありません。死者と同一化して浮き足立つ事も、物言わぬ死人に安堵する事もしません。ただ作品世界に人間が生きているかどうかだけに着目します。
『女のふくらはぎを見て雲の上から落つこつたといふ久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何といふ相違だらう。これはたゞもう物体の落下にすぎん。
小林秀雄といふ落下する物体は、その孤独といふ詩魂によつて、落下を自殺と見、虚無といふ詩を歌ひだすことができるかも知れぬ。
然しまことの文学といふものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美といふものではないか。(教祖の文学)』
孤独な少年時代を過ごした坂口安吾にとって、人間孤独の相なんてのは物心ついた頃には喝破していた当たり前の事であり、いちいち死人に指摘して貰う必要は無かったのでしょう。坂口安吾でなくともそのくらいの事は多かれ少なかれ誰もが勘付いている事です。「人はいつか死ぬ」「人生は虚しい」「美は消え去ってしまう」確かにそうかも知れません。それは真実でしょう。
当然久米の仙人が見たという美しい女のふくらはぎも、やがてはしぼんでシワシワになってしまう。久米の仙人だってそれくらいの事は知っています。「プリプリのふくらはぎ=シワシワのふくらはぎ」それは正しい事です。普遍的な宇宙の真理と言えるでしょう。しかしその正しさは抽象的な神の視点からもたらされる正しさであって、現に今を生きる人間はそんな正しさなど眼中にない。実際に生きる人間はプリプリのふくらはぎを見たらもう完全に我を失ってしまって、神通力を失って地に落ちてしまったりする訳です。かしこぶった人が「あのふくらはぎも将来シワシワになるんだぞ」なんて諭したとしても、現にプリプリのふくらはぎがそこにあるんだから仕方がありません。人間と言うのは多かれ少なかれそういうアホらしさ、悲しさ、必死さを持っていて、それこそが人間の素晴らしさという事なのでしょう。
坂口安吾作品の多くは青空文庫で読めます。良かったら読んでみてください。
『教祖の文学』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42864_22350.html
『堕落論』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html
『風博士』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42616_21000.html