6 それぞれの本命
虚を突かれたように妃美香を見送った彰は、すぐに昼間のやりとりを思い出し、余人に見せない大人びた微笑を浮かべた。彼は汀に向き直った。
「だから言ったでしょう。様付けで呼ばないで、って」
「すみませんでした。今後、人前では気をつけます」
汀は、申し訳なさそうに頭を下げた。彰は困ったように彼女を眺めていたが、気を取り直して尋ねた。
「ところで黒松さん。僕にはチョコレートをくれないのですか」
汀は、顔をパッと赤くして、カバンを両手で押さえた。
「ま、まさか」
という側から、チョコレートの包みが転がり落ちた。彰は素早く包みを拾い上げた。彰宛の、本命チョコであった。彼は汀が制止するより先に開封し、中身を口に入れた。
「彰様、そ、それは……」
「うん、僕が今日初めて口にしたチョコレートだよ。これで黒松さんは僕とデートする義務ができたね」
彰はにこにこして言った。それから、ちょっと心配そうに表情を曇らせる。
「もし黒松さんが嫌でなかったら、という事なんだけど」
汀はパパパッと赤くなった。
「嫌だなんて、とんでもない! 喜んで……ところで、何故そのような慣習を御存知なんですか」
と照れ隠しに質問する。
「理事長ともなれば、情報源に恵まれるから。でも黒松さん、あなたのおかげで、随分助かっています。これからは仕事でなく、恋人としても僕のそばにいてくれませんか」
「……」
汀は、はらはらと涙を流しつつ、声を出す代わりに何度も頷いた。
妃美香は、かなり長い間走ってから、ようやく一息ついた。
まず遠くへ行かなければと思い、方向を考えず走ったので、気付いた時には生徒会館から遠ざかっていた。しかもこの辺り、校内バスも路面電車も路線から外れている。歩くより他なかった。
妃美香は呼吸の回復を兼ねて、ゆっくりと歩き始めた。視界に入るだけでも、何組もの生徒が追いつ追われつしていた。もはやバレンタインの祝祭ではなく、チョコレート戦争である。1日チョコレートの匂いを嗅ぎ続け、ついに鼻がイカれてしまったらしく、カカオの香りは気にならない。
合間にちらほらとイメージ通りの、チョコレートの受渡しも見えた。
突然、女子生徒が数人、妃美香の前へ立ちはだかった。各々が消火器様のものを持っている。一人だけバズーカ砲をかつぐ生徒がいた。
ああなるほど、確かに銃器の取り扱いは必要なのね、と妃美香は妙に納得した。そして辺りを見回す。
「ひょっとして、私に用事?」
妃美香は隙を窺いながら、おそるおそる訊いた。バズーカ砲をかついだ女子生徒が、横柄に応えた。
「用事なんてもんじゃないわ。あんた、白飼妃美香でしょ」
「だから?」
言い捨てて、妃美香は横へ跳んだ。あっ、これも授業で習ったな、と思いながら。折りしも、そこではチョコレートの受渡しを巡って、乱闘が起こっていた。
「ちょっと、私の彼に何するのよっ」
「ずうずうしい! あたしの彼氏よ!」
「あの、僕の意見も聞いて欲しいんですけど」
「あなたは黙っていて!!」
妃美香は、騒ぎのどまん中をすり抜けた。
消火器とバズーカの女子生徒たちは、彼女をストレートに追いかけ、騒ぎに巻き込まれてしまった。
「何よ、あんたたちは」
「さては、彼を横取りしに来たのね」
「違うってば」
「問答無用!」
きゃー!
シューッ!
生徒会館の手前で、妃美香は光一郎と出会った。彼は判定員の腕章をつけていた。背中のリュックが、重みで垂れ下がる。なかなかの量のチョコレートをもらったようだ。
「あ、白飼さん。委員長に会いに来たの?」
「それもあるけど、戸隠さんに」
と、妃美香は前へ回したリュックに手を入れた。チョコレートを取り出して、光一郎に渡す。本命チョコであった。
「ええっ、俺に?」
光一郎は、狼狽して妃美香を見た。妃美香は照れもなく、むしろほがらかである。
「うん、日頃お世話になっている分。デートしてくれって意味じゃないから」
あからさまにホッとする光一郎。判定員として修羅場を見てきたのだろう、と妃美香は同情する。
「そうかあ、ありがとう。委員長には、もう本命チョコ、あげたよね?」
「これから行くところなんだけれど」
登校時間から8時間を経過し、今は放課後である。光一郎は何故か気の毒そうな顔をする。妃美香は、慌てて付け加えた。
「迷惑になるから、あげない方がいいのかな、とも思って。委員長さんは、人気があるでしょう?」
「絶対に、渡して。すぐ行こう。今の時間なら、委員会室にいるだろう」
光一郎は、妃美香の背中を押すようにして、風紀委員会室へ向かった。
「私、ここに来てまずかったかな。さっきバズーカ持った人たちに何故か絡まれたのよね。親衛隊関係かな?」
「ひえっ。3年女子だな。白飼さん、これを着て」
光一郎は、リュックからビニール合羽を引っ張り出した。寒さを感じていた妃美香は、ありがたく受け取った。
「ありがとう。あれ、雪?」
廊下の窓から、白いものが舞うのが見えた。大鳳島で見る初めての雪である。
「あれは、裏手で茶会を開くとかで、気象研究部が降らせている」
「へええ」
光一郎が風紀委員会室のドアノブに手をかけると、中から奇声が起こった。
「きゃああああ! 棟方様!」
光一郎は慌てて手を離す。ドドドンッと、重い物体のぶつかる音がした。
「畜生、待ち伏せだ。逃げよう」
「私も?」
光一郎は妃美香の手を引き、建物の出口へ向かって駆け出す。そこへ史宣が飛び込んできた。背後に消火器隊が迫っていた。
「げ、委員長。何を連れてきたんですか」
「3年の女子だ。手ごわいぞ。あっ、白飼さん」
こんな状況にも関わらず、史宣は笑顔になった。光一郎が手を離す。
「話は後。委員長、委員会室で待ち伏せされました」
言っている側から、それらしい女子生徒たちが転がり出る。背後には消火器隊。光一郎と史宣は、妃美香をかばいつつ、階段を駆け上がる。光一郎がささやく。
「委員長、屋上にヘリがあります。ここは、俺が食い止めます」
「しかし……」
「白飼さんが、どうなってもいいんですか」
「わかった。頼むぞ」
史宣は、妃美香の手を取り、更に上へ進んだ。下から騒音が沸き起こった。妃美香は史宣に引っ張られるままに、階段を上った。途中で、はたと妃美香が立ち止まる。
「戸隠さんは?」
「大丈夫。彼の腕を信じてあげて。今は、とにかく上へ」
「……はい」
生徒会館は、4階建てである。屋上にはすぐに着いた。
ドアを開けると、ヘリポートを示す白い輪が描かれているのが見えたが、ヘリコプターは影も形もなかった。
空の一部が曇り、雪が舞っていた。史宣は妃美香の手を引いたまま、中央まで進み出た。
「残念だったわね、棟方委員長」
背後からの声に、2人で振り向いた。階段室の上に、バズーカ砲を担いだ女子生徒が立っていた。妃美香が先ほど絡まれた相手である。史宣と妃美香は、じりじりと後退した。
「そんな小娘なんか放っておいて、私と付き合いましょう!」
妃美香は思わず史宣を見た。彼は、いきなり妃美香を抱えて横に跳んだ。それまで2人がいた位置に、網がぱあっと広がって、落ちた。投網である。
屋上のドアが開き、光一郎が走り出てきた。血飛沫のようにチョコまみれだ。すぐ後から女子生徒たちが続いた。大方は手ぶら、残りはホースが途中で切断された消火器を抱えている。
「あれ、ヘリは?」
「やられたよ」
バズーカの女子生徒が再び立ち上がった。消火器隊が前に並ぶ。
「皆の者、やっておしまい!」
ちゅどーん! シュバーッ!
バズーカ砲が火を吹き、消火器からチョコレート色の霧が噴出した。だが、攻撃は当たらない。
彼らは4階建ての屋上から飛び降りたのだった。史宣が妃美香を抱え、光一郎は自分で。
「巻き込んでしまって、すみません」
降りる寸前、史宣が言った。
「なんとしても、あなたを守りますから」
史宣は地面に背を向けていて気付かなかったが、妃美香は眼下に広がる景色に不審を抱いていた。それが何であるかわかったとき、
ズボッ。
落下が止んだ。たちまち、ひんやりした感覚が身を包む。
積雪であった。史宣は、衝撃の少なさに、かえって呆然とする。
「うわあ、助かったぜ」
「そうだな。白飼さん、大丈夫ですか」
「おやおや。雪見の宴に飛び入り客が」
上から声がした。雪の穴の淵から、生徒会長の神代琉緯が覗き込んでいた。
早速、助け出される。光一郎は既に自力で立っていた。
離れたところに、見なれない機械があった。御門深蘭が、何やらスイッチを操作する。
急に機械から黒雲が立ち上り、屋上に向かって猛烈な吹雪を仕掛けた。
風の音に紛れて、悲鳴や物のぶつかる音が聞こえた。
「ところで風紀委員長」
琉緯がにこやかに尋ねた。
「白飼さんからの本命チョコは食べたかな?」
「か、会長。何も、今聞かずとも」
史宣は明らかにうろたえた。見ている方が恥ずかしい。
忘れないうちに。妃美香は思いきって、本命チョコを渡した。会長に言われなければ、騒ぎに紛れて渡し損ねるところだった。
「ありがとう」
感無量の面持ちで見つめる史宣に対し、妃美香は慌てて付け加える。
「いえ別に。普段からお世話になっているので、お礼として。戸隠さんにもあげましたし、鹿島くんにも」
「いや、俺まだ食ってないし」
食い気味に妃美香の発言を遮った光一郎は、史宣の視線に頭を抱える。史宣は、膝から崩れ落ちそうだった。
琉緯がにこにこして宣言した。
「では、今度の日曜日に3人で外出したらどうかな。2人で白飼さんに学外を案内して」
「そ、そうですね」
史宣の落胆ぶりに良心が咎める光一郎が、真っ先に賛成した。妃美香にも、必死に合図を送る。よくわからぬながら、妃美香も賛成した。
「ええ、それがいいですね。委員長さん、一緒にいきましょう」
史宣は、まだ落ち込みを残しつつも喜びを見せた。
「はい、行きましょう」
琉緯は側へ戻った深蘭と目を見交わした。
「決まりだね。それでは折角だから、一緒に雪見の茶会をしよう。ここは封鎖区域だ。安心してくつろいで」
気付けば茶道部の部長が、人数分の濃茶を用意している。先ほどから副部長と共に、影のように控えていたのであった。
空はいつの間にか、晴れていた。




