5 目まぐるしい1日
妃美香は朝から一日忙しかった。いや、前日からだった。
阿久田星華と完成させたチョコレートの包装に、思ったより手間取った。数百単位を手作業で包むのだ。手術用の薄いゴム手袋を使っても、中の手が荒れるし、指が筋肉痛である。
どうにか完成させた義理チョコを、体育委員長の綾小路弥生と厚生委員長の聖乙羽に予約数量買い取ってもらい、残りを翌朝売るために、値札や手提げ袋など店舗の準備をしていた。
「こんばんは」
工房へ入ってきたのは、カカオポッドを抱えた、3年生の槌間であった。校内で高級チョコレートの店を開いた先達である。
「はっ、尊い、って、先輩どうしてこちらへ?」
いつもの癖で五体投地しかけた星華が、危ういところで我に返り、どうにか立ち上がった。
槌間は、怪しげな動きをする星華に、温かく微笑みかける。
「チョコレート関係のお店が新しく開店したら、できるだけ一度は見に行くことにしているんだ。バレンタインの時期は一気に増えるから、こんな時間になってしまった。迷惑かと思ったのだけれど」
「いやいやいやいや、とんでもない。大変光栄に存じます。ね、白飼さん」
「あ、はい。よかったら、試食されますか」
妃美香としては早く作業を終えて帰りたかった。鹿島彰に渡すチョコレートをまだ用意していない。日頃接する機会も多く、何かと世話になっている。親衛隊に渡す量産チョコとは別に、作るつもりだった。
同時に、星華の槌間に対する傾倒ぶりも知っている。無碍にもできず、愛想を振りまきついでに手持ちのカードを切ったのだった。型からの取り出しに失敗したり、そもそも型取りに失敗したりしたチョコがいくつかあった。すぐそこに積んである。
「えっ。あなた、先輩に何を食べさせるつもりなのよ。すみません、先輩。うちの品物は安い材料で先輩のお口にはとても」
「阿久田さん、だったね」
まさか妃美香が失敗作を食わせるつもりとはつゆ知らず、パニック状態になりながらも謙遜から星華が強く制止すると、急に槌間が真面目な顔を作った。途端に星華の背筋が伸びる。
「高ければ良い、というものではないよ。高い物にはもちろん、それなりの理由があり、見合った価値がある。でも、安い材料を使って、それなりの品を作ることも大切な価値だ。大勢に、気軽に食べられる美味しいチョコレートを提供する仕事は、素晴らしいと僕は思う。謙遜も度が過ぎてはいけないよ」
「あ、ありがとうございます」
星華は感動のあまり泣きそうである。槌間はまた温かい微笑みを浮かべた。
「では、差し支えなければ、一通り食べさせてもらえるかな。もちろん、お代は支払うよ」
そこでまた押し問答した後、槌間は割引価格と引き換えに、完成品を3種類制覇したのだった。
「うん。どれも工夫して、よくできている。ジャムはもっと甘く煮詰めてもいいと思うな。次回からね」
星華が、今から作り直そうとする勢いなのを見取り、槌間は付け加えた。
「あの、槌間先輩。阿久田さんとお二人並んだ写真を撮らせてもらってもよろしいですか」
試食と品評の間に開店準備を済ませた妃美香は、2人のやりとりを見るうちに、ふと思いついて訊いた。手持ち無沙汰だったのである。
槌間は快諾した。星華は白目を剥きそうなのを、懸命に耐えている。
妃美香は星華のタブレットを借り、2人のツーショット写真を撮った。写真を送るという名目で、星華と槌間に連絡先も交換させる。
「ありがとう、白飼さん。もう一生の恩に着るよ」
槌間が帰った後、星華はへたり込んで涙を流した。その胸には、先ほど撮影した写真が早速壁紙とスクリーンセーバーに設定されていた。
ツーショットというよりも、カカオを間に挟んだスリーショットに見えた。
そうして帰宅が遅くなり、短い睡眠時間の後、今朝は早起きして校門前に店を構えた。余剰生産分を、店頭販売するのだ。
綾小路弥生のビターチョコも、聖乙羽のホワイトチョコも、飛ぶように売れた。
「いらっしゃい、いらっしゃい。体育委員長綾小路様監修のブラックチョコと、厚生委員長聖様監修のホワイトチョコ、本日限定発売だよ」
最初のうちこそ呼び込みをしたが、すぐに黙っていても売れるようになった。というより、接客に忙しくて声を出す暇もなかった。
義理チョコと銘打って、しかも結構な値段なのに売れるのは、もちろん彼女たちの知名度もあるけれども、チョコレートをたくさん持ちたい男子生徒の気持ちにつけ込んだからであろう。
もらった数で賭けまで行われていると聞いていた妃美香は、ここで買った分も個数に入るのだろうか、と売る側ながら醒めた心地になった。
意外にも妃美香の義理チョコも売れた。先輩方2人に比べて、1箱当たりの値段が安かったからだろう。実はチョコ1個当たりの単価は高いのだが。
用意したチョコレートは、3種類全部完売した。あっという間だった。授業に遅刻の心配もない。
「あー。やり切ったわ。白飼さん、色々協力ありがとう。後でお給料渡すからね」
星華は満足そうに伸びをした。ストラップに引っ張られ、飛び出たパスケースにも、昨日の写真が入っていた。
「こちらこそ。本命チョコ作るのを、手伝ってくれてありがとう」
妃美香が本命チョコを作るに当たり、星華は工房の道具や余った材料を提供し、完成するまで付き添ってアドバイスをくれたのである。槌間とのことへの返礼である。
「大した手間じゃなし、いいってことよ。そういえば委員長さん、来なかったわね。てっきり買い占めると思っていたのに。ま、完売したからいいけど」
「委員長?」
星華が妃美香の顔をまじまじと見た。
「あなた、もしかして鈍いって言われない? そういえば本命チョコの数」
そこで予鈴が鳴ったので、話は途切れた。
昼休みには、校舎の一角へ親衛隊に集まってもらい、用意した義理チョコを各人に手渡した。
この親衛隊というのも妃美香の知らぬ間にできていて、しかも隊長が鹿島彰という、彼女にとっては不本意にして意義を見出せない代物である。
彰によれば、妃美香を慕う生徒が増えてきて、組織化した方が扱いやすいと考えて作ったそうな。
「たとえばストーカーとかになったら厄介だし、他の女子に対しても有効な牽制になるからね」
と説明してくれた。ストーカーを見張る意味はわかったが、他の女子に対する何とかは、よくわからなかった。女子生徒から特に何かされた覚えはない。
親衛隊のために妃美香が活動したのは、これが初めてである。普段は隊員が何をしているのか、そもそも誰が隊員なのかも把握していない。
今回1人1人と向き合って、同学年だけでなく、2年生や3年生までいたことに驚いた。全部で100人近くいたのだ。これでも全員ではないらしい。
妃美香よりも彰に対する親衛隊も混じっているのではないか、とあらぬことを考えてしまった。
実情はわからないが、彼らは礼儀正しく、嬉しそうに妃美香の義理チョコを受け取った。
希望者全員へ渡し終えた頃には、ほぼ昼休みが終わりだった。
辺りにはチョコレートの甘い匂いがただよい、校舎の壁に、朝にはなかった茶色い染みが、いくつもついていた。
妃美香は次の時間を空けていたが、付き添っていた隊長の彰は昼食をどうするのだろう。
「私に付き合って、お昼ご飯食べ損ねちゃったね」
「僕は何とかなるから心配ないよ。白飼さんこそ、疲れたでしょう」
「私も平気。あ、そうだ。これ、どうぞ。いつもお世話になっているから」
昨夜作った本命チョコを差し出すと、彰は一瞬青ざめた。すぐに笑みを浮かべたが、その頬はこわばっている。
「あ、ありがとう」
「もしかして、甘い物苦手だった? 誰か他の人に食べてもらってもいいんだよ。というか、まだ食べちゃだめだからね。さっき、黒松さんがカバンに本命チョコ入れているの見ちゃったんだ。きっと鹿島くんにあげる分だと思う……本当に、大丈夫?」
妃美香に覗き込まれて、彰は立ち直った。まだ顔に赤みが残っている。わずかの間に血の気が下がったり上がったりしたせいで、貧血っぽくなったらしい。
「う、うん。大丈夫ありがとう……棟方さんに殺されるかと思った……そうしたら、白飼さんは、他にも本命チョコをあげる予定なんだね」
途中のごく小さな呟きは、妃美香には聞き取れない。
「そうよ。日頃お世話になっている人たちに、放課後渡そうと思っているの。それなら、一番に食べられる心配もないでしょ」
「放課後」
彰は思わず時計を見た。放課後までまだ数時間あった。
「気の毒に」
「え?」
「いや。風紀委員会の人に渡すんだよね?」
「ええ、そうよ」
妃美香の返事を聞いて、ようやく彰は心を落ち着けた。
そして放課後に至る。妃美香は1人であった。生徒会館へ行こうと歩き出すと、後ろから黒松汀が追いついてきた。
「白飼さん」
「あら、黒松さん」
妃美香は立ち止まった。
「何か」
汀は少しためらってから、思いきったように口を開いた。
「あの、鹿島彰様にチョコレートを差し上げてくださって、有難う。でも、どうして食べさせなかったの?」
返答に困る質問をされる。全部ぶちまけたいところだが、星華に鈍いと言われた妃美香でも、やっていけないことだ、と理解はしていた。
「えーっと。鹿島くんは、いいお友達って感じで。何というか……他に好きな人がいるみたいだし」
妃美香なりに遠回しに言うと、汀は仰天した。
「ええっ。彰様の好きな人は、白飼さんじゃないの!?」
「そうみたいよ」
妃美香は肩をすくめた。汀は青くなり、わなわな震え出した。
「じゃあ、彰様の意中の人って一体……」
「それより、黒松さん」
妃美香が彼女の言葉をさえぎった。
「さっきから聞いていると、鹿島くんを様付けで呼んでいるけど、何かいわくでもあるの?」
「そ、それは」
「ちょっと事情があってね。彼女の感性なんだよ。深く追求しないでくれるとありがたいな」
彰が現れた。妃美香は彼にちろりと妙な流し目をくれた。彰がうっすら紅潮し、汀が戸惑う。
「白飼さん?」
「鹿島くん、いいところへ来てくれたわ。黒松さんが、話があるって。私は急ぎの用事があるから、これで失礼するわ。またね」
妃美香は、呼び止められないうちに、さっさと退散した。




