4 チョコレート戦争開幕
授業中のチョコレートの受渡しは、ご法度である。
史宣は、前方の席でぐったりしていた。今朝は早起きし損ねて、通用門から密かに入ろうとしたのだが、同じ2年の女子生徒に待ち伏せを喰らってしまった。
一歩踏み込んだ途端に、口内へチョコレートを押し込まれそうになり、必死の思いで逃れてきたのである。現在、史宣のチョコ保有個数は、本命も義理も共にゼロである。
この日に多くのチョコレートを受け取ることが、男子生徒同士の間で互いの力量を測る目安となっていた。去年は史宣も、多くのチョコレートを贈られたものである。ただ今年は、数を競う気になれない。
史宣は妃美香のチョコレートが欲しかった。彼女から貰えるものなら、義理チョコでもいい。他はいらない。
彼女に対する気持ちは、只の庇護欲とは違う。もう自分を誤魔化すことはできなかった。
だが、妃美香がそもそも史宣にチョコレートをくれるつもりがあるのかすら、不明であった。2月に入ってから、風紀委員会室へも姿を見せない。
同じ風紀委員の戸隠光一郎は、巡回中にちゃっかり逢瀬を楽しんでいるし、鹿島彰理事長はクラスメートにして親衛隊隊長の地位を利用して、しょっちゅう一緒にいるようだ。そういえば彼は妃美香と同じ図書委員でもあった。
風紀委員長である史宣は書類仕事も多く、裏の生徒会としての仕事も抱え、しかも学年が違うため接点がまるでない。
彼らに比べれば、最初から不利な立ち位置だった。
生徒会長からは、妃美香が手作りチョコレートの事業をクラスメートと立ち上げた、と聞いている。つまりは彼女が作ったチョコレートが売られる訳だ。
いっそのこと、全部買い占めてやれば良かった。
“Mr.Munakata,”
“Yes?”
急に自分の名前が呼ばれ、史宣はぎょっとして立ち上がった。
"Please read, then translate into Japanese."
読んで和訳しなさい、とのことである。自分の考えに耽っていた史宣は、教科書を追っていなかった。
わかりません、と答えれば、次の生徒に回る。この授業の担当教師は、そういうタイプだった。だが、彼はA級特待生である。逃げるわけにはいかなかった。
”Excuse me,"
史宣はほっと一息ついた。どこから始めるのか聞いたときに、咎められなくて幸いだった。授業は続く。暫くして時計を見ると、終了時刻が近かった。
休み時間中はチョコレートの受渡しが認められる。史宣は気を引き締めた。早くも、教室の後ろの方から落ち着きが失われつつあった。
狙われるのは史宣ばかりではない。教師もまた、生徒の様子に緊張し始めていた。彼は若くて独身で見目もよく親身なため、普段から女子生徒に人気があった。
チャイムが鳴るのと、教師が授業の終了を告げるのとは同時だった。
教室は一瞬静まり、教師と史宣が身体を動かすのと、2人にチョコレートが投げつけられるのとは、殆ど同時であった。
チョコの後から女子生徒たちが押し寄せてきた。
ともすれば口の中へ押し込まれそうになるチョコをかわしながら、次の教室へ移動するのは容易でない。
史宣は教師を盾にした。今日ばかりは体面も何もない。教師もまた、生徒を盾に逃れようとする。
次の教室へは、一旦校舎を出なければならない。盾にする教師と移動する方向が一致した。2人は揃って窓を乗り越えようとした。教師が僅か先行する。と、彼らの前にアフリカの極彩色のお面が飛び出した。
「うぎゃっ」
まともにお面とぶつかった教師は、仰向けに教室の中へ倒れた。すかさず女子生徒が背後を支える。史宣は方向転換して、その脇をすり抜けた。
教師を女子生徒が取り囲んだ。手に手にチョコレートを持っている。包装紙が剥かれ、口へ押し込むばかりだ。
「あたしよっ」
「だめよ、私が先」
「きゃー」
「ちょっと、邪魔しないでよ」
言い争うのを尻目に、史宣は廊下へ出た。揉めるより先にチョコレートを齧らせれば良いのである。
無事に校舎を抜けた史宣の背後から、モーター音が聞こえてきた。路面電車でもバイクでもない。
振り向いた史宣は息を呑んだ。
円筒型のタンクにキャタピラを付けた物体がこちらへ突進しつつあった。タンクには太口のホースがついており、その先端をタンクの頂上にまたがる女子生徒が抱えていた。3年生である。
「棟方委員長さまぁ~! わたしの気持ち、受け取ってくださぁい!」
史宣は口を引き結んで逃げた。走りながら、ビニール合羽を取り出し、着込んだ。ドドドッという音がした。周囲からどよめきが起こった。背中にペタタッと何かが撥ねた。史宣はひたすら走った。
チョコレートの匂いが辺りを漂っていた。モーター音はどんどん近づいてくる。
授業棟にようやくたどり着き、窓枠に飛び乗った。
後ろ手に窓を閉め、鍵をかけるついでに振り返ると、辺り一面チョコレート色に染まっていた。チョコレートの海の中を、タンクはずんずん進んでくる。
史宣は慌てて教室へ向かった。合羽は途中でくずかごを見つけ、脱ぎ捨てた。
始業チャイムが鳴ると同時に、史宣は教室の中へ滑り込んだ。途端にチョコレートが飛んできて、彼の頭に当って跳ね返った。
「せ、先生」
美貌で聞こえた独身の女教師は、嫣然と微笑んだ。
「おほほ。残念でしたわ、棟方くん。でも、他の男の子たちにはみんな食べさせちゃったから、まあ今ので許してあげることよ」
「ありがとうございます」
「では、皆さん。授業を始めます。今回は、有機化合物の分類のお話をします。プリントを配ります」
史宣は席についた。授業が始まってしまえば安全だ。
暫しの休息である。
昼休み。琉緯は朝から走り回っていた。この時期、3年生はほぼ授業が終了し、大学入試の2次試験の準備に追われている筈だが、この日だけは皆登校した。
受験の合間の息抜きみたいなものである。
琉緯は生徒会長の職務で、しばしば登校していたが、今日に限っては、仕事を諦めていた。
追われる身であった。おまけに判定員も務めている。
判定員とは、チョコレートの受け渡しに問題が発生した時の審判である。判定する間は、チョコ受け取りを免れる。成り手は既婚教職員がほとんどであった。
琉緯に本命チョコレートを渡そうと試みる女子生徒は、圧倒的に1年生である。婚約者の存在など、事情を知らないからであろう。学内情報に詳しい2、3年生になってもなお、琉緯をターゲットに選ぶ生徒もいる。
彼女らのチョコレート受け取り攻撃は、準備に1年かけると噂されるほど大掛かりで、かわす側の苦労も倍増する。
昼時になって、琉緯は生徒食堂へ様子を見に行ってみた。
食堂は、多くの生徒で賑わっていた。
既に騒ぎが持ち上がっているとみえて、奥から歓声や悲鳴が聞こえてきた。琉緯は入り口でメニューの見本棚を確認する。
カレー風チョコレートライス200円、バレンタイン定食380円、チョコレート定食350円。
初めて目にする献立に、大抵の1年生は茫然とたたずむ。我に返って引き返すには既に遅く、後ろから押し寄せる生徒によって、券売機の前へ押し出される。流れで食券を買って中へ入り、無事に食べることができれば、意外と美味しいことに安堵するのであった。
琉緯は券を買わずに中へ入った。
カウンターの前、メニュー別に列ができている。並ぶのは男子生徒ばかりである。
女子生徒は、食卓の方で待ち構えている。あるいはカウンター口で。
男子生徒が料理を受け取ると、女の子たちが寄ってきて、持参したチョコレートと交換、あるいは受け取りだけでもお願いする。半数は、微妙なネーミングと見た目の昼食代わりに喜んで交換に応じる。残りの大勢は、貰えるものは全部貰う。全部断る男子生徒は少数である。
問題は、貰うだけもらった生徒が食べる最初のチョコレートである。
無理矢理口へ突っ込まれた場合は諦めがつくが、比較的平和裏にチョコレートの受渡しが行われると、特に慣れない1年生は、判断に迷う。
チョコレートと女の子の顔を見比べたりして、意を決して食べた物が義理チョコだったりする。緊張で包装紙の見分けがつかないのだ。渡した当人は既にその場を去っている。
たちまちのうちに、その男子生徒は豆まきよろしくチョコを投げつけられる。その合間にも、彼女たちは自分の本命チョコを彼に食べさせようと試みる。
混戦状態で、誰のチョコレートを最初に食べたのか、わからない時が、判定員の出番である。
折りしも、口にチョコレートを詰まらせた男子生徒が助けを呼んでいた。琉緯は足早に彼の傍へ近付いた。
「大丈夫ですか。苦しいでしょうが、暫く口に手をやらないでください」
「ふがふが」
女子生徒たちは、判定員の腕章を認め、動きを止めた。琉緯は手袋をはめると、男子生徒の口に詰まったチョコレートの包みを順に取り出していった。
一番奥に詰まっていたチョコレートを取り除くと、男子生徒は顔を赤くしながら顎をがくがくさせた。琉緯は、彼にそのチョコレートを見せて尋ねた。
「君は、このチョコレートが誰の物か、判別できますか」
彼はその包み紙を見て、ゲッと喉を鳴らした。それから観念したように頷き、近くにいた女子生徒の一人を指差した。彼女は同じチョコレートを両手一杯握っていた。琉緯は彼女に向かってにっこり笑いかけた。
「おめでとう。あなたが彼とのデート権を獲得しました」
ところが、その女子生徒は、ポッと頬を染め、琉緯を見つめた。彼女の唇が開きかけたとき、周囲の女子生徒たちが騒ぎ始めた。
「ちょっと、この方ってば、生徒会長の神代琉緯様じゃないの」
「そう言えば、あんな美しいお顔は他では見かけないわ」
「この幸運を逃すまじ」
キャーッ!!
女子生徒の嬌声が上がると共に、チョコレートがばらばらと琉偉に降りかかる。しかし、彼の動きの方が速かった。
琉緯は常人には信じ難い跳躍力で彼女らの上を飛び越えると、そのまま食堂を去った。残された女子生徒たちは後を追おうと、出口へ詰めかけた。食事に来た新たな男子生徒たちとかちあい、新たな駆け引きが始まった。
琉緯は、歩きながらサンドウィッチをつまむ。婚約者の深蘭が持たせたものだ。チョコレートは入っていない。
「信頼されているな」
琉緯は独り微笑んだ。




