前田利常
「あの者、また一風変わった布教をしているとのです」
横山 康玄は険しい顔つきで平伏している。
「…ほう。」
抜いた鼻毛を眺める男。きちんと座ることも無く、だらしない格好である。
部屋には光が差し込み、ふっと吹いた鼻毛がその木漏れ日の中でゆらゆらと揺れ落ちた。
「殿。」
康玄の顔つきが一層険しくなった。最近この顔しか見ていない。
「お言葉ですが、殿が一体何を画策しておられるのかがわかりませぬ。権現様が幕府を開いて30年、前代未聞の事ですぞ。」
3間(約5.5m)離れていても眉間のしわがなお一層深くなったことが伺える。こやつ、いつも怒っておる。男はそう思った。
「…何も画策などしておらぬわ。その伴天連爺を呼んで来い。」
そう言うと男は立ち上がった。
「この様な時にあの者を呼んでどうすると言うのです。緊急で評定を開き、なされなければならぬことが山ほどあるではありませぬか。」
「わかったわかった。お前はほんにうるさいのぅ。その前にバテレン爺じゃ。あの者と話してから決める。」
「緊急を要する前に、あの得体のしれぬ老いぼれの戯言を優先するのですか。」
今にも切りかからんとするような表情である。恐ろしい家来を持ったものだ。
「優先ではない。すべきことをする為じゃ。いいから早よう呼べ。おぬしのその面は今は見とうない。」
「くっ…!」
国を想っての事、前田家の事を慮っての事。そうはわかっていてもこの表情の康玄とは話したくない前田利常であった。
1631年(寛永8年)、前田家は大窮地に立っていた。
2代将軍徳川秀忠が病床に就いている際、利常は旧臣所領の加増、無断で城の補修、船舶を購入したりと幕府に対しての謀反嫌疑がかけられていた。
実際の所、謀反は起こすつもりは毛頭ない。天下の幕府に謀反を企てる大馬鹿は誰もいない。
しかし、利常は謀反を起こすつもりは無くとも、謀反を起こさないつもりも無かった。
前田家は加賀百万石を領し、どの大名よりも力がある。唯一幕府に歯向かえるだけの所領も資金も潤沢にある。
だからこそ、些細な行動1つで嫌疑がかけられる。些細な行動が仇となり、揚げ足を取られて最悪改易されてしまう。
「…これが徳川のやり方よ…」
利常は大きなあくびを一つして部屋を後にした。