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純文学

レタス懐妊

作者: アンリ

 お腹に宿った新たな命は、レタスだった。


 妊婦検診のエコーで白黒の画面に映ったちっちゃな球体は、私には最初なにか分からなかった。人間なのか、くるみなのか。ハムスターなのか、饅頭なのか。


 しかし専門家である医師にはお見通しだった。小学四年生の算数を小学六年生が解くくらいには簡単だったようだ。ぬるい透明なジェルを私のまだ平べったいお腹に塗りつけ、その上をプローブを何度か往復させ、時には一か所を集中的に観察し、ぐいぐいと力を込め。そして淡々と告げたのだ。「おめでとうございます。レタスです」と。


「レタスですか」

「はい。レタスです」

「キャベツではなく?」

「レタスです。玉レタスです」


 家に帰り、妹に懐妊を打ち明けたところ、妹は「そんなのどっちだっていいじゃん」と私の揺らめく心境を切り捨てた。


 その「どっちだっていいじゃん」の意味は「レタスでもキャベツでもいいじゃん」なのか、それとも「妊娠そのものが尊いことなのだから何を身ごもろうがいいじゃん」なのか、私には量りかねた。だから口をつぐんだ。



 *



 つわりはほとんどなかった。野菜を身ごもるとつわりが軽いというのは本当なのだなと思いつつ、これまでのように会社で働き続けた。ただしストッキングを履くのはやめた。靴下も履かない。生足に膝上のスカート、上半身は薄手のシャツ一枚で過ごした。春とはいえこれでは寒い。だがレタスは冷えた環境を好むので仕方ない。これは医者の指示だ。まだ母性はわかないが、そうしなければレタスは育たないのだと脅されたら従うほかない。


 お腹は一か月もすると丸みを帯びてきた。


「だいぶ大きくなってきたけどご懐妊かしら」


 外見上の変化に、同じフロアの佐々木さんから何気ない素振りで質問された。


「はい。出産、というか収穫ですけど」

「収穫ってことは」

「レタスです。玉レタスです」

「あら。おめでとう」


 たとえ本心ではないとしても、実の妹と違ってまず祝福をしてくれた佐々木さんはいい人だなと思った。


「だからそんなに薄着なのね」

「そうなんです」

「そっかあ。私はキウイフルーツだったから、いつも体を温めていなくちゃいけなくて汗ばっかりかいていたわ。しかも妊娠中、子宮の中がちくちくして困ったのなんの。レタスなら痛くないし軽いし、いいことづくめよね」


 こんなに羨ましがられた経験はそうそうなく、私は嬉しくなった。


「急に動くとお腹の中で葉っぱがさわさわと揺れる感じがして、それがくすぐったいんですけどね」つい饒舌になる。「それにお腹の中にいつも保冷剤があるみたいな感じがしてなかなか眠れなくて」

「そういうものらしいわよね。いいなあ。私もまた妊娠したくなってきちゃった。こういう特別な経験って、不便なことも多いのに終わってみれば充実してたなって思えるものじゃない?」


 そう言って笑った佐々木さんの頬はキウイのような硬い皮膚をしている。表面にはちくちくとしたものがびっしりと生えている。


 今の佐々木さんの頬に手を添える人はいるのだろうか。そしてキスをする人はいるのだろうか。そんなことをふと思った。しかし、そんなものがなくても佐々木さんは幸せそうだった。今も昔も。いつだって。また妊娠する必要などないくらいに。



 *



 六月下旬、私は玉のごとき玉レタスを生んだ。


 瞬間的にありえないほど広がった器官を通じて産み落としたレタスは、ひんやりとした羊水に濡れていて、きらきらとした滴をまとう姿は早朝の高原で収穫されたばかりのレタスのようだった。ふんわりとした葉は幾重にも巻かれ、口に入れなくても瑞々しさとシャキシャキ感は容易に想像がついた。


 助産師は生まれたてのレタスを清潔な水で洗い、続けて手慣れた様子でサイズを確認した。


「いいわねえ。すごく立派なレタスだわ」


 出産から一時間もすると、私は自力で歩いてベッドに戻ることをゆるされた。野菜を産むと産褥が軽いというのは本当だった。悪露もない。胎盤を使わない出産だから心身ともにとても楽だ。つい先ほどまで膨らんでいた腹がたるんでいることだけが、私が妊婦であったことの証だった。


 ワンピース型のパジャマから服に着替えると、看護師が私の産んだ玉レタスを籠に入れて持ってきてくれた。籠の取っ手には白いリボンが結んであった。


「費用の精算は一階でお願いします」


 カウンターで告げられた支払いは一万円でもお釣りがくるくらいの額だった。レタス一玉にしては高いが、出産にしては随分安い。


 支払いを終えたところで既知の人物が歩いている姿を目撃した。白衣を着ているがあれはイルカだ。


 イルカはれっきとした人間だ。泳ぐ姿がイルカのようだから、イルカ。そう呼んでいる。サーフィン仲間で、彼とは鎌倉で知り合った。


 何を考えているのか人に読ませない、悪く言えばうすぼんやりとしたイルカの目が私をとらえた。するとイルカは何とも言えない表情になった。久しぶりの再会に喜んでいるわけでもないが、うっとおしいと思うほどの嫌悪感でもない。でもおそらく私も同じ顔をしている。


「久しぶり。お医者さんだったのね」


 ひとまず無難なことを言っておく。


「あれ。言ってなかったかな」


 飄々と言ってのけるイルカはいまだ何を考えているのか分からない。その表情には罪悪感どころか懐かしさや親しみといった感情すら認められなかった。


「最近見かけないと思ったらどこか調子が悪いのか」


 これに無言で籠を持ち上げてみせると、イルカが得心した顔になった。


「ああ。なるほど」


 彼のこういう分かりやすいところが私は好きだった。そして嫌いだった。


「ふうん。レタスか。なら俺の子供じゃないな」


 イルカの体は耳の穴から足の爪の間まで熟知している。丹念に触り、なで、舐め、ひっかき、飽きることなく見つめてきた。浅黒い体のどこにもレタスの葉はついていなかった。後頭部、つむじの右隣にひっそりと生えるちっちゃなしめじを一本見つけたことがあるが、指摘したらイルカは忌々し気にそのしめじを抜いてしまった。「俺にはこんなものは似合わない」と。抜かれたしめじは弱々しくて、いたいけで。だからイルカがシャワーを浴びに行った隙にぱくりと食べてやった。このまま部屋の片隅で縮んでいくなんてかわいそうすぎて。


「でもさあ。俺達の仲間にレタスがついているやつなんていたかな」

「さあ?」


 正直に答える必要はない。


「今日さ、久しぶりにお前のうちに行ってもいいか」


 イルカは両手を白衣のポケットに突っ込むと私に無遠慮に近づいてきた。


「なあ。たまにはいいだろ?」

「ごめんなさい。今日はこの子と一緒に過ごしたいの」

「えっ。まさかレタス相手に母性が沸いたの? レタスなのに?」


 ぷっと吹き出したイルカの態度も表情も、不愉快を通り越して吐き気がするほど醜く思えた。


「ごめんなさい」


 泳ぐ姿や顔の造形が美しいこととその心根が美しいことは等号で結びつけてはいけないのだ。レタスを産むことで得られたこの気づきは生涯忘れることはないだろう。



 *



 急いで帰った自宅は空気がこもって蒸し暑かった。これ以上レタスがしなびてしまわないよう、我が子の芯につまようじを三本刺して冷蔵庫の野菜入れに格納する。


 それから窓を全開にして換気しつつ、私はベッドに寝ころんだ。操作するスマホで起動したのはクッキングアプリ。さて、あのレタスをどうやって食べようか。


 無難なのがサラダだ。無難であり間違いない。変化球ならば、レタスチャーハン。ああでも、熱で縮んでしまうから大量にレタスを消費してしまう。それはもったいない。せっかくだから多種多様なレシピでじっくりと味わいたい。そうなるとレタススープも却下か。かといってあんまり凝った料理にしたくもない。産後のせいか体も頭もなんとなくぼんやりしている。今ここにいる自分も、あれこれ考えている脳も、ややずれた座標軸から操作しているような違和感がある。


「随分留守にしてたな」


 レタスをどうやって食べるか、そのことばかりを考えていたらトンビがやってきた。眼鏡のつるを神経質そうに何度も触る様子はいら立ちを抑えきれない時の彼の癖だ。


「イルカがお前に会ったって言ってた」


 合鍵を使って勝手に入ってきたトンビは、当然のように私のそばに胡坐をかいて座った。サーフィン仲間であるイルカに勝手に敵対心を持っている彼は、イルカが手を付けた女に手を出さずにはいられない悪癖がある。ただ、その悪癖がなければ私が彼を手に入れることはなかった。


「お前が産んだレタス、どうした?」

「もう食べた」

「嘘つけ。どこだ。すぐに出せ」

「もう食べたって言ったでしょ」

「冷蔵庫か?」

 

 言いながらも冷蔵庫を開けたトンビは、さっそくレタスを発見しその目を奇妙に輝かせた。


「ふざけやがって」


 トンビがレタスを憎々し気に掴み出す。そして大きく腕を振りかぶった。レタスをフローリングに叩きつけようとしているのだ。その瞬間、私はトンビからレタスを奪った。さながらラグビーボールのように。


「やめて」

「どうしてこんなものを産んだんだ。妊娠くらいコントロールできたはずだろう?」


 そう、今は女性に望まない妊娠を強いる時代ではない。性行為をする双方が望んだ時のみ人間をみごもり、双方ともに望まなければ『何も』みごもることはない。そういう時代だ。


 ただし何事も白と黒、ゼロとイチで感情を区分できるわけもなく。そのような時、時折人間ではないものを身ごもることがある。


 今、世の中には純粋な人間はほぼ皆無となっている。体のどこかに非人間的なものがついているのが当たり前となっている。入れ墨のように、ピアスのように。


 イルカがつむじの近くにちっちゃなしめじを生やしているのも、そう。トンビの右目、虹彩にちっちゃなレタスが閉じ込められているのも、そう。隠そうと思えば隠せるけれど、隠さないと決めれば容易に見つけられる。そんな場所に野菜が生えている人間は、愛に飢え、自己愛が強く、プライドが高い。私のこの見解がはずれたことは一度もない。


「……どうして俺にレタスを思い出させるんだ」


 そして途方もなく泣き虫だ。


「……俺はレタスなんて好きじゃないんだ。お前はそれを分かってくれていたじゃないか。なのにどうして」

「分かってるわ」


 涙するトンビにそっと腕を回す。


「だけど私はレタスが好きなの。あなたと同じくらいに」

「俺は……レタスは嫌いだ……」


 トンビがさめざめと泣きだした。そして同じ言葉を繰り返す。レタスは嫌いだ、と。それに私も同じ言葉を繰り返す。レタスが好きなの、と。あなたが好きなの、と。


 初めてトンビと出会った日。サーフボード片手にうつむいていた彼が顔を上げた瞬間、私は彼の瞳にレタスを見つけ、愛を見つけた。トンビは本能的に私と距離をおこうとしたが、私はこの愛を必ずや手に入れると決めたのだった。



 *



 深夜。全裸のトンビは私のシングルベッドでこんこんと眠っている。泣きすぎたせいもあるし、私を求め過ぎたせいだ。彼は情緒を回復するために私をよく利用する。でもそれでいいと思っている。


 ベッドからそっと抜け出した私は冷蔵庫からよく冷えたレタスを取り出した。暗い室内でレタス一つがうっすらと輝いていて、そのことに私は神秘を感じた。


 背徳感を抱きつつも静かにレタスを一枚むく。流水で軽く洗い、そのまま口に含む。


「……ああ」


 自然とため息が出た。こんなにもおいしいレタスは初めてだ。ぱりぱり。ぱりぱり。生まれたてのレタスがこうもおいしいだなんて、どのくらいの人が知っているのだろう。これを食べるために私は生きてきたのかもしれない。ううん、きっとそうだ。


 きゅうきゅうとレタスが泣いている声が聞こえたような気がした。


「また産んであげるからね」


 そっとレタスを胸に抱く。レタスが乳を飲めないことを残念に思いながら、ひんやりとした曲線を何度も何度もなでてやる。


「また産んであげるから。約束よ」


 なでる手でもう一枚レタスをむく。そして私は大きく口を開けた。その舌の先にレタスの新芽が芽吹いていることにも気づかずに。



挿絵(By みてみん)

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[良い点] りすこさんからのご紹介で見に来ました! いや、まさに純文学ってこういうのだなって思いました。芸術ってやつ? すごいですね。なろうの純文学は、ヒューマンドラマとかコメディとかいろんなもの混…
[一言] とても素敵な物語でした。 しんしんと静かに語られるのに、情熱的。 身籠る。喰べる。同化する。 妊娠中の赤子と母親との一体感は、産まれた瞬間にほどけてしまう。けれどこれなら又同じものになれる。…
[一言] すごいですね……レタスを生むという一見シュールな話なのに、主人公からは深い愛情を感じます。 そして最後には食べちゃうと言う……。
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