3.福音2
今さらこんなクソみたいな世の中に未練なんぞあるわけがない。
そうすると次に求めたものは肉体の死だった。
そうして、暮らしていたワンルームのアパートで、昼日中、自分の手首に包丁をあてがってはみたが、そう簡単に決心のつくものではなかった。
結局包丁はもとの場所へ戻し、酒を飲んで、テレビを観て、携帯を弄り、無為な日々を過ごした。
人間に備わっている強力な生存本能のせいで死ぬこともままならない。そして、生きている以上、幸せになりたいと願わずにはいられない。
そうして彼は涙を流しながら、自分で自分を哀れんだ。
それでも、そろそろ生きるか死ぬか決めないとなぁと思いながら、夜遅くに街を徘徊していた時のことだった。
見知らぬ人物に声を掛けられた。何かの勧誘かと思ったが、どうやら違うらしい。
「あなた死にたいんでしょ?」
スーツ姿の男が言った。
「どうしてわかるんです?」
たいして何も考えずに聞いた。格好だけ見た限りでは、変なやからにも見えなかった。至極まともな人間に見えた。それがかえって怪しかった。
「見てればわかりますよ。目が死んでいますから」
男はそう答えた。
「あぁ、そりゃそうですよね。」
そう返事をした。
「実は、今あなたみたいな人を対象にこういうものを配ってまわっているんですよ」
そう言って男はスーツケースの中から手のひらサイズの小箱を取り出した。そして、耳元に顔を近付けこう言った。
「これは安楽死用の注射薬なんです」
「何でそんなものを?」
「いえ、なに、動物用の物が横流しされているんですよ。かなりの需要がありますので」
「そうでしょうね。欲しがる人はいくらでもいそうだ」
治弥は素直にそう思った。
「そう、そうなんですよ。それであなたをお見掛けして、どうやらこれが必要なのではないかと思いまして」
男は少し焦っているように見えた。他人の目を気にしているというよりは、時間に追われているような。
治弥は考えた。死を望んでいたところに、安楽死の薬。これは天の計らいか。そう思った。断る理由はなかった。
「いくらなんです?どうやら、結構高そうですけど」
「いえ、そこはこれから死に行く人への餞別として1つ三万円でお譲りしているんです」
「そうですか。じゃあ1つください。」
「ありがとうございます。あぁ、只今特別にもう1つお付けしているんですよ。もちろんお値段は据え置きです。」
そう言って男はスーツケースの中からもう1つ同じ小箱を取り出した。
「これから死ぬのに1つで十分ですよ。」
「まぁ、そう言わずに貰えるものはもらっておいた方が賢明ですよ。」
まぁ、その通りかもな。もうどうでもいい。
3万円を取り出し男の持つ小箱2つと交換した。
「世界が変わることを願っていますよ」
男は別れ際、そう声をかけた。