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新・三国志   作者: 明日ハレル
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第1章 淮南・呉攻略編 その3

救援が無い広陵城は脆くも陥落した。城主の袁胤が無能で軍の士気が上がらず、代わった里仁もよく戦ったが、やはり、宋王軍は強かった。


軍師沮授の采配も優れていたし、配下の関羽、張飛、趙令、馬篭、黄信らの勇将が数多くいたので袁術軍では勝てない陣容だった。

第1章 淮南・呉攻略編 その3


2月12日

3日間激闘に疲れた広陵城の捕虜となった兵たちは昼頃まで良く眠ってっていた。


しかし、良い匂いに皆目が覚め空腹状態なことを思い出し皆テントを出る。


そこには5千名近い給食調理部隊が15万人分の昼食を作っている壮観な現場だ。


100人分はある大きな鍋が魔石のコンロでグツグツ煮込まれ、ローラで馬車に移されそれぞれぞれの駐屯先へ運ばれていく。数百の馬車が大なべを4個搭載して走っていく。


捕虜たちも早く起きた者が昼食を貰う為列を作っていた。


捕虜もケガの重傷な者5千名は別の看護部隊の陣地に居る。


此処には戦死した千名を除く5万名が集まっていた。


流石に捕虜のかなり広いエリアは柵が作られ警備の兵士が5千名程配置されている。


其処にも数両の馬車で煮上がった大鍋が数十個運ばれ、


先に来た者から食事に有り付いていた。


陣地には保温用のコンロも配備され冷めない様に加温される。


このスペースにも給食班千名がいて4万名余りに次々と配食していく。


関羽が里仁に聞いた話だと寿春の首脳部は広陵に援軍や追加の糧食を送ることも拒否し。


里仁らは近隣で調達した分と蓄えられた1か月分の食料を節約しながら食していた。


籠城がいつまで続くか分からず兵士達の食料事情はかなり悪かったらしい。


この給食場では大盛りを願えばこれでもかと言う程に盛り込んでくれた。


兵士達は久々に腹一杯食えるので涙を流して喜んでいた。


原一杯食える程食糧事情が良いと兵士の士気も上がる。


秦王は食料の生産体制を整えていた。


秦王の領地では都市部に人口を集中させこの時代では考えられない長安や洛陽は500万人都市となり、3重の城壁が年を守り外郭部分には広大な農地もあった。


内殻・中殻・外殻とそれぞれが5キロあるので、直径32キロの超巨大都市となり、その内殻の内柄に周囲2キロの王城がある。


洛陽も同じ規模になりその他の都市も地域の住民を強制的に移したので、殆どが10万

~50万の大都市が雍州では登場した。他の地域では多くて5~10万くらいだった。


雍州では郊外に国営の農地が誕生し、魔獣対策で巨大な防衛柵に覆われた農地は外からは見えず、ロボットにより24時間工作が続けられた。


主にハウス栽培が主力で果物や野菜が豊富に生産され近隣の都市の市場を潤した。ハウスは錬金術で石英から疑似水晶が多量に作られハウスに使用された。


その他には小麦、大麦、稗、粟、陸稲、水稲等が品種改良を兼ねて次々と耕作されていった。


この年代に寒さや乾燥に強い品種の開発が行われ、それらが中国を中心に広がっていった。勿論日本でも富士王朝以来ずっと稲作や小麦が研究されていた。










次の目標は袁術軍の本拠地となる寿春城となる。


軍師逢紀率いる豫洲軍20万余が出撃していて、配下には顔良、文醜、高覧、単荊、蒋義挙、文烈、群報らの勇将がいた。

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