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新・三国志   作者: 明日ハレル
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第1章 淮南・呉攻略編 その1

宋王劉備は徐州にあって、河北の劉合の勢力の南下に備えていた。兗州の曹操も臨戦態勢で敵軍に備えていた。



第1章 淮南・呉攻略編 その1


年末より軍師たちと協議していた劉備らは漸く一つの解答を得た。


現在宋王劉備の勢力は南北に敵があり戦略的には不味い状態だ。


弱い淮南から攻めるべきだろう。同盟国の兗州の曹操には頑張ってもらい河北からの攻撃を暫し耐えてもらう。徐州北部に陳宮・張遼、張哈、高順ら率いる5万余の軍が防備のため待機していた。


184年2月初頭

徐州と豫洲、荊州の3州の兵力45万余で淮南の袁術を討つ!が決定された。


徐州南部に広陵攻略部隊15万余が集結していた。関羽、張飛、趙令、馬篭、黄信らが中心となり参軍として連記、南鳴、唐句らが参加していた。


攻略司令官は中軍師沮授である。河北随一といわれた沮授の采配が冴え渡る事になる。


汝南には寿春攻略部隊15万余が集結していた。司令官は劉宏の軍師たる逢紀である。


配下には顔良、文醜、文烈、菊武、高覧らがいた。参軍として荀甚、魏雄、関清らが参加していた。


逢紀も中々の某才溢れる人物で古今東西の戦史に詳しかった。


荊州の桂陽には江南の柴桑を攻めるべく荊州南部の軍15万余が集結していた。


司令官は5軍師たる審配が指揮を執る。


彼も辛らつな発言が多く、敵を作りやすい性格だが、指揮は1流だ。


ただ江南は地形が険しく、攻略が難しい地域で現在の戦力では難しく思われた。


涼王劉星文は秦王とそれらを相談し、援軍として貴下の左将軍林典熊を派遣することになる。


左将軍は洛陽より配下の騎兵3万歩兵4万を率いて出撃していった。


こうして身内ゆえに多少の援軍等は許されていた。


林典熊は熊の如き大男でその青龍刀で匈奴や鮮卑の勇士たちをなで斬りにして来た剛の

者、丁度張飛なら良い勝負が出来そうな将だ。


勿論涼王劉星文の薫陶も有り戦上手で有名な将軍らしい。


此れで江南方面も心配はないと思われた。


袁術側は広陵に5万余、寿春に15万余の戦力があるようだ。


江南でも柴桑に10万余の戦力を集結させていた。


徐州を出撃した沮授の軍はいち早く広陵城に到着して、


城に対する防御陣を構築し、完成後部隊を休ませると共に城攻めの準備に入った。


今回は攻城部隊1万余が同行している。


発石車4台、攻城楼8基、衝車4台が配備されていた。


発石車は巨大な石を飛ばして城壁や城門を破壊する工場武器だ。


攻城楼は高さ約20メートルも有り、城壁より高く作られていて、城壁の上から火矢や石弓を飛ばして城壁に雪崩れ込む攻城兵器だ


衝車は大きな巨木を台車に積んで城門を破壊する攻城兵器だ。


これらが明日活躍する。本日は皆疲れているので、夕食後は見張り以外は早い目に就寝するように命令がくだっていた。






河北の劉合は自身が攻められているわけでも無く、幽州の燕京(現在の北京)似合って各地の情報を集めていた。



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