常住死身 ( 死への想い -1- )
詩は、常に私的であり、死的である。
死に彩られていない小説はないし、死者のないオペラは片手落ちである。死が身近であった過去 (言うまでもなく数量として死の大宗を占めたのは病気、疾患、災害による死、乳幼児の死といったある程度人間の意思とは逕庭のある死だ。残酷ではあるが悲劇ではない) や、ハラキリや戦争が普遍であった時代とは異なり、明らかに死に対する意識が変容している。
もちろん、死はこれまでもこれからも人間に対して平等であり続ける現象である。『誰もが死ぬ』ーこのこと以上に不合理なことがあろうか!? 邪智暴虐な王にも、純粋無垢な乙女にも、同じ結果がもたらされるのだ!
こうした平等性から、死とは誰しもの共通言語となり得る可能性を秘めたものであり、甚だ民主主義的であると言えるものであるが、そうした善に満ちた死であるにもかかわらず、現代では不当な扱いを受けているのが実情である。
薄汚れた水みたいに極度にディルートされた生という絵具で、死の漆黒たる厳粛なキャンバスに何を描くというのだ!?
・・・。
(結論は、マキャベリ的にもそうであるように、直感から常に先取られるものではあるが) 常住死身とはいつも死を思うことであり、それは生へと逆説的に命を吹き込むものである。それは、尽忠、自決へと至る道である。
このことを、反芻的に想起しながら、説を弄していくつもりだ。それは、筋道立った論評や証明の類いではない。なぜなら、モティーフそれ自体が矛盾したものであり、結局は私的なものに過ぎないからだ。観測行為それ自体が観測対象に変化をもたらす典型例といえよう。
メメントモリではない、日本古来の、日本人により大事に育まれてきた死への想いは明らかに死につつある。ふんだんに砂糖を塗り込まれた生は、そりゃあ保存は効くかもしれないが、味もへったくれもあったもんじゃない。
死の舞踏を題材とした絵画に描かれた骸骨と遜色ないほど痩せぼそり、老いさらばえた人間は、果たして生きていると言えるのだろうか?




