雨と海棠
傘を忘れた。
朝、土砂降りを軽快な音に変えて弾く様はあんなにも存在感があったのに。
電車を降り、改札を抜けてからその不在に気付いた。
雨脚の少し和らいだ外は煙雨だ。
あの霧の様に細かい雨では、数歩も進めば整えられたスーツはしっとりと水に浸みて行くだろう。
地面で小さく爆ぜながら、雨が絡み付く様に繁吹く。
湿ったスラックスが、足を進める毎に重くなって行くのを感じる。
下着にまで冷たく浸透して来る雨水が不快だ。
苛立ちと自分を責める感情とが、胃の中に立ち籠める。
どうして忘れるなんて出来たのだろう。
必要がなくなったものに意識を払うのは、恐らく思う以上に難しいことなのだ。
永く残る記憶というものは、ほんの一握りしかない。
多くはこの雨の雫の様に流れ去って行くのだろう。
要らなくなれば、忘れられる。
そう、きっと私だって――
生垣から海棠が覗いていた。
雨曝しになったその姿が、脳裏に焼き付く。
こんな、一目で覚えられるものもあるというのに。
(狡いなぁ……)
雨は当分止みそうもなかった。