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第二章 四

四 不名誉な事件

「やぁ、今日は仔牛を積んであるかね?」

「仔牛ですか。今はイースターが終わったばかりだから、肉が少なくてね。ドンブの沼地の新鮮なカワカマスならそこらじゅうで売っていますが、魚じゃダメなんで?」

「あぁ、ちょっと友人のところに寄るのに手土産がないんだが、四旬節の間は散々魚を食べただろうから土産に魚ってのも何だか芸がないだろう。ドンブの沼地のコイもカワカマスも食べ飽きてしまったよ。それに今荷揚げってことは新鮮なんだろう?塩漬けじゃないのにしてくれ。」

「新鮮な仔牛を買おうなんてお客さん、金持ちだねぇ。とにかく仕入れの数があるんで、ちょっと数を数えますわ。待っておくれやし。」

と船頭が船室の奥の方へ引っ込んだ。

「おやおや、そこにいるのはドレさんじゃないか!」

大声を出しながら船とは反対側の方から寄ってきたのは、弟子らしき人物数人を引き連れた大柄な男だ。

「仔牛の生肉なんて、ずいぶんなご身分だな。その肉の代金で何人の腹が満たせると思ってるんだ。ちょっと前まで仔牛なんてフランスじゃ食べなかったんだぞ。イタリア人が持ってきたもんに嬉しがって飛びつきやがって。」

ドレは自由な思想の持ち主だが、それはすなわち、慣習に凝り固まった人間とは意見が合わないということだ。ドレが印刷の世界に入ったのも、自由で多様な思想が広まってほしいからだ。ドレは聖書のフランス語訳にこだわっていた。しかし、この当時、信仰者というものは忠実な追従者であることが求められた。自分で考えるのではなく、司祭の言うことを従順に聞いてくれればよかったのである。フランス語に訳して自分たちで理解し考えられるようになっては、教会としてはいい迷惑なのだ。つまり、ドレは教会にとって不都合なことをしようとしていて、目の敵にされていた。

「だからフランス語の聖書が必要なんだ。みんな聖書が読めないから聞いたことしか知らない。自分で学ぶこともできない。自分で聖書を読んでみろ。真理が見えてくるはずだ。」

がドレの口癖だった。

「お前が何者かは知らんが、新しいことに目を開いてみろ。自分の知らない世界が見えると、新しい考えが生まれるものだ。」

ドレが大男に諭すように言った。

「ふん、偉そうに。ちょっとラテン語やギリシャ語ができるからってすましやがって。オルレアンだかトゥールーズだか知らねぇが、よそ者がリヨンでのさばるんじゃねぇ!」

この言葉には温厚なドレも頭にきた。彼は人一倍フランスを愛し、リヨンを愛し、この町に感謝していた。そしてまた、このリヨンに繁栄をもたらすイタリア人やドイツ人たちにも敬意を表していた。ドレはリヨンの人間ではない。しかし彼にとって出身地はどうでもよかった。

「おい、お前たちが食っていけているのも、そのよそ者がリヨンを栄えさせてくれているからだと分からないのか。」

「ふざけるんじゃねえ!俺たちのような人間にはルネッサンスも人文主義もルターやカルヴァンの思想もいらねぇんだ。昔からのやり方で、十分とは言えねぇが、食っていけるんだよ。逆に町が大きくなったせいで、周りの村々から汚らしい身なりの奴らが食い扶持を求めてやってくるんだ。俺の知ってるやつもそいつらのせいで仕事場を追い出されてるんだよ!」

実際にリヨンでは一五二九年にグラン・ルベインという大きな市民の反乱がおこったが、それはとりもなおさず人口増加に食糧供給が追い付かず、いらだった市民が金持ちたちの家を荒らし始めたことに起因している。

ドレは、厄介な人間にからまれてしまったものだ、と岸におりたことを多少後悔した。

市民の不満はいつの世も多い。この時代も多くの税金を取られ、市民生活は困窮を極めていた。リヨンが栄えているといっても、市民の暮らしが楽になるわけではない。金持ちがさらに金持ちになるだけなのだ。ドレは民衆の苦しみを知っている。これ以上は言い合わないと決め、

「わかった。私は所用があるんだ。おやじ、仔牛をもらっていくぞ。金はここに置いておく。」

と、びくついて奥に引っ込んだままの船頭に代金を渡した。

「待ちやがれ。俺は前からお前の書き物には頭に来ていたんだ!勝負しやがれ!」

荒くれ頭領は文字が読めた。どうやら知識人のようだ。が、そのような様子はまるでなく、鼻息荒くドレの手にある仔牛を勢いよく奪い取ろうとした。さすがにそれをくれてやるつもりのないドレは、左手で大男を制した。つもりだった。しかしここは河岸で、ドレは不安定な船に片足を預けた状態だった。二人ともバランスを崩したが、ドレは幸いに大男に押されたお蔭で船上に押し倒された。大男の方は、ドレを押し込もうとしたはずみで船が岸から離れてしまったために、船と岸の間から、

バシャーン!

と川に落ちてしまった。数日続いた雨のせいで川の流れが速く、男はみるみる下流へ流されていった。

「親分!」

手下のものたちが追いかけていった。ドレはもはやそんな光景には目もくれず、さっさと岸へ上がり、すたすたとルイーズのところへ向かった。いくら言い争いになったとしても、川に落ちた人間なら助けなければと思いそうなものだが、そのような穏やかな時代ではなかった。この時ドレは、この大男がコンパンという名の画家であることなどつゆ知らなかったが、真冬のこの時期、溺死なのか凍死なのか、いずれにせよ一人の人間をあやめてしまうことになった。


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