第二章 三
三、人文主義・ユマニスム
中世のリヨンは、市場と印刷で栄えたことは既に述べた。ここでいう中世とは、厳密な歴史的区分からいえば正確ではない。西洋では一四五三年、イスタンブール(コンスタンチノープル)陥落をもって中世が終わったと捉えられる。つまり、この物語の舞台は近世初期ということになるが、中世と言った方が雰囲気がでるので中世で通す。
印刷術は思想の伝達に大いに役立った。十六世紀、人文主義・ユマニスムが発展するが、それも印刷屋たちの力なしではどうにもならなかった。印刷屋は、卓越した技術者であり、その中でもグリフのような知識人は思想家でもあった。
ペトラルカが古典への回帰を訴えルネッサンスの発端となり、古代ギリシャやローマの古典から人格形成を唱え、人間のあり方について自由な発想をもたらした人文主義は、のちの宗教改革にまで影響を及ぼし、人文主義の大家エラスムスが産んだ卵をルターがかえしたという有名な言葉が生まれたほど、一五、六世紀の大きな新思想となっていたのが人文主義である。
そのような思想家の中でも、エチエンヌ・ドレは突出した存在だった。才色兼備、とは言い難い風貌だったが、背もすらっと高く、知勇兼備の男だった。
「やぁ、グリフさん、今日もラテン語の校正ですか?」
エチエンヌ・ドレはトマサン通りにあるセバスチャン・グリフの印刷所に顔を出した。グリフのお蔭で出版物を刊行し、印刷界に人脈ができたドレは、こうして彼のために印刷物のラテン語チェックに来ることがある。
「おー、エチエンヌ、来てくれたか。いつも助かるよ。お前のようなラテン語の権威はなかなかいないから。それにしても、良かったな。王様から十年間の印刷特権をもらったんだってな。」
「そうなんです、グリフさん。ラテン語の詩集なんかも出す予定なんですよ。その時にはグリフさんの印刷機をお借りしたいと思って。私も近いうちに自分の印刷所を持とうかと思っているんですが。」
ドレは一五四〇年ごろに自身の印刷所を持つまではグリフの印刷所を借りることが多かった。彼の最初の本である『トゥールーズに対する二つの演説』はグリフのところから出版された。彼はイタリアのパドヴァで勉学を修め、優秀な成績であったことからヴェネチアの司教とフランス大使の秘書を務めることになった。フランスに帰国する際、この大使が彼の将来の成功を確実にするため、トゥールーズに職を見つけてやったのだが、これがいけなかった。トゥールーズは宗教裁判のメッカと言えるほど、異端審問が激しかった。一五三二年にはカチュルスという大学教師が二十二人の信奉者と共に処刑されていた。ドレはこうしたカトリック権威と真っ向から対立し、二度に渡りトゥールーズの権力者に対抗する演説を行っていた。それが『トゥールーズに対する二つの演説』である。彼はトゥールーズを逃げ出して、リヨンにたどり着いた。
「おー、使いたいだけ使いな。王様もラテン語の出版物に力を入れたいんだろう。大衆向けの作品が増えてきて、文化レベルが下がるのを恐れているのかねぇ。」
「そうなのでしょうか。フランソワ一世はどうやらフランス語を公用語として採用したいと思っている、という話も聞きますが。ラテン語もフランス語もともに発展させたいということかもしれませんね。まだまだフランス語を話さない地域も多いですしね。」
実際、フランソワ一世は一五三九年にヴィレ・コトレ布告によってフランス語を公用語として採用、公文書の言語上の統一を図ることで、中央集権国家としての基盤を強化しようとしていたと言われている。
「それにしても、ラブレーの『ガルガンチュア』と『パンタグリュエル』は素晴らしいですね。検閲に余念がないソルボンヌ大学への風刺がたまらなく面白いですよ。」
もともとノートルダムのパリ司教座教会付属神学校を起源とするソルボンヌは神学校として名高かった。かのスコラ学の大家でドミニコ会の修道士であるトマス・アクィナスも教鞭をとった名門である。ローマ教皇とも近い関係を持ち、当然のごとく護教的な団体で、反キリスト教的なものに対しては徹底的に厳しく対応した。
ラブレーはモンペリエで医学を修め、ギリシャ式施術法を学んだ。リヨンには一五三二年に、改修されたばかりの施療院オテル・デューの医師として勤めている。当時は医学書の印刷も多かったリヨンで、グリフは彼のために、ラテン語に翻訳したヒポクラテスとガレノスの医学書を出版している。
ドレはラブレーを評価していた。特に医師としての能力を高く評価した。ドレは自分のラテン語の詩集の中で、
フランソワ・ラブレー、アポロンに授けられた名誉と栄光、冥界の神ハーデースのごとく、死者を呼び起こし、彼らに生命を与えることができる
と絶賛している。
ドレとラブレーは、グリフを通じて友好な関係を築いていた。ラブレーは医者でありながら、知識人との交流も多く、顔の広い人物だった。しかし、一五四二年にある事件が起こる。ラブレーは『ガルガンチュア』と『パンタグリュエル』に何度も手を加えていたが、一五四二年、フランソワ・ジュストの印刷所で、ソルボンヌ派への批判的表現を和らげた版をだしていた。ところが、その同じ年、エチエンヌ・ドレは、不注意で手を加える前の版を出版してしまった。著者であるラブレーが目を通さなかった、今でいう海賊版だ。これによってラブレーの書物は禁書とされ、身に危険が及ぶことになった。以来、両者の関係は気まずいものになってしまった。
ドレは物腰の柔らかで、言葉遣いの丁寧な男だが、一風変わった、気難しい頑固者でもあった。この出版に悪気がなかったかどうかはわからない。人文主義者として、自由な思想を愛したドレは、ラブレーの既存権力に対する皮肉たっぷりな本に彼の理想の一部を見出し、それを世に広めたかったのかもしれない。
ラブレーは慎重だからか、人付き合いがうまいからか、あるいはその医師としての腕前を評価されていたからか、王様にも気に入られ、ソルボンヌ大学神学部の禁書リストに載りながらも、王の出版特権を獲得し、同書の『第三の書』を一五四六年に出版している。
ドレが話題を変えた。
「それにしても、グリフさん。最近、ノストラダムスさんという人の予言がはやっているそうですね。」
「あぁ、彼ね。かなり多才な人らしいな。リヨンでもいろんな本が出版されているんだが、まだ予言書は出てないな。未来が見えるなんてすばらしい能力だな。自分の将来が知りたい奴なんか山のようにいるだろう。なんだかまた近いうちにリヨンにくるそうだ。今度こそ予言書を出してほしいもんだ。」
「そうですか、彼が来た時にはぜひ知らせてください。一度お会いしたものです。この国の未来がどうなっているのか、ご教示ねがいたいので。」
人文主義の流行したこの時期、思想だけが発展したわけではない。ルネッサンスに続いて宗教改革が大きなうねりをもってヨーロッパを席巻していたころ、芸術、医学、文学、建築など、生活に関するほぼ全ての分野で人文主義が取り入れられた。彼らは社会の知識階級を形成し、様々な分野に精通する当時の頭脳の集合体とも言えた。ドレは「ラテン語注解書」を発表するが、それが認められ、リヨンの知識階級の間で一目置かれるようになる。
ドレはグリフの印刷物に一通り目を通し、
「グリフさん、さすがです。貴方の眼力にかかれば、どんな間違いも正しく直されてしまいますよ。まったくミスのない、素晴らしい文章です。」
グリフは多言語を話す、言語能力にも長けた印刷屋だ。
「そうか、ありがとう。助かったよ。これで印刷にかけて、今度の市場で売りに出せる。そういえば、ルイーズもエチエンヌに会いたがっていたぞ。詩を出してくれって来たんだが、ちょっと今は忙しすぎる、って断ったんだ。ワシの弟子のジャン・ド=トゥルヌのところで聞いてみな、って言ったんだが。その時にお前のことを尋ねられてな。」
「ああ、ルイーズですか!そういえば、しばらく彼女に会っていないな。今もクロワルッスの丘のところにいるのでしょう?」
「あぁ、そのはずだ。ちょっとのぞいてきてやったらどうだ?」
「そうですね、行ってみます。」
ドレはグリフの印刷所を出てトマサン通りを西に進み、ソーヌ川沿いに出た。
この辺りは現在サンニジエ教会が建つところだ。この地区は、今でもチーズ屋通り、家禽屋通りといった名前が残っているように、商業活動で活況を呈しリヨンの経済を支えていた地区だ。サンニジエ小教区は、高圧的な大司教に対抗するリヨンのブルジョワたちの牙城で、中世以降リヨンのキリスト教界をリードするほど大きな力を持っていた。リヨンからサンチアゴデコンポステーラの巡礼に出発するときは、教区の頂点に立つ大司教がいるカテドラル、サンジャン司教座聖堂からではなく、このサンニジエの教会の前のサンジャック礼拝堂から出発することになっていた。この地区はカトリックとはいえ、権威を嫌う進歩的な信者も多く、ドレは知己が多い。川岸を北へ向かって歩き続けると、川岸で船から荷揚げしている漁師たちに出くわした。ドレはルイーズへの手土産がないことに気付き、
「そうだ、仔牛でも買って行ってやろう。」
と思いついた。川岸の船着き場で着船している曳き船に近づき、おもむろに停泊中の船に足をかけた。