第四話 トラブール
四、トラブール
リヨンの旧市街は美しい。中世の街、とだけいえばどこも同じようなものだと思うかもしれない。時に雑然と並ぶ石畳、明るいとは言えないすすけた壁、車も入れないような狭い小道、誰もが中世の頃は下水路だったと知っている道の真ん中の溝。
ややもすればどの街も変わり映ばえしないと思ってしまうかもしれない。いや、リヨンの旧市街の中に入り込んでしまった後でも、街全体の雰囲気にのまれてしまってその真価を見失ってしまうかもしれない。
リヨンには古いだけではない独自性がある。ここは十五世紀のころは最新の文化の集積地しゅうせきちかつ発信地はっしんちであった。国際的に開かれた市場や、ヴェニスやパリに次いで盛んであった印刷術が文化の頻繁な往来を可能にした。リヨンの旧市街は中世のころ、フランスで、いやヨーロッパでも最先端を走る重要な都市であったのだ。家々は競い合うように飾り立て、一軒一軒全く違う趣を醸し出している。
似たような家が軒のきを連ねるのも風情ふぜいがある。中世の街として残っているのはそのような場所が多い。リヨンの近郊ならぺルージュやワンがそうだ。どちらも統一感のある、町全体で一つの集落が完成している。
しかしリヨンはそうではない。いや、正確には市内の地区ごとに異なる繁栄の時期があり、現在の旧市街の辺りも力が衰えた時代もあった。とはいえ、市としては常に大都市であり続け、大きな力を誇った商家が贅ぜいを競った町なのだ。統一感があるようで、それぞれの家に個性がある。その一つ一つの建物の個性を楽しむのがリヨンの旧市街の醍醐味のである。
そもそも十五世紀から十六世紀と言えば五〇〇年も六〇〇年も前の話だ。石造りであるがゆえに残ったという面はもちろんあるが、大都市ならば、新しい時代の建築様式に作り変えられて行ってもおかしくない。リヨンの旧市街はルネッサンス様式だ。通常なら、その後に登場したバロックやロココ、ネオクラシックなどの様式に作り変えられる場合も多い。だがリヨンの旧市街はルネッサンス様式のまま残った。力のある豪商が持てる財力を尽くして素晴らしい建物を建てたのだ。高い技術と質を兼ね備えて建設されたからこそ、大都市の中で時代の流行に飲み込まれることなく、今の時代によみがえることができたのである。
クレモン、アレックス、チボーの三人はレンヌリー通りを飛び出して、サンジャン通りに向かっていった。
十八世紀にスフローという建築家が建て直した立派な取引所の建物を右手に見ながら、石畳を駆け抜けていく。目についた建物の扉を押してはその建物に入り、入れなければ次の扉を押す、と言った具合に手当たり次第に扉に手をかける。アレックスは力任せに体当たりしているようにも見える。チボーが開けるときは頭を扉に擦すりつけるようにするのだが、どうも力が入っているように見えない。その姿があまりにも滑稽で、クレモンは大笑いしてしまう。が、カンが悪いチボーは自分が笑われていることに気付かず一生懸命扉を押し続ける。
「堅くて開かない…。」
「そりゃそうだよ、このボタンを押さなきゃ。」
クレモンは何かひらめいたときや、得意げに話すときは、右手の人差し指を立てる癖がある。今も指を立てながら、冷静に扉のコードキーのところにある丸いボタンを押してあげだ。
カチャン、ギィー
運よく扉が開けば、中世の細くて薄暗い通路を通って、光の差しこむ美しい中庭が開けてくる。そして、壁は明るい色調に塗られているが全体的に暗い通路を抜ければ、反対側の通りに出られる。
トラブールとはこうした建物の中を通る抜け道のことだ。四世紀のころから存在していたと考えられているこの建築構造は、丘の多いリヨンでは実に重宝ちょうほうされた。急なアップダウンの多い坂道では、車を使って荷物を引っ張る時など、カーブを使って上り下りしなければならない。
しかし、徒歩の場合、わざわざS字カーブをうねうねと歩かずとも、一直線に上り下りした方が早い。また川岸から水を運び込むときも、一直線に運べるように建物の中を通り抜けた。何とも単純な理由から、このトラブールが発明されたのだ。
このように丘とトラブールがたくさんあるリヨンでは、人を家に呼ぶときこんな言い方をしていた。
「トラブールを下りきって上に上あがってくれたらそこが私の家よ」
つまり丘のふもとまでトラブールを使って下りてから、アパートの階段を上がったら家に着くよ、ということらしい。
クレモン達は次々とサンジャン通りのトラブールを通り抜けて行く。黄色い色のトラブール、二つの建物の中庭が一つになっている変わった建物、階段を共有している別々の二つの建物、どこもかしこもピトレスクという形容詞がピッタリくる美しいところばかりだ。
ここリヨンはその昔、中世の頃、商業の町だった。地理的にとても条件が良かったので、まず一四二〇年、当時皇太子であったシャルル七世がリヨン市に二回定期市を開く権利を与えた。市場はたちまち成功し、一四四四年、王となったシャルル七世は二回から三回に、そして、一四六二年にルイ十一世が年に四回の市を開かせるに至った。イタリアやスイス、ドイツ、スペインの商人たちが、その市場で一花咲かせようと大挙たいきょしてリヨンに押し寄せてきた。その中でもイタリアの商人は、当時のイタリア都市国家の力を反映するように、サンジャン地区に多く住みついて、イタリア・ルネッサンス文化をリヨンにもたらした。今でもリヨンの旧市街地区はイタリア・ルネッサンス風と言われる。
このサンジャン地区は、南北にサンジャンとブッフという二つの通りが通っていて、特にサンジャン通りがお店の立ち並ぶ目抜き通りになっている。世界遺産だけに観光客も多く、日曜日でもお店が開いていて、聞いたことのない言葉も聞こえてくる。
「Korenani?」
「Kawaii!」
そんな感じで耳に入っては来るが、いちいち気にすることもなく、面白い隠れ家を探すかのように、トラブールを物色ぶっしょくしていた。
「ちょっとあっちの通りに行ってみようよ。」
そう言うアレックスにチボーは、
「え、ちょっと暗くない?お店もなさそうだよ。」
と不安げに答えた。
「そうかなぁ。でももう五月なんだし、九時過ぎるまで明るいから大丈夫だよ。」
アレックスは冒険心が強い。いつも冷静で物静かなクレモンも頬を紅潮させ、
「もう少しだったら大丈夫じゃない?ちょっと行ってみようよ。」
とチボーの肩を引き寄せて、安心させようとしながら誘ってみた。
「うーん。分かったよ。」
チボーはお腹がすくと口がへの字になるのだが、今もそんな口の形になっている。単にトラブール探索を続けるより、何かを食べたいだけなのかもしれない。
三人は薄暗いトロワマリー通りに入っていく。
ここは三人のマリアの像が掲かかげられた家があるので、三人のマリア通りという名前が付いた。三人のマリアとは、聖母マリア、マグダラのマリア、そしてヤコブとヨセフの母マリアのことを指す。
だがマリア様の美しい姿とは裏腹に、今にも崩れ落ちそうな建物が並び、補修のための足場が組まれている。リヨンの旧市街地区は、一九九八年にユネスコの世界文化遺産に登録されているが、世界遺産の維持が大変なのは有名な話。リヨンも例にもれず、市と持ち主の間で補修の折半せっぱんの話がもつれることがある。心なしか、首の落とされたマリア像の涙する姿が目に浮かぶようだ。自分の納まる建物の修理のことでいがみ合われてどんな気持ちだろう。
クレモンたちはそんなマリア様に気付いただろうか。ホタテガイの装飾、ギリシャの神殿のような柱飾りや窓飾りが醸かもし出すルネッサンスの雰囲気を強く残したトロワマリー通りをぐんぐん進んでいく。
「あ、ここもトラブールだ!」
アレックスが記念板に気付いた。
有名なトラブールには説明のプレートが付いている。
「Vive la couleurヴィーヴラクルール…。色彩万歳?」
「開いてるよ。」
アレックスは開けるや否や、中に入っていった。
「クレモン、チボー、よし!行こう!」
「うん!」
クレモンとチボーも後を追いかけた。
細い通路から中庭が見える。光り輝く中庭だ。リヨンの近郊にピエールドレという地方があり、そこの石は「黄金の石」、ピエールドレと呼ばれている。先に紹介したワンという村がある地方だ。その黄土色の石を使った建物が、太陽の光に反射してまばゆく輝いている。クレモンたちが中庭に入ったとき、光が一層強く瞬またたいた。差し込む光がアレックスの服の模様に反射してプリズムのように強い光を発したように見えた。
「まぶしい!」
三人が目を覆ったとき、響き渡るような声が聞こえた。
「光よ、万歳!」
「色彩よ、万歳!」
「地中海に降り注ぐ太陽よ、我らに恵みを!」
クレモンはゆっくりと目を開けた。中庭の石壁は相変わらず夕陽に反射して美しく黄金色に輝いている。
縁取ふちどり装飾の美しい、大きく口の開いた開口部が明るさを引き立たせている中庭のらせん階段もさっき見たそのままの姿だ。
「誰の声だったんだろう?」
チボーは独り言のようにつぶやいた。
その時、
「誰だ、そこにいるのは?」
とまた大きな声が聞こえた。
アーケード型の二階の通路から、薄汚い服を着ている割に首元に極彩色のスカーフを巻いている、がっしりした体格の男が、クレモンたちを覗きこんでいる。
「おじさんはここの住人なの?」
クレモンが聞いた。
「ああ、そうだ。お前たちは何者だ?ここは勝手に入っていい場所じゃないぞ。」
「でもトラブールは誰だって入っていいんでしょ?」
「誰がそんなこと言ったんだ。扉が開いてるからって勝手に入っていいわけがないだろう。」
「レンヌリー通りに住むジャンヌおばさんが、ここは世界遺産だからトラブールには入っていいって。」
「レンヌリー通りのジャンヌ?知らねぇなぁ。それに世界遺産って何だ?」
首を傾げた男性の後ろから別のおじさんの声で、
「何をしてる、クロード!まだ織機おりきに糸が残ってるぞ。早く仕上げなきゃ組合に持ってってもらえねぇぞ!」
「いけねぇ。仕事の途中だった。お前ら、なんかヘンな格好して、面白そうだな。でも今はちょっと時間がねえや。また遊びに来いよ!」
そう言っておじさんは部屋の中へ入っていった。
クレモンたちは顔を見合わせて唾つばを飲み込んだ。
「歴史の教科書で見たような服着てたよ。」
アレックスがそう言うと、
「うん、それに、糸が残ってるとか言ってたけど、ジャンヌおばさんは今はもう旧市街ではシルクはほとんど作ってないって言ってた…。」
とクレモンが続けた。
「えー!どういうこと?」
チボーはとまどいを隠さず、目をキョロキョロさせている。
「とりあえず外に出てみようよ。何か分かるかも。」
冒険心の強いアレックスが飛び出そうとした。
「いや、もうちょっと考えようよ!アレックス、冷静になれって!」
といいつつチボーが一番取り乱している。その証拠に大きな声がトラブール中に響いている。
「うるせー!何騒いでやがる!静かにしやがれ!」
今度はもっと上の三階か四階からお叱りの声だけ聞こえてきた。
「チボーの言う通り冷静になろう。大きな声を出さずに。」
冷静沈着なクレモンの言葉に二人も正気を取り戻した。しかし、冷静に周りを見つめても、何も答えになるものは出てきそうにない。ただ、建物の壁がさっき見たものよりはすすけているように見えるだけだ。その中でもつい最近できたばかりに見える場所には一五四八年という刻印が見える。