第三話 旧市街
三、旧市街
ガストンおじさんが五年前に別れた奥さんは、サンジャン地区と呼ばれる、一九九八年にユネスコの世界文化遺産に指定された地区に住んでいる。クレモンは、ガストンおじさんと喧嘩別れしたこのジャンヌおばさんも大好きで、時々家に遊びに行く。行くときは決まってアレックスとチボーが一緒だ。
レンヌリー通り十番地にあるおばさんの家は、旧市街の他の家と同じくらせん階段があるのだが、ここの階段はなんと真っ直ぐな支柱がない。らせん階段の真ん中を下から覗のぞくと、ぐるぐると渦うずを巻いているカタツムリのような形をしている。曲線が美麗で思わずうっとりしてしまいそうだが、らせん階段の内側に支柱がないので今にも崩れ落ちそうで怖い。階段も狭く、決して明るいとも言えず、薄気味悪い。しかし、最上階まで登り、窓の大きいおばさんの家に入ると、まばゆい光が狭い中庭のうす黄色い壁の色に映はえるのか、とっても明るくて気持ちがいい。
「ジャンヌおばさん、こんにちは!」
自分の知り合いでもないのに、一番におばさんに声を掛けたのはチボーだ。クレモンもアレックスも、思春期に入り、大人とは一線を引くような態度が多くなってきているが、チボーはおじさんおばさんに対しても屈託がない。子供がいつまでもあどけなくあり続けてほしいと思うのは大人の叶わぬ願いだ。チボーはまだその願いを叶えてくれている。
「いらっしゃい。あなたはいつも明るくて嬉しいわ、チボー。さ、クレモンもアレックスも、みんなこれでも飲んで。」
おばさんはいつものようにクレモン達に甘いザクロのシロップを用意してくれていた。
「おばさん、もう僕たちも小学生じゃないんだから、ザクロじゃなくて、コーラとかオランジーナとかがいいな。」
ザクロは甘くておいしいのだが、確かに小さい子供たちが好きな飲み物でもある。そんなクレモンとアレックスを尻目に、
「そうかなぁ。俺はザクロ好きだけどな。おばさんが買ってくれたのは特においしい気がするよ。」
「お世辞でも嬉しいわよ。」
ジャンヌおばさんはにっこりした。
そして、テーブルを囲んで水で割ったシロップを飲む三人をみながら、
「そうよ、クレモン、砂糖のいっぱい入った炭酸ジュースなんて、身体に悪いだけよ。サンタントワンヌ市場で無農薬のザクロシロップを買ってあげてるんだから。」
おばさんは、今朝焼いたクッキーに自家製のリュバーブジャムをつけて三人の前に置いた。
サンタントワンヌ市場とは、旧市街から見るとソーヌ川の川向いに出る市場で、クロワルッスとここの青空市場は毎日市が立つ。リヨンで最も大きい市場の一つだ。当然品ぞろえも良い。川沿いだけあって、昔から多くの食材がここで陸揚げされて、リヨンの人のお腹を満たしてきた。
ジャンヌおばさんは有機農法の野菜や果物しか食べず、肉もあまり食べない。今日は日曜。朝ゆっくり起き出して、市場に行って食材を買い込む。お決まりの店があって、そこに行ってはおしゃべりをしながら買い物をするのが日曜の午前中の日課だ。出来るだけ自分で作っている農家を優先するようにしているが、中には新鮮な青物を仕入れてくる販売人のお店もある。
野菜や果物を買い込んだら、日曜日の午前中だけ川の反対側にでるアーティストの市場にも立ち寄る。絵があったり、オブジェがあったりと、ひまはつぶれるのだが、何しろ芸術品。毎週買ってたのでは家に収おさまらない。地下にはカーヴと呼ばれる物置があって、そこに片付けてはいるのだが、主にワインセラーとして使っているからそれほど収納できない。部屋のオブジェをローテーションして出したりしまったりするのだが、その場所もだんだんなくなってくる。結局ここでもアーティストたちとおしゃべりだけして帰ってくることが多い。でもこの日は珍しく、一つだけオブジェを買ってきた。
「あら、これ、面白いわね。あなたが作ったのかしら?」
「えぇ、そうですよ。自然をいろいろなものと共生させるのが好きでね。」
「これは何なの?何に花が入っているのかしら?」
「分かりませんか?ほら、パソコンのプリンターですよ。紙の差し込み口と、印刷して出てくる出口のところから葉っぱが出てるんですよ。こっちは古いマックのパソコン。隙間すきまにツタを這はわせてるんですよ。」
「すごいわね。ちゃんと花は育つの?こんなところに埋め込んで。」
「もちろん。自然と先端技術の共存がモットーですから。」
「そうね。モダンアートって、本当に想像もつかない素材を使って、考えてもみなかった芸術を生み出すのよね。そのアイデアにいつも驚くわ。あら、これ、かわいいわね。靴に入ってるの?」
「そうそう、スニーカーに土を入れてね、そこに花を入れたんですよ。キレイでしょう?お一ついかがですか?窓際に飾ったりしてね。」
「そうね、そうするわ。じゃ、この赤い三本線の入ったクツをもらおうかしら。」
ジャンヌは靴を脇に抱えて、十二時過ぎに家に帰ってきた。そして、その靴を窓辺に置いてみた。外からの光が青葉を照らし、白地に赤い線の入った靴と相まって見事に一つの芸術品になっている。
毎週日曜日、一人の時は十三時頃にご飯を食べる。日曜の昼は暇な時も多いから、友だちを呼ぶことも多い。そんなときは前菜、メイン、デザートのスリーコースを午後の時間をたっぷり使って楽しみながら、おしゃべりに花を咲かすのだ。程よくおなかがいっぱいになったら、十六時頃にみんなでぶらぶらと散歩をする。そして十八時頃にまた家に戻って、みんなコーヒーを飲んで解散。お昼ご飯に招待しても、終わるのは十九時。それもフランスでは珍しいことではない。
クレモンたちはそんな窓際のオブジェに気付いただろうか。ジャンヌは、クレモンたちがやってきた十四時頃、ご飯もようやく食べ終わって後片付けをしていた。普段は銀行の受付に座っていて、後ろにお客さんが並んでいるのも気にせずに、目の前のいる人と不必要なくらい元気に話すのだが、友だちも呼ばない日曜の昼間はさすがにお口も休みたいらしい。もともと細身なのだが、口数の少ないジャンヌおばさんは華奢な体がますます細く見え、なんだか操り人形のようだ。
「ところで今日は何をしに来たの。日曜日の昼過ぎに三人だけで来るなんて珍しいじゃない。」
「お父さんとお母さんは、友達の子供の洗礼せんれいに行くんだって。」
「じゃ、妹のエマはどうしてるの?」
「友達のお母さんに預かってもらってる。」
クレモンがそう言い終わらないうちに、
「僕のお父さんとお母さんは友達の家の昼ごはんに招待されてるんだ。今日は大人だけで食事するから子供は邪魔なんだって。おばさん、それにしてもこのジャム最高に美味おいしいね!」
相変わらずジャンヌおばさんが喜びそうなことをチボーが言う。
「ホント、おべっかなのか、本心なのか、可愛いことばかり言ってくれるわね。あなたでしょ、エリソンって言われてたの。分かるわ、鼻がクイクイ動く感じとか、エリソンみたいで可愛いわよ。」
「ひどいよ、おばさん!それは悪口だからね!」
チボーはエリソンと言われるのがイヤだ。丸い頬をぷくっとふくらませたが、ちっとも怒っているように見えない。
ジャンヌおばさんはすねるチボーをなだめるように、
「身近で親しい存在、ってことでいいじゃない。」
と声を掛けた。実際ハリネズミは都会の住宅地などにもよく姿を現す。暗闇をのこのこ歩く姿は確かに愛くるしい。
「で、あなたは、アレックス?」
黙っているアレックスにおばさんが聞くと、
「今日はカミーユの家族の家に行く日なんだけど。クレモンとチボーと一緒に遊ぶ方がいいんだ。」
「そうなの。友達と一緒の方が楽しい年ごろになったのね。」
アレックスは少し困惑こんわく気味にうなずいた。カミーユという女性は母の妻(夫?)で、彼はこの新しい形の家族という感覚がまだよく分かっていない。したがって家族より友達と一緒の方が良い、という単純な問題ではないのかもしれず、家族の中にまだ居場所いばしょを見いだせていないのかもしれない。
「で、これからどうするの?」
「おばさん、いっつもここはトラブールがいっぱい、って話してくれるよね。僕たち、一回もトラブールに入ったことがないんだ。だから行ってみようと思って。」
「うそおっしゃい、クレモン。何度も連れて行ってあげたわよ。」
「でもそんなの小さい時だったから覚えてないよ。それにアレックスとチボーは本当に行ったことないんだ。」
「リヨンの子供なのにね。でもそんなもんよね。近くにいたらかえって行かないのかもね。ギニョールだって見たことないでしょ?」
「ギニョールは学校で行ったよ。面白かったけど、妹のエマは一回行っただけでもう行きたがらないんだ。怖いんだって。ギニョールが棒でバンバン悪者を叩いたから。あと、鼻の赤いニャフロンも怖かったみたい。」
「あら、そうなの。エマは優しいから、叩かれるのは見ていられないのかしらね。ニャフロンだってギニョールの友だちでとってもユニークなのにね。それはそうと、今日は私は腰が痛いのよ。一緒に外になんて出て行けないわ。」
おばさんが曲がるにはまだ早い腰をさするや否や、
「その方が良いよ!」
チボーが思わず大きな声を出してしまった。しまったと思ったのか、耳を真っ赤にしているチボーに、
「思ったことすぐに口にしちゃだめよ。あんたはちょっとおっちょこちょいだから、もう少し考えてから行動しなさいよ。」
と、優しい笑みを浮かべながらたしなめた。
「今日は日曜日だし、閉まってるトラブールも多いかもよ。まぁいくつかは開いてるだろうし、早い目にいってらっしゃい。」
「はーい!行ってきまーす!」
バタン!と扉を開けて、もうシロップを飲み終わっていたクレモン達は外に飛び出して行った。
ギィー、バタン
扉が一人でに閉まったのを見つめていたジャンヌおばさんは何故か不思議な胸騒ぎがしていた。最近トラブールで、奇妙な体験をする人がいると聞いていたからだ。だが、二分もするとそんな不安も忘れてしまい、靴のオブジェを置いたばかりの明るい窓辺まどべのソファに沈むように座って読書を始めた。