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第四章 二

二 ドレ処刑

リヨンで人文主義者として一躍その名を知らしめることになったエチエンヌ・ドレが、最初にパリで裁判に掛かるのは、その思想によってではない。彼がリヨンで引き起こした殺人事件が原因である。一五三六年、画家のコンパンをあやめた罪を問われたのだ。今ほど人名が尊重されなかった当時とても、さすがに人殺しは大罪である。コンパンがソーヌ川から死体で浮き上がった時、画家の弟子たちはドレに復讐を誓い、彼を訴えたのだった。逃げ隠れするのが好きではないドレは直ちに拘束され、裁判所へ引き立てられた。

リヨンで捕えられたといっても、名高いドレのこと、その報告はパリまで通じた。既にラテン語に留まらない言語能力を認められていたドレは、時の王、フランソワ一世の赦免状を得て釈放された。この一件ではドレは正当防衛を主張していたが、それよりもむしろ彼の能力を失うことを恐れた王の意向が彼を救ったと言える。当時のヨーロッパは言語に対する議論が盛んで、知識階級に独占されているラテン語と市民が話すフランス語のどちらで出版するかで、その本の持つ意味合いが変わる時代であった。しかも、フランス語といっても当時リヨンで話されていたのはプロヴァンス・フランス語と呼ばれる、リヨン西部のフォレズ地方からスイスまでの間で話される方言である。一五三九年にフランス語が司法と王立行政に関する公式言語に定められたが、そのフランス語を使いこなしていたのは王とその取り巻きたる貴族に限られていた。一般的なフランス語は未だ敷居の高い外国語のような存在だったのだ。しかも書き言葉はラテン語が圧倒的に支配的で、フランス語で物を書くということ自体、革命的とすら言える響きがあった。ドレも自身の出版社からクレモン・マロの詩集を出しているが、詩人がフランス語での刊行にこだわったのは、フランス語も文学作品として正当化しようという意図があったからに他ならない。

ラテン語とフランス語に堪能なドレを失う損失は計り知れなかった。

二度目の逮捕は一五四二年。もはや言語の達人というだけでは許されない事態となっていた。異端審問にかけられたのである。当時のリヨンは議会を持たず、重要な裁判を行う機能がなかった。コンシエルジュリにあるパリの教会裁判所によって、「不信心、スキャンダラス、異端主義的、過ちの擁護者、公秩序に有害となるもの」という何でもありの理由で有罪判決が下され、一年以上牢屋につながれた。しかし、ここでもまたフランソワ一世の救いの手があった。一五四三年十月十三日、またしても釈放されたのである。しかしそれものん気なものではなかった。のちに彼自身が「地獄めぐり」と呼んだ逃避行が始まる。

王によって解放されたとはいえ、異端の書という汚名を浴びせられた彼の書物がその後も目の敵にされたのは想像に難くない。

「このままではまたつかまって処刑される。」

そう感じたドレはイタリアへ亡命した。しかし、祖国フランスで自分の書物が焼き払われたと聞いたドレは大いに憤慨し、フランスへ帰ってフランソワ一世に直訴すると決める。彼にすれば、自分に罪が着せられるのは、政敵による陰謀だと思われたからである。ドレの成功と、彼の誇り高き態度がここにきて悪い方向に向いてしまったのである。

一五四四年、フランソワ一世はシャンパーニュ地方のトロワという町に滞在していた。

王の城館にたどり着いたドレは門番に、

「エチエンヌ・ドレと申すものだ。王の面会をたまわりたい。先日既に手紙を差し上げて、ここに召喚状も持っている。」

と告げた。

「ドレ?あぁ、あの異端者か。どの面下げてフランスへ帰ってきたんだ。王様はご立腹だ。お前の顔など見たくないと仰るに違いないわ!」

「失礼だが、あなたに王様の真意が分かるとは思えない。さっさと上官にドレが来たと伝えるんだ。」

ドレは才気あふれるがゆえ、どこか高圧的なところがある。リヨンで多くの出版者たちともめ事を起こしたのは、短期間で成功したことに対する嫉妬だけが原因ではない。人付き合いのうまいラブレーや、剛毅で寛容なグリフとも一時関係が悪化したこともある。

「えらそうな奴だな!ちっ、中に入ってすぐ右の部屋で待ってやがれ!」

門番がしぶしぶ開けた扉をくぐると、すぐ右に小部屋がある。薄暗い部屋だが、立派な調度品があり、腰かけ椅子もゆったり座ることができる快適なものだ。本来、怪しいものを待たせる場所ではないのであろう。いやそのようなものが館の中に入れてもらえるはずがない。中に通したということは、ドレが来たらそこで待たせろ、という指令が門番に出ていたのかもしれない。そこでしばらく待っていると、

「やぁやぁ、ドレさんじゃありませんか。アン?お久しぶりです。」

いんぎんぶった態度で挨拶をしてきたのはマチュー・オリー、他でもない、ドレが最初に異端裁判にかけられた時、有罪判決を下した裁判官である。レンヌの近くのコールヌ村で生まれたこの小男は、ローマ法王クレメンス二世によってフランスの異端裁判の責任者に任命されている。

「おやおや、裁判所じゃなくてこんな場所でお会いできるとは。だが、私は王様に用事があってね。番犬のようにただただ吠えまくるお方に用事はないんだが。」

当時、異端裁判官はドミニコ会の神父が当たることが多かった。神学に強かった同会派がローマ法王の信頼を受けていたからだが、反対者からは「法王の犬」と揶揄された。ドレはその意味で、強烈にオリーを皮肉ったのだ。アンアンとこの男がしつこく言葉の間に挟む侮蔑に満ちた相づちには、たいがいの人間が不愉快な思いをする。ドレにもムシズが走った。

「王様に用事がある、ねぇ。王様の方は用事がないようですよ。アン?だからこんなところにまで私が呼びつけられたんですよ。アン?」

「いずれにせよ、お前と話すつもりは毛頭ない。とっとと消え失せてくれ。」

「おやおや、そうはいかないのでね。アン?私は王様に仰せつかってあなたを裁かなければならないんですよ。アン?」

「それならばしかる場所に出なければならないだろう。こんな小部屋じゃなくてな。」

「もちろんしかる場所には行ってもらう。アン?だが、その前に暗ーい牢屋に入ってもらわなきゃならないんでね。アン?お前には罪状がある。あなたの高邁なお考えのことじゃないぞ。アン?人殺しの罪だ!」

言い終わるや否や、突然衛兵が乗り込んできて、ドレを捕えていった。

「貴様のやり方はいつもそうだ!陰険に人を上から見下しやがって!お前には人を尊ぶ心がない!信仰が聞いてあきれるわ!お前のようなものがカトリックの権力者とはな!主も嘆いていることだろうよ!」

「黙れ!お前のように、言いたいことを好き勝手言うような奴を放っておくと、人心が乱れるのだ!アン?民が平和に暮らすのに必要なのは自由ではない。秩序だ!秩序とは権力ではないか!アン?牢屋でゆっくり頭を冷やせ!アン?まぁ考える時間など与えるつもりはないがな!」

衛兵に押さえ込まれたドレは幽閉された。

その後、ドレはまたしてもパリのコンシエルジュリに連行された。しかし、裁判の結果が出るまで二年もかかっている。王をはじめとする上層部の中に、この有能な人文主義者を殺してしまうことに迷いがあったのだろう。だが結果は火あぶりの刑、罪状にはリヨンで画家のコンパンをソーヌ川へ突き落して殺害したこともあったが、敵を多く作ってしまったことと、人心を解放しようとする自由な思想が危険視されたことがその理由であることは明白だった。

パリに今も残るモベール広場が処刑場となった。ドレがどこに監禁されていたかは分からない。モベール広場に連行された後、棒に括り付けられ、しばらく辱めの拷問を受けた。ドレの掛けられた棒の下には、著書の数々が敷き詰められている。ドレだけではなく、著書も焼かれるのである。著書の中にはグリフのもとで出版したラテン語解説書も含まれていた。

「おろかな権力者にたてついたことに後悔はしない。だが書き残したものが焼かれてしまうことが残念でならない。神よ、私の書き物は必ずや神の御国に役立つ日がくるでしょう。もしお許し下さるのなら、この書物を守りたまえ。アーメン。」

磔にされたドレの下に、薪が敷き詰められた。

「さぁ民衆よ!松明が灯す火と共に、愚か者の最後を見届けよ!」

薪に火が付いた。風の強い日だったが、空は青く澄んでいる。広場には人文主義の大物の末路を見届けようと人だかりができており、群衆の人いきれのせいもあろうが、重苦しい空気が澱んでいる。火に勢いが着くまで、どのくらいかかっただろうか。ドレは黙り込んだまま、目を閉じている。群衆がざわつき始めたころ、突然火が勢いよく燃え盛った。その時、一瞬矢のような光線が天に向けて発射されたように見えた。

「おぉ!」

群衆がその光の矢に目を奪われた隙に、炎がドレの全身を包み込んでいた。声一つなく、ただバチバチと炎の音だけが聞こえる。炎が全てを激しく焼けつくすまでどのくらいかかっただろうか。火が鎮まったころには、モベール広場には灰しか残っていなかった。

一五四六年八月三日、ドレはパリではかなく散った。奇しくもこの日は彼の三十七歳の誕生日だった。

パリのモベール広場には一八八九年から一九四二年までドレの銅像が立っていたが、戦時と言うことで鋳つぶされてしまった。

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