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第二章 六

六 印刷屋ドレ

十五世紀から十六世紀にかけて、リヨンは一大印刷都市であったことは既に述べた。当時、印刷屋といっても、今のようにコンピュータも機械もない時代、当然全て手作業だった。ということは、一つずつスズに彫り上げた文字を板にはめ込んでいかなければならず、絵が入っていたりすれば木版画のようにノミを使って彫り込んでいかなければならなかった。つまり、印刷屋というのは卓越した職人でなければならなかったのだ。

単に知識があるだけなら、手書きにしたものを本にしてもらったり、あるいは印刷物を校正するという仕事もあったであろうが、ドレは自分自身で自分の作品の版を作って印刷していた。彼は当時の印刷職人の間でも腕利きで知られた印刷屋だった。一ミリと狂わず文字盤をはめ込み、絵を彫るのも一流の腕前で仕上げて見せた。ドレの印刷屋はそのロゴに、黄金の手斧を使っており、それをそのまま屋号にしていた。フランス語では「ドロワール・ドール」という。ドレとドロワールという語呂合わせもあるのだが、粗くてでこぼこのあるものを削って完全にきれいに仕上げるという思いも込められている。実際、詩のプリンスと呼ばれたクレモン・マロは、自分の作品がむちゃくちゃに印刷されるのを嫌い、ドレにしか作品を預けなかったと言われるほどだ。

ドレの印刷屋には徒弟が二人いて、ドレの印刷の補佐をしていた。基本的に三人で作業をするのだが、それ以外に、装飾師と呼ばれる字に飾りを付ける職人が、真ちゅう版を切り抜いた型を使って、ページ上部の題字などに装飾を施す。さらに文字鋳造工と呼ばれる職人もいる。彼らは鉛を型に流し込んで、文字型を作り、出来上がった文字型を削って仕上げるのだが、当然この出来具合で印刷の見栄えが変わってくる。こういった作業は、繁忙期には彼が見込んだ職人に任せるのだが、もともと職人気質のドレは、時間があれば装飾も文字型も自分で手掛けてしまう。

多くは印刷業者がそのまま書籍を販売する本屋も兼ねるのだが、書籍商と呼ばれる、印刷はしない本屋も存在した。彼らは基本的に商人であるから、本だけでなく香辛料やシルク、不動産業など手広く事業を展開している場合が多い。リヨンの場合、ワシとヘビの紋章で知られたギヨーム・ルイエなどがその代表格と言える。こうした商人たちは、印刷業者と契約を結び、紙や文字盤、木版などを提供することもある。

一五三八年三月三日、フランソワ一世は、ドレのような流れ者にしては異例の十年の印刷特権を与えた。当然リヨン育ちの印刷屋のみならずさまざまな方面から妬みも受けたわけだが、ドレは敵対者を怠慢、無知と逆に批判した。一五四二年には十人を超える従業員を抱える大きな印刷屋へと発展した。三つの印刷機を購入し、同年九月以降は、牢獄に放り込まれることになるが、それでも刑務所から指示を出して経営に余念がなかったという。

彼の印刷した本は多くあるが、ギリシャやラテン語の古典や医学書を始め、フランス語の作品も多数印刷している。一人の息子を持つ父として、売れる本も印刷する必要があった。面白いものでは「翻訳のやり方」、なんていう今でも十分に興味を引きそうな本も自分で書いて出版している。聖書もフランス語に訳して出版したり、人文主義者のエラスムスの作品なども刊行しているが、これらは後に禁書扱いとなり、焼き払われてしまった。

「やぁ、エチエンヌ。元気にしているか?」

ドレの印刷屋ドロワール・ドールは、現代ではレストラン街となっているメルシエール通りにあった。今でも五十六番地に記念版が飾られている。その印刷屋に入ってきたのは、リヨンの詩人界を牛耳るモーリス・セーヴだった。

「あぁ、モーリスか。元気にしているさ。そっちはどうなんだ?」

「俺はいつだって最高さ。何もかもね。詩も愛も、何もかもね。」

「それはそれは、何よりだな。こっちは健康はともかく、借金抱えて大変だってのに。」

「なんだ、お前、金に困っているのか。らしくないな。ドレさんともあろうお人が金を借りなきゃならんとは。情けない話じゃないか。」

ドレは事業に掛かる費用を借金していた。現代人と同じことだ。ところが、リヨン生まれのリヨン育ち、エリートの社交界で優雅に歌を詠むモーリス・セーヴはお金に困ったことなどない。金に困るのは社会の下層民だけだと信じ込んでいる。

「情けない、か。まぁ確かにそうとも言えるが、世のため人のために本を刊行することを思えば、尊い借金とも言えるさ。」

「バカなことを言うな、エチエンヌ。金に困るのは才能のない証拠だぞ。お前ほどの知識があれば、一つ二つ文章を書けば、軽く食っていけるだろう、俺のように。おまけに女の子までついてくるってのに。」

セーヴは愛の詩歌を読ませたら天才的だった。彼の傑作『デリー』は、当時リヨン派の女流詩人として知られたペルネット・デュ=ギュイエに捧げた愛の詩歌であろうと言われている。喜び、希望、後悔、辛い思い、そして愛の苦しみが謳われ、甘い恋だけではなく、その愛を獲得すべき戦いを描き出している。そればかりか、苦に対する喜び、暗闇に対する光、地獄に対する天国、死に対する生の戦いを主題においた精神世界をも謳い上げた一大詩編となっている。

「それはそうと、お前のような詩人が、今度槍試合をすると聞いたが。ルイーズが随分心配していたぞ。」

「あぁ、男たるもの、女のためには戦うことも必要だ。槍試合は俺を詩人としてだけでなく、勇猛な戦士として彼女の目に焼き付けられるだろう。これも愛のためには必要なことだ。な、エチエンヌ、口の堅いお前だけに言うがな、出来レースだよ。相手の騎士には口裏を合わせている。ちょうど良いところで倒れてくれよ、ってな。ここはリヨンだ。何だって俺の思い通りにできるさ。」

ドレがどうしてもモーリス・セーヴを好きになれないのは、人生に対する軽さを感じてしまうからだ。リヨンでの生活に不自由はなく、日頃から恋愛にのめり込み、女遊びも尋常ではないほどだ。愛だ恋だ女だとぬかすわりに、髪の毛が面白いように頭頂部と額の生え際ではげかかり、目も異常に大きく頬がこけて田舎の神父のような顔立ちで、とてもモテるようには見えないのだが。しかしながら、確かに彼の作品はその人柄に見られる軽さがなく、むしろ高尚で難解ともとれる格調高い文体で、詩の世界と現実世界のギャップに世の女性は惹かれるのだろうか。

ドレも彼の詩は高く評価しているのだが、彼の滑稽な風貌も相まってか、なぜか好きになれないのである。グリフなどは生理的に受け付けないといえるほど、毛嫌いしていた。


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