すべての理由
世間を騒がせた貴族の大量逮捕事件から一月が過ぎた。逃亡中の仮面の男のことはもはや忘れ去られようとしていた。僕は折を見て軍や貴族、その下で働く者に訪ね歩いてみたりしたが、その結果は芳しくなかった。
その日はひどく湿った風が吹き荒れていた。夕方か、もしくは夜には雨が降るかもしれない。そんな予感をさせる風だった。
教会の裏に寥々と広がる墓地に、ご主人さまと、ソルフィーン様、アルディナ様、それから僕はやってきた。全員が簡素な喪服を身にまとっているけれど、泣いている人は誰もいない。
墓地の隅に造られた小さな墓。一年分だけ風雨にさらされたそれは、少しだけくすんでいた。
「ロゼラディナ」
最初に口を開いたのはソルフィーン様だった。品よくまとめられた金髪にヴェールをつけた慎ましい姿なのに、手に持つ花だけが色鮮やかに咲き誇っていた。
「お花を持ってきましたよ。綺麗でしょう?」
墓石にそう話しかけて、そっと花を供えた。
アルディナ様は無言で花を置いた。今日もやはりきっちりとまとめた髪に、衣装だけは黒いものを身につけているけれど、弔いの表情はまるで見えなかった。
「やぁ、皆さんお揃いじゃないですか」
風が吹き荒れる中、ひとつだけ優しい風が吹いた。喪服に身を包んだ、アザヤ様だった。
「アザヤ様。お忙しい中、わざわざありがとうございます」
自ら進んで出てきたのはアルディナ様だった。
「そんなことを言わないで下さいよ、奥様」
アザヤ様は泣き笑いのような、少し困ったようにそう言った。
「俺とロゼルは婚約してたのに、俺はあの子に何もしてあげられなかったんです」
「あの子には勿体無いお言葉です。そもそも、アザヤ様はご留学中の身であらせられたのですから」
アルディナ様の返答に、アザヤ様は何も答えなかった。
「こんにちは、ロゼル。俺だよ」
アザヤ様は墓石に触れた。慈しむような、やはり優しい目。アザヤ様の透き通った青い目が、墓石に刻まれた名前を目でなぞる。
そこに刻まれた名前はロゼラディナ=サーシェット。彼女は先年街中に猛威を振るった流行り病で死んでしまった、ということになっている。
アザヤ様の横でご主人さまもそこに花を供えた。くるりと僕に向き直ったご主人さまは、いつの間にか自分の花束から一輪抜いていたらしく、それを僕に渡した。
「お前もだ」
ご主人さまは僕をロゼルともウェルノとも呼ばず、ただお前とだけ呼んだ。このひとはこういうときに限って酷く優しくなる。その優しさに僕はどう対応したらいいのかわからなくなってしまう。
「こんにちは……」
そっと花を供えながら、声は震えて仕方なった。ロゼラディナ――かつての僕の名前が刻まれたこの墓の下で、眠っている人に精一杯声をかける。
ここで眠っているのはロゼラディナじゃない。
ロゼラディナの五つ上の兄、デュール=サーシェットだ。
それを知っているのはこの世で僕とご主人さまだけ。他の人は知らないし、そういうふうにしてもらった。なのに、なぜか僕は苦しくてたまらなかった。自分の名前を捨てることにはなんのためらいもなかったし、後悔もない。男装して生きることは、むしろそれまでよりもずっと息が楽に出来るようになった。
この町で、この国で、私は必要とされない。けれどお兄さまは必要とされている。
だから、これでいい。
これでいいのだ。
墓参りをした昼過ぎから、空にどんどん雲が多くなっていった。雲は遠雷を響かせながら町を真っ黒に覆ってしまっていた。雲のせいで今夜の夜空は星が一つも無い。
「どうぞ、ご主人さま」
「ああ」
今日は何もしないと決め込んだご主人さまは、入れたての紅茶に目もくれず、新聞を眺めたままだった。
「何か面白いことでも載っていましたか?」
「いつも通りだな。血生臭い事件か、くだらない事件のどちらかだ」
そう言いつつもご主人さまは新聞を読む手を止めなかった。夕食も済ませてしまったし、今日やるべきことも終わってしまっている。明日の予定は特に重大なものは無い。ご主人様の服の手入れでもしようかと僕が逡巡していたとき、どぉん、とまた遠くで雷が鳴った。
この調子では、夜中には確実に本格的な雨が降り出すだろう。
(そういえば)
あの人が亡くなった夜も、こんな夜だった。
叩きつけられるような、激しい雨だった。夜中だというのに召使い達は始終あわただしく走り回る。
私はその部屋に入ることを許されず、かといって自室に戻ることは躊躇われて、冷たい廊下の隅にそっといた。
時折聞こえる声はお母さまの絶叫に近い励ましのそれと、指示を飛ばすお医者様のものだ。指を絡めて十字を握り、お兄さまの無事を祈ることしかできなかった。
『しっかりなさい、デュール!』
『奥様、落ち着いて』
誰かがお母さまをたしなめるが、お母さまは決して聞かなかった。
『私はこの子を喪うわけにはいかないのっ!』
涙声でそう言い切ったお母さまの声は、私のいる廊下まではっきりと聞こえた。
――今更、こんな言葉で差を見せ付けられて、傷ついたりなんかしない。こんな言葉で、私の心は血を流したりしない。
幼い頃からわかりきっていたことだ。
お母さまはお兄さまのみを愛して、私のことは見てくれない。十五年もの間、お母さまの愛情は私に向けられなかった。それはもうきっと、どうしようもないことなのだ。
けれど、そんな私でもお兄さまは優しくしてくれた。もしかしたらそれは愛情じゃなくて憐憫だったのかもしれないけれど、それでもよかった。
五つ上で、体は少し人より弱かったけれど、その分人にやさしくすることをよくご存知だった。体調のいい時には社交の場に出向いて、そのたびに新しい友人をたくさんつくっていた。
お兄さまが倒れたと聞いた途端に、そうして出来た御友人からたくさんの手紙や薬が届けられた。
(神様、お願い。お兄さまを連れて行かないで)
私のいる真っ暗な廊下と違い、昼のように明るいお兄さまの部屋に向かって祈る。どうか、どうかお兄さまが今夜の峠を越えられるように。
――けれど、祈りは通じなかった。
稲光とほぼ同時に聞こえた落雷の音のあと、それまでとは明らかに違う叫びが聞こえてきた。
『お兄さまッ』
慌ててお兄さまの部屋に駆け込んだけれど、遅かった。
眠っているお兄さまにすがり付いているお母さまと、うなだれる御医者様。部屋の隅で目元を押さえるメイド達が、互いに肩を撫で合っていた。
私はただ一人、呆然と立ち尽くしていた。
「ロゼル嬢」
ご主人さまは急に僕を以前の名前で呼んだ。僕は一つ息を吐いてから振り返った。
「ウェルノです。何でしょうか、ご主人さま」
「……強情だな」
「申し訳ありません」
淡々とそう答えた僕に、ご主人さまは眉根をひそめた。
「私が気付いてないとでも思ったか?」
「何のことですか?」
「決まっている。貴様まだ仮面の男を捜しているだろう」
僕は一瞬だけ息が詰まった。
このひとはきっと僕の嘘など見抜いているだろうし、仮面の男について探っていたことも気付いているだろうとは思っていた。だがそれでも実際に言われると、心臓を素手で掴まれたような気持ちになった。
「貴様はまだデュール=サーシェットの復活を諦めていないのだな」
椅子にもたれ、指と足を組んだご主人さまは、赤い目で僕を見た。
「もう一度繰り返す。死者の復活は不可能だ」
「やってみなければわからないではないですか。実際あなたは本来死者の声を届けることができる悪魔なのでしょう? だったら」
「だから無理だと言っている。何度言ったらわかる、この愚か者共が!」
ご主人さまが机を荒々しく叩いた。先ほど注いだ紅茶のカップが揺れて、中身が少し零れた。
僕は瞠目した後、自ら首の後ろの髪紐を解いて、私に戻った。
「それでも私は諦められません」
「何故だ」
ご主人さまの問いに、私はきっぱりと答えた。
「お母さまのためだからです。お母さまが望んだことなら、私は叶えてあげたい」
お兄さまが亡くなってからすぐに、お母さまは私を悪魔の生贄とした。
元々お母さまはこの土地に長く住み、この土地に伝わる独自の魔術を継承する一族の末裔だったらしい。だが侵略戦争が起こり、お母さまの一族は本国への忠誠を誓った。
名前の発音も本国風に変え、サーシェット家に嫁ぎ、魔術を使うことを自ら禁じた。
だが永らく封印していたその術を、お母さまは息子を復活させるために利用した。
「私はあの女が嫌いだ」
「知っています」
契約を結んで以来、ご主人さまはなるべく契約者――お母さまと会おうとしなかった。会う時も演技を全身に貼り付けて、最低限の会話でしか接しなかった。
それもこれもあの時結んだ契約の内容が原因だ。
『死者の復活? 貴様ふざけているのか』
私を抱き起こした悪魔は、血の色に染まった目で母を睨みつけた。
『お前は死者を蘇らせることの出来る悪魔なのでしょう? だったら』
『不可能だ』
お母さまの言葉を遮って、悪魔は断言した。
『なら、あなたには何が出来るんですか?』
会話に割り込んだ私を、お母さまは冷たく見下ろし、悪魔はニタリと笑った。
『これは珍しい。もう口が利けるか』
『どうなんですか?』
相変わらず体はうまく動かせないが、なんとか喋ることはできた。私が重ねて問うと、悪魔は少しだけ考えた後で、自らの目を指差した。
『そうだな。悪魔は人の目をみて騙す。心に偽りを映すこと、嘘を真実と思い込ませること。この眼でそれらを可能としている』
『……死者の復活が出来ないという、嘘はついていませんか?』
『侮辱する気か貴様。私は誇り高き悪魔だ。そのような真似するものか』
その言葉を聞いて、私はほっとした。この悪魔は嘘をついていない。それなりに信用できると判断できた。
『よかった。それなら安心できます。あなたの力を使って、別のことをお願いできませんか?』
『……何?』
悪魔は、怪訝そうに私を見下ろした。
『私を殺して下さい』
私の言葉に、二人が言葉を詰まらせた。何を言っているのか理解されていない。そう思った私は、更に言葉を重ねた。
『あなたの眼の力を使って、死んだのをお兄さまではなく私だということにして下さい。今ならまだこの家の人だけで済みます。そしてあなたにお兄さまを、演じてほしいんです』
『私に人間を演じろと?』
『はい。あなたなら、そのくらい出来るのではないですか?』
私の言葉に悪魔は頷かなかったが、先を促すように言った。
『それで貴様はどうする』
『私はあなたに奉げられた贄です。お兄さまを演じていただくあなたのために働きます』
『ほぉ……?』
悪魔は感心したように言った。
そこへお母さまが口を挟んだ。
『なら、その幻惑を私にもかけなさい』
『……貴様、今何と言った?』
悪魔は低い声で訊ねたが、お母さまは答えなかった。
『契約内容は今ロゼラディナが言った通り。期間は、そうね、ロゼラディナが死者の復活の術を見つけて成功させるまでだわ。それまで私はお前をデュールだと思ってやることにします』
『思ってやる、とはいい度胸だな』
『私は召喚者でありお前の主。否定の言葉は無用です』
お母さまは悪魔相手にも堂々とそう言い放った。
『いいこと、ロゼラディナ。なんとしてでもデュールを取り戻す術を見つけなさい』
「……十五年見てもらえなかった。お母さまは、お兄さまばかり見ていて、私を見てくれなかった。そんなお母さまが唯一、私に価値を見出して下さったんです」
十五年生きてきて初めて、お母さまは私を見てくれた。
生贄でも何でも構わなかった。その事実だけで充分だった。
「そうか。もういい」
ご主人さまは静かに私の話を打ち切った。
「新しい服を用意した」
その言葉になんとなく既視感があって、奥へと通じている扉に目をやった。やはりというか、シャリテさんとネフェルさんがぼんやりとしたままで女物の服一式を抱えて現れた。
「それを着て今すぐ出掛けてこい」
「……どちらへ?」
「決まっている。デュール=サーシェットのもとへだ」
私は咄嗟に返答ができなかった。
中途半端に開いたままの唇から、ひゅ、と空気が漏れた。
無表情なご主人さまは椅子から立ち上がると、まるで当たり前のことのように私を壁際に追い詰めてしまった。
ご主人さまのつめたい指が私の頬を撫でる。親指の腹が左目の瞼をなぞる。涙を拭うようなそのしぐさのあと、ご主人さまはするりと私から離れた。
「その目で確かめてくるがいい」
「何を、ですか?」
「……行けば分かる」
珍しく言葉に間を含んだ言い方だった。
疑問には思ったけれど、私は敢えて聞かなかった。