禁忌の残り香
僕や僕の周りの人に何があっても、世界は変わらず朝を迎える。どんなかなしいことがあっても、そんなものは世界の運行に関係ないのだと、嘲笑っているかのようだ。
僕は寝床から体を起こした。普通なら僕くらいの年齢の使用人に一人部屋はあり得ない。けれどご主人さまは反論を封じ込めてしまった。そのあたり、あの方はかなり強引なやり方も厭わずに使ってしまう。
つらつらとそんなことを考えながら、僕は身支度を整えた。細く裂いた布でささやかだが確実なふたつの膨らみをそれで隠し、男物の服を身に着け、癖のある髪を苦労しつつ首の後ろでひとつに結んだ。支給品の鏡には本来の性別とは異なる姿があるけれど、それはもう見慣れた姿で、むしろ馴染んでさえいる。
「…………。」
窓の外に目を移す。今朝は雲が多い。うす曇りの空はどことなく不安になる。
寝所の片付けを軽く済ませて、僕は部屋を出た。
僕は新聞とティーセットを片手に、ご主人さまがいる書斎へと向かう。普通は私室の方へ向かうものだが、悪魔という人外の存在であるご主人さまはほとんどそちらには居ない。むしろ、四方を囲む本棚に囲まれたその部屋で雑事をこなしたり読書をしていたりする。
「おはようございます」
「ああ」
ノックをした後で僕が部屋に入ると、ご主人さまは手元の手紙から視線を上げて応じてくださった。ご主人さまは基本的に睡眠を必要としていないらしく、僕がどんなに早く起きていっても寝起き姿を見たことがない。大抵既に簡単な身支度は済ませてしまっている。
「どうぞ」
新聞を読むことは、ご主人さまの中でかなり上位の楽しみだ。僕が手渡すとすぐに目を通し、しばらくは何を言っても聞かなかったことになる。――普段ならば。
今朝のご主人さまは新聞を受け取るだけ受け取ると、執務机の上にぱさりと放置して、また手紙へと目線を落としてしまった。珍しい。そう思いながらも、僕は持って来たティーセットで朝一番の紅茶を用意する。既に充分に蒸らされた茶葉からは、ふわりといい香りが漂っている。
白滋のカップにとろりとしたあかい液体を流し込む。ソーサーに乗せてそばのテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ウェルノ。これを見ろ」
ご主人さまは手紙を指差していた。
丁寧に折りたたまれた手紙には、流麗な字が並んでいた。だがその差出人の名を見て僕は目をむいた。
「デュッシ=ケルファー当主……!」
夕べ僕達が出会った、ティレイシア=ケルファーにとてもよく似た人ならざるモノ。手紙の差出人はティレイシアの兄であり、ケルファー家の現当主である人だった。
「『会わせたい人がいるから、もし都合が合えば是非来て欲しい』、だそうだ。何日か前に受け取ってはいたが、行くつもりが無かったので忘れていた」
言われて僕も思い出す。何日か前に来たこの手紙に対して、『都合が合えばぜひ行きたい』とかそういった内容の返信をしたように思う。
ご主人さまはとても機嫌が悪そうだった。低い声と眉間に寄せられた深い皺。どうしたんだろうと様子を伺っていると、はたとご主人さまと目が合った。
「……何か?」
アイスブルーの瞳があっという間に血の色に戻った。妙だなと思ったその瞬間、ぷつん、と首の後ろから何かが切れる音が聞こえた。
「えっ!?」
慌てて手を回したけれどもう遅かった。癖の強い髪は音を立てて背に広がっていく。その状況に驚いている僕の視界の片隅で、ご主人さまはゆるやかに立ち上がった。
「跡が残っている」
僕のタイを簡単に解くと、ご主人さまは僕の首を掴んだ。力がこめられているわけではないから息は出来るけれど、ぞっとするほどつめたいご主人さまの指は、鈍痛を訴えるその箇所を執拗に撫で回していた。
「不愉快だな、ロゼル嬢」
髪の色は擬態した金髪のままだったけれど、その瞳は赤々と静かに燃えていた。
「お前は私の贄でありその全てが私の物だ。よって他者に勝手に傷をつけられるのは契約違反。違うか?」
「契約」
僕の胸にその言葉は音を立てて落ちていく。
悪魔であるこの方と交わした契約ゆえに、僕は本来の性別を偽り――ウェルノ=クランバーとして、この方の下に仕えている。
またこの方も、その契約の為にデュール=サーシェットという名を名乗り、黒髪と赤の瞳を魔術で塗り替え、人間として生活をしている。
「そう、ですね」
この体は自身のものではなく、この方にお仕えするための道具。必要とあれば何でも差し出すのが贄としての役目であり、存在理由。
道具であればこそ、所有者の求める要求はきちんと満たさなければならない。傷をつけるなというのであれば、その命令を守らなければならない。それが、契約。
「昨夜は、申し訳ありませんでした」
気付けば、そう言っていた。片手で僕の首を掴んだご主人さまはため息を一つついてから僕を放した。
「わかればいい」
それからご主人さまは、自ら解いた僕のタイを、きちんと締めなおしてくれた。きつくもゆるくもないけれど、僕の首にそれはかっちりと巻かれた。
「支度しろ」
ご主人さまは椅子にひっかけていた上着に手を取ると僕に手渡した。きちんとアイロンを当てられた上着を広げ、僕はご主人さまの後ろに回った。両手を上着の袖に通してから、前に回り、金のボタンを一つずつ嵌めていく。
「ケルファー家へ行かれるのですね」
「当たり前だ。礼はきっちりと返すべきだろう?」
「そうですね」
いつの間にかご主人さまの手の中には細い紐が一本用意されていた。僕はそれを受け取ると、ぱらぱらとこぼれる髪を首の後ろで縛りにかかった。
「……ロゼル嬢」
「何でしょうか?」
答えてから僕は口に紐をくわえた。広がろうとする髪を両手で束にまとめる。
「契約の履行上必要なことといえど、正直その姿は気に食わん」
「ですが女のままでは外出時にお仕えできません」
束にした髪を紐できっちり結んでから、僕はご主人さまを見上げた。
「さ、行きましょう、ご主人さま」
「ケルファーの町屋敷までですね。かしこまりました」
御者は頭に包帯を巻いた姿で現れた。痛々しい姿に僕が思わず声を失っていると、御者は苦笑して帽子を目深に被った。
「ああ、これですか? 昨夜ちょっと夜中にぶつけてしまいまして。いやはや、お恥ずかしい」
それを聞いたご主人さまは「それは気の毒だな」といけしゃあしゃあと口にした。早く治すようにと添えることも忘れない。
「……ご主人さまの『眼』の力には、驚かされるばかりです」
馬車に乗り込んで、僕は思わずそう言った。
昨夜、御者のハザックさんは彼女に頭を殴られて昏倒した。ご主人さまはその傷が大したことがないことを確認してから彼を強制的に叩き起こした。
『先程見たことは忘れろ』
ご主人さまの赤い眼を真正面から受けた御者は、そうしてその言葉通り忘れさせられてしまった。
「昨夜のことをぎゃあぎゃあと騒ぎ立てられるのは面倒だったからな」
長い足を組んだご主人さまは、髪をかきあげながら答えた。
「それよりウェルノ」
「なんでしょう?」
「デュッシ=ケルファーとはどんな奴だ? そこまでの付き合いがないのでわからん」
ああ、と僕は頷いた。
ご主人さまはこんな風に生活されるようになって久しい。けれどもデュッシ様と手紙のやり取りはしても、直接会うことは少なかったことに気がついた。
「デュッシ様は名門ケルファー家のご当主になって二年、いえ三年経ってますね。先代は病で亡くなっています」
「ふむ。それで?」
「……もともとは、かなり仲が良かったように思います」
「それが何故手紙か、社交の場での世間話相手レベルの相手に変わった?」
ご主人さまの当然の問いかけに、思い当たる節は一つしかなかった。
「デュッシ様は同腹の妹君が、亡くなられてからずいぶんふさぎこんでいらっしゃいましたから」
「それがティレイシア、か?」
「はい」
ご主人さまはそうかと一言うなずいてから、何か考え込むように黙り込んでしまった。
そのとき、ごく自然な動きで馬車が停止した。御者の声だけがのんびりと響いた。
「ケルファーの屋敷に到着いたしましたよ」
「ああ」
ご主人さまは答えると、難しい顔をしたままで馬車を降りた。ところが、ケルファーの屋敷の門の前にはその家の使用人の姿が一切見えなかった。
「……あれ?」
代わりに、いたのは。
「やぁ、デュール。それにウェルノ」
金髪碧眼のその人は、人懐っこい笑顔を浮かべた。二十二という年の割に子どもっぽい甘さがどこかにある笑い方だけれど、それを嫌う人は殆どいない。そばに供を連れていないのは、この人の家とケルファー家がかなり近い場所にあるからだ。それで散歩がてら歩いてきたのだろう。
「アザヤか」
ご主人さまがふっと口元に笑みを浮かべる。紗に構えることの多いこの方が素直に笑って見せる数少ない一人がこの人――アザヤ=リーガー様だ。
リーガー家はここ数十年で急に力を立ててきた一族だ。魔術研究にも造詣が深く、リーガー家に生まれた男児はほぼ漏れなく本国に魔術留学をさせられている。アザヤ様もほんの半年前にその留学から戻ってきたばかりだ。
「どうした?」
「いやー、俺こないだデュッシから手紙を貰ったんだ。ほらコレ」
アザヤ様はそう言ってケルファー家の紋付の封筒を見せてきた。
「同じものだな」
ちらりと見ただけでご主人さまはそうと理解する。
「そうなのか? こりゃデュッシは俺達二人を呼んだわけだ。なーのーに、この有様ってワケね」
アザヤ様は困り果てたように肩をすくめた。
「大声で呼んだんだけど誰の反応も無いし、使用人達の姿も見えない。そろそろ門をくぐっちゃおうかなーとか考えてたとこさ」
アザヤ様は軽口を叩いたけれど、その目が急に真剣になった。
「通りがかりの近所の使用人とかにも聞いてみたらね、今日ここの家の使用人を見たやつは誰も居ないんだ。日も十分高くなったこの時間に、おかしくないか?」
アザヤ様は睨み上げるように固く閉じられた門に目をやった。
「……ウェルノ。ちょっとあたりを見渡してこい」
「はい」
ご主人さまは一瞬だけ僕に警告するようにその目を赤く染めた。――夕べのことといい、何かあったことは明白だった。ケルファー家の外周をぐるりと回る。サーシェット家どころか、この町の貴族屋敷のどの家と比べても抜きん出て強い力を持つケルファー家。それを誇示するかのように敷地も広い。けれど異常は簡単に見つかった。
「ここです。ご主人さま」
正門から一つ曲がっただけの垣根のそば。北向きのそこは妙に人目につきにくいせいで、垣根の根元が少しだけ荒れていることに誰も気付かなかったらしい。
少女一人くらいならなんとか通れそうな穴がそこに開いていた。土にはべったりと、赤いモノがこびりついている。
「血?」
「の、可能性が高いな」
ご主人さまははっきりと断言はしなかったが、表情一つ動かさずに観察していた。
血とおぼしきそれはすっかり乾ききっていて、今しがた流されたものでないことだけは見て取れた。
「ウェルノ、入れ。謝罪はあとですればいい」
「あー確かに。俺達は無理でも、きみなら通れそう」
ぽんとアザヤ様は手を打ってご主人さまに同意した。成人男性と僕との体格差は明らかに違いすぎた。まぁ僕の本来の性別は女なのだから、それは当たり前だけれど。
「あ、怒んないでねウェルノ。ちゃんと成長するって」
そのことを知らないアザヤ様はそう謝ってきた。
成長。
忘れていた。アザヤ様の言葉で脳裏を掠めた。
僕がこのまま、成長したとしたら。
「ウェルノ」
ご主人さまの声が僕を現実に引き戻した。
「っ、はい!」
「何かおかしいと思ったら迷わず戻れ。いいな?」
「はい」
ご主人さまの命令にしっかりと僕はうなずくと、地に膝を突いた。服の肩が少し引っかかってしまったけれど、服に傷をつけることも無くくぐることが出来た。
「いってきます」
僕は垣根の向こうの二人にそう声をかけて、ケルファーの屋敷へと走った。
だが走れば走るほど、胸の奥にいやな臭いが沈殿していった。身に覚えのある、錆びた臭い。
「血の臭い、だ」
鼻先を掠めていくそれに吐き気を催しそうになって、僕は鼻先をハンカチで覆いながら進むことにした。
正門からまっすぐ見える家の正面玄関の鍵は当然ながら開いていなかった。仕方なく僕は裏口目指した。家のそばにはもう隠しきれないほどの血の臭いが充満していて、喉からこみあげるものを僕はこらえながら進んでいた。
この先に進めばきっとよくないモノがある。もうそれは予感ではなく確信だった。けれど僕は進むことを止められなかった。だんだんと力が抜けていく足でなんとか入れそうな窓を探す。
「あ」
じゃりりと僕の靴がガラスを踏み砕いた。見ると、破られた窓が一枚。
反射的に窓枠に手をかけたが、枠に残って板ガラスが手袋越しの手のひらに突きつけられた。
「いっ」
すぐに僕は手を引いたが、白い手袋にジワリと僕の血がにじみ始めていた。
(あとでご主人さまに叱られてしまう)
仮に黙っていたとしても、多分あの方は僕が血を流したことすら知っている。契約のせいで、僕の体の異常はすべてあの方に伝わってしまう。贄と悪魔は厳密に繋がっているからだ。
しばらく考えた後、僕はそばにあった小石で窓枠に残るガラスを綺麗に落とした。僕は両手に手袋がはめられていることをしっかりと確認する。
「っ、く……ぅ」
偽装しているとはいっても僕の腕力は年相応の少女程度しかなく、痩せた腕では自分の体重を支えてよじ登ることはかなり困難だった。それでもなんとか登って、けれどそれが僕の精一杯。あとはどさりと鈍い音を立てて落ちた。
顔から落ちずに済んだことが唯一の僥倖かもしれない。かわりに右肩がひどく痛む。
「うぅ……」
倒れた体を起こそうとして腕に力を込めた。そうして無意識に深く吸い込んだ空気は、外のそれとは明らかに違いすぎる濃い血の臭い。むせ返るどころか、喉元にせりあがってきた胃液を、僕は止めることが出来なかった。
「ゲ、ホッ……ぅ、え」
喉が焼き付けられる。けれどまだ吐き足りない。体の中に入ってきた血の臭いは不愉快な手で僕の体の中を逆撫でていく。吐き出せるものを全て出して、咳を繰り返しても繰り返してもそれはとまらない。
「ふ、うッ……」
こんなところ頼まれてもいたくない。戻りたい。そうしてご主人さまに報告をすればいい。
そう思う自分も確かにいた。
「だめ、だ」
けれど、僕は立ち上がった。
「絶対にだめだ」
戻るわけにはいかない。
だって、見てしまったから。
空の瞳。汚れた髪。くずれそうな肉をまとっていた彼女。
いつか見た、自信に溢れたあの姿。美しく飾られたその姿は、強烈に私の中に残っている。確かに蔑まれ、笑われたけれど、その姿を羨ましく思う心の方がずっと強かった。
だって彼女は、確かな愛情にくるまれて育ってきた人だったから。
これから向かうその先には、その証拠があるに違いない。
「…………ッッ!!」
そうして、僕はたどり着いた。廊下からずっと続いていた血の臭いはその部屋から漂っている。廊下までは死体一つないくせに、扉の向こう側から血と、そして死の気配が溢れていた。
苦いものがまだ残る喉が、再びびくりと震えた。
それでも僕は扉を開けた。その途端、全身がむっとする血の匂いに包まれた。
「な、に、これ……」
血で描かれたまじないの円陣は、見たことの無い形式だった。その中央だけがぽっかりと空白で、円陣の線と線とが交わりあう場所には様々な捧げものがあった。それ以外にも辺りに山と積まれた使用人達の死体。血を抜き取られて紙のように真っ白な肌を晒している。
「ッ」
そして、見せたいものがあるから家に来いと言っていたその人も、体の中央に大穴を開けて倒れていた。その絶望に満ちた顔を見て、叫び声を上げたのかそうでないのか、僕にはわからない。
「ま、さか……」
ありえないと思っていた。けれど、昨日彼女を見た時から、その思いは僕の中で揺らぎ始め、今ようやく確信を得た。
溺愛していた妹を亡くしたデュッシ=ケルファーも、それを試そうとしたのだ。
禁忌である召喚術の中でも、最も危険とされる術。それが死者の召喚。魔術研究者によってはただの伝説だと唾棄される術。
その存在の実在を、僕はこのとき知ってしまった。