異形になった少女
蹄と石畳がぶつかりあう音が、夜に響く。
揺れる馬車の中には僕とご主人さまが向かい合って座っている。満月のような淡い金の髪は結っていないためにさらさらとこぼれる。つまらなさそうに外を眺める瞳は、冬空にまたたくつめたい色の星によく似ていた。
黒と白ばかりを好んで身に纏う僕の主は、だが今大変に不機嫌だった。
「毎度のことながらセルデ院長とやらは話が長いな。サーシェットの家は充分に援助金を出しているであろうに何か不満でもあるのか?」
「報告のつもりなでしょうね」
今日は少しばかり町を離れて、ご主人さまが身を置くサーシェット伯爵家が支援する郊外の孤児院の視察に行っていた。視察自体は順調に進んで、夕方までには全て終わっていた。遅くなってしまったから夕食をと勧められて、質素ながらも味わい深い食事を頂いて、そこまではよかった。
が、問題はそこから。孤児院を任されているセルデ=クランバー院長は、それはそれはお話しが好きな御方なのだ。夕食中に話を始めた院長は、子供たちひとりひとりの様子からそれぞれの抱える問題、院を出ていってからの子供たちの話と、話題は全く途切れなかった。
対して僕の主は仕事が終わったならばそれ以上のことはしたがらない。だからといって無碍に出来る相手でもないので、早く帰りたいという一言を容易に口にするわけにもいかず、ご主人さまは仕方なく相槌を打ち話を聞き続けるしかなかった。だが、その間の苛立ちは静かに静かに溜め込まれていた。給仕のためにそばに控えていた時から予感はしていたけれど、やはりそれは帰りの馬車で従者たる僕に向けられてきたのだった。
「大体いちいちよく覚えているものだな。容姿から癖まで細々と」
「そうですね」
「ウェルノ。貴様私の話を真面目に聞いているのか?」
ええもちろん、そう言い返そうとしたその時、ガタンと急に馬車が止まった。急停止だなんて珍しい。そう思って僕は御者に声を掛けた。
「どうかしましたか?」
「あれを」
御者が顎をしゃくった先。小さく叫びそうになって、咄嗟に口許を押さえ込んだ。
街路に、僕と同い年、十代半ばを少し過ぎたくらいの女の子が裸足のままで立っていた。ボロ布よりも酷い着衣から白く肌が露出している。振り乱した長い金の髪が顔を隠していた。何が起きたのか、なんて。考えるだけで背筋が凍り付く。
「ご主人さま、あの……」
「好きにしろ」
ご主人さまは僕の言葉を聞かずとも察したらしい。
「行くなら早く行け」
「はい」
その言葉に弾かれるように、僕は馬車を飛び出していた。
靴の踵が石畳にぶつかって、かつんと鳴った。金髪の女の子も、それで近寄る僕に気付いたらしい。俯いていた顔が僅かに持ち上げられた。
「こんばんは」
声の震えを可能な限り殺して、彼女に話し掛けた。
「僕はウェルノ=クランバーといいます。これ、どうぞ」
そっと近寄ると、土と血のにおいが僕の鼻先を掠めていった。脱いだ僕の上着を肩にかけられても、彼女はぴくりとも反応しない。
「よかったら、僕のお仕えしている屋敷で少し休んでいきませんか?」
一瞬迷ったけれど、僕は名前を出すことにした。
「サーシェットの町屋敷、なんですけど」
その時、彼女の乾いた唇が、かさついた音を立てた。彼女がなんと言ったのか、僕には聞き取れなかった。
「え? すみませんがもう一度……」
僕の言葉は既に彼女には聞こえていなかった。
金の髪を振り乱して、彼女は咆哮を上げた。今まで聞いたこともない叫び声。おおよそ人の喉から出せるようなものではなかった。
呆然と立ち尽くしていると、御者が何事かとこちらに向かって走ってきた。
「どうしました、大丈……」
振り向きざまに彼女の腕が風を切る。彼女の細い腕が御者のこめかみに叩き付けられ、肉のぶつかりあう奇妙な音が聞こえた。
「ハザックさん!!」
名を呼んだけれど、御者は白目を剥いていた。彼が倒れると鮮血がその跡をたどっていった。
御者を殴り倒した彼女が次に狙ったのは混乱して無防備な僕だった。肩を突き飛ばされ、僕は石畳に倒れ込む。ゾッとするほど冷たく硬い石畳から咄嗟に起き上がろうとしたけれど、それより先に腹の上に彼女がのし掛かる。冷たい指が首に絡む。
「っ、ぐ」
目の前にいるのは人間じゃない。今更ながら実感する。あるべきはずの目玉が彼女には無く、ふたつの空洞がぽっかりと顔にあいていた。
人ならざるモノ。一般に悪魔だとか魔物だとか化け物だとか、呼び名は様々だけれど、この土地はその昔、そういったものが跋扈していた。今でこそ数はかなり少なくなったと言われているけれど、時折そういったものに襲われたという人が出る。――まさか、自分がそうなるとは思いも寄らなかった。
彼女が指に更に力を込めてきたせいで、ギリギリと首筋が悲鳴を上げる。息が詰まる視界が霞む。混濁する僕の意識。長い彼女の金髪が、ぱらぱらと肩から零れ落ちた。ばさばさに乾燥していて艶のない髪を見て、なぜか僕は昔誰かに言われた言葉を思い出した。
『見て御覧なさいな、あの黒髪』
くすくすと忍び笑いが聞こえてきた。さりげなさを必死で装いながら声のした方に顔を上げると、そこには数名の少女達。一番上等のドレスに身を包んだ少女と、その取り巻きたちのように見えた。取り巻きたちを統べる少女の金髪はこまやかに編みこみがされていて、美しい髪飾りが大胆に飾られていた。高名で伝統ある家の出身だった彼女の名は、確か。
「私の贄を離せ」
ガツッと硬質な音とともに、黒い杖が彼女を凪いだ。彼女の指が首から離れて、新鮮な空気が一気に体内に流れ込んだ。
夜によく馴染む声の持ち主は、杖を片手に僕の傍らに立っていた。
「無事か? ロゼル嬢」
普段はその名で呼ばないのに、ご主人さまは僕のことをロゼルと呼んだ。とっさに首の後ろに手を回した。――長い髪を結ぶ紐がちぎれてしまっている。
「返答はどうした?」
「無事です。あと僕はウェルノです」
僕の答えにご主人さまは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「強情な贄だ」
ご主人さまは視線を彼女へと移す。ご主人様の杖にはじかれた彼女は仰向けに倒れていた。
「屍ごときが何をしようが私にはどうでもよい。が、我が贄に手を出されたのは不愉快だ」
ご主人さまのアイスブルーの瞳が、血の色に染まる。月の色をしていた髪が、闇の色に塗り変わる。
――人ならざるモノ達が多く跋扈していたこの土地。我が主もまた、その本性は人ではない。
「ふん。屍を下等なモノどもの入れ物にしたか」
人間の召喚に応じ、契約を結ぶ代わり、代償を求める。
悪魔。
人ならざるモノ達の中でも最も力が強いといわれている存在だ。
「屍、ですか?」
「ああ。肉のほとんども魔術で見せかけているだけの偽物だな」
片手に黒杖を持ったまま腕を組み、血の色の瞳が彼女を観察した。ぴくりと彼女の指先が痙攣したのをご主人様は見逃さなかった。
「ほぉ、まだ動くか」
仰向けになった状態から、全身のバネを使って彼女は一瞬で体を起こす。突進してきた彼女を、半歩身を引くだけで避け、更にすれ違いざまその腹に黒杖を叩き込む。
「無礼者め」
ご主人さまの唇はクッと緩んで、蔑みに嗤う。その唇は何事かを呟いた。聞いたことの無い知らぬ言葉だけれど、おそらくは呪術の類だろう。
それを耳にした彼女の反応は速かった。ご主人さまに向かっていた体を強引に捻ると、すぐに反転した。彼女は人間ではありえない跳躍力で大通りの屋根の一つに飛び乗った。
「逃げるか。格の違いは心得ているのだな」
屋根の向こう側へ飛び移ったのか、彼女の姿が見えなくなった。ご主人さまは更に追うことはしなかった。金の髪の彼女が消えた方向をつまらなさそうに眺めていたが、それから一向に彼女が戻ってこないことを確認してから、僕の方へと向き直る。
「……さて。ロゼル嬢」
ご主人さまの指は、僕の髪を撫でた。背中にまで伸ばされた癖のある黒髪を、ご主人様はどうやら酷く気に入っているらしい。
「あの下等生物に見覚えは?」
長い指を僕の髪に絡ませて遊びながら、そう問いかけてきた。
「……ありません」
咄嗟に僕は嘘をついた。するとそれまで僕の髪を弄っていた指が、流れるように僕の首筋へと絡み付いてきた。
「ほぉ?」
ご主人さまの指の腹が僕の首を撫でた。そこはちょうどさっき彼女の指があった場所で、触れられると鈍い痛みが走った。僕が眉をしかめたのに気がついたのか、ご主人様はそこに爪を立てた。
「ッ!」
「もう一度問う。次は真実を答えろ。でなければ我が『眼』を使って強引に聞き出してやる。――あの女に見覚えは?」
僕の首に爪を立てながら、
「……あります」
「どこの誰だ」
「ケルファー家、の」
「ふむ」
「ティレイシア、です」
取り巻きたちを大勢はべらせていた少女に、彼女はとてもよく似ていた。
だけど、こんな風に再会することはありえないはずだった。なぜならば。
「その娘は死んでいるな?」
ご主人さまは確認のためにそう聞いてきた。
少しためらってから、僕はうなずいた。
「そうか。わかった」
ご主人さまの指が僕から離れる。ようやく開放されてホッと息をついていると、冷たい声が浴びせかけられた。
「次はもう少し素直に答えて欲しいものだな」
ご主人さまは僕をおいて立ち上がると、傍らに倒れている御者を簡単に担ぐと、乱雑に馬車の中へ放り込んだ。
「……はい、ご主人さま」
僕は、ただそう答える他無かった。