はじまり
私が死んだ晩のことを、私は今でも克明に思い出せる。
涙が出てこなかった。
私は冷たい石畳の床に裸で寝かされている。殴られて、気を失って、目が覚めたらこうなっていた。
痛む手首に目をやると、トロトロとなまぬるい血が流れ出していた。
蝋燭がゆらゆらと辺りを照らしている。まだ痛む頭は聞こえる言葉の意味を理解できなかった。なんとかわかるのは、その声が母のものだということくらい。
(お母さま)
お母さまは、お兄さまを愛していた。
五つ上に生まれたお兄さま。生まれつき体が弱くて、けれども優しくて聡明だった。
お兄さまが熱を出したと聞けば、お母さまはお兄さまの寝所へ飛んでいって看病した。眠らずにお兄さまの額に浮かぶ汗を拭き、召使達に湯を沸かすように指示を下していた。
お母さまは、お兄さまだけを愛していた。そして、お母さまに私は不要だったのだ。
お兄さまに聞かせているような、あたたかな言葉を下さることは殆どなかった。
お兄さまのような聡明さを私は持っていなかった。家庭教師に言われたことをきちんと覚えても補えないほどに私は至らなかった。
お兄さまのようにたくさんの友人を持てずにいた。話すことはあまり得意ではなくて、社交の場に出されてもいつもうつむいていた。そんな私に注がれるのは好奇か嘲りのどちらかだった。
女に生まれたけれど、豊かな胸や丸みを帯びた腰を持っていなかった。まるで少年のようにがりがりで、恥かしくてたまらなかった。
それでもいつか、いつかお母さまに愛される日が来ると思っていた。
けれど、私はもうすぐお母さまに殺される。
蝋燭は規則正しい位置に置かれている。私の血で書かれた円陣の中央に私は寝かされている。
血と生贄を捧げて人ならざるモノを呼ぶ儀式、召喚術。この国――アスタヴィラで禁じられている魔術の一つだ。けれどその魔術が今まさに行われようとしていた。術者はお母さま。そして私が生贄。それが事実。
普通なら涙が出るはずなのに、私の目元は乾ききっていた。悲しい時は泣くものだとわかるのに、私は泣けない。死にそうなのにその実感もない。私はどうしたらいいのか、わからなかった。
お母さまが口ずさむ呪術は段々と声が高く早くなっていく。それにつれて体の感覚が無くなっていった。確かに痛みを帯びていたはずの手首が、冷たいと思っていたはずの背中が、わからなくなっていく。意識もだんだんと白く白く塗りつぶされる。私自身が私のことがわからなくなる。
これが、死というものならば、随分優しいものだと思った。
もっとつらくて苦しくて、寂しいものだと思っていた。
そう思ってからどのくらいの時間が経ったのかは分からない。けれど、不意に私の体が抱き起こされた。重い瞼を持ち上げる。先程と変わらない仄明るい部屋に、ぼんやりした影が一つ増えていた。
「まだ生きていたか」
記憶の中のどこを探っても、聞いたことの無い男の人の声だった。
「稚拙な技術だがこの私を呼ぶとはな。よほどの妄念か、或いは贄の質か」
他人事のようにそう言って、彼は私を見下ろした。
その瞳は血の色。そのひとが人間じゃないとすぐに分かる色だった。
※
その直後。私は自ら死ぬことを選んだ。
それが、罪のはじまりだった。