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――ここは、どこだろうか。
ぼんやりと覚醒しない頭で、視界に映る天井を見つめた。だが、答えに至る前に彼女は体を起こした。
半分開いた窓から差し込む光が、夜が明けたことを知らせている。それどころか、太陽の位置は随分高いようだった。
目を細めて光を緩和していると、次第に意識も覚醒していく。
「そういえば、昨日はここに泊まったのだったな……」
彼女は名を、彩蘭と言う。成人を迎えたばかりの少女と変わらない姿をしている。
彩蘭は欠伸を押し込めて、窓の戸を限界まで開いた。そして、ここ最近慣れ親しんだ景色に小さく息をついた。
ここは、東の最も端にある矢神の里であり、里を治める矢神家の一室だった。彩蘭は五十年程前からこの里で暮らしている。普段は矢神邸の裏山の中腹にある、矢神家の別邸で日々を過ごし、気が向くままに山を下りて麓にある里を訪ねているのだ。
ふと、廊下を走る音が聞こえて振り返ると、それは部屋の前で止まり、勢いよく部屋の襖が開かれた。
「ひめさまぁ―――!」
少し高めの声が二つ重なって、彼女の後ろへ消える。全く異なる感情を乗せたそれらは、別の足音が原因だった。
「こら――――! あんたたちいい加減にしなさい!」
声高に叫んだ主は、浅羽である。彼女は、怒りの形相で彩蘭の後ろに隠れた子供たちを睨んでいた。
一方、彩蘭の左右から顔を覗かせた二人は、一方が舌を出し、もう一方はすっかり委縮していた。
先程嬉しそうに顔を見せ、今舌を出して反抗の意を示しているのは総悟、逃げるように隠れて怯えているのが結である。
彩蘭の腰にも満たない背格好の二人は、よくこうして彩蘭に会いに来るのだ。
「そんな怒ってばっかいるとしわが増えるんだぞっ。ますますおばさんになっちゃうからなっ!」
総悟の言葉に、浅羽は青筋を立てる勢いで笑みを浮かべた。その凄みを纏う笑みに結はさらに縮こまる。
「ご、ごめんなさいっ」
「こら結! 男たるもの女に頭を下げるなって言っただろっ」
「あら、男たるもの女性に向かっておばさんなんて言うものじゃないと思うのだけど。第一、わたしはおばさんなんて言われるほど年を取ってません!」
彩蘭の後ろで交わされる会話に浅羽は雷を落とす。 彩蘭よりも確実に年上な彼女は当然、彩蘭より何十年も早く生まれている。おばさんがどうのという年齢でもないだろう、と彩蘭は苦笑した。
彼女は十年程前、里の近くで行き倒れているところを彩蘭に拾われ、今はここ矢神家の一人息子の妻として暮らしている。
浅羽は彩蘭の着物を掴んだままの子供たちを見て冷たく笑った。
「それと、女性の寝室に許可なく入るのは男としてどうなのかしら? あげく、女性の後ろに隠れて………。まだ子供なら分かるのだけど」
大きく溜息をついて睨むと、彼らはびくりと肩を震わせてさらに彩蘭にしがみついた。
「お、おおおれ子供でいい!」
「ご、ごめんなさい!」
彩蘭は思わず吹き出した。小さくくつくつと笑っていると浅羽の矛先が彩藍に変わった。
「姫様! 笑ってないで少しはこの子たちに言い聞かせて下さいっ。だいたい、今何時だと思ってるのですか。もうお昼ですよ!? あなたのお世話をするこちらの身にもなってください」
浅羽の小言は彩蘭が答えるよりも早く、総悟によって遮られた。総悟は彩蘭の手を掴んで引いている。
「ひめさま、おはよう! 早く遊び行こーぜ!」
「おはよう。総、姫様じゃないだろう?」
「ランさま?」
「様もつけない約束だろう?」
「ラン姉ちゃん!」
訂正を繰り返した総悟に彩蘭が笑み返すと、もう片方の手を引っ張られた。おはよう、と小さな挨拶が聞こえて彩蘭は結の頭を撫でた。嬉しそうにされるがままに撫でられている結に、おはようと返す。
そこで完全に無視されていた浅羽の溜息が割って入った。
「……もういいですから姫様は着替えて下さい。お布団片付けちゃいますから。……まったく、どうしてこう人の話を聞かない人ばかりなのでしょう。わたしは気苦労が絶えません。この前だって勝手に髪を切ってしまわれて……」
「浅羽の姉ちゃん、怒ってばっかだな」
押入れを開けた浅羽は、総悟の言葉が聞こえたのだろう。次の瞬間、ぴしゃりと雷を落とした。
「二人は外に出てなさい!」
ぎゃ、と悲鳴を上げた二人は再び彩蘭の後ろに隠れた。彩蘭は溜息をついて二人に助け船を出した。
「総、結。二人ともまだ食事もしていないだろう? 下に行ってお昼をもらっておいで。遊ぶのはその後。私もすぐに行こう」
「うん!」
今度は大人しく従って、彼らはあっという間に部屋を後にしたのだった。それを見送った浅羽は不服そうに溜息をついてる。
「もうっ、姫様の言葉だけは素直に聞くんだから……」
独り言のように呟くと、浅羽は背を向けた。彩蘭はその後ろ姿と子供たちが出て行った部屋をただ見つめていた。
彼女の本当の名は藍彩霞と言う。
誰一人生き残ることなく滅びたと言われている藍の一族の、ただひとりの生き残りであり、ただひとり真実を知る人間である。
そんな彼女は現在、紅家に縁ある者としてこの里に預けられ、暮らしている。
彼女の正体を知っているのは矢神の里長である悸暎とその妻木蘭、そして二人の息子の杜樹だけだ。
しかし、彼らは彩霞に何かを訊くことはない。彩霞自信訊かれたくなく、訊かれても答えることはないだろう。彼らはそれも承知で何も訊かずにいてくれる。だからこそ、彩霞はこの里で五十年という時を過ごすことができた。
だがしかし、彩霞はこの穏やかな日常がいつまでも続かないことを知っている。彼女自身、それを望んでいるわけではない。
彼女の時間は一族が滅んだ日に止まっていた。すべての想いと願いを背負い、彼女は今も一族とあった時の中にいる。狂った時計の歯車を再び動かすその時まで、彼女は自分の中の時を止め続けるのだ。
そして今、周囲の想いをふいにして、彼女の時に異変が起き始める。
――もう、誰にも邪魔はさせない。やっと、この時が来たのだから。この時を逃しもしない。
彩霞は誰も見たことが無いくらい楽しそうに微笑んだ。
―――やっと、見つけた。