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【捌】

 

 鬼――おに、とは、猛るたましいである。

 ひとの骨肉を喪ったかれが存在をつなぐすべは、ひととしての感情や記憶を捨て、荒ぶるままに悪鬼としてふるまうか、神として昇華されるか。

 結果かれは、ひととしてのおのれを捨てきらなかった。さりとて陽のあたるところには、身をおく気にならぬ。今さら命の環にもどるなど論外である。

 そうやって、ふらふらと陰なる場所をもとめてひとの世をさすらうこと数百年。いつのまにやら〝貧乏神〟などと称されることになったのだ。


 すなわち、今でもかれは、ひとを捨てきらぬ。貧乏神の看板などうち遣ってしまいたいが、閑古鳥がさえずりをあげる暇(いとま)すらなく、年経るごとに商売は繁盛してゆくばかりだ。

 目のまえに立つふたりの人間を眺め、郭公は、だれにともつかぬ憫笑を洩らした。


(ほんに……この世は変わらぬものであることよ)


 いつからか、貧乏神の胸のうちには、飢えとは違う苦いあきらめがしこりとなって育っていた。神であればだれもが抱える虚無の小石は、知らずしらずのうちに、わずかに残されたかれの〝ひと〟の部分を、すこしずつ削りとってゆくようであった。

 ふと。

 視界のすみで、やわらかい形のものがうごいた。茶色い巻き髪からはみでる、白い耳がふたつ。

 童形の狐神が、いたたまれず、こちらを覗こうと社の結界のぎりぎりまでつめ寄っているらしい。

 貧乏神のにがい笑みが、ほろりと崩れた。

 吐き出す息とともにそれを流すと、歳月の色に染まった、やぶれ団扇をひとつあおぐ。すると、白装束たちを凍らせていた風が、ふうわりと大気になじんだ。


「――おまえの失ったものなど、わずかなものさ」

 

 本当に喪ったもののまえで、ひとはどれほど絶望し、体と心とたましいを削りとられるかを知っているから。


「真に貧しいとは、な。おまえたちの考えているようなものではない。物がない、金がない、食うものがないというのが貧乏ではないのさ。おまえのしなびた心が、まことの貧乏というんだ」


 おのれの痛みを誇示したいのではない。理解がほしいのでもない。ただ――気づいてくれと願うのだ。あの痛みを味わうものは、あまり多くなくてよい。

 あやうい淵にたつものは自業自得だ。だがその陰には、辛いとすら声をあげられないものたちがいる。そこにかれは、亡くしたものの影を見るのだ。

 しずかな言葉は、しかし、目のまえのふたりには届かない。


「金に心など関係あるものかっ。金は、金。ただのものだ。詭弁を申すなっ!」

「そ、そうだ! 難民の子どもたちのまえで同じことを云ってみろっ」


 まるで次元の異なることを云いだす始末。

 挙句の果てに、


「貧乏神め。どこまでもひとをたぶらかしおって……悪縁もろとも、この世から祓い清めてくれようぞ!!」


 大見得をきるや両掌をあわせ、唸り声ににた詞(うた)を唱えはじめる。

 ぴくり、と郭公の肩がちいさく震えた。


「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ……」


 大祓詞(おおはらへのことば)だ。文字どおり、犯した罪と穢れの清浄を請う、神へ奉上の言葉。ながい年月で使われる目的が変わろうとも、国土に沁みついた韻律のもつ言霊(ことだま)は強い。


「……む」


 貧乏神のからだから、急速に力が奪われていく。溜めこんだ陰の気が、祝詞(のりと)によって引きずり出され浄化されているのだ。

 ただでさえ青白い顔から、ひとでないというのに脂汗が噴き出る。たまらず、ひざをついた。


「――おやめくださいっ!」


 甲走った声とともに、ぱたたとやってきたのは白い狩衣を着た童神(わらべがみ)。


「このかたは、おまえたちの思っているような悪神ではありませぬっ」

「な、なんだ、貴様」


「……やめろ。動くなと、云ったはずだ」


 祝詞はまだ続いている。ジャージ男は白装束の腕のすき間から錫杖を抜きとると、頭上でおおきく振りまわすようにして脅しをかけた。


「お、おまえもこいつの仲間か。だったら、ま、まとめて退治してやる」


 とがった先端を、けものの耳のあるちいさな頭に突きつける。


「なにをなさるのですか!」

「へ、へへ。び、貧乏神をたおして、大金持ちになるんだ」

「お止めくださいっ!」

「うるさあああぁい……っ!!」


 罵声とともに銀色の棒がしゃりんと宙に振りあげられ――――そこで、静止した。


「――なぜなのでございますか」


 そのちいさな頭に、棒を下ろすことができない。重力に従うだけであるはずなのに、けして軽くないそれを持つ男の腕が、ぶるぶると小刻みに震えはじめた。

 畏怖。

 童子のものとしか思えぬ、つぶらな瞳が見上げる。


「なぜなのですか。なぜ、ひとは、いつもいつも耳を傾けぬのでございますかッ!」


 かつり、と、叫んだ口から牙が伸びた。狐形の童子の体から、白くゆらめくものが天高くほとばしった。火焔ではなく熱でもなく、存在が発する力が顕現したもの。

 それは、郭公の目にすら偉容であった。


(しかもこれは……――――)


 一条の金が背を走る、まったき白におおわれた、しなやかなけものの躯(からだ)。とがった耳に長い口吻。両の眸(ひとみ)すら真珠の光沢を放つなか、ぞろりと牙のならぶ口からのぞく、鮮烈な赤。

 そして、なによりやわらかにうねる体の先には、まさに焔(ほむら)のごとく裂けた白い尾がここのつ、禍まがしく揺らめいていた。



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