【伍】
不穏な風が吹いた。
すくなくともこの世の生けるものたちには歓迎されない、陰の気に満ちた風である。
郭公の痩せた肩が、緊張をおびてとげとげしさを増す。こんが、はっと尻尾の毛をふくらませてかれを仰いだ。
ぶわり、と郭公をつつむ神気が一瞬その場を圧したと思う間に、いにしえより社に残留していた結界が、青白い、ひとには見えぬ輝きをまとってふたたび確固と結ばれる。
「うごくなよ」
童子神をかえりみぬまま声をかけ、郭公は、やぶれ団扇を手に結界の外に出た。がらりぞろ、と高下駄の鳴る音が、力の幕ににぶく吸いとられる。
目をやると、郭公たちが来たと同じ坂道をふたりの人間がのぼってきていた。ひとりは飾り輪のついた杖をもち、奇妙なかぶりものをした白装束の男。そのうしろから、すずしげな頭髪を汗で濡らしたジャージ姿の男が、ひょろひょろとついて来る。
ち、と郭公の口のうちで、舌が鳴った。
「……お、陰陽師さま。ほ、本当にこんなところに貧乏神がいるんですか?」
「ご安心なされませい! たしかにこの近くに潜んでおりまするぞ」
「で、ですが、こんな人気のないところで……」
「――呼んだか」
すい、とそのまま実体をとってやると、人間たちの眼(まなこ)が極限までひらかれた。ジャージ男は腰がくだけた格好で後ろへとさがるが、白装束はすぐに懐からなにやら掴んで突き出す。
「喝ッ!!」
盾のごとく宙にかざされたのは、おおきな房飾りを下げた数珠。透明な珠には金色の紋様が彫りこまれている。びいぃんと耳の底に響く低声が、蒸れた空気を震わせた。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色……」
言の端がはなたれるごとに、ぱりりと朱金の火花が宙を舞う。
抑揚をこめてろうろうと唱えられる読経に、貧乏神は目をすがめて独りごちた。
「――ふん。仏の法が〝神〟に通じるかよ」
虫でも追うように、団扇を大きく外へうちはらう。すると、中空で身をくねらせていた火花が、跡形もなく消しとんだ。人間たちが、ぎょっと身をひく。目のまえのむさくるしい男がなにものであるか、今さらながら思い出したらしい。
しかし、それは行動をとりやめる理由にはならなかったようだ。錫杖を脇にかかえ、白装束が胸のまえで両手ゆびを複雑にからませる。
「のうまく さんまんだ ばざら だんかん」
「今度は密教かよ。おまえらって本当、節操がないな」
うす笑いとともに、今度は団扇の陰から吐息をひと吹き。あかあかと燃えあがる霊力の炎が、燈明でも吹き消すごとく、たちまち散りぢりとなった。むむう、と白装束がうなる。
夏の大気にさらに熱と湯気を投じんばかりの眼光を、貧乏神はひややかに眺めかえした。
「帰んな。似非法師におれは祓えねえよ」
「……お、陰陽師さま!」
声をうらがえして、ジャージ男が白装束のそでにすがりつく。
「こ、これではお約束が違います! わたしの数々の不幸の原因を、かならず祓ってくださるというお話でしょうっ!」
「ご心配めされるな、施主どの。この宇陀金権坊(うだかねごんぼう)、陰陽師の名にかけて悪しき神を捕らえてみせましょうぞ!」
大見栄をきるや、今度は右のふたゆびを伸ばしたこぶしを宙に凪いで、
「臨兵闘者 皆陣列前行!」
縦に四閃、横に五閃。交互にくり返されたそれは、赤い光の網となって、ばさりと貧乏神に覆いかぶさる。
ばちりとはじけ飛ぶ、力と力。
「く……っ!」
団扇をもった左腕をかざし、貧乏神が、わずかに足を引いて赤い網をその身に受けた。
思わず。
郭公どの、と神社の陰から、こんがその名を呼ばわろうとしたとき。
「――呼んではなりません」
おだやかな声が待ったをかけた。
ぴりりと耳を立ててふり返れば、黒衣をきた年若い人間がひとり。影法師のように、音もなく神殿の領域に入り込んでいた。
さわり、と草地へ片ひざをつく。
「お久しぶりでございます、命婦(みょうぶ)どの」
「あ、あなたは……」
ひとにしては青白く透きとおった顔が、ふ、と笑う。
「敬語は不要ですと申しあげますのに、まだ慣れませんね?」
「あ、もうしわけ……」
あわてて獣の耳を下げるこんに、宵空を嵌めこんだような青の瞳が、「ほらまた」とほほ笑んだ。が、たしなめるでもなく、言い聞かせるように言葉をついだ。
「名は、大事なものです。ひとが知ったところで、かれをどうこうできませんが、あまり大きな声では呼びませんよう。あなたさまにだけ、呼ぶことを許された名です」
「……はい」
「それに、かれはそう弱くはありませんよ?」
その言葉にうながされるように眼差しをあげ、こんは、あ、と小さく口のうちで声をあげた。