【参】
〝童子〟というものは、かよわき存在である。
力なく未熟で、おおいなる可能性という空白をもつもの。
生けるものすべてに共通する常識は、しかし神の世界には通じない。幼きすがたそのままの若さ、脆弱さをもつものはほとんど居ない。そもそも外見など、ひとに訴えるものあればこそ纏うもので、神にとってはとりたてて重要ではないのだ。
童子形がひとにもたらす心象は、油断と親密さである。
(こいつの場合は、むしろ舐められかねんが)
貧乏神は、まじめな顔でおのれの社の前で両手を合わせる童神(わらべがみ)を後ろからながめる。白い狩衣に獣の耳としっぽの生えたちいさな姿は、あわく揺らめく白金の炎につつまれていた。
たとえるならば、あたりを朱と金に染めかえながら地平にしずむ陽の鮮烈な白さ。
(神力が弱いわけではないのだが、な……)
本人は神力がないと云っていたが、存在に気づかぬゆえに上手く使いこなせぬのだろう。とはいえ、貧乏神のやりかたを教えたところでどうにもなるまいが。
社は、小ぶりながらもおもむきある切妻造(きりつまづくり)で、千木(ちぎ)をのせた檜皮葺(ひわだぶき)の屋根がこんもりと苔をかむっている。狛狐の彫られた羽目板も、大きさのわりにしっかりとした垂木(たるぎ)も格子戸も、木目もわからぬほどまっくろに年経ていた。
かたく閉ざされた格子戸のまえには、陶製の花びんにしおれた牡丹が一輪。それに紙につつまれた饅頭がひとつ、小皿にのっている。
童形の狐神は、夏の陽ざしにいたみつつあるそれらをちいさな両手でくるむようにし、くん、と息を吸いこんだ。吸いこまれたのは有機物が変成をつげるあやしげな臭気ではなく、供物にまとわるひとの祈りだ。
神の眼にも見えないそれは腹の足しにもならぬものだが、なければ神は荒れ、ひとの存在を忘れていく。祈りとは、神がひとをいとおしいと思うためのフェロモンに似ていた。
供物にこめられた想いが純粋だったのか、狐神は頬を染め、とろりとした目で貧乏神をみやった。
「わたくしは幸運でございます。まだこうして祈ってくださるひとがいるのですから」
「ああしてください、こうしてくださいって祈りだろうに」
「それもあります。この土地は……変わってしまいましたから」
茶色のすんだ瞳が、ふと遠くを仰いだ。
「このあたりは、まえは稲田だったのです」
ちいさな指先で、ゆるやかな傾斜をみせる道路のさきを示す。荒れ放題にのびる草ぐさのあいだを突っきるアスファルトは新しく、かえってひとの少なさを物語った。
「なんでもおおきな事故があって、水と土に毒がふり撒かれてしまったのだそうです」
「……ああ。らしい、な」
「土の表面(おもて)を削いだり薬を撒いたり、いろいろとしたようなのですが、もはやどうにもならぬとうち捨てられてしまいました」
「ひとり勝手に所有して、もとの形を変え、壊したあげく捨てる。ひとってのは、そういう生きものなのさ」
「ですが、土地というものを捨てることができるものでしょうか。大地はぐるりとつながっておりましょう? 水も風もみな、ひとところに在るものではありませぬ。流れながれてつながる環から離れることなどできぬのに、何故ひとはこの土地をないもののように扱うのでしょうか?」
「おのれの目に映らなければ、それはないものなのさ。……おれたちのように、な」
「……目に映るもののみがこの世のすべてならば、なんとさみしい世の中なのでしょう」
「だから、ひとは欲を出す。おのれの周りを見えるもので囲って、さみしさを満たすのさ」
さきほどまで貧乏神が住みついていた家のものも、そうだった。
あの男にも最初は夢があり、荒廃してゆく古里の役にたちたいとこの土地を訪れた。
だがすぐに慈善事業の旨味に気づくと、作り話で寄附金をまきあげ、地価が暴落していた近くの土地を二束三文で買いたたいた。そして、さも長く居座っているような顔で健康被害を訴えて国からの援助を受けたあげく、今度は悲劇を売りものに市議会に立候補。
あれよあれよと舌先三寸で県議会議員までのぼりつめ、補助金を横領して海外の隠し口座に貯めこみ、1号も2号も囲って、この世にままならぬものはないと思いきわめていた。
だから、憑いたのだ。
憑いたとたん、マスコミが男の正体を暴露。もともと身も実もないのだから、ものの見事に化けの皮を剥がされ、ついでに他人の醜聞までひっかぶって免職した。心あるひとは敵となり、心ないひとは根こそぎごっそり金品を奪って男のもとから去っていった。それはもう、きれいなものだった。
しかし、そこで改心しないのが、ひとのすごいところだ。
ゆく手ゆく先に貧乏神がつきまとおうと、なお持ち前の口先でひとを騙し、たばかり、たかり尽くした。そしてついに、あのあばら家からもとの持ち主を追い出したところで、とうとう愛想が尽きたのだ。
貧乏神がひとから離れる理由はふたつ。相手が自力でどん底から這いあがりはじめたときと、相手の魂にいっさいの救いが見えなくなったときだ。このたびは、後者である。
憑いているあいだは最低限命の保障はされていたが、今後はそれもあやういだろう。
この社に供えものをした人間とは、雲泥の差である。
男は、ふうわりと団扇を下からあおって、色のかわりはじめた牡丹と饅頭から、祈りを嗅ぎとった。
あわわとした、朝早く蓮の花が咲くときにはじける香気のような、すがすがしさである。
『この土地が一日もはやくもとの姿をとり戻しますように』
『みなが健やかにすごせますように』
『このさき、みながこの土地で穏やかに暮らせますように……』
脳裏に浮かぶのは、老婆と呼ぶにはまだ闊達な農婦と、おさない孫娘の姿。
「よいものでございましょう? わたくし……この想いを毎日いただいておりました。最初は、ひとなどまったく興味がありませんでしたのに……――」
――いつのまにか、なくてはならぬものになってしまいました。
そう告げ、気恥ずかしげに童子神が笑う。
「このひとたちのために、わたくしは神になりたいと願うのです」
それは希望ではなく、きりりとした決意。
男は、ぱすりと団扇でおのれの口元をたたき、言葉を思案した。
「……おまえ、名は?」
神の名は、容姿よりもその本質をあらわす唯一のものである。
小狐の目がまんまるとなり、しろい頬が夕映えの色をまとった。
「こ……、こんと申しますっ」
「こん、か」
「はいっ」
「おれのことは郭公(かっこう)と呼べ」
すうぅ、とちいさな鼻いっぱいに驚きが吸いこまれる。
「はいっ……!」
200%の空回りした元気と、-120%の後悔のため息が、蒸し暑い夏空の下を同時に満たした。