貧乏神さまとネギ坊主 【参】
「畏れいりましてございます」
青年は素直に頭をさげ、空になった猪口をかえした。かわりに半分ほどの軽さになったびんを奪い、とぷとぷとそそいでやる。
仕事に行く気もそがれて社のあたりに座りこめば、ちょうど目のまえの縁台に、花びんにさした紅と白の秋桜(コスモス)が二輪。採ったばかりの青い匂いをまとわせ、しらじらと月光を浴びていた。
「たまには、こういうのも良いだろう? ネギ坊主」
「だから僕は坊主ではないと」
「坊主だろうよ。こましゃくれた、不器用なガキだ」
またも空の猪口を持たされ、酒をそそがれる。まだ二杯目だというのに、やけに体が熱い。
それとも――熱いのは、胸のうちなのか。
「そういえば、あの人間どもはどうなった?」
「しっかりと、わが社にて働いていただいております。かれらが社会に還元できるのは肉体労働だけですので、しばらくは一方的にこちらが搾取するだけですが」
真顔でそう告げれば、いささか男のほほがひきつった。
「……なにをさせているかは訊かないでおく」
「二柱もの神を相手取ろうとしたのですから、相応の報いを受けてもらわねば困ります……とはいえ」
青年のくちびるに、うっすらと笑みが宿る。
「さんざん脅すだけ脅して、なにもせずに放置するというのが一番効いたりするのですよ」
「わりと根性が悪い」
「あなたさまに認められれば、恐いものはありません」
とたん厭そうに顔をしかめた貧窮の神に、青年がひとしきり声をたてて笑った。
「……ところで、するすみの神」
「なんだ?」
「うちにいらっしゃる気はありませんか?」
とうとつな誘いに、差しつ差されつしていた貧乏神の手が止まる。
「あなたひとりが棲みつくくらい、うちには充分ゆとりがあります」
「そんなところ行ってもつまらぬ。第一おまえ、おれが行ったら……あれが、ついて来るぞ?」
欠けた猪口でしめされたさきでは、月光をあびて銀色に染まる妖狐が、ここのつの尾をひらめかせて闇のけものの周りを跳ねまわっている。滅するためというより戯れているようにしか見えぬその様子に、青年は、やれやれと頭をふった。
「それは困りますね。では、命婦どのがひとり前の神となられたあかつきには、ぜひお越しを」
「さて。百年後か、五百年後か」
「……五百年、ですか」
それを長いととるか、短いととるか。それは神であるかひとであるかによって、おおきく意味を違えるだろう。
ひとの苦悩など、この星の一生のほんのまたたきだ。
そのまたたきの、ほんのわずかな翳りのなかで、われわれは悶え、苛まれ、苦悩する。
そんな些細な浮き沈みが、ひとの一生なのだ。
だからこそ、ひとは、そのちいさな波にともに漕ぎ出してくれる存在を願う――――たとえそれが、貧乏神と、おさない狐神であったとしても。
「愉しみにしております」
口をついて出たのは、まぎれもない本心。
ひとがひとであるために必要なのは、絶対的な力ではなく、迷いながら間違えながら進むおのれらの背に、おだやかにより添うちいさな手だ。
ひとがいなければ、この世界はもっと良いものであったかもしれない。
それでも、今このとき、ひとは生きている。それはすなわち――――赦されているということ。
ひとには、まだ、進むべき道がある。
しみじみと冴えわたる月と蒼い空とすずやかな大気と。
草の匂い、花の色、せせらぎ、虫の音。
なきわめく闇のけもの。あやかし。ひとならぬもの。
それらをつつみこんで流れる、ゆたかな酒の香。沈黙。
ほんの短いひとの一生の、さらにその一瞬につめこまれたこの幸福を味わうことができるのならば、ひとというものもそう悪くはない。
(……さて、つぎの供物(みやげ)はなににしようか)
思い、ひとである青年は、おのれの思案のゆくさきにほろ苦い笑いをもらした。
五百年には、まだ遠い。
見られぬ未来が愉しみなのははじめてだと気づき、それもまたひとなのだなとかれはつぶやいて、酒と月にぬれた指さきを、ぺろりと舐めた。
【おまけ・完】